お山の絵本通信vol.191

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『ふきのとう』

甲斐信枝/文・絵、福音館書店2000年

私が子供時代にしあわせだと感じた時間の一つに、空き地の雑草で遊んだことを思い出します。今ではもうあまりないのかもしれませんが、私が小学生のころにはまだ空き地がありました。そこで友達と待ち合わせる間、カラスノエンドウやスズメノテッポウで笛を作ったり、オオバコの葉でギターを、メヒシバでかんざしを、飽きずこしらえたものです。また季節によって変わる、見慣れない雑草を見つけては、「これは何にしようか?」と空想したものです。

そうした雑草とのはてしないやり取りは、「何かのため」という制約から小学生のころの私を解き放って、心に落ち着きを与えてくれたのだろうと推測します。

『雑草のくらし』(甲斐信枝、福音館書店)という絵本があります。文章量が小学生向けなので、この稿では簡単に触れるだけにしますが、一つの空き地における、雑草の植生の変化を描いた大作です。私たちが見ているようで見ていない雑草の世界があることを教えてくれます。これを描くために、筆者は五年間、京都(比叡山のふもと)の空き地を観察し続けたといいます。

また同じ作者に、『たんぽぽ』(甲斐信枝、福音館書店)という絵本があります。こちらは幼稚園向けです。わたが半分開くまでに三時間かかるそうですが、それを見続けた作者の感動が伝わってきます。そして綿毛がいっせいに飛んでいく絵は圧巻です。

このような甲斐氏の仕事は、『小さな生きものたちの不思議なくらし』(甲斐信枝、福音館書店)で、「対象物への興味と愛情から発して対象に近づき、そのものから受けた驚きや感動を、絵と言葉とによってお子さんに伝える」ことだと語られています。

以下は、そうした作品の中から、私がとくに好きな植物である、『ふきのとう』(甲斐信枝、福音館書店)を紹介します。

   みつけた ゆきを おしのけて、
   とんがりあたまを のぞかせている
   ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ

雪間からのぞく淡い緑色。そこから、やがて白い花と黄色い花が咲きます。「めすふき」と「おすふき」です。これらには夏も秋もそれぞれの仕事があります。そして再び訪れる冬。複雑に伸びる地下茎の絵には、植物のたくましさが宿っています。この絵本の英題は“FUKI, JAPANESE BUTTERBUR - THE FLOWER WHICH TELLS THE COMING OF SPRING” (ふき - 春の訪れを告げる花)です。作者のふきに寄せる思いの強さを感じます。

これを読みながら、思い出したことがあります。私が年長児の頃、ふきのとうに夢中になった時期がありました。幼稚園の先生の話かなにかで知ったのだと思いますが、健気に生えてくるところを一度でいいから目撃したくて、母に「探しにいこう」とせがんだのでした。しかし、言い出したときはもう桜の時期で、雪も残っていません。「今はないよ」と母は言いました。それでも一緒に探しに出かけてくれました。確か、山がちの線路沿いだったと思います。見つけたのは、たぶんこれかなという茎と葉でした。「茎はおひたしにできるよ」と母は教えてくれましたが、私は「これじゃない」と言って、しょんぼりしました。かわりに物事には時期があることを学んだのでした。

今でも、ふきのとうと言うと、宝探しのような気持ちがよみがえります。その念願がかなったのは大人になってから、府立植物園に行った時でした。「これがそれだ」と、白い花と黄色い花のかたまりを目にした時、私の興味に付き添ってくれた、若いころの母のことが思い出されました。

   はるに なったら おきて こい
   とんがりあたまを だして こい

絵本の最後のページは、厳冬の暗い、雪に埋もれた光景です。でも、ふきのとうが隠れているのだ、春になったら出てくるのだという繰り返しに対する期待が、見えなくても、確かなものとして感じられます。

ちなみに、幼稚園の遠足で訪れる府立植物園では、毎年2月ごろに植物生態園というエリアでふきのとうが見られます。その時期になったら、お子さんとチェックしてみてはいかがでしょうか。

文章/Ryoma先生