過去のエッセイを再掲します。子どもから大人まで、過度の「成果主義」が人の心をむしばんでいることは確かです。同時に「選択と集中」の合言葉が、この20年間で我が国の学問の発展にもブレーキをかけていることも危惧されます。ひとり一人が、他人に方向づけられるのではなく、自分の「好きだ」、「楽しい」という感覚を手掛かりに人生行路を探索していくことが、国全体の活力を総合的に高めることにつながるのでしょう。

収穫を問うなかれ
「収穫を問うなかれ」。これは中国、清末の政治家曾国藩の金言で、「ただ耕耘(こううん)を問え」と続きます。耕耘とは田畑を耕し、雑草を除去する作業を意味します。学校教育にあてはめてみると、なかなか含蓄のある言葉のように思われます。いわゆる成果主義と対照的な考え方ですが、成果を軽視しているわけではありません。成果を追求するあまり、日々の地道な取り組み、すなわち「耕耘」が疎かになることを戒める言葉です。

山道を思い浮かべてください。成果主義、すなわち、山の頂上に到達するという目的だけを何より重視するとき、私たちは山を登る楽しみを忘れ、一刻も早く、できれば汗をかかずにてっぺんに着くことを考えます。その結果、楽をして登れる道はないものかと、キョロキョロと道探しに気持ちが向かいます。

ここで思い出したいのが日本の昔話です。たとえば「こぶとりじいさん」。おじいさんは踊りが好きでした。「花さかじいさん」の主人公は飼い犬のシロを愛していました。その結果、こぶがとれたり、お殿様の面前で枯れ木に花を咲かせて褒美をもらうことができました。一方の「よくばりじいさん」はどうだったでしょうか。何かが好きだとか楽しいという感情は二の次とし、ただ自分のこぶをなんとかしたい、自分も花を咲かせたい、という目的意識をもって行動したところ、他人の真似を繰り返して失敗します。

人として誠実に生き、目の前の道を喜びを持って一歩一歩進めば、きっと「何かよいこと」につながっている。昔話の示唆するのはこのことです。ただ、この「好きだ」とか「楽しい」という感覚。これは言葉で教え込むものではありません。子ども時代にどれだけ遊びに没入し、創意工夫を凝らしたかがポイントになるでしょう。幼児教育の意義はここにあります。

大人の目から見ると、子どもの遊びはいったい何の役に立つのか? といぶかしく思えるかもしれませんが、逆に、成果主義の物差しだけで人生は豊かになるのかどうか、一度立ち止まって考える必要があるでしょう。大人であれ子どもであれ、人間が心の内なる声に従って無心に取り組む行為の一つ一つは幸福の原点であり、きっと「何かよいこと」につながっているに違いありません。

では、その「何か」とは「何」なのか? その答えは「神のみぞ知る」ものであり、まさに「収穫を問うなかれ」です。大人になって子ども時代を振り返り、「あれ」が「これ」につながったのだな、と感謝して振り返ることが許されるだけです。そうした振り返りのできる大人に見守られる子どもたちは幸福であり、また、そんな子どもたちと時を過ごすことのできる大人も幸せだと私は思います。

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