『幼児の俳句に見る幼児のこころ』

本園が、年長児の保育の枠組みの中に、長年にわたって俳句を取り入れてきた経緯につきましては、別項「幼児と俳句」で詳しく述べておりますので、ここでは重複を避けることにいたしますが、子どもたちは、俳句を“覚える”ことから始まって、“発表する”過程を経、やがて、“作る意欲”に目覚め始めます。

  はいくとは 5・7・5と ならべるの   けいこ
  5もじはね いつもはいくに つかってる  みお

俳句とはいいましても、豆宗匠の作ったものですから、まさに5・7・5と並べただけで、季語の入っていないもの、または、まったく意味不明のものもあります。

しかし、子どもたちの5・7・5というスタイルを通して、何かを作ろうという意欲、何かを訴えたいとの思い、また、作る過程での苦心とその努力、そうした体験の積み重ねを貴重なものと思いまして、過去からの子どもたちの膨大な作品を記録にとどめてきましたが、ここでは、それらの中からテーマ毎にいくつかの句を取り上げまして、いまの幼児に必要なものは何なのか、子どもが親に求めているものは何なのか、親は子どもに何を与えたらよいのか、そのようなことについて、思いつくまま触れてみたいと思います。

お使い

よく、「むかしの子どもと、今の子どもとの違いは?」と、尋ねられることがあります。子ども自体、本質的になんら変わっているとは思いません。ただ、子どもを取り巻く周囲の環境が、むかしといまとではずいぶん違ってきていることは、紛れもない事実です。

   とうふ買い 行きはかるいが 帰りはおもい  あつこ

これは、昭和28年頃の子どもの作品です。これを作った子どもは、5才児とも思えぬごくごく小柄な女の子でした。お鍋を下げて豆腐屋さんへお使いに行ったときの句ですが、小ぶりな子だけに、帰りのお鍋の重さが句の中にずしっと感じ取れます。

豆腐買いに限らず、むかしの子どもはしょっちゅう“お使い”に行かされていました。いま、子どものお使い風景には、滅多にお目にかかりません。“お使いよりお勉強”の時代のせいだからでしょうか。

ところで、むかしの子どもは、お使いを辛く思っていたでしょうか。決してそうではありません。お使いを頼まれるということはとても緊張することですが、一面、嬉しくもあり、誇らしくもあるのです。

それは、大人から見れば簡単な頼みごとでも、子どもにとっては大仕事であり、親から<大事な仕事を任された> <責任を持たされた> <一人前に認めてもらった>・・・そうした、大人への背伸びの喜びを満たしてくれるからです。

握らされた小銭を、落とさないようにお店まで持っていって、言われたとおりの注文をして、お鍋に入れてもらったお豆腐と、もう一方の手にはお揚げの包みを持って帰る途中、横丁の犬に吠えられはしないかとビクビクしながら、無事、落とさずこぼさずに持ち帰ったときの、

「やったあっ!」

その、得もいわれぬ達成感!母親に褒められたときの満足感!!

こうした感動を味あうことの出来るお使いのチャンスを、いまの子どもはほとんど持っていません。たしかに今日ではお勉強のこともあるでしょう。それに加えて、交通事情も悪く、幼い子どもひとり使いに出せるような環境ではないかも知れません。

しかし、いちど、こんな場面に出会ったことがあります。

土曜日の午後でした。わたしが、交差点で信号待ちをしていますと、斜め向かいの一角で自転車のハンドルに手を置いて、信号の変わるのをじっと待っている男の子がいました。よく見ると、年長組のKちゃんです。児童公園へ野球でもしに行くのか、前の荷物かごにはグローブらしきものが入っています。

わたしは、日頃の園生活から離れてひとりで行動する子どもの動きに、興味深く視線を注いでいました。そうとも知らずKちゃんは、身じろぎもせずただ一点、赤信号だけをしっかりと見つめています。

やがて信号が変わるや否や、いちど右左を確かめてから自転車に飛び乗ると、すばやく横断歩道を横切っていきました。わたしは向かい側へ渡ってから、小さく遠ざかるKちゃんの後ろ姿を目で追いながら、大きな驚きを感じないではいられませんでした。

と言いますのもこのKちゃんは、ふだんは目立たないじつに大人しい子で、先ほどのあの慎重さ、機敏さ、真剣な眼差しには、園で知るKちゃんとはまったく別人を見る思いがしたからです。

幼い子どもがひとりで行動するとき、大人にはうかがい知ることのできない力が発揮されることに気づきました。それは、自己防衛本能とでも言うのでしょうか。大人に囲まれているとき、大人に引率されているときには発揮出来ない、子どもの奥底に潜む、やったらやれる不思議な力です。

将来に備えての精神的な逞しさも、幼児期にこの“やったらやれる力”を誘発させてこそ、身についてくるものと思われます。ですから今日の環境事情のなかにあっても、いたずらに子どもひとりでの行動を恐れることなく、お使いにも行かせてあげたらいいと思います。 

ただそのためには、親御さんの方であらかじめ、事前に目的の場所まで同行して、行きかえりの道筋での注意を、しっかり与えておくなどの配慮は、ぜひ、しておく必要があります。

わが子を、何事によらず、ひとり外の世界へ向かわせるのは、勇気のいることです。しかし、安全無難を思うあまり、お使いのもたらす、得がたい効果を見失ってはならないと思います。

お手伝い

お使いと同じく、今日では子どもに“お手伝い”をさせられるお家も少なくなりました。

  お母さん キッチンの隅 洗ってる  まみこ

これも、お使いの句とほぼ同時期の作品です。

真美子子ちゃんは、お台所でお母さんのお手伝いをするのが大好きです。その日も夕ご飯のあと、みんなのお茶碗とお箸洗いのお手伝いを終えてから、ふと横を見ますと、すべての片付けを済ませたお母さんが、こんどは流しの隅を念入りに洗い始め、磨き始めています。

キッチンの片隅から、お母さんの仕事振りの手厚さ、手際のよさを、キラキラとかがやく瞳に刻み込ませているM子ちゃんの様子が、この句を通してよくうかがえます。

 「**しなさい!」

の強制ではありません。何気なく得る知恵には無理がありませんから、受ける効果もまた大きいのです。

同じ真美子ちゃんの句です。

   エプロンは 汚れないよに つけるもの  まみこ

よくお手伝いする真美子ちゃんに、おばあちゃんから、ご褒美のエプロンをプレゼントされたときの句だそうです。

とくに女の子の場合、むかしは母親の手伝いをしたり、弟や妹の面倒を見たりしながら大きくなって、その間に、母親となるための心得を、知らず知らずのうちに学び取っていました。ですから、自分が母親になったときも、何人子どもがいても、慌てず騒がず、悠々と子育てをこなしていました。

いまの若いお母さん方の多くは、おそらく小さいときからお母さんのお手伝いをされなかった、いや、させてもらわれなかったのでしょう。お使いや、お手伝いによる、生きた知恵、生きた勉強を身につけるチャンスに出会っておられませんから、家事や子育てに、いまになってご苦労が多いようです。

そこへ核家族化が進み、相談する身近なお年寄りにも恵まれない、そこで、育児書を読む、ご近所の子育ての様子に目を奪われる。読めば読むほど、他を見れば見るほど、混乱は深まり、不安と焦燥は募ってくる。そうした悪循環の渦中に置かれて、結局は子どもを“勉強攻め”に追い込まざるを得なくなる。そうした結果、子どもの中には、

    お勉強 いつもやるから 疲れるよ   りさ
    むずかしい 勉強いやだ もういやだ  えいすけ
    学校は 勉強ばかりで しんどそう   たかし
    学校へ ほんとは僕は 行きたくない  こうた

幼稚園在園中、すでに登校拒否ならぬ“入学拒否?”を訴える子どもまで散見される現状です。
“子どものお使い”、“子どものお手伝い”が、今日では死語となっている感がありますが、まことに残念なことと言わねばなりません。

家族の団欒

    寒い夜 火鉢囲んで お餅焼く   てるみ

いまのように、部屋全体に暖房の行き渡っていない、戦後間もない時代。外から帰ってきても、ほとんど外と変わらない家の中の冷たさ。部屋の真ん中のたったひとつの丸火鉢が、唯一ささやかな暖房。

恵まれないからこそ、家族は暖を求めて自然、火鉢のまわりへ集まってきます。凍った手をかざしながら談笑を交し合ううちに、ほのぼのとした温もりがしだいに家族ひとりひとりの心を包み込んでくれます。

不便だから、みんなの心が寄り添うのと、便利になったために、こころのつながりが薄らいでいくのと。

もちろんいまは、当時とは生活レベルも、社会的環境も大きく変わってきていますから、そうしたむかしのような光景は、望むべくもありません。

では、現代の家庭において、家族の団欒がまったく見られなくなったかといいますと、必ずしもそうではありません。子どもたちの句の中にも、その楽しい様子がうかがえます。

  晩ごはん 話をしたら にぎやかだ     さき
  夕ごはん みんなで食べると おいしいよ  じゅん
  晩ごはん きょうのおかずは なんだろな  さち
  テーブルに みんなの笑顔 映ってる    としき

これらは、子どもの目に映ったいまの家庭の団欒風景ですが、なんと言ってもこの場に欠かせないのが、お父さんの存在です。

   父さんの お顔が見える 夕ごはん    むつお

一日顔を合わさないお父さんが、食卓の向こうに寛いだ気分で坐っています。その姿を見ていると、なんだかこころも休まるし、頼もしくも見えてきます。

そんなお父さんに、子どもたちは親しみを込めて、励ましや、ねぎらいの”応援歌“を送っています。

   お父さん いつもお仕事 ごくろうさん  のりお
   お父さん 明日もお仕事 がんばって   さき
   かきのたね お父さんを 待ってたよ   みな 

(“かきのたねは”、ビールのおつまみのことです。)

こうして、家族のみんなが顔をあわせ、楽しく晩御飯のお膳を囲むうち、しだいにいろんな話題が飛び出してきて、食卓はにぎやかに弾んできます。

取り分け子どもたちは、今日の幼稚園での出来事を親に聞いてもらいたくて、食べるのもそっちのけで、先を争っておしゃべりに夢中になります。

   けんちゃんが ぼくを叩いて ぼく泣いた  おさむ
   だんごむし さわるとからだ 丸くなる   こうじ(登園途中の山道で)
   ありのすへ どんどんつづく 黒いてん   ひろき(   〃     )
   つみきはね いろんなものに へんしーん  りお
   ともだちと けんかをしたら さびしいな  ともこ
   父さんが 笑って話 聞いている      さゆり

話をいっぱい吐き出して満足した子どもたちは、こんどは夕飯をかきこみながら、親の交わしている会話を聞くともなしに聞いています。

   じしんはね しんど5で  ぐらぐらり   みな    (阪神大震災直後)
   神戸はね 火事でいっぱい かわいそう   あや    (   〃   )
   牛肉は おいしいけれど 狂牛病      ちなつ   (狂牛病問題)
   むこう山 ゴミ焼却場 できるかな     とむ    (環境問題)
   しぜんはね 虫たちまもる たからもの   ゆうた   ( 〃  ) 
   にんげんは ロボットでは ありません   りょうすけ (こころの問題)

これらの句は、新聞やテレビの報道や、身近な世間話を通して、驚いたり、喜んだり、感激したり、嘆いたりする両親の様子に、親が、何に感動し、何に悲しみ、何に喜びを見出しているのか。

美とは!醜とは、善とは!悪とは!いのちの大切さとは!人間とは!

そうしたことを、与えられた知識や理屈でなく、幼い心ですなおに感じ、ナイーブな感性で捉えています。そしてそれを、将来への貴重な精神的元肥(もとごえ)として成長させていくのです。

父親の帰りを待つ

   お父さん 今夜も遅いな 12月     けんじ
   パトロール サイレンならして 冬の夜  けんじ
   母さんも 父さんのかえり 心配そう   けんじ

年末多忙で、帰りの遅いお父さん案じて作ったのが、この3句です。

家の近くを、けたたましくならして走り去るパトカーのサイレンに、胸を痛める子どもの心情が、凍てつく冬の空気とともに伝わってきます。と同時に、子どもといっしょになって、父親の帰りをともに気遣っているお母さんの姿をも、浮かび上がらせています。

子どもは、父親とふれあう時間が、母親とのそれよりは、はるかに少ないのが普通です。その比較的短いふれあいのなかで、子どもが直接父親を感じ取る部分もありますが、ほとんどは、母親を通して作られるイメージの方が、大きいのです。

ですから、ふだんから母親が父親のことをどのように感じ、子どもにどのように伝えているか、これはとても大事なことです。母親の父親への深い愛情がふだんから子どもによく伝えられている家庭では、父親が帰ってきても、玄関の戸の開く音を耳にした瞬間、子どもは、
「パパだ!」
と飛び出していくでしょう。

子どもの前で、「ほんとに仕様がないパパねえ。今夜もまた、どこかで飲んでるんでしょ。」などと、父親への不満を子どもに愚痴ったりする母親との育ちからは、よい父親の印象は生まれません。
 
あこがれのお父さん

    お父さん 雄くん乗せて スピードだ   ゆうたろう
    お父さん 何でも発明 うれしいな    のぞみ
    お父さん 投げるかっこう すてきだな  ひろし
    竹ひごで パパの作った やっこだこ   おさむ

わが子を乗せてバイクで疾走する、雄くんのお父さん。
頼んだら、何だって発明して(考えて)作ってくれる、望ちゃんのパパ。
キャッチボールで、学生時代の腕を披露する、浩くんのお父さん。
ナイフで竹ひごを削って、奴だこを作ってくれる、手先の器用な修くんのパパ。

子どもたちはいずれも、お父さんのふだん隠された姿を、休みの日のふれあいなどを通してかっこ良く感じます。あこがれを抱きます。父親は、子どもにとっては何といっても、身近なあこがれの存在なのです。

といって、父親はどの父親も、子どもの目を引くような何か特技を持たねばならないとか、手先が器用でなければならないとか、そんな特別なことは何も要らないのです。

たとえば、休日の朝など、寛いだ父親が靴を磨いていたり、庭の手入れをしたりといった、そのような簡単なことでも、父親が何かしているところを見て、ふだん、接触していない父親のさりげない行動に、意外なほど子どもは興味を示すものです。

どんな単純な作業でも、子どもで大人のようにうまく出来ることは、何ひとつありません。見ているうちに、靴はやがてピカピカ光り始めてくる。汚れていた庭がしだいにきれいに整ってくる、その様子を見ているうちに、
「ぼくにもやらせて。」
「じゃあ、やってごらん。」
やらせてもらって、靴墨で手は汚す。草刈がまは重くて思うように動いてくれない。いくら気張っても自分に出来ないことが、パパだったら何でもうまく出来る。

「パパは、えらいなあ。」

大人だから、出来て当たり前。何も子どもの前で得意がるようなことではないのですが、子どもにしてみれば、見上げるほどのまばゆいばかりの出来事なのです。

子どもの憧れを呼ぶ秘訣はきわめて簡単明瞭、たとい10分でも、子どもと行動をともにする。言葉を交し合う。そこにあると思います。

   お父さん ゴミ袋持って 家をでた。   まさと

会社にお出がけのパパが、片手には通勤カバンを、片手には重いゴミ袋を持って、ゴミ集めの場所に向かっています。

「パパ、いってらしゃーい」
「ゴミ、お願いしまーす」

手を振る子どもとママの声に振り向いたパパが、笑顔でうなずきました。お仕事に向かう頼もしいパパ、重いものでも平気なパパ。忙しいママに代わってゴミ出しをする優しいパパ。すべてが、子どもの目にはとてもかっこよく映っています。子どものあこがれとは、こんな平凡な生活のふとした一こまの中にも、潜んでいるのです。

お父さんへの注文

   お父さん おならぷうぷう やめてよね   はるか

園へもって行けば、先生からこの句をお友達にも紹介され、みんなが笑うだろうと分かっていても、いやむしろ、笑ってくれることを期待しているかのように、平気な顔でこの句を提出してきた春香ちゃん。その横顔からは、開けっぴろげでこころを許しあった、ふだんの明るい家族の様子がうかがえるようです。 

「お父さんいうたらな、わたしをお膝に抱っこしてるときに、大きなおならをしやはったん。『いやや』いうて降りよとしたらな、ぎゅっと、強う抱いて放さんと、『もひとつおまけや』いうて、また、ぷうっとしやはんの。かなんわ。」

案の定、部屋中は大笑いの渦となりました。その春香ちゃんのもう一つの句です。

   お父さん お酒呑んだら 唄うたう    はるか

唄声と手拍子まで聞こえてきそうな、どこまでも愉快なお父さんです。

   お父さん たばこ吸ったら だめだなあ  さき

父親の身体を気づかい、父親に進言できる父子の関係はすばらしいと思います。もちろんその裏では、母親の入れ智恵もあったのでしょう。いくら口すっぱく言っても馬の耳に念仏の父親には、わが子に弱い父親の弱点を衝くに限ると、子どもに忠告を試みさせた母親の、苦肉の禁煙作戦といえましょう。

   お父さん 寝ながらテレビ 見ているよ   さや
   お父さん おしゃべり運転 危ないよ    まさと
   お父さん いつも会社に 遅刻する     ちなつ

これらの句は、大人しい子どもの、口には出せないお父さんへの、改めてほしい注文です。
「言ってあげたら?」
と言いますと、どの子も「怒らはるもん。」とのことでした。

お母さんいろいろ

   お母さん いつもにこにこ きれいだね   さち
   お母さん にっこり笑うと えくぼだよ   よしき

子どもにとってきれいなお母さんとは、お化粧したり、着飾ったりして、外面を装う姿にあるのではなく、温かさ、大らかさ、優しさ、“いつもにっこり、えくぼの出る”安らぎの笑顔。そうした母親の持っている、お化粧では出せない“内面の美”にあることを、この2句は物語っているといえましょう。

   お母さん いつもお茶目で たのしいよ とおる
   お母さん 面白すぎて 笑っちゃう   ゆり

こんな明るいお母さんも、子どもは大歓迎です。

   寒いなあ 鼻まで赤い 母の鼻     かおる

冬の厳しい寒さと、その中で立ち働くお母さんへの思いを表した句です。

“母”という、幼児にしては大人びた言い回しをしていますので、かおるちゃんに聞いて見ますと、はじめ、“お母さんの鼻”としていたのだそうですが、字余りになるのでお母さんに、
「“お母さん”やったら、長いしあかんのや、お母さんのこと、もっとほかに言い方ない?」
と聞いて、
「それなら、“母の鼻”にしたらどう?」
と教えられた、いわば、母子合作?の句ということです。

  お母さん 7度8分で 赤い顔       ひろこ      

「お母さん、大丈夫?」         
「大丈夫よ、今日は、早く寝るから。」 
お母さんの体調が悪いことは、子どもにとっていちばん応えます。 7度8分でも働いているお母さん。「えらいなあ、」と思う一方、「ひどくなったら、どうしよう。」と不安にも思う浩子ちゃんです。         

さとみちゃんは園へ来ますと、いつもお母さんのことを話題にします。作ってくる句も、ほとんどお母さんのことばかりです。  

    お母さん 朝から晩まで いそがしい   さとみ
    お母さん 家じゅうお掃除 たいへんね  さとみ
    お母さん いつも夜まで はたらくよ   さとみ

お母さんの、1日くるくる動き回っておられる様子が眼に見えるようです。

    お母さん みんなを見てる あきちゃんと  さとみ

手のかかる小さな弟の明ちゃんの面倒も見ながら、家族みんなへの気配り、目配りを行き届かせておられるお母さんのご苦労を、よく捉えています。

ですから、
    
    お母さん いつもお世話を ありがとう   さとみ
    お母さん わたしもするよ お手伝い    さとみ
    お母さん お肩とんとん してあげよ    さとみ

このように、お母さんへの感謝といたわりの気持ちを、いっぱい句に表している子どものいる一方で、少々気になる、こんな句を作った子どもたちもいます。

    母さんは 昨日のことを また怒る     としき

昨日叱られて、もうそのことはすんだと思っていたのに、今日また蒸し返された。
「ぼくのお母さんは、くどいんだから。」
とでも言いたげな俊樹ちゃんの句です。

    お母さん ちょっと優しい 怒りんぼ   ゆうな
    お母さん 優しいときも あるけどね   ようた
    お母さん 怒るとこわい やめてねえ   みな

この子どもたちの眼には、ふだんは優しいが、怒るとこわくなる、“優しさ半分、恐さ半分”のお母さんに映っています。“いつもにこにこ きれいだね”というわけにはいかない、この半分の恐さとは、いったい何なのでしょう。

むかしのお母さんは、子沢山の一人一人にいらいらなんかしてはいられませんでした。そんなことをしていたら、頭も身体もパンクしてしまいます。

少子化の現代は、一人一人の子どもにお母さんの眼が行き届きすぎて、しなくていい心配までしてしまい、それが嵩じていらいらしたり、育児ノイローゼになったりするようです。

あるとき、三人の年の接近した幼い子どもをお持ちのお母さんが、
「子どもの言っていること、していることは、第三の耳で聞き、第三の眼で見るようにしています」
と、おっしゃっていましたが、あたかも、むかしのおふくろさんの子育ての極意に触れる思いがしました。兄弟げんか、多少の反抗など、時期が過ぎればひとりでに消えるものがほとんど。親がひとつひとつにこだわって、そのつど恐い顔でいますと、やがては自然に消えるものまで、子どものこころの中で固まってしまいます。

お母さんが、常にこころのゆとりのトレーニングを心がけて子どもに接しますと、子どもの眼には、“いつもにこにこ、きれいな、大好きなお母さん“ と映るのでしょう。

たのしく叱るコツ

お母さんのいらいら解消法の一つとして、子どもって意外にしゃれやユーモアを好むところがあります。

   イルカはね 海遊館にも “いるか”らね     しんたろう
   きむたくが “きむ”ちと“たく”あん たべてるよ  もえ
    (人気歌手の木村拓也の名前を、キムチと沢庵に分解しています。)
   “さたけまい”“おおたかずひろ”“におまりえ”   ゆうな
     (友だち3人の名前の、佐竹麻衣、大田和裕、仁尾麻里恵 を並べています。)
   梅の木の つぼみふくらみ もう“春か”     なつき
    (お姉ちゃんの名の遙香を、もう春か、と読み込みました)

このように、子どもには、ユーモアを受け入れる素質が、多かれ少なかれあります。ですから、同じ叱るにしても、時によってはユーモアっ気を交えた叱り方をしますと、予想外に効果があがるようです。

 いちど、こんなことがありました。
 いまご紹介しました、“いるか”の句を作った雄太郎ちゃんのお母さんが、
「雄太郎、前にもいっぺん、“ゆうたろう”?」
と、雄太郎ちゃんの顔を覗き込みながら、いたずらっぽく言いますと、膨れていた雄太郎ちゃんも、くすっと笑い出し、
「分かった、ごめん。」
と、すなおに謝ったということです。

この場合、ふだんからおっとりとしていて、あまり細かいことにくよくよされないお母さんだったから、そのお母さんのユーモア混じりの叱り方が、効果的だったのです。

すぐにカッとなって叱るお母さんが、いくらそのときだけユーモアを用いても、けっして子どもは乗ってくれません。ユーモアや洒落などというものは、こころの余裕、安らぎの中から生まれてくるものだからです。

子どもは見ている

   洗濯もん 折って折って できあがり   みな

テーブルの上に、かさ高く積まれている乾いた洗濯物を、つぎつぎに折りたたんでいくお母さんの手際の良さを、息をのんで見ている美奈ちゃんの句です。

   ねぎを切る コトコト音が すてきだな  ひろみ  

まな板の上で、お母さんの包丁が葱を切り刻む、そのリズミカルなテンポと響きのよさに、うっとりと聞きほれている博美ちゃん。  
   エプロンに カレーのにおい ついている  さとみ

大好きなカレーのにおいは、きっと大好きなお母さんのにおいなのでしょう。 

   ぐつぐつと 母さんの音 聞こえるよ     ともや

煮物のぐつぐつ煮える音に、お母さんに抱かれているような安らぎを感じる、智也ちゃんです。

   雨の日に お母さん 空見てる        たけお

「雨止まないかなあ。今日も、洗濯物が干せないわ」
そんなお母さんの声が聞こえてきそうな、梅雨時の句です。空を見上げているお母さんのこころの内を、子どもがこちらから見てスケッチしています。

このように、子どもは、さりげない生活の“見えないものの中で”、お母さんのにおいや、音や、こころを感じとっているのです。  
   お母さん 赤信号で 渡ってる        ひろし

これは、困った方の“子どもは見ている”の句です。

浩ちゃんが、友だちの家へ遊びに行った帰りに、横断歩道で信号待ちをしていますと、赤信号なのに、向かい側から小走りで駆けてくる人がいます。よく見たらママだったのでびっくりした浩ちゃん。お母さんも、当分、浩ちゃんに頭が上がらないことでしょう。

   お母さん おしゃべりばかりで 恥ずかしい  おさむ

参観日の日、どのお母さんも静かに保育を参観しているのに、修ちゃんのお母さんとお隣りのお母さんとの話し声だけがよく聞こえてきて、修ちゃんは恥ずかしい思いをしたそうです。

   お母さん 弟ばかり 可愛がる        ゆか

もちろん、お母さんにはそんなつもりはないのですが、1才半の弟に世話を焼いているお母さんをじっと見ていると、うらやましくなってくる由香ちゃんです。自分も弟と同じ時期には同じように手をかけてもらっていたのですが、でもそれは赤ちゃんのときのこと、いまの由香ちゃんに分かる筈はありません。

ですからお母さんも、ちょっと手のあいたときなど、お姉ちゃんだからこその、何か特別なふれあいをもってあげたら、由香ちゃんも納得するのでしょう。  

   お母さん こんだん会に ちこくした       のりお

いつもお母さんから、
「ぐずねえ。さっさとしないから、今日も遅刻よ」
としょっちゅう言われつづけている紀夫ちゃんですが、今日は着ていく服の選択に時間がかかって、小学校のお兄ちゃんの学級懇談会にお母さんが遅刻しました。
「やったー」
紀夫ちゃんは、鬼の首を取った気持ちになったというわけです。
   
幼児がいちばん求めているもの

   寝ていると、父さん母さん 怒ってる     のぶゆき       

子どもが寝たから大丈夫だろうと、安心して始めた夫婦喧嘩。床の中でハラハラしながら、成り行きにこころを痛めている信行ちゃん。

子どもは、良きにつけ悪しきにつけ、親の行いの一挙手一投足を黙って見ています。聞いています。感じています。

“行い”から吸収するものが、“口”で言われたり叱られたりすることよりも、子どもの人格形成には極めて大きい影響をあたえています。

親のようにしたい、なりたいと思うのと、親がしているのだから、自分だって許されると思うのと。

子どもの眼の前を、“つねに親のお手本が歩いている”ようなものですから、親の常日頃の行動がとても大切です。といって、四六時中いつも身を硬くしているわけにもまいりません。

子育ての成否は、“子どもは黙って見、聞き、感じている”ということを、親がこころの底のどこかに置いておいて行動しているか否かの違い、にあるのではないでしょうか。 

あるとき、5才児のMちゃんが、嬉しそうに話しかけてきました。
「先生、ええこと言うてあげよか。今日なあ、幼稚園帰ったらな、おもちゃ買いにデパートつれてってもらうねん。何でや知ってるか?それはやな、パパとママが昨日の晩けんかしやはって、ママの投げはった掃除機が、ぼくのおもちゃに当たってこわれてしもたんや。そんでな、前のよりええの買うてくれはるのや。」

Mちゃんの弾んだ声の表情からは、デパートでおもちゃを買ってもらえる嬉しさよりも、昨晩の両親の激しいけんかが無事治まって、ほっと胸なでおろした安堵の気持ちが、ありありとうかがえるのでした。

これなどは、無邪気な夫婦げんかの結末であります。子どもが園へ来て、得々と話してくれるような内容のことなら、有りがちなこととして何も心配はいりません。

しかし、両親の間が深刻な状態に置かれている場合、子どもは一切そのことに触れようとはしません。顔色にも出しません。平静を装っておりましても、無理をしている表情の中から、こころの痛みが感じられます。

無邪気なけんかであろうと、深刻な争いであろうと、子どもは両親を代わる代わる見つめながら、小さな胸をふるわせ、怯えているのです。

ここで、ほのぼのとした一句をご紹介しましょう。

   お父さん お母さんと ラブラブだ   さき

この句を子どもたちの前で紹介したとき、さすがにヒヤーと、ちょっとおませな何人かの女の子から声が上がりました。ほかの子どもたちも、一様に頬をゆるめておりました。仲の良い両親を求める、平和な家庭を求める子どもたちの、こころの核心に触れたものと思われます。

子どもが、両親にいちばん欲しいと求めているものは、おもちゃでも、絵本でも、テレビゲームのソフトでもありません。大きなきれいな家に住むことでもありません。

ただひとつ、お父さんとお母さんの仲が良くあってほしいとの願い。このもっとも当たり前な、もっとも厳粛な、両親の間の心の平和、さらには、その両親の和を軸とした家庭内の人間関係の安定ということ。究極のところは、この一事に尽きます。このことが、子育ての、家庭教育の、将来の家庭内暴力や非行防止のための、すべての土台となるのではないでしょうか。

山下一郎「遺稿集」より

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