一つ前のエントリーで「ないた あかおに」の話題にふれましたが、一郎先生もこの作品がお気に入りで、何度か劇にされました。「劇」と言えば、年長児の劇の台本をあと3ヶ月以内で仕上げないといけません。ふうー、早い。時間よとまれ、と言いたくなります。

さて、子どもたちの個性が生きる台本にしたいと思うと、ぜひオリジナルを書きたいと思うのですが、なかなかそれもうまくいかず、没にした作品は数知れず。私が手がけた過去4回の劇のうち、完全なオリジナルは「こぎつねのおかいもの」(H16年度)だけです。H15年度は「かさじぞう」、H17年度は「おおきなはし」、H18年度は「うさぎのゆうびんや」でした。

このうち「かさじぞう」は同じ題名で伝わる昔話をもとにして私が脚色しました(オリジナルと呼べなくもないのですが)。

一方、「おおきなはし」と「うさぎのゆうびんや」は一郎先生の残された台本をもとにして書き直したものです。「おおきなはし」は、私なりに思いのこもった作品です。イソップの寓話をもとに一郎先生が脚色された作品に、まるで違うオチをつけています。

前作では、橋の上で喧嘩をして谷底に落ちたクマたちは、「譲り合わないと共倒れになる」という教訓を与える悪役として登場するわけですが、私はクマにはクマの長所(力持ち)があるとし、森の仲間が力を合わせて彼らを谷底から助けあげ、そのお返しに今度はクマたちが力を合わせて、森の仲間のために狭い一本橋を大きな橋に変えてくれる、というオチにしました。

一本橋を譲り合って渡ることはたしかに素晴らしく、その譲り合いの精神は美しいものに違い有りません。

しかし、狭い橋を恐る恐る渡っていた森の仲間にとって本当に必要な解決策とは、この橋の狭さに目をつぶることではなく、それを大きな橋につくりかえることでなかったでしょうか?

ということで、私のバージョンでは「谷底に真っ逆さま・・・」というクマたちを「よい見せしめ」として葬るのではなく、彼らの「強い力」が互いにぶつかりあうとき「暴力」となるわけですが、それらを一つにたばねたとき、みなのために役立つ「生きた力」と生まれ変わることを示し、劇を終えることとしました。(※私のモットーは、劇の中にいわゆる「悪役」を持ち込まないことでもあり、それがため、表題の「ないた あかおに」は「うさぎとかめ」などと同様、脚色する対象とはなりません。)

さて、昨年度の「うさぎのゆうびんや」も、同名のオリジナル作品に大事な修正を加えました。じつは、この作品については、一人の人物の登場をなくしました。それは園長先生の役です。

第一場面を振り返りますと、新米の郵便屋が二人幼稚園の前を通りかかり、園児たちに道を教えてもらおうとします。一人の園児がその場所を知っていると言って、「その道をああいって、こういって、右へ曲がって、まっすぐ行くとすぐだよ」と身振り手振りで教えます。

オリジナルでは、この説明が、微笑ましいけれどもたどたどしく、よくわからない説明だということでしょう。そこへ園長先生が登場します。たまたま出張で出かけるという設定で、「その場所なら私が近くまで行くから案内してあげましょう」(園長先生)、「それはたすかります」(うさぎの郵便屋)・・・という流れになっていました。

おやおや?これだと一生懸命道案内した園児(リス君)の立場はどうなるのだろう(笑)?というのが、オリジナルの台本を読んだときの偽らざる気持ちでした。

そこで、私はあえて園長先生には表に出てもらわないことにしました。そして、子どもの説明をしっかりきき、「どうです?わかりましたか?」と尋ねるメイ子先生の言葉に、郵便屋さんは「有り難うございました。あとは二人でなんとか探します。」と初々しく答えさせることとしました。

もちろん、改変はオリジナルあってこそ。私自身(父もそうでしたが)、かりにかつて手がけた作品を再度手がけるとしても、前回とは異なるものにしたいと考えています。

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