お山の絵本通信vol.103

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『うみひこ やまひこ』
与田準一・文/渡辺学・絵、岩崎書店1969年

私と弟は年子で、どちらもお正月生まれです。年子というと、遊びが近くて仲のよいこともある反面、言い合いのけんかもよくしたものでした。

それなので、「せめてお正月の間は、決してけんかをしないこと」というのが、いわば家訓のようなものだったのを憶えています。もちろんそれでも、とっさの喧嘩になりそうなこともありました。そんな時、父親が私たちに言って聞かせたのが、「三本の矢」の話だったり、「うみひこやまひこ」の話だったりしたものでした。

今回、絵本通信を書くにあたって、その父親のした素話のことが思い出されたので、この絵本を選びました。

うみひこはその名の通り、海で漁をして生活し、やまひこは、山で猟をして暮らしています。ある時、弟のやまひこが、「お互いの道具を取りかえよう」と持ちかけます。兄のうみひこは、最初こそ取り合いませんでしたが、弟が何度も頼み込むので、しぶしぶその要求を聞き入れます。こうして釣竿と弓矢が交換されます。

けれども、間が悪いことに、弟のやまひこは兄の釣り針をなくしてしまいます。兄のうみひこはそれに対して、「それみたことか。必ず返せ」と命じます。必死に探して、なおも見つけることのできなかった弟は、かわりに自分の大事な剣を鋳つぶして、五百本の釣り針にします。そして「これでどうか許してほしい」とあやまります。けれども兄は「あの釣り針でなくては嫌だ」と、突っぱねます。弟はさらに困って、今度は千本の釣り針を作ります。けれども兄はまた同じように、「何本あってもだめなものはだめだ。元の釣り針を返せ」と要求します。

ここで私が思うに、この時の兄のうみひこは、元の釣り針にもまさる弟の心根を見ようともせずに、ただ弟を許せない気持ちや、密かに自分が弟よりも優位に立とうという底意地の悪さがあって、かたくなに拒んでいるかのように見受けます。

さて、いよいよ事に窮した弟のやまひこに、一人の老人の助けが現れます。その導きを得て、やまひこは、海底をおとずれ、なくした釣り針を手に入れます。またそれだけでなく、「みちしおのたま」と「ひきしおのたま」という宝物まで持ち帰ることができます。こうして弟は兄を見返すこととなり、自らそのようなチャンスを逸した兄にとっては悔しい内容となっています。

この絵本では、こうした『古事記』の内容がやや婉曲になぞられた仕上がりとなっています。それがいいか悪いかはひとまずおくとして、一つだけ注意しないといけないことがあります。それは、この話が最初から教訓のためにかかれたものではなくて、日本に古来から伝わる神話であり、共有財産であるということです。ですので無理に個人が教訓を引き出すことはかえって原文を損なうことになると思います。

そうは言っても、私がこの話を父親の素話で聞いた時には、父親が教訓の意図を持っていたことは明らかで、私は、ただただ、自分もそのような目には遭いたくないと思って、恐れていたのを憶えています。

その後、自分でも『古事記』を読んで、父親の当時話してくれた内容を確かめた時には、すでに十年以上が経っていました。それまで、私は、兄にとってまったく「いいところなし」であるこの物語を、「なぜこういう筋になっているのだろう?」「なぜ弟は最後に仕返しのようなことをしたのだろう?」といぶかしんだものでした。

しかし今となっては、そのような筋に対するわだかまりもだいぶ薄らぎました。そしてこの『うみひこやまひこ』の話を、素のまま「神話の出来事」として聞けるようになった時点で、ようやく、あの頃父親に諭されていた「寛容さ」というものを、少しは身に着けることができるのかなと思う次第です。

文章/Ryoma先生