お山の絵本通信vol.82

──なつかしい絵本と先生のこえ──

『茨木童子』

幼稚園時代、私は父と風呂にはいるのが楽しみでした。湯船に浸かると決まって素話をしてくれました。父の十八番は鬼の出てくる怖い話で、どんな内容だったか細かなあらすじは忘れましたが、今回「鬼」と「切られた腕」というキーワードを頼りにインターネットで調べたところ、どうやら歌舞伎にも出てくる「茨木童子」の話であることがわかりました。あらすじを読むうち、顔を真赤にして(つまり鬼のように)熱弁をふるう父の身振り手振りが声色とともによみがえってきました。懐かしい再会を果たした気持ちです。

大人はよく本や物語の選択の良し悪しを問題にしますが、子どもはいつも本の内容とは別のものを見つめています。つきつめれば親の真心と呼ぶべきもので、それがまっすぐ自分に向けられているかどうか、子どもは黙って見ています。

実際、私が何度も飽きずにこの話を聞いた一番の理由は、語り手である父の真剣な身振り手振りが心を揺さぶったことによります。大学で歌舞伎を研究したいという希望を持っていた父のことです(「保父誕生」参照)。いわば、歌を愛し、音楽家を志望したことのある親が毎日自分の為に熱唱してくれるようなものでした。上手下手という問題はさておき、親の真心は「熱意」や「真剣さ」となって子どもに強い印象を残します。

私は今、本がなくても読み聞かせの真髄を伝えることが出来る例として、自分自身の「素話」の思い出を語りました。このように素話に話題を向けると、「自分にはレパートリーがなくて…」という声が聞こえてきます。肝心なことは、たくさんのレパートリーを持つことでも、もっと言えば、昔話や民話を語ることでもありません。つきつめれば、「自分が大切に思うものを子どもに伝えたい、分かち合いたい」という気持ちがすべてだと思います。

家庭教育が教育の要(かなめ)であると言われます。しかし、「子育て」イコール「教育」と考え、身構えてしまう大人が多いように感じます。かりに身構えないとしても、子どもが小さいうちは、どうしても言葉がけの大半が「命令文」になりがちです。だからこそ、子どもとの「語らい」の時間を大切にしてほしいと思います。「語らい」の時間とは、親と子が同じものを見て素晴らしいと感じ、喜びを確かめ合う時間のことです。こう書くとずいぶん大げさですが、たとえば、三人乗りの自転車をとめて、一緒に夕日を見つめている母子の姿を想像してください。「見てごらん」という母親の言葉が聞こえてきます。それは子どもにとって「命令文」ではなく、遠く子守唄につながる安心の言葉がけにほかなりません。

日常生活を見渡せば、このような「語らい」のチャンスは無限に転がっています。これが親子の会話の基本であると思います。この基本がある限り、素話も読み聞かせも自然の成り行きとして、親子ともに心から楽しむことができると思います。

文章/園長先生