今日は年長児と俳句に取り組みました。

園児のひとりが次の俳句を作りました。

ぼんやりと くものなかに みえるつき

よい機会だと思い、子どもたちに問いを出しました。

いつも紹介する(園児の)俳句とどこが違うと思うか尋ねました。

「ぼんやりと」という言葉を使っている、という答えが最初に返りました。

「ほんとだね」と私。「ほかには?」と尋ねると、「ふつうは『~だよ』とか『~だね』という言い方が多いけど、いまのは『言葉』でおわっている」とJ君。

まさにそのとおり。「『言葉』で終わることで、その続きがどうなのかな?と考えますね。『きれいだな』と思ってもいいし、『すてきだな』でもいいし、『きえないでいてほしい』でもよいですね」とつなげたあと、ところで、私たちの日常生活はどうかという話に切り替えました。

司馬遼太郎がよく言う話ですが、日常生活は「めし、ふろ、ねる」といった4,500語で暮らしていけます。それでは文化も文明も育たないので、学校で言葉を学ぶ必要があること、また子どもたちにとって大事な心がけはなにかというと、「文章語にして語れ」ということもよく指摘しています。

今日子どもたちに続きで尋ねたのは、家で「おやつ」とか「ごはん」とか単語だけでお母さんに言いっぱなしにしていないか?ということです。

小さい組の人はお兄さん、お姉さん組の姿や言葉使いを黙って見ています。そしてその姿や言葉使いを格好いいと思って真似をします。みんなが日頃から言葉を大事にし、(俳句とは違って)「『言葉』で言いっぱなしにしないこと」を心がけることは、みんなにとっても、そして小さい子どもたちにとっても大切なので、ご挨拶も、日頃使う言葉も丁寧に話すように心がけましょう、と述べて今日の俳句を終えました。

参考まで、司馬遼太郎のエッセイから該当箇所を引用します。

「国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。

言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い」(「何よりも国語」より)

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