謝恩会では、タイトルの内容でお話しすることも考えていました。実際は、別バージョンでした。

タイトルの意味は、一度起きた事実としての過去は取り返せませんが、その出来事の持つ意味は、その後の生き方、考え方一つでどうにでも変わる、というものです。

今つらくても、それがよい思い出に変わることがあります。入園当初のドキドキ、はらはらの思い出は、そのときに味わった苦労が大きければこそ、卒園の意義深さが感得されるでしょう。

今の時代は、このような考えをあるいは敬遠するかもしれません。本園の場合、保護者が積極的に子育てに関わることを余儀なくされるため、卒園式は子ども以上に、保護者にとって、感慨無量という側面が多く見られるようです。(実際、そのようなお声(「今日は私の卒園式です(涙)」等)をたくさん頂戴しました。)

このことは言い方を変えれば、昨日お話ししたとおり、幼稚園はあくまでも親が子を育てる舞台の一つに過ぎず、卒園にさいし、子どもが立派に成長したと実感できる事実のもとをただせば、保育者でなく、ほかならぬ保護者が子どもを立派に育てた結果である、ということです。

よい教育をする、とか、様々な理由で園を選ぶわけですが、幼稚園は何かをお任せする場ではなく、保護者が何かを実行する場なのです。

劇がよい例でしょう。

ご覧になったとおり、小学生も顔負けな堂々とした演技をどの子もしていました。これは事実です。しかし、園がうまく指導した結果などではけっしてありません。私はただ、こどもたちの家での練習ぶりを「見ていた」というのが事実に近いところです。

かりに、練習が足りないと思われる子どもがいたとしましょう。じつはそのお子さんは、他のお子さんの練習成果を目の当たりにし、刺激を受け、家での練習に身を入れるのです。

年少、年中時代からの子ども同士の目に見えない切磋琢磨(最初は「園生活に慣れる」(=保護者に手を振って「行ってきます」をする)の積み重ねが、そのような相乗効果を生む母体です。

一つの花が咲くには、根っこの部分でどれだけの栄養を吸収したかが重要です。一つには家庭での親子のかかわりが、一つには幼稚園での友達との関わりが大きな意味を持つ、ということですが、いずれにしても、園はその関わりを影の部分で支える黒子である、というのが私の見方です。

黒子に徹するとき、子どもだけでなく、保護者の主体性が確保されます。

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