『絵本は思い出である』――絵本通信

 絵本には夢があると言われる。だがその前に、絵本は思い出であると思う。この一年の「絵本通信」を読み、その感を強くした。思い出が夢を育てるのである。夢のある子を育てたいと思えば、思い出のある子を育てることである(※今年の保護者会ではこのことをお話しした)。

 人が絵本に接する時期は、一生に二度あると言える。最初は子どもの時、次が親になって子どもに本を読む時。親になると、人は無意識のうちに、自分の親のしてくれたことを思い出し、それを模倣する。心に余裕がないと、この「思い出す」力が弱くなり、世の中の「常識」に従おうとする。その際「みんな・・・している」というフレーズが殺し文句になる。注意すれば、巧みに人間心理の焦りをくすぐるメソッドの数々。「何歳では遅すぎる」、「ゲームはみんな持っている(=自分の子だけ仲間はずれにさせてはいけない)」等。メソッドは日進月歩だ。手を変え品を変え、金銭を要求することも忘れない。果ては何でも人任せにする風潮を助長する。教育しかり、遊びしかり、食事しかり。最近マスコミの「嘘」が話題になるが、自分の「思い出」に「嘘」はない。

 たとえばテレビとのつきあい方について、私にはこんな思い出がある。年長児の時、テレビが初めて我が家に到着した。父は三人の子どもを前にして、「見てよい番組は一日一本のみ。日曜だけ特別に二本」というルールを説明した(「特別に」に力がこもっていた)。また「テレビ線」のルール(=テレビからいくつ目の畳の縁から中に入って見てはいけない)も「目を悪くしてはいけない」という子どもでもわかる理由を添えて厳命された(この命令は私に対するもので、「三歳の弟、一歳の妹を守るのはおまえの役目だ」と言われた記憶も蘇る)。
 「何を大仰に。今はビデオもゲームも携帯電話もある、時代が違う」と言われるかもしれない。だが、「安易にものを買い与えない、安易に子どもに自由を与えない」という考え方に、古いも新しいもない。この考えの根本には、子を思う親の真心がこめられている。親の都合(=親にすれば、テレビやビデオが子守をしてくれたら楽かもしれない)ではなく、子どもの未来を考えての判断は、「そのとき」でなく「将来」子どもが親になったとき、その真意が理解され、感謝されるのである。

 こうした「感謝」の連鎖、言い換えるなら「思い出」の連鎖によって家族は一つになり、未来に向かって生きる希望、夢を持つことができる。「絵本」は一つの象徴に過ぎない。心の不足感を満たすための処方箋ではない。感謝と信頼に満ちた家族関係を築くことが先であり、その結果として絵本を読むひとときがいっそう輝くのである。絵本を読む家庭は、戦前にはほとんどなかったであろう。しかし、母親は背中の赤子に子守歌を歌い、幼子には昔話を語り聞かせたであろう。それは、自分の親が語ってくれた、あの思い出の昔話であったに違いない。

(2007年2月 山下太郎)

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