表題の言葉について、幼児教育との関係で考察しました。

>>「Homo sum. 私は人間である」

一言補足すると、これからの未来をみすえるとき、「競争」を原理とした教育にはもはや限界があるということです。それに代わる学びの原理として何がありうるか、大人が責任を持って考える必要があると思います。

いつも言いますが、授業中に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と質問して叱られる(授業=「バスのダイヤ」を乱すので)時代は終焉を告げ、こうした質問が泉のように湧き上がる子どもたちを守り育てる方向に舵取りしなければいけない、ということです。

「そんなことを考えてもしかたがない」=「試験に出ないから」=「無駄である」ということで、今までどれだけの貴重な「声」を大人も子どもも押し殺してきたのでしょうか。世の中はそういうものだ、という世の中が音を立てて崩れ、新たな価値のもと再構築されています。

何が今すぐ役に立つか、ではなく、何が学びの本質かを徹底的に考えることで、今何を尊ぶべきかが見えてくると思います。

他人の作った基準に忖度し、最適化する道を歩む(歩まされる)のではなく、子どもたちは自分の心の声に忠実であるよう幼い頃から生きるように、そしてその生き方が守りぬくように周りは導く必要があるでしょう。

西洋と東洋。二つの文明の流れを比較し、優劣をつけたいのではありません。

自分の姿は鏡を見ないと見えないように、東洋の今を生きる我々は、西洋の歴史、文化から学ぶところが大いにある、というだけの話です。

この分野の研究、教育が決定的に欠落して今に至るのではないか、それでいて国の体制は古代ギリシアに由来する民主主義を標榜しているのはどういうことか、ということす。

、明治維新からまだ150年しかたっていないから、というエクスキューズも可能ですが(本当は変ですが)、「そんな勉強をやって何になる」という昨今の人文学全般に対する根強い偏見は、国の力(=教育の力も含め)を早晩確実に弱体化させると危惧されます。

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