園長日記より:なにかよいこと

年三回の保護者会。諸連絡の後、時間の許す範囲で教育のお話をしています。

今回は「なにかよいこと」という内容のお話。

「これをするとあれに効く」というと健康の話題のようですが、教育の世界でも同じ宣伝文句をよく見聞きします。

ここで思い出したいのが日本の昔話です。

たとえば「こぶとりじいさん」。正直じいさんは踊りが好きでした。「花さかじいさん」のおじいさんは飼い犬のシロを愛していました。その「結果」、こぶがとれたり、お殿様の面前で枯れ木に花を咲かせることができました。

一方の「よくばりじいさん」。何かが好きだというのではなく、ただ自分のこぶをなんとかしたい。自分も花を咲かせたい。隣のおじいさんの「成功物語」を見聞きし、その「真似」を繰り返し、失敗する。

欲望に導かれるまま、誰かの真似をしてはならない。日本古来の教訓です。

で、どうするか?

正直に生きること、そして、何か楽しいこと、自分の好きなものを見つけ、それを大切にすること。昔話の示唆するのはこのことです。

目的意識をもつことは大切ですが、本末転倒に陥りやすい。受験勉強に当てはめると、合格が目的になってしまう。何が問題かというと、合格後に伸びきったゴムのようになる。

小学校以上の教育を視野に入れるとき、大事なのは勉強=合格の「手段」ととらえるのではなく(=いじわるじいさんがいやいや正直爺さんのまねごとをすること)、勉強そのものを楽しいと思える工夫を凝らすことです。

「楽しい」という感覚。これは言葉であれこれ教え込むものではない。幼稚園時代にどれだけ「遊び」に創意工夫を凝らしたかがポイントになると思われます。

親の目から見ると、子どもの遊び(砂場で穴を掘っているとか、段ボールで何かを作っているとか)は、いったい何の役に立つのか?と思えることが少なくない。ただ一所懸命取り組んでいることはわかる、と。

そんなとき、三回に一回は心でつぶやいていただきたい。これがきっと「何かよいこと」につながるのだ、と。(その場でそう思えなくても、そういう考えもあると思うだけで十分)。

その「何か」とは「何」なのか?大人はそれを知りたがります。

でも私はいつも思うのです、それが「何か」は神のみぞ知るものだと。

それが「あれ」だとか「これ」だとか、したり顔で言うことは誰にもできません。

だからそれは(子どもが)大きくなってからの「お楽しみ」(大人にとっての)。

子ども自身、自分が自分の人生を力一杯正直に生き、いつかどこかでふりかえったとき、「あれ」が「これ」につながったのだな、と振り返ることもできるでしょう。

幼稚園時代はそういうものです。

そこから大人になって社会で活躍するまでの道のり。それはまちがいなく、一人一人異なる道です。

昔話が示唆するように、その方法論を抜き取って他人が真似をしても真似できるものではありません。

もしそうであれば、親としてできることは、半歩後ろから見守りながら応援すること。

運動会の母子競争と同じです。勝手に一人で走りなさい(放任)でもなく、子どもの前に立ち引きずるのでもなく、抱きかかえて代わりに走るのでもなく。

本園の場合、歩いて園に通う我が子を日々応援して下さる。お弁当をつくり、おかえりーと笑顔で迎えてくださる。

ほどよく距離を取りつつ、何かを他人任せにするのでもなく、いつも子どもと一緒にわくわくし、どきどきする毎日が楽しいと思えるのなら、まさにそのように、小学校から先の学校教育においても、同じスタンスで臨んで行かれたらと願います。

幸福は平凡に思えるものです。しかし、平凡な日々こそ非凡なもの。それはきっと将来の「なにかよいこと」につながる萌芽なのです。

ずいぶん先にならないとなるほどそうだとは思えないわけですけれども。

(2013-09-03)

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