表題は『論語』の言葉です。

「五十にして天命を知る」と言われます。

天に口があり、「おまえはこう生きよ」と命じている姿が目に浮かびます。

おもしろいことに、英語のfate(運命)の語源となるラテン語のfatum(ファートゥム)も、元の意味は「天命」に近いニュアンスを帯びています(「言う」の完了分詞が fatumなので、文字通り訳せば、「(天に)言われたこと=天がこう生きよ、と言った内容」、それがファートゥム(運命)ということになります。

日々あくせく生きている私たちに、その声はなかなか届きません。

しかし、先日来書いているように、人として守るべき「基本」を大切にして生きれば、道はおのずと生じるのであり、その結果、いつか年齢を重ねて人生を振り返り、これが「天命」であったか、と感謝とともに悟ることができるのでしょう。それはそれですばらしいことだと思います。

孔子は50歳でその実感を得たということです。

私は、「天命」の年はゆうに超え、そろそろ「耳順」(孔子が60にして到達した境地)についてどういう意味か、考え始めているところです。

関連記事: