新しい時代の幕開けです。

日本の伝統を振り返り、未来に希望を持つ大切な機会だと思います。

元号が変わって思うことが一つあります。

平成の世の中は平和であった半面、情報技術の発展と相まって様々な現場で成果主義、効率主義が行き過ぎ、余裕や安らぎがどんどん削られていきました。

時代が変わると見直す必要のあるものも出てきます。

明治開国当時の「文明開化」、「富国強兵」、「殖産興業」、「和魂洋才」といった言葉は、150年前の日本を突き動かすスローガンであっても、そこに普遍性がなければ、そのすべてが今の時代でも通用するものとは言えません。

福沢諭吉は国を富ますには学問(洋学)が重要だとして大学を創りました。花を見てうらやましがるな、その根っこを見よ、と述べ、根っこに当たるのが学問であると考えました。

今の目で補足するなら、福沢が見た西洋文化の花は、その栄養の源をギリシャ・ローマの古典から吸い上げています。

たとえば、日本文化の「今」を研究するなら、その「古典」にあたる中国古典の影響は無視できません。

「令和」の二文字も日本の古典に典拠を持つと同時に、そこに東洋古典の伝統の重みを汲み取ることができます。

日本文化に関心を持つ外国の人が漢字を学べば視界が広がることは自明です。

前の天皇陛下も、そのお言葉の随所に中国の古典文化に言及されました。「忠恕」という言葉を使われたことも記憶に残っています。

ところで欧米社会の漢字とはラテン語です。残念ながら、明治開国150年を振り返り、学校教育でこの言葉に触れる機会は「ローマ字の勉強」以外にはなく、せいぜい「英文法」の学習を通じて、その「香り」をかぐことができるのみです。

ラテン語を話す人は誰もいません。死語と言われます。

だから無用の長物であると言い切ることはできません。ラテン語で会話はできませんが、それを学ぶことによって古典精神との対話はできるでしょう。

ラテン語は欧米社会における漢字です。漢字が中国古典を今に伝えるように、ラテン語は「洋魂」を今に伝えます。

明治以降、「和魂洋才」のスローガンのもと、「洋魂」に用はないと切り捨て、ひたすら「富国強兵」、「殖産興業」に努め、結果的に戦争に突入しました。

戦後は、新憲法のもと、「強兵」の二文字が抜けただけで、他のスローガンは変わらずにあります。

冒頭でふれた「余裕や安らぎがどんどん削られている」実感は、今もその影響下にあるからだと私は思います。

一人ひとりの真の豊かさは後回しとなり、会社や国の生産性の維持管理に国民がいかに寄与するかが重視されがちです。

学校での学びしかり、少子化対策しかり、です。

今日はメーデーでもあります。8時間労働の枠組みは形がい化し、幼児の預かりの標準は今や11時間となっています。

これらの問題の根っこにある憤りを一言で表せば、「人間は生産性を高める『道具』ではない」ということです。

本当の「豊かさ」は何か、「人間らしさ」は何かを立ち止まって考えるときだと思います。

他方、戦争はもとより、災害やテロの脅威をなくす上で、世界全体がより一つになって諸問題に取り組む必要が日増しに高まっています。日本が自国のことだけを考えて解決する課題は一つとしてありません。

元号が変わった今、いったん、諸々のしばりやしがらみから距離を置き、虚心坦懐に新時代のスローガンを考えるなら、「人間の学」、「地球環境の学」を視野に入れる必要があるでしょう。

ところで、このような視点は「洋魂」を形成するギリシャ・ローマの古典に繰り返し出てくるテーマです。そして、このことを日本の教育は今まで正面から教えることがほとんどありませんでした(教科書を見ればわかります)。

「和魂」が大切なのは言うまでもありませんが、「和魂」のみを探求しても「和魂」がわかるわけではなく、皮肉なことにその精神を狭め、窮屈なものにして今に至るのではないかと思います(ややもすれば「同じて和せず」になってしまう)。

地球が一つであるなら、東洋に生きる我々は今あらたに「洋魂」を真摯に学び、その結果として「人間の魂」を学ぶことができてこそ、今後の日本社会をより豊かなものに導くことができる、と思います。

我々が「洋魂」をめぐる「和して同ぜず」の精神の支えを研究すれば、日本の伝統の上に新しい大輪を咲かせることが可能だと信じます。
(西洋古典の精神的支柱の一端は次のリンク先のエッセイでふれています。>>「Ipse dixit. 子曰わく」)。

当然のことながら、西洋社会に生きる人々は、東洋の古典、とりわけ日本の「和の精神」にも関心を抱き、自分たちの来し方行く末を考える機会としてもらえたら、互いに心を寄せ合うことがいっそうできるでしょう。これを実践するのは彼らの課題ですが、それを応援する仕事として我々の側にも責任があります。

東も西も、北も南も、上も下も、右も左も、それぞれが自分の立ち位置をより広い視野で見つめ直すべきときでしょう。一言でいえば、我々は自分を照らす「鏡」が必要である、ということです。

そして、鏡を見つめ、自己研鑽に励む営みこそが、世界の平和に寄与する本来の道である、と思われます。

幼児教育の世界に身を置く人間として、なぜ西洋古典の話をするのか、といえば、それが子どもたちの未来を輝かしい希望に満ちたものにする一つのヒントになると信じるからです。

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