『待ちの教育―子育てか、子育ちか』

 “子育てより子育ちを”という言葉があります。“子育て、子育て、と力むよりも、子ども自身の自然な育ちに任せましょう”、というわけです。

「子育て」の主体は、親であり、「子育ち」の主体は、子ども自身です。この“子どもの主体性を尊重して、子どもの中にある伸びる力を信じましょう”。

これが、「子育てよりも子育ちを」の主旨であります。

園で、個々の子どもの成長を見ていますと、子どもはそれぞれ、時期がくれば思いもよらぬ変化を見せてくれます。どの子もみな、潜在的な成長能力を持っています。その力の発揮される時期は、子どもによってまちまちです。

なにかのチャンスに誘発され、いかにも自然に出るべくして出てくる場合もあります。思いがけない変化が突如として表れて、あれっと驚かされることもあります。でも、それがいったいいつのことなのか、誰にも予測はできません。

親御さんにも、
「あなたのお子さんは、何才の、何月、何日になれば、かならず、これこれ、このような嬉しい変化が出てきますから、焦らず、安心して、その日をお待ちください。」
と言ってあげられれば良いのですが、数字で表せるような予告は、誰にもできません。

でも、間違いなく、どの子にもその時期はかならずやってきます。しかもそれは、他の子には見られないその子特有のものです。親は、その表われをじっと待つのです。目に見えないものをひたすら待つのは不安なものです。頼りないことです。しかし、どこまでも辛抱して待つのです。これこそ“待ちの子育て”であり“待ちの教育”です。

歩き始めの時期はまちまちでも、ひとり歩きの出来ない赤ちゃんは、一人もいません。早い遅いはありますが、歯の生えてこない赤ちゃんもまた皆無です。親の手助けがなくともあせらずに待てば、ひとりでに歩き始め,歯は自然に生えてきます。まさに“待ちの子育て”であり、育ちの主役は、赤ちゃん自身なのです。

親が、待ちの教育にどれだけ徹しきれるか、このことが、子どもの中に潜む潜在能力を、どれだけ伸ばし得るか否かの分かれ目となります。

しかもその間、親はただ手をこまねいて、じっと変化を待っているのではありません。

自然の草花や樹木に接するのと同じように、その根っこに水を注いだり、肥料を施したりするのです。水とは、肥料とは、すなわち、何びとも代わりえない、わが子への親の常に変わらぬ深い豊かな愛情です。

人の子より劣っているところを補ってやろうとあくせくするのは、決して本当の親の愛情ではありません。それは、お隣やお向かいに負けたくない、親の見得なのです。

本当の親の愛情とは、親の見栄による束縛から子どもを解き放してあげる、こころの広さです。子どもの自然の成長に任せる、こころのゆとりです。見守る温かさです。

本を読んでは混乱し、ご近所に眼を向けてはノイローゼに陥りそうになる・・・。母親の、いつ見てもふさぎこんだ顔つき、イライラとした憂鬱な表情。これでは家の中も暗くなり、子どもの明るい未来に向かっての伸びやかな育ちも、期待できません。

さいきん話題のキレル少年も、赤ん坊を床に叩きつける若い親も、そのルーツはそれまでのこうした育ちにあるのかも知れません。

いまこそ、子どもの根っこに心を込めて愛情の水を注いでください。たっぷりと肥料を施してください。ゆったりとした気持ちで見守っていれば、どの子にも無理なく自然に、よりよき変化、よりよき成長の花開く日は、かならず訪れます。

“待ちの教育”に徹し、子育てでなく、たしかな“子育ち”の日の到来を、肩の力を抜いて、忍耐強く待ってあげようではありませんか。
 

山下一郎「遺稿集」より

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