今日は幼稚園の創立記念日です。たまたま建国記念日と同じ日ですが、創立当時の2月11日は平日だったそうです。61年前の今日、府庁の文教課へ、北白川幼稚園設立の認可申請書が提出されました。まさしく「賽は投げられた」の心境だったと思います。

Ikuko Diary でもふれてありますが、本園創立の経緯については、一郎先生の「この道50年」の記録(「保父誕生」)をお読みいただきたいと思います。

認可申請書を提出するくだりのみ、以下抜粋いたします。

昭和二四年の暮れも押し詰まった頃のある日、西村氏が顔を紅潮させて入ってきた。「先生!朗報です。島津源蔵氏が、山下さんがやるのなら、名誉園長を引き受けても良いと言っておられます」同じ町内に住む誼(よし)みとはいえ、世界的な発明王と謳われた島津氏(島津製作所の創設者)が、まだ誕生さえしていない幼稚園へ、山下個人を信頼して、名を貸そうと言っておられる。また、そこまで動かしている西村氏のなみなみならぬ熱意。四人の学徒の全面的な協力、勿体ないほど有難い、多くの人達の心尽くしではないか。今はもはや、思い惑うている時ではない。これほどまでに信頼してくれる人達の期待には、誠意をもって報いなければならならない。人生を出直したつもりで、幼稚園のイロハから取っ組んでみよう。父の心は漸(ようや)くにして決まった。

やがて府庁の文教課へ、北白川幼稚園設立の認可申請書は提出せられた。昭和二五年二月一一日のことである。(当時、二月一一日は建国記念日ではなく、平日であった)認可申請書には、設置理由がつぎのように述べられていた。「京都市左京区北白川学区は、市内における有数の文化地域にして、幼稚園のごとき教育施設を最も必要とするにもかかわらず、未だ一ケ所もその設備を見ず。元よりそれがため、早くより要望の声上がり、現に区内児童公園内に某公共建築物を移転援用して、これが設置の運びに到りしも、複雑なる事情のためその成功を阻まれ、今は中断の形にあり。されば、学区内幼児は車馬の危険を冒して、遠く吉田、浄土寺、養正等、他地区の幼稚園に依拠する次第にして、ますます『北白川に幼稚園を』の願いに駆り立てつつあのが現状である。

ここにおいて、地元有志者は『北白川幼稚園設立後援会』なるものを創り、『北白川のための、北白川住民による、北白川の幼稚園を』創設することを目的として、禅法寺所有にかかる将軍地蔵付設の瓜生会館を借用なし、同会館下に住む山下英吉にこれが事業を委嘱せり。ここにおいて本人は、同人の独自の教育精神によって、自然と文化の融和の下に、幼児の心身の発育を助けるとともに、真の人間の根幹を培(つちか)わんとするものなり」

申請書提出のその夜、ここまで盛り育ててくれた人達によって、やがて生まれ出づる北白川幼稚園の前途を祝して、心ばかりの祝杯が酌み交わされた。西村氏のあっせん斡旋で、無事建物の借り受けもできた。設立資金は、最後の切り札として取っておきの土地の一部を手放して充てることにした。あまつさえ、熱心な数名の人達が率先して、設立後援会を組織し地元を駆けずり回って、浄財を集めてくれた。

これは、後にも先にも父が快く引き受けた、只一度の寄附金であった。案じていた立地条件も、園医になってくれることとなった河根先生が、「むしろ最高至上の条件に叶っています。緩慢な山の上り下りの運動は、保健上、なかんずく脚力の増進に役立って、心身ともに快適な子どもが育つでしょう。私も大いに人に勧めましょう」と、太鼓判を捺してくれた。幼稚園の指導スタッフも揃いつつある。こうして見ると、絶望視していた設立のための諸条件のいくつかは、いつの間にか一つ一つ片付いて、前途にもやや明るい見通しがついてきた。

「保父誕生」より

ここに出てくる禅法寺は白川通りの「ナカムラ」の向かいに位置する小さなお寺です。「瓜生会館」と書かれているのは現在の第一園舎のことです。隣に古いお堂がありますが、以前はこの中に「勝軍地蔵」が安置されていました。今はお堂が老朽化したので、禅法寺に移されました。

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