絶対評価・相対評価──園長日記より

私が小、中、高校時代の評価はいわゆる相対評価でした。今は絶対評価が導入されているようですね。

これはこれで、生徒を「客観的に評価する」のが難しいのではないでしょうか。私自身、「絶対評価」というシステムのメリット・デメリットをよく理解しているとは言えないのですが、単純に思いつくところでは、試験問題の難易度をいかに一定に保つか、それが難しいように思います。実際の所、どうなのでしょう。

私自身はいかなる形式であれ、「評価」は行うのも、受けるのも苦手ですが、昨今教育の場では、そのような言い訳を許さないような、評価至上主義(?)の傾向が見られるように感じられます。気のせい?

なぜ、私が「評価」を苦手に思うのか。他人の「評価」(そのベースはしばしば数値による「比較」が用いられる)によって生徒が発憤するのは一見よいようですが、その裏返しとして「評価」に傷ついたり悲観すること可能性もありますし、一番気になるのは、100点満点が一番よい、という価値観を植え付けられることにあります。

それはなぜか?

話すと長くなるので、大学の最終講義(「勉強とは何か?」)にリンクだけ張っておきます。

ちゃかすわけでないのですが、本当の「絶対評価」とは英語一語で言い表すと Love という言葉に凝縮されるでしょう。

Love…数値はそこに介在する場を持たないでしょう。

Love… 日本語では「愛」と訳されますが、ヨーロッパの言語で言うと、情熱という意味で理解することもできます。

情熱に燃えている者のことを student と言うのです。

私が日々接する「幼稚園児」は、日本語訳では「幼稚」という語を与えられてしまいますが、小学校から大学に続く学びの道においてはむしろ、student の手本たりうる、と確信しています。

もっとも、小さな子どもたちは、そのまま放っておいてよいわけではなく(でなければ幼稚園の存在理由はない!)、子どもたちから知的好奇心の芽を摘み取ることはたやすいのです。

その結果、小学校、中学校・・と学年が上がるにつれ、当初誰にもみずみずしく存在したはずの、彼らの知的好奇心は、いつの間にかひからびていく、といえないかどうか、が私の懸念する事です。

「評価」があろうとなかろうと、我が信じる道を突き進むのみ、と言えるのが本当の学びの姿であり、そのような学び手を育てるのが教師の理想のはずです(言うはやすく・・ですが)。

私の経験では、いわゆる「評価」と無縁だったのは、幼稚園時代(今も幼稚園児に通知簿は渡さない)と、大学時代でした(大学の「評価」ほどいい加減なものはない、よい意味で!)。

ちなみに、「山の学校」にも「評価」制度はありませんが、それでもたとえば、片道3時間かけてラテン語を学びに来る社会人もおられます。

情熱に燃える人は、幼児も大人も関係ありません。文句なく頭が下がります。

長くなりました。言いたいことをまとめます。

「評価」は話半分に。先生や他人(試験など)から悪い評価を受けても、それをあきらめる理由にしてはならない。

よい評価を受けても同様に、安心して油断したり、有頂天になって、心を乱してはならない。

かくも「評価」が横行する時代において、「自分は自分」と言い聞かせるのが一番のようです。

だが、このような「独りよがりな」態度を「評価」は糾弾するのでしょう。こうして、可もなく不可もなし、が蔓延するのです。

(2007.3.29)

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