人生を生きるということ:キケロー、ウェルギリウス、ホラーティウス

Conscientia bene actae vitae jucundissima est. 立派に生きた人生の自覚はもっともすばらしいものだ。

これは、キケローの『老年について』(De senectute)に見られる言葉です。

平たく言えば、死ぬときに、自らの人生を振り返り、「ああいい人生だったなあ」と言えることが大事である、ということです。 この言葉、言い換えれば臨終の言葉としては、アスグストゥスの Acta est fabula.(芝居はおわりだ)が有名です。人生を芝居に見立て、最後まで演じきったという自負を表しています。Acta est fabula. は Plaudite (拍手を)とあわせ、芝居の最後に用いられる表現です。スエトニウスによれば、アウグストゥスは、この言葉に続け、Livia, nostri coniugii memor vive, ac vale! (リウィアよ、われわれの結婚を記憶して生きよ。さらば。)と述べたそうです。

ここで「生と死」を表すラテン語独特の表現をご紹介します。それは vixi (私は生きた)という単語です。ラテン語の完了時制は英語の現在完了と過去の両方の意味を持ちますが、vixi. は現在完了の用例として教科書によく出てきます。vixi (私は生きた)ということは「生き終えて今がある」という状態を意味しますので、要するに今は「死んでいる」ということです。つまりラテン語では「生きる」という言葉の完了形が死を意味します。

ラテン詩において Vixi.を用いた表現をいくつか紹介しましょう。

Vixi et quem dederat cursum fortuna peregi. 私は生きた。運命が授けた人生の道を私は最後まで歩いた。(『アエネーイス』4,653)

これはカルタゴの女王ディードー最期の言葉です。主人公アエネーアスに裏切られた彼女は自殺する道を選び、上の言葉を残します。

次にローマの詩人ホラーティウスの言葉を紹介しましょう。

毎日次のように言える者は、己れを制し、満足して人生を送ることができるだろう。
「私は今日を生きた(vixi)。」と。
明日父(ユピテル)が黒い雲で天を覆っても、明るい太陽を照らそうとも、私にはどちらでもよい。
ユピテルといえども、過ぎたことは何であれ無にできないし、逃げ去る「時」も、いったん運んだ物をとり変えたり、なかったことにして元に戻すこともできないのだ」と。
運命の女神は残酷な仕事を喜び、執拗に先例なき戯れに心を遊ばせて、今私に微笑んだかと思うと、次は他人に微笑んで、まるであてにならない恩恵を移し変えていく。
私は女神がとどまる間は称賛しよう。だがすばやく翼をはためかせる時、女神から受け取った物をお返しし、おのが美徳で我が身を包み、持参金なしにも清貧の女神を妻としよう。
『詩集』3.29

ホラーティウスが示唆するように今日が人生最後の一日と覚悟を決めることは難しいですが、一日の終わりに vixi (一日を精一杯生ききった)と言えるかどうか、それを確かめるだけの心の余裕は持ちたいと思います。

老年について (岩波文庫)
キケロー 中務 哲郎
4003361121