時代が大きく変わるように感じられるとき、子どもの教育について不安に思うことが多々出てきます。

学校で学ぶ力の源は、以下の引用文で「国語力」と呼ばれるもののことです。本を何冊読んだとか、国語のテストで何点取ったという数値化して表せない力ゆえ、試験勉強を意識するほど、この力をなおざりにしがちです。さらにいえば、人生の大きな流れの中で、たとえばコミュニケーション能力ひとつとっても、その根っこはこの国語力のことを指すのであり、現状を打開するにはどうすればよいか、いくらネットで検索しても何の助けにもなりません。メンバーで知恵を出し合い、合意を取り付け、あるべき方向性を定めていくには、この「国語力」がものをいいます。そして、その力のおおもとは、「家庭と学校」で作られる、ということに異論はないでしょう。私がこのブログで再三書いていることは、この「家庭」での言葉のやりとりに関するものですが、それが大事に守られるかぎり、「学校」での学びを十分プラスに変えることができる、守られないかぎり、どんなにお膳立てされてもプラスに変えにくい、と考えております。

国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。

言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。(司馬遼太郎、「何よりも国語」より)

関連記事: