『マナーのしつけ・こころのしつけ』

しつけに熱心なお母さんのことを、世間ではよく“しつけにうるさいお母さん”という言い方をします。しつけに熱心なら結構なことなのに、それがどうして良く言われないのでしょう。

しつけには、大きく分けて、“マナーのしつけ”と、“こころのしつけ”の二通りあると思います。

マナーのしつけはさらに、急がなくても良いものと、急がねばならないものとに分かれます。しつけにうるさいお母さんというのは、恐らく“急がなくとも良いマナーのしつけ”に熱心なお母さんのことをいうのでしょう。

・お靴は、揃えて脱ぎましょう。
・ご挨拶ははっきりと、ていねいにしましょう。
・きれいな言葉で、お話しましょう。
・お食事のときには、こぼさないように。音を立ててはいけません。
・お片付けはきちんとしましょう。

いわゆるお行儀、作法など、うわべの形を整えるしつけ。たしかに、どれもみな大事なしつけには違いありませんが、どちらかといえば、これらは目に見えて結果の分かりやすい、外見上のしつけがほとんどです。

これらがちゃんと出来たかどうか、結果は一目瞭然です。それだけに、お母さんは、
「何べん言っても、何十ぺん言っても出来ないのね!」
と、つい、口うるさく言いたくなります。

しかし、大人の世界で通用しているマナーの物指しを、そのまま幼児に当てはめても、必ずしもいい結果が得られるとは限りません。

だいいち大人自身が、どれだけ子どものお手本となるような、物差し通りのマナーをきちんと実行しているかといえば、あまり偉そうなことは言えません。

朝起きて、昨晩のひと波瀾が尾を引いているパパとママ。お互いにブスッとして、「お早う」の挨拶も交わさないでそっぽを向き合っている。こんなシーンを子どもに見られたという経験は、どのご家庭でも、年に一度や二度はお持ちのことと思います。これでどうして、わが子に、
「ご挨拶は、はっきりと、気持ちよくしましょう。」
と言えましょう。
「またけんかして。どうして兄弟仲良くできないの!」
とも言えません。
「パパやママだって、「お早う」言わんやないの。夫婦げんかしてるやないの」
と子どもに矛盾をつかれます。

お袋と呼ばれていたかつての母親たちは、靴を揃えることひとつにしましても、あれこれ口に出して言いません。黙って揃えていました。子どもが何度脱ぎっぱなしにしていても、何度でも黙々と揃えていました。

「そんなことしていたら、子どもはいつになっても気が付きませんわ。やっぱり、言わなきゃ」

と、現代の若いお母さんはおっしゃるでしょうが、これは、子どもの気が付くか付かないかの問題ではなく、母親自身、きちんと揃っていることを好ましい、気持ちがいいと思うかどうかが大事なのです。

だれに頼まれたわけでもなく、子どもにお手本を見せようとの意図でもなく、無意識のうちに、自分自身が納得し、満足してする行為なのです。その母親の自然な行為を、子どもはいつとはなく見ていて、母親の美意識を、感性を、吸い取り紙のように吸収するのです。

子どもは、何回となく家を出入りしているうちに、脱ぎ捨てた靴がいつの間にか揃っているのに気が付きます。それは、1週間に一度のことか、10日に一度のことかもしれません。そのとき、

「さっき、散らかしていったはずなのに、ちゃんと揃っている。揃っているって気持ちいいなあ」

と感じるでしょう。そして、
「これ、だれが揃えたのだろう? そうだ、お母さんだ!」
無言の行為であるだけに、子どものこころにも強くアピールします。

口から出たものは、口に返り、黙ってする行為は、子どものこころに深く沁みこむのです。子どもを口で動かそうとしますと、子どもの口から、ときには厳しい言葉が跳ね返ってきます。これをお母さんは反抗とおっしゃるでしょうが、その反抗のタネは、お母さんご自身が蒔かれたものであることに、気づいていただきたいのです。

装うこころ
大人は、日常生活の中で靴を揃えることぐらい、ごく当たり前のことと思っています。ところが、幼児にとってはそのことが、時と場合によって意外に簡単でないことがあります。

たとえば、幼稚園から帰ってきて、靴を揃えるより先に、「ただいま」の声ももどかしく、ママにわくわくしながら園での今日の出来事を報告したい、あるいは、ともだちとけんかした結果の悔しい思いをママに訴えたい、慰めてほしい。などなど。

幼児には、形やお決まりの枠を超え、身体ごといまの自分の気持ちを精一杯母親にぶっつけたいときがあります。

このときこそ母親は、「ただいま」のご挨拶がなかろうが、靴が飛び散っていようが、自分を求めて一直線に飛び込んでくる子どもの気持ちに、ふところを広げて応えてあげてほしいのです。

絶好の母子のスキンシップの機会に、「靴だ」、「ごあいさつだ」、と杓子定規な対応を繰り返していますと、子どもの心は、しだいに母親から放れていきます。ママに向かうひたむきな気持ちは、萎え、しぼんでしまいます。

形式的なマナーのしつけは、急がなくとも、やかましく言わなくとも、どの子どもにも成長とともに、自らを“装うこころ”の育つ時期が必ずやってきます。外部を意識し始めますと、俗に、かっこうを付けたがるようになります。放っておいても、このときにはどうすればいいか、自分で判断し、最善の方法をとろうとします。

例えば、さきざき成人して、お見合いや就職試験に臨むときなどは、その最たる機会です。そのときになって、それまでの親の生活態度から吸収してきたマナーが、効果をフルに発揮するのです。ですから、

「幼児期に靴のことで目くじら立てなくとも、お行儀、作法のことなどは、“装うこころ”の育ちを待てばいい。その育ちのためには何よりも、やがて見習われる今のわたしたち親のマナーを磨くことこそ大切なのね。」

というふうにお母さんが自覚していただければ(もちろんお父さんもですが)、“うるさいしつけママ”などと、煙たがられずに済むのではないでしょうか。

いま急がねばならない”マナーのしつけ
一方、同じマナーのしつけでも、いま是非しつけておかねばならないのが、社会との関わりを持つしつけであります。幼児といえども社会人の一員として、絶対に人に迷惑をかけてはならないからです。

恐らく、しつけにうるさいといわれるお母さんの本音は、「お宅は、お子さんのしつけがよくお出来になってますわね。」といった、他人さんからの褒め言葉への期待にあるようです。

ですから、顔見知りの人たちの中では子どもにマナーを要求されるし、子どもも一応はそれに応えようとするのですが、いったん知らない人たちの中に入りますと、例えば、バスや電車の中とか、病院の待合室とか、そのほか人の多く集まる場所で、耳を聾する奇声を絶え間なく発したり、走り回った上ころんで大声で泣き叫んだり、兄弟で言い争いや取っ組み合いを始めたり、周囲の人たちが明らかに眉をひそめているのに、そばにいる親が平然としていて一向に注意を与えようとしない、といった光景に私たちはよく出会います。

こういう時こそ、周囲の人たちの不快感を取り除くために、小声で叱るなり、陰へ連れていって注意をあたえたりするのが、マナーのしつけであるはずです。

知った仲間内でのしつけには厳しく、知らぬ他人さんの前ではさっぱり無言のお母さん。これはいったい、どういうことなのでしょう。ひょっとして、「走り回ったり、大声を出したりするのは幼児の特権なのだから、自由にのびのびとさせているのよ」とおっしゃりたいのかも知れません。それならば、靴や言葉使いのほうでも、それだけの理解を示して、大目に見てあげてもよいのではないでしょうか。

どんなに幼くとも、見知らぬ人たちとの出会いの場での公衆道徳は、ふだんからしっかりしつけておかねばなりません。

ですから、このようなときには、例えば、
「病院にはね、気分の悪い人もたくさん来てはるのよ。あなただって、自分が病気で病院の待合室にいてしんどいとき、大声で騒いだり、暴れまわったりする人がいたら、『静かにしてえ!』といいたくなるでしょう。それと同じことよ。だから、これから病院へ行くけれど、人の迷惑にならないように気をつけましょうね」

これだけのことを、病院へ出かける前にあらかじめ言っておきます。これがしつけであって、しつけは、子どものしたあとを追っかけて、結果を叱ることではありません。

旅行へ出かける前も、遊園地やデパートなどへ出かけるときも、多くの人たちの集まる場所、多くの人たちの楽しむ場所を、わが子のために不愉快な場所にしてはなりません。

ですから、前もって言い聞かせておく配慮、これが、幼児といえども公衆の前では一社会人であるとの認識を持たせる、大切な「マナーのしつけ」であります。

このことは、もう少し範囲を広げて考えますと、単に人間社会にたいしてだけでなく、花や、虫や、ことりや、その他ありとあらゆる生き物社会のいのちを大切にするマナーにも通ずると思います。それぞれのいのちの育ちに迷惑をかけてはならないからです。

梅雨晴れのある日のことでした。3才児のNちゃんが園庭に咲いていた、自分の顔ほどもある大きなあじさいの花を、ごく無邪気に折り取ろうとしました。そのとき、そばを通りかかった5才児のSちゃんが、
「あ、そのお花、折ったらな、向こうの景色が悪くなるよ。折らんほうがええと思うけどな」といいました。

3才児のNちゃんには、Sちゃんの花への労わりのことばの意味がよく分からず、キョトンとしていましたが、Sちゃんのおだやかな説得の雰囲気に気圧されてか、知らず知らず手を引っ込めて、その場をすうっと立ち去っていきました。

わたしは、そうした経緯を少し離れたところから見ていたのですが、5才児のSちゃん、大人でも思いつかないような、なかなかしゃれた説得をするものだ、これは見習わなければと、つくづく感心させられたものです。これは5才児のSちゃんの、3才児のSちゃんへの巧まざる、生き物へのマナーのしつけであります。

お母さん方も、Sちゃんのこれだけの気持ちのゆとりと、発想のユニークさを持って、お子さんに接していただいては如何でしょう.

自分の顔

ところで、さきほどの話に戻りますが、人前で騒ぎまわる子どもに注意を与えなかったお母さんのことについて、少し同情的な見方をするとしましたら、実は、このお母さんも、こころの中では、注意を与えなければならないし、むしろほかのどなたよりも内心ハラハラしておられたのかも知れません。

しかし、ふだんのわが子の様子から、
(うちの子はわがままで、口答えや反発がきつく、とうてい、この場で注意を与えても、すなおには聞いてくれそうにもない。いまでも人さんは、なんてしつけの出来てない親だろうと、苦々しく思っているだろうし、いっそう状況を悪くして恥の上塗りをするよりは、素知らぬ顔をしていたほうが・・・)と、忍の一字を決めこんでおられたのかも知れません。

この場合、このお母さんにとってのしつけとは、ご自分の顔を良くするか悪くするかを基準に置いたしつけ、ということになります。

日頃お付き合いしている幼稚園のお母さん仲間とか、ご近所や親戚同士のなかでは、自分の顔が良くなるように、靴だ、言葉使いだと、躍起になられます。しかし、一面識もない人たちの集まる場所では、お知り合いの場合ほどご自分の顔を意識しないで済みます。

形に捉われたマナーのしつけをしようとすると、とかく人の目を意識し、自分の体面に重きを置いたしつけに終わることが多いのです。

しつけをするに当たっては、それが、ご自分のためなのか、わが子のためなのか、そして何よりも、社会全般の他者のためなのか、この見極めが大切であろうと思います。

山下一郎「遺稿集」より

       

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