『母親は父親には代われない―父親抜きの家庭教育―』

今日では、家庭教育といえば母親が担当するもの、家庭教育イコール母親の役割、というイメージが定着しています。このことを裏返しますと、今の日本の家庭教育において、父親の存在はほとんど無に等しいということにもなります。

しかも当の父親の中には、家庭教育から疎外されていることを慨嘆するどころか、むしろ煩わしさからの回避と歓迎しているふしさえ見られます。父親抜きの家庭教育、ここにも、現代の家庭教育を混乱させている原因のひとつがあるといえましょう。

むかしは、ほとんどどの家庭でも、おやじとおふくろのコンビが実に個性的に息づいていて、子どものこころにはおやじの印象、おふくろの印象が、それぞれ深く刻み込まれていたものです。いわば、おやじとおふくろの存在そのものが、教育の原点をなしていたとも言えましょう。

いま、おやじがいてくれる、その重み、頼り甲斐。おふくろがいてくれる、その温もり、安らぎ。そういった存在感のある父親、母親に、そして個性豊かな家庭に、どれだけお目にかかれるでしょう。

もちろん、むかしのおやじのすべてがいいとか、立派だとかいうのではありません。暴君で、飲んだくれで、だらしない父親も結構いました。そのために、よく泣かされていたおふくろ、悔しい思いに唇を噛んだ子ども、など、芳しくない思い出を持つ子どもも多くいました。

しかし、なぜかそうした子どもたちも、成人しておやじのことを回想するときの目元には、言い知れぬ懐かしさの込み上げてくる様子がにじんでいるのです。

つまりは、おやじらしいおやじも、反面教師の困ったおやじも、わが子を“もの”にしなければとか、家族を見殺しには出来ないといった、子どもや家族にたいする責任という点で、共通して強い姿勢を持っていたからなのでしょう。

このおやじの真骨頂とも言うべき責任感を、いまの若い父親がどれだけ持っていることでしょう。

だいいち、少しでも父親としての責任を思うならば、今日の母親が子どもの教育にひとり悪戦苦闘している姿を、座視してはいられない筈です。

本来、父親としての父性、母親としての母性は、まったく異質なものであります。そのどちらもがうまく噛み合ってはじめて、正常な家庭教育が成り立ちます。父親が家庭教育権を放棄したことによって、母親が異質な父性をも共有しなければならないところに、現代の家庭教育上の無理があるものと思われます。

では、父親が父性を通して果たすべき父親本来の特性とは何なのか、母親の負担を軽くするためのサポートとは何を意味するのか、つぎにそうした点について、具体的に考えてみたいと思います。

父親は動機に目をむけ、母親は結果に目を向ける
まず、父親本来の特性のひとつとして、“父親には動機に目を向ける能力がある”、ということです。実際にあった例をご紹介しましょう。

5才児のTちゃんが、幼稚園から帰ってから、近くの児童公園へ遊びに行ったときのことです。Tちゃんが、近所の小学校1年生のMちゃんに石を投げて怪我をさせるという、ちょっとした事件が起きました。

そのことを知ったTちゃんのお母さんは、取るものも取りあえずMちゃんの家へTちゃんを連れて謝りに行きました。帰ってくるなりお母さんは、
「目に当たって、めくらにでもしたらどうするんや。ママ、おばちゃんにえろう叱られたわ。」
と、こっぴどくTちゃんを叱りつけました。

その夜、お父さんが帰ってきて夕ご飯のときです。興奮気味のお母さんから話を聞いたお父さんは、Tちゃんを叱る前に、
「お前、どうしてMちゃんに石なげたんや?」
と、聞きました。するとTちゃんは、溜まっていたものを一気に吐き出すかのように、
「そやかて、Mちゃんいうたらなあ、大きいくせに、3っつのA子ちゃんいじめよるんやで。ぼく、何べんも何べんも『やめといたり』いうて頼んでも、聞きよらへんのや。腹立ったさかい、石投げたった。」
と、むしろお父さんの前で、得意げな表情さえ見せました。
「そやけどお前、相手はお前より大きい子なんやろ?むちゃくちゃ仕返しされるかも知れんのやで。」
「そやかて、A子ちゃん可哀そうなんやもん、ほっとけるか?」
そこでお父さんは、満足そうに、
「お前、なかなか、やるやないか」
そういって、Tちゃんの肩をポンと叩きました。その上で、笑顔を浮かべながら静かにこう言いました。
「でもな、やっぱり石を投げたのは良うないな。口でいうて聞かんかったら、近くにいる大人の人見つけて、その人から注意してもらうとか、なんぼでも方法はあるやろ。」
「うん、わかった。もう、石投げへん。」
Tちゃんは、すっきりとした顔つきで大きくうなづきました。

この例にもありますように、お父さんは、Tちゃんのした行為にたいして、先ずその動機を褒め、まずい結果には注意を与えております。これでTちゃんは、満足できる解決が得られたのです。

お母さんは、動機に眼を向ける余裕を失って、結果の姿だけでおろおろしています。厳しく叱られることによって、Tちゃんの勇気ある行為は、まったく無駄なものとなってしまいます。

お父さんは石を投げたことを、女の子を守った良い行為だといいます。お母さんは、怪我をさせた悪い行為と見ています。同じ子どもの同じ行為なのに、評価はまったく正反対です。

自分のしたことを人から正当に認められ励まされたときの感動は、幼児も大人もみな同じです。幼い日に父親から認められ、褒められ、励まされた、人への思いやりや、優しさや、正義のこころ。それらは、それらを良しとして理解し、見守ってくれる父親の大きな後ろ盾によって、ますますTちゃんのこころの中で磨かれていくことでしょう。そして大きくなったとき、その真価はきっといろんな場面で発揮されるに違いありません。

真のこころのしつけとは、一時のものでなく、遠い将来にまでも強い影響力を与え、感化を及ぼすことをいうのであろうと思います。

それにしても、母親に比して、叱る場合、褒める場合、うわべの表れでない、動機的な本質に目を向けることのできる父親が、今日では、どうしてその特性を発揮しようとしなくなったのでしょう。

かつて、NHKの小学生討論会で小学生がこもごも次のような発言をしていました。

「ぼくは、お父さんに叱られたい。お父さんに叱られたときの気持ちを、ぼくは知らない。」
「お父さんは、もっと厳しくしないとだめだ。甘やかしてばかりいて、ちっともお父さんらしくない。」

これらは、形式的なうわべ上のしつけに終始し、結果の姿だけで叱るお母さん流の叱られ方に辟易している、現代の子どもたちの本心ではないでしょうか。

父親の、
「お前、なかなかやるじゃないか。」
頼もしい、そのひと言が子どもはほしいのです。

更には、
「ほんとう、よくやったわね。」
父親と同調する母親の励ましのひと言を、子どもは求めているのです。

 

― 頼り甲斐のある父親 ―
 
「優しさっていつもあると麻痺する。不器用で無口で、それでいてどことなく厳しいおやじが、たまに何かプレゼントしてくれたとき、とても幸せだった。」
~原稿はここまで

山下一郎「遺稿集」より。

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