園長日記より:山びこ通信のお持ち帰りに寄せて

園長日記の中から教育に関するエントリーを転載いたします。

以下は11月9日のものです。

一昨日、昨日と二日にわたりフリー参観日でした。多数のご来園を有り難うございました。

昨日はまた、山の学校のクラス便りをまとめた「山びこ通信」をお持ち帰り頂きました。

私の書いた巻頭文(Ipse dixit.子曰わく)は、幼児教育と無縁の内容のように思われるかも知れません。

以下のように補足します。

日本の「子曰わく」の伝統は、良い意味で、日本の幼児教育の背骨となり今に伝わっていると感じます。これは参観して頂ければどなたもお感じ頂けることでしょう。私の「俳句」の時間しかり、です。先生の言われることをしっかりと聞く姿勢。この姿勢をないがしろにしたまま、小学校以上の学校教育に対してうまく順応することは難しいわけです。

この「姿勢」が出来た上での「自由」な遊び(学び)が展開します。これも参観して頂ければ、なるほどあれがこれに当たるのか、と感得して頂けると思います。日頃「えにっき」でお見せしているのは、この自由な遊び(学び)の姿です。それらは、先生を中心とした「クラス」の集団教育が適切に行われてこそ、伸びやかな個性発揮の場となり得ます。要は「バランス」です。

このバランスは、小学校以上の学校教育についても大切にされなければなりません。がしかし、実際にはどうなのでしょうか?

運動会のレースのように「学び」を位置づけるなら、パン食い競争でパンは「形だけかじる」のみとなるでしょう。一目散にゴールを目指す人が後を絶ちません。いつの間にか「パンを頂く」(=よく咬んで味わう)ことは二の次三の次となるのです。

この場合のバランスとは何か。よく咬むとは何を意味するか?私は二つ大事なポイントがあることを、今回のエッセイで示唆しています。

一つが「子曰わく」を繰り返すこと。これは「型」を繰り返し学ぶことの大切さ、と言い換えてもよいでしょう。こざかしい受験テクニックというのは勉強の亜流です。教科書を大切に。日々の授業を大切に。

もう一つが欧米の「イプセ・ディークシト」の伝統を尊重すること。これは好奇心や対話を尊重することと言い換えてもよいし、根拠を疑う態度を重んじること、と言ってもよいでしょう。

両者は本来別々のものではありません。基本を繰り返すと、自分なりの疑問が自然に湧くものです。論語の素読をしている私自身、毎回新しい発見をします。この読みが一般的であるけれど、ここはこういう意味で解釈できないだろうか、と。もし目の前に孔子が現れたら、ぜひこのことを質問したい、という気持ちがふつふつと湧いてくることもしばしばです。

学ぶとは真似をするということから始まります。「型」を繰り返すことで、自分流が育つ土壌ができるのです。これは学問に限らず、芸術や様々な手仕事一般について言える真理です。

このことは孔子自身次のように言っています。自分の頭で考えなければ、いくら勉強をしてもその意味がボンヤリしたままだ。一方、型を学ばず自分流で考えてばかりいては、独断に陥り危険であると。

型をしっかり学んだ先に、何をどうすれば「自分で考える」態度が身につくのでしょうか。それを培う「学びの場」が今の日本社会においてどれだけ大切なものとして用意されているのでしょうか。

私ははなはだ疑問に思います。なぜなら、文科省はその「場」を駆逐することに尽力しているように見受けられるからです。これは大学教育を熟知した先生方も危機感を持っている事実です。>>日本の大学教育を考える会(笠原正雄HP)等。

(我が国の情報技術分野の第一人者、笠原先生のHPトップにある「赤ちゃんの人権宣言」は世のお母様必読です)。

残る手は一つあるのみ。気づいた人が、自分のできる場で「改革」すること。私は自分自身、左京区の二つの国立大学で教鞭を執った経験から「大学では遅い」と痛感しました。

そのようなわけで、冒頭で紹介した「山の学校」を園長就任と同時に立ち上げ、今に至ります。上で述べた真の意味での「基礎と応用」を錬磨する場を守りたい一心からです。もちろん、それは本園の建学精神とも合致しますし、逆に言えば、山の学校こそ、本園の付属学校と呼ぶに値する学校でもあります。

日暮れて道通し、と言いますが、発想を転換すれば、打開策は簡単に見つかるとも思います。

一つは文科省に「変革」を期待しないこと。(猫にワンと言えというようなもの)。二つ目は、自分で自分を「変革」すること。この決意は一瞬で出来ます。

少なくとも、自分自身は、自分をどう教育するか。自分は、自分の子どもたちをどう教育するか。問題の解決を、どこか他人任せにしていないか、どうか。私は、いつもこのようなことを自分の胸の中で問うています。「よし、こうしよう!」という決断そのものは一瞬です(それが重く難しいわけですが、逃げずに考えれば誰にでも決断は可能)。あとはそれに沿ってやるだけです。

正直言って、幼稚園という「教育」の場も、社会的変化の前に、その本来の力が発揮しにくくなっている昨今です。私は妥協という言葉と無縁でありたい、中途半端なことをするのなら、辞めた方がよいと思っています。

今後どのように社会が変貌しようとも、守るべきものは守る、それは、幼児教育しかり、山の学校の教育しかり、です。幸い、志を同じくする諸先生、また、ご理解をいただける保護者や会員のおかげで今があります。努力を怠らず、その「今」を「未来」に一歩でも二歩でも進めて行けたらと願っています。

山びこ通信は、そういう私たちの歩みの一歩、一歩とご理解下さい。

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