お山の絵本通信vol.199

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『絵本の時間を支えるもの』


私は自著の中でもブログの中でもしばしば絵本の大切さを語っています。「絵本」と聞くと「読まないといけない」とか「忙しくて読めていない」と思う人がいるかもしれません。絵本の読み聞かせの前に、顔を見ての語らい(対話)がすべての中心にあると思います。「語る」と聞くと「何を語ればよいのだろう」と思う人がいるかもしれません。命令口調でなければ何でもよいでしょう。「語らい」ということは聞き役でもOKだということであり、その方が自然に長続きする場合もあります。

「幼稚園のことを何も語ってくれなくて」という言葉を保護者からよく聞きます。子どもは千差万別で一概にはなにもいえないのですが、充実して時を過ごしていればこそ自分が何をしたかを取り立てて話す理由はないのだと思います。お話し好きの子どもは無理せず聞き役に徹すればよいでしょう。

必ずしも言葉を交わさなくてもよいのです。子どもが何を大切に思っているか、子どもが集中して取り組む目線の先に何があるか、大人がそれを意識し子どもの心の中を想像することを日々心掛けるならばそれで十分です。これはいわば、「無言の対話」に当たります。

「無言の対話」というと思い出す言葉が二つあります。画家のゴーギャン(1848-1903) は、「見るために目をつむる」(I shut my eyes in order to see.)という言葉を残しました。描く対象をよく見るには心の目で見なければならない――すなわち「想像力」(imagination)を生き生きと発揮させねばならない――という逆説です。

二つ目は英国の詩人キーツの言葉です。キーツは「心の耳で聞く調べの美しさ」にふれて次のように歌っています。

  Heard melodies are sweet, but those unheard are sweeter.
  耳に聞こえる調べは美しい。だが耳に聞こえない調べはもっと美しい。

たとえば子どもの寝顔を見て、どんな夢を見ているのだろうと夫婦で語り合うとしたら、その時間もまた「耳に聞こえない美しい調べ」を耳にしている時間だといえるでしょう。このような「心の対話」ができたうえで、絵本ははじめて意味を持つのだと私は思います。

文章/園長先生