『ぐう・ちょき・ぱあ』―完全を求める親―

よく世間では、ものごとの決着がつかないとき、さいごの手段として、単純明快な「ぐう・ちょき・ぱあ」に解決を委ねることがあります。

では、ぐう・ちょき・ぱあのうち、いちばん強いのはどれなのか? どの手を出せばかならず勝てるのか? となりますと、これだ! という決め手はありません。どれにも勝つチャンス(価値)がある代り、負けるチャンス?(弱点)もあるからです。つまり、どれも強いし、どれも弱い、ということです。

ぐうには、くじけない石(意志)の強さがある代わり、ぱあの柔らかさに包まれると、ぐうの音も出ません。ぱあには、ものを包む柔らかさと温かみがある代わり、切れ味の鋭いはさみに掛かったら、ひとたまりもありません。そのはさみの切れ味も、硬い石に出会ったら、たちまち刃こぼれを起こしてしまいます。

といった具合に、ぐう・ちょき・ぱあの三者は、それぞれ独自の良さを生かしながら、それぞれの弱点を補い合っていると言えましょう。   

これと同じようなことは、イソップの「北風と太陽」の話のなかにもうかがうことができます。原話によりますと、北風と太陽は力くらべの結果、太陽が旅人の外套を脱がせて勝った、というところでこの話は終わっています。さいごに教訓として「温情は暴力に勝る」と締めくくってあります。

ですから、勝った負けたで言えば、あきらかに太陽の温情が、暴力の北風を制したことになります。では太陽は完全かといえば、必ずしもそうではありません。たまたま、外套の脱がせくらべだったから太陽が勝ちましたが、これが落ち葉の吹き飛ばしくらべだったら、どうでしょう。いくら太陽が温かい光を注いでも、落ち葉一枚動かすことはできません。

それどころか、時には、太陽の光の強烈な炎天下では、人を日射病に追い込むことだってあります。考えようによっては、これは太陽の暴力といえなくもありません。

北風は、やんちゃで暴力のかたまりのような印象を与えますが、反面、雪を降らせて子どもたちに冬の喜びを満喫させることのできる、温情の持ち主ともいえましょう。

このように考えますと、誰が強くて誰が弱い、何が良くて何が悪いということは、一概には言えないのではないのでしょうか。
ぐう・ちょき・ぱあといい、北風と太陽といい、これらのことは、子育てにもそのまま当てはまるように思われます。

わが子の見どころ探し

お母さん同士の会話を聞いていますと、よく、こんなやり取りに出会います。

「お宅のお子さん、活発で明るくって、元気ハツラツって感じですね。うちの子なん、か意気地がなくって、お宅のお子さんがうらやましいですわ」
 「何おっしゃって、うちのはもう、ガサで、やんちゃで困ってますの。お宅みたいに、落ちついてらして、物静かにご本なんか読んでらっしゃるの、それこそ、うらやましいですわ」

多くのお母さんが、こんな会話をふだん何気なく交わしておられます。お世辞でなく、相手のお子さんのことを本当にうらやましく思い、わが子のことは、本気になって嘆いておられるのです。

ところで、第三者の立場に立って、この会話の内容をじっくり検討していただきますと、ちょっとおかしいことにお気づきになりませんか。

同じ子どもの同じ表れを、他人さんは見どころとして認めてくれているのに、当の親御さんは、どうにもならない欠点と捉えています。相手が元気ハツラツと褒めれば、ガサで、やんちゃで、とこぼされる。落ち着いた読書家と讃えれば、弱々しくって意気地がない、と否定なさる。

長所でもあるが、欠点でもある。欠点でもあるが、長所でもある。まさに、ぐう、ちょき、ぱあであり、北風と太陽なのです。にもかかわらず、どこまでも人の子のことはよく見えて、わが子の場合はみな駄目なように見てしまう。 
  
それならばいっその事、相手のいいとこ同士、たがいに取替えっこすればよいわけでしようが、性格や才能などというものは、品物でないだけに、そうたやすく交換するわけにもまいりません。

なのに多くの親御さんは、なぜ、わが子の欠点ばかりが気になって、長所に目を向けようとされないのだろう? と、不思議にさえ思うのですが、よくよく考えて見ますと、やはり親には、人間である以上誰しも、自己愛という欲ごころを持っているからではないでしょうか。

もっとも、“孔孟の取替えっ子”と称して、孔子や孟子といった聖人、賢人でも、わが子の教育は思うに任せないで、おたがいに取替えっ子をして育てたという比喩があります。孔孟でさえ、わが子への欲ごころには勝てなかったのですから、無理のない話なのかもしれません。

たしかに、“元気”で“明るく”て、しかも、“落ち着いて”いて“物静か“だったら、言うことはありません。しかし、そう何もかも備えた、完璧な子どもなんてひとりもおりません。外で遊ぶことの好きな子どもは、家の中でじっとしていることが苦手。家の中の好きな子どもは、外がこわい。といった具合です。

だいたい、“元気ハツラツ”という言葉と、“物静か”という言葉は、相反する言葉であります。両極にある性格の何れをも同時に持たせたいと願うのは、ないものねだりの完全主義であります。完全を求める親のエゴによって、わが子の大事な見どころを見失ってはいけないと思います。

何はともあれ、わが子を伸ばしたい、よくしたいと望まれるなら、完全を求める前に、いちど客観的に、ご自分のお子さんを見つめ直して見られてはいかがでしょう。

昼間、子どもと直接関わっておられるときは、煩わしいことも多いでしょうが、夜になってわが子の寝顔をじっと眺めていると、いろんな反省とともに意外に冷静に子どもの真実の姿を見つめることができるものです。そんなとき、わが子の中に潜んでいる見どころが、しだいにじわーっと姿を表わしてくるのではないでしようか。

もしも、それでも見つけられない場合は、先ほどのお母さん同士の会話にあった、他人さんがわが子のことをどう見てくれているか、あるいは、幼稚園や学校の先生からどう評価されているか、そういった、第三者の声に謙虚に耳を傾けていただくとよろしいかと思います。

所詮この世はぐう・ちょき・ぱあの世界です。ぐう人間ばかりでも困ります。ちょき人間もいれば、ぱあ人間もいて、それぞれがそれぞれの個性や能力を活かし合い、足らざるを補い合いながら、社会は成り立っています。ですから、わが子ひとりを完全人間に育てようと思う必要はいささかもありません。

ひたすら、わが子の見どころを発見し、良さを認め、褒め、励まし、伸ばすように仕向ける、その上のおまけとして足らざるところも加わればめっけもの、くらいの気楽な気持ちで接してあげれば、お子さんの気持ちの負担もぐっと軽くなると思います。 

しかも、だれに褒め、励まされるよりも、いちばん身近で、いちばん慕っている母親に認められることは、何にも増して嬉しく、励みとなることです。

今できないことを性急に求めるよりも、今できていることをまず認める。これが、わが子にやる気を起こさせ、自信を持たせるコツです。
 
親ごころとは、辞書には「子を愛する親の心」とあります。本当にわが子を愛している親ごころなのか、それとも、ひょっとして自分自身を愛している欲ごころなのか。子育ての原点は、この自問自答から始まらねばならないと思います。

Yちゃんは果たして悪い子か? 

ある年の4月に、とても4才児とは思えない、小学校2,3年生といっても通用するような、がっちりとした大柄な体格のYちゃんが、新入園児として入ってきました。

5月の半ば頃からですが、Yちゃんの体力と腕力にものを言わせたやんちゃ振りが、しだいに目につき始めるようになってきました。

「あの人がいやはるさかい、幼稚園いくの、こわい」

そう言って、朝、家を出しぶる女の子や、気の弱い男の子も何人か出てきました。保護者の間でも、Yちゃんのことは何かと話題にのぼり始めました。

私は、クラスの担任や送り迎えグループ担当の先生から、Yちゃんの様子を聞いたり、私自身もじっと観察したりしておりますうちに、Yちゃんの像というものがしだいに浮かび上がってきました。

なるほどYちゃんは、やんちゃであります。エネルギーが満ち溢れている感じです。声はでかいし、言葉は乱暴だし、何かあって、
「なんじゃあー」
と怒鳴る声の調子には、たいていの子どもが縮み上がってしまいます。

送り迎えの先生の話によりますと、朝、集合場所で先生のお迎えを待っている時でも、まともには待っていません。いつの間にか高いブロック塀の上に立っていて、お迎えの先生が子どもたちを連れてこちらへ向かってくるのを、手をかざして眺めています。Yちゃんのお母さんが、
「落ちたらどうするの、早う降りなさい!」
と声をかけますと、よけい面白がって、わざと塀の上を両手を広げて歩いてみせるといった調子です。

そんなある日、お当番の用事で園長室にきたのを幸い、私はかれに話しかけてみました。

「先生なあ、前からいっぺん言うてあげよ思うてたんやけど、Yちゃんに感心してることがあるのや」

Yちゃんは、突然のことで目をしろくろさせて、「何でやねん?」と、不思議なこともあるものだという顔つきで、聞き返しました。

「何でやいうたらな、Yちゃんは男の子には手を出したりしてるけど、よう見てたら、絶対に、女の子を叩いたり泣かしたりしたことないなあ。」
「そら、女の子は守ったらなあかんもん」
「そうや、Yちゃんは、男らしい強いええ子なんや。な、そうやろ!」

Yちゃんは、何とも挨拶に困った顔をして私を見上げましたが、やがてニーっと白い歯を見せておりました。私はそのとき、とてもはにかみ屋で人なつっこいYちゃんの一面を見た気がしました。

それと同時に、本当は有り余ったエネルギーを持て余していることと、人の倍ほどもある大きな身体をとても気にしていて、その照れかくしにやんちゃをしているんだな、と、Yちゃんの純な表情の中から、そんなことを感じ取っていたのでした。

わたしは更に言いました。
「Yちゃんは、本当は女の子に優しいし、親切やし、よく守ってあげてる。人に優しいことは、強い人のすることなんや。人を叩いたり殴ったりするのは、がまんのできん、弱みそのすることや。そう思うやろ?」
「うん、思う」 
「それなら、今のYちゃんは、女の子には強い頼もしい子やけど、男の子にはすぐに叩いたり殴ったりして我慢の出来ない弱虫やいうことになるよ。そやからな、男の子にかて、少しぐらい腹の立つことがあっても、がまんしてやさしゅうしてあげよ。手を出さんかてお口があるんやから、お話をしてあげたらええのや。それができたらYちゃん、もっともっと、男らしいええ子になるよ」

ま、ざっとこんなことを、その後も折にふれて何度となくYちゃんと話し合いました。もちろん、そのためだけでなく、Yちゃんが園生活に慣れ落ち着いてきたこともあって、時の経過とともに次第に乱暴もかげを潜め、むしろ、クラスでも頼もしい存在として、その男らしさとやさしさを発揮してくれるようになりました。

1学期の終わり頃でしたか、ひとりのお母さんが、こんなことをおっしゃいました。

「初め、うちの子がYちゃんを怖がるし、皆さんも乱暴な子やおっしゃるので、Yちゃんを悪い子や思うてました。先生にも申し上げましたら、『あの子は、とてもいいものを持っています。もう少し時間をください』とおっしゃいましたけど、ほんまにそうでしたわ。悪い子どころか、いまどき、あんな純粋な子は珍しいですね。つくづくYちゃんに申し訳ないことしてたと、Yちゃんに謝らなあかん、思うてますの。」

乱暴な子、イコール悪い子。男らしい子、イコール好い子。同じ子どもが乱暴な面と、男らしい面とを持っています。乱暴は欠点、男らしさは見どころ。欠点を直そうと、躍起になって欠点ばかり責めますと、ますます手のつけられない乱暴者に育ちます。見どころにゆとりの目を向けて観察しますと、乱暴者が心やさしい男らしい子どもに見えてきます。

認められ、励まされ、それが、自信となって成長したとき、欠点はいつの間にか嘘のように消えているということは、よくあることです。

「70点は100点よ」

今まで申してきましたことは、お子さんの性格や行動面の上のことだけでなく、学校へ行かれてからのお勉強についても言えると思います。

成績が上がった、下がった。クラスの中でどんな位置にいる? といったようなことは、大半のお母さん方の大きな関心事であります。そのことの良し悪しは別としまして、確かに、成績が悪いよりは良いに越したことはありません。

しかし、あれでは、悪くなっても仕方がないな、と思わせられることがよくあります。
 
入学して間なしのこと、初めてのテストがありました。N子ちゃんは、一生懸命テストと取り組んだのですが、結果は70点でした。でもN子ちゃんは、無邪気に答案用紙をお母さんに見せました。お母さんは、最初のテストで期待が大きかっただけに、
「何よこれ、70点じゃないの」と、明らかにご不満の体です。

「70点は、あかんの?」
「そらそうや。100点取らなあかんわ」
「ふうん、あかんの。わたし、きばったんやけどなあ」

N子ちゃんは、決して70点が実力の子ではありません。それが、なぜ70点だったかにつきましては、ちゃんとした理由があるのです。

N子ちゃんは、幼稚園時代、テストとかドリルといったようなものには、まったく馴染んでいません。テスト慣れしていないことと、それに動作がスローで、かつ、欲のない子どもでしたので、テストへの取り組みがすこぶる鷹揚だったのです。

そこで10問のうち、7問しかできませんでした。ということは、7問解いて7問とも正解だったというわけです。全部解かなければ、100点でなければ、という完全主義からは、70点は7割の出来でしかありません。

しかし、スローで、テスト慣れしていないN子ちゃんには、7割こなすだけで精一杯でした。ともかく、一生懸命やったのです。だから先ず、そのことを褒めてやるべきでしょう。

「7つ出来て70点ということは、100点と同じことよ。よくがんばったわね」
「ほんとう。70点はいいの? よかった。つぎもまたがんばるからね」

同じ70点を取っても
「恥ずかしうないの?」と言われて落ち込むのと、
「また、がんばるね」と、希望を抱くのと。つぎのテストの出来にも影響が出ないはずがありません。

落ち込んだ子どもは、テスト用紙に向かったとき、叱られた日のママのこわい顔が思い出されて、こんどは、さらに60点に落ちるかもしれません。励まされてやる気を出したN子ちゃんは、つぎはきっと80点を取るでしょう。

「8つ出来て80点は、100点よ。前の7つできて100点のときより、もっと素敵な100点よ」

こう励まされたN子ちゃんは、ますますやる気を出し、その内にしだいにテストに慣れてスピードもついてくれば、やがて実力通り、それこそ10問出来て100点の完全な能力が発揮できるようになるのです。

初めから完全でなければと意気込みますと、あとで完全になりうる力を持っていても、実力をついに出し切れず低迷してしまうということは、よくあることです。何事にも、じっと待つ、こころのゆとりが大切かと思います。

「親は完全でない。まして子どもが完全であるはずがない」

この気持ちが根底にあれば、子どもにもっとゆとりを持って接することができるのではないでしょうか。

所詮この世は、ぐう・ちょき・ぱあ。

完全を求める前に、まずはわが子の「よいところ探し」から始めようではありませんか。

山下一郎「遺稿集」より

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