発想を豊かに――古典との対話を――

ふりかえり

「子曰わく」という表現は『論語』(弟子が孔子の言葉を編集しまとめた)における枕詞のようなもので、「先生(孔子)は以下のように言われた」という意味を表す。たとえば、「子曰君子不器」という『論語』の言葉を取り上げてみよう。日本の伝統的学びのスタイルである「素読」において、先生はまず「子曰わく」と発声し、生徒達は同じ言葉を返す。続いて「君子器ならず」と先生が声に出したら、全員で「くんしきならず」と大きく声をそろえて返す。(「素読」については、cf.「山の学校の取り組み――文字を使った学習を大事にするために――」

前回のクラスで言及したのは、孔子の思想内容や孔子一派の学問探究の方法についてではなく、日本に於ける『論語』の学びのスタイル(=「素読」)についてであった。キケローの言葉(ipse dixit.は、いみじくも「子曰わく」と訳しうる)と比較しながら、我々が21世紀の教育や学問の未来を考える上で、継承すべきものは何で、乗り越えるべきものはなにかを見極めるヒントを得たいと考えて話をした(cf.「Ipse dixit. 子曰わく」)。

現代英語に”ipsedixitism”(dogmatic assertion or assertiveness)という表現があるが、これはキケローの『神々の本性について』序文に見られる表現(ipse dixit.)に由来する。この英単語の日本語訳は、「立証されていない独断的な断定」となっているが、キケローがどのような文脈でこの言葉を用いたのか、訳文を見てみよう。

議論を行うさいには、権威よりも理論の説得力こそ求められるべきである。じじつ、我こそは教える資格ありと公言する者の権威などは、何かを学ぼうとする人間にとってしばしば害をなす。なぜなら、学ぼうとする者は、やがてみずから判断することをやめ、自分が正しいと是認した人間の判断をすべて鵜呑みにするようになるからである。それゆえ、わたしはピュータゴラース派について耳にする風評をとうてい是認する気持ちにはなれない。すなわち、かれらは論争で何かを主張するさい、その論拠を尋ねられると、決まって「かの人自身がそう言ったから」と返答するのがつねであったと言われている。「かの人」とは他ならぬピュータゴラースのことであった。このようにピュータゴラース派のあいだでは、論拠もないままに一つの権威が絶対的な力をもつほどに先入観が支配的であったのだ。

元のラテン文において、「権威」:auctōritās。「理論」:ratiō。「論拠」:ratiō。「先入観」:opīniō praejūdicāta。

「子曰く」か「子曰わく」かという議論がある。『論語』のauctōritāsを増したい立場は後者の読みを取るかもしれないが、孔子が主張した議論の中身は変わらない。必要以上に『論語』の言葉にあやかる態度(=中身でなく、論語のauctōritāsそのものをありがたがる態度)を「論語読みの論語知らず」と言う。大事なことは議論の中身(ratiō)である。「器」とは何か、どのように「器」を理解するのが説得的なのか。各自がこの問題提起を受け止め、自分なりに答えを考えること。教室の説明やウェブで調べた解説を参考にして、自分なりにしっくりくる(=自分に対して説得力のある)「定義」を見つける。次に、自分の体験と結びつけ、その意味づけを考える。この言葉は現代社会でこのような意味をもつだろう、という発見が得られたら、それを文章にまとめる。これをエッセイという。エッセイとは、「試み」の意味を持つフランス語のessaiのことである。

今週のテーマ

セネカ(紀元前1年頃- 65年)の Ars longa, vīta brevis.(技術は長く、人生は短い)を取り上げる。英訳はArt is long, life is short.で、この英文は「芸術は長く人生は短い」と訳されることが多い。オリジナルはヒッポクラテース(460-370 BC)の言葉。セネカがギリシア語のtechneをarsと訳し、ヒッポクラテースの言葉を自著(『人生の短さについて』De brevitate vitae)で紹介した。arsの元の意味をたどると、それが「医術」であり、医術の習得には膨大な年月が必要だ、というギリシア語に辿り着く。ラテン語のarsは「技術、技」が本来の意味であり、学問や芸術の意味もあわせもつ(→「芸術と技術」)。英訳のartには、「芸術、芸術作品、美術、美術作品、技巧、術、わざ、熟練、腕、技術」といった多様な意味がある。Art is long, life is short.を「芸術は長く、人生は短い」と訳す可能性について。人間の命と比べ、芸術作品には永遠の命が宿る、と解される。時代が下るとオリジナルの意味と別の意味で解釈されることはよくある。

『人生の短さについて』(De brevitate vitae)の逆説について。与えられた時間が短いのではない。誤った生き方が時間を浪費し、短くしている。内容の一端はこちら、または、こちらにて。部分的に吉田兼好(1283-1352)の作品との比較も面白いかもしれない。

前回紹介した「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉について。精神と肉体を鍛錬すればよく生きることができる、ということではなかった。ユウェナーリス(60-130)はローマの風刺詩人。富と名声を追求する世相を風刺。人は謙虚につつましく神に祈るべし、たとえば・・・という例として「健全な精神が健全な肉体にあるように祈るべきである」と言う。

ローマにおいて、哲学の勧め、ならびに現世的な利益の追求を批判する言葉は枚挙に暇がない。

来週のテーマ

「人間とは何か」について。キーワード。humanism / humanitas.「人文学」。キーフレーズ。Homo sum.(私は人間である)。Homo sapiens / Homo ludens / Homo deusなど。

補足1

古典を意味するクラシックはすぐれた作品を意味する。学生時代に発想を豊かにするには、古典を読むにしくはない。時代を超えて今に伝わる優れた言葉の芸術作品を読み、なぜこの作品が今に伝わるのか、自分なりに考えてみる。二千年の時の流れを経て今の日本で読める古典とはどのようなものなのか。一時的に権力者に贔屓されるだけで、無数の「いいね!」がついて今に至ることはありえない。自分の心と体をフルに使ってその理由を解き明かしてみよう。

目に前に相手がいて言葉を交わすことを「会話」という。ギリシア、ローマの作者と会話はできないが、作者と心の対話を交わすことは可能である。古典作品の著者は対話の相手として不足はない。「このことについてあなたの考えはどうなのか」、「なぜそのようなことが言えるのか」、等、何度繰り返し問うても作者は嫌な顔はしない。「読書百遍義自ずから通ず」と言うように、自分で納得のゆくまで作品を読み返し、著者の答えを引き出す。繰り返し読むほど、対話の精度は上がる。作者の主張と自分の意見を比較し、主題を設定してエッセイを書く。エッセイは試行錯誤と言い換えられる 。正解は必要ない。著者に挑み、今わかりえたことを白い紙に書いて読み返す。納得行くまで添削し、書き直す。このプロセスが若い感性を刺激し、発想を豊かにする。この対話の網を多方面に広げていく。

補足2

「中身が肝心」を表すラテン語(マクロン抜き)。
Barba non facit philosophum.
Esse quam videri.
Non quis sed quid.

シェイクスピアの本歌取り

「ロミオとジュリエット」はオウィディウスの『変身物語』における「ピュラモスとティスベ」の本歌取り。