DSC_0128

大器晩成という言葉を何度も使う私ですが、自分で書いたものもそうですが、お話しした後に話した内容をふりかえると、自己批判めいた声が聞こるときがあります。いわく、問題の先送りではないのかと。

文章の場合、書いては消し、書いては消し、しながら書き進めるのですが、他人にお話をする場合そうはいかず、どうしても勢いに任せます。そのため、あとでふりかえると、あそこはああいわなければよかった、という気持ちが出てきます。

大器晩成と言う言葉は私の強く信じる言葉なので不用意に使うつもりはないのですが、ていねいに説明しないと誤解を与える言葉でもあると思っています。

几帳面な性格の人ほど「長い目で見る」ということと「問題の先送りはいけない」という考え方とがぶつかる可能性があります。

教育相談の場合、私が「大器晩成ですね」と言って相手の同意を得るためには、私自身が相手に信頼されていないといけません。信頼がないと、どれだけ自分の子どものことがわかってそういうのか、と思われるのがオチです。

「大器」の定義も難しいと思います。世間的な成功を意味するものではありません。自分が人として授かった可能性を力いっぱい発揮して生きること、といいかえてよいと思います。

それがどうして難しいかといえば、人がそう生きようと願っても、とかく頭の上から重石のようなものがおしつぶすのが世の常だからです。(学校教育の現場も箸の上げ下ろしまで指示されています)。

子どもたちはだれであれ、そしてかく言う私たち大人自身も、過度の期待や命令口調の中で日々生きているといって過言ではありません。

そう思ったとき、大人は自分自身の人生をふりかえる必要があると思っています。その振り返りの中で、今自分が子どもであれば何をどうしてほしいかを考えるとき、信じて見守っていてほしい、ぼくは(わたしは)自分のやり方でやってみるから、という声が聞こえてくるように思うのです。

その気持ちを心からくみとれたとき、私は「大器晩成」の意味が合点できると思います。

問題の先送りはいけないという考えは一面において正しいのですが、すべてについてそれが正しいとは思いません。

日常の仕事や家事一般と子どもの成長を応援することは別の次元に属します。子育ての悩みは引き算方式で100のものがいつか0になるという代物ではありません。

ではどう考えるかということですが、私は現代のわれわれが気づいていないことに目を向ける必要があると思っています。

大人もそうですが、人間の心身の成長は、はかりしれない運命や自然のはからいで成就します。しかし私たちはそれを忘れます。

フランスのある哲学者は言いました。「人間は泳ぎ方をあれこれ気にするが、自分たちを浮かせてくれる水の存在を忘れている」と。

人間のできることはほんのごく一部です。無力を自覚したとき、力がわく仕組みです。自分はオールマイティ(であるべき)と思ったとき、そうではないことを思い知らされ悩みます。

このあたりの前提を見誤ると、なにからなにまで全部自分が背負わないといけない、という気負いが生じます。それは自然なことです。しかし、それが教育の世界を窮屈にしています。

以上をふまえ、「なるようになる」という事実をかみしめたいと思います。「信じて待つ」ということの大事さに思をはせたいと思います。

それがうそかまことか?

どうしても疑わしい人は、子どもが寝た後、生まれたころのアルバムを開いてみればよろしいでしょう。ここまで成長できたのはご両親のおかげであることは百も承知ですが、それに尽きるものではありません。大きなところで運命に守られ、自然の恵みを受け、知人、友人、すべてのご縁の計らいによるものとみてはどうでしょうか。

その計らいはここでストップするものではなく、目に見えない形でこれからますます大きくなるのだと。事実、自分自身ここまでやってこられたのはそのおかげである、と。

表題に上げた「大器晩成」は老子の言葉から生まれた四字熟語です。老子はまた「無為自然」といいました。この「無為自然」という言葉を土壇場でかみしめるとき、人は力を得ると思います。

関連記事: