『「し」と「き」―先生の失敗』

わたしの園では、朝のお集まりのときに俳句を年長児みんなに覚えてもらっています。その狙いと効果につきましては、「幼児と俳句」の項で触れておりますので、ここでは、この俳句にまつわるわたしの失敗談いついて触れておきたいと思います。

ある年の2学期が始まって、子どもたちに紹介した初めての句は、

秋風の 吹けども青し 栗のいが

というのでした。

その年は夏休み中、ほとんど連日のように猛暑と干天がつづいていましたが、夏休みも終わりに近づいた頃、かなりまとまった雨がまるまる3日しっかりと降ったためか、9月に入ってからはうそのように涼しくなり、むしろ、例年より秋の訪れの早いのが感じられるほどでした。それだけにこの句は、その年の子どもたちの季節感にもピッタリとくるものがあったようでした。

例によって、わたしが「秋風の」と言うのにつづいて、子どもたちが「あきかぜの」と復唱し、「吹けども青し」も「栗のいが」も、同じようにわたしのあとに子どもたちがついてくるというやり方を5回繰り返して、最後に作者の「芭蕉」を唱えます。そのあと、句の意味を子ども向きにくだいて説明し、第1日目の時間を終えるわけです。

2日目の俳句の時間のときでした。いつものように、俳句の前に子どもたちの気持ちを集中させるために、正座して子どもたちとしばらく目を瞑っていましたが、そのとき、どうしたわけか、吹けども”青し”だったか、”青き”だったか、わたしの頭の中で急にめまいのような混乱が起こり始めたのです。

ふだんはよく知っている字でも、なにかの拍子に、何偏だったのか、何かんむりだったのか、ふっと分からなくなって、こだわりだすとますますわからなくなり慌てることがありますが、あれと似た状況です。

ともかく、目をあけたらどちらかで言わねばならない、いつまで瞑っているわけにもいかない。切羽つまったわたしは、そのときなぜだか、吹けども青き、とやってしまいました。

まだ2日目で、だれも気がつかなかったのか、気がついても黙っていてくれたのか、子どもたちの方からは、そのことについての反応らしきものは何もありませんでした。

わたしは、終わると早速すぐそばの自宅に戻りまして、芭蕉句集をひもどいてみました。ページを繰っている間、「し」か、「き」か、試験の答案の結果を待つ思いでした。「し」が正しいと分かったとき、スッと背筋を冷や汗が走って通りました。

冷静になって考えてみれば、たしかにそこは「し」でなければならないのですが、魔が差すとでもいうのでしょうか、なんと馬鹿なことを子どもたちに言ってしまったのでしょう。すぐにでも子どもたちのところへ戻って訂正したかったのですが、すでに子どもたちはそれぞれのクラスへ戻った後でした。

つぎの朝のお集まりのとき、みんなで瞑っていた目をあけて、これから俳句を始めるというときに、わたしは頭に手をおいて、恐縮を満面に、

「俳句を言う前にね、みなさんにね、お詫びを言わんならんことがあるの」

そう言いますと、子どもたちも、周囲にいた2人の先生も、意外な面持ちで一斉にわたしの方を見つめました。

「先生の失敗なんや。きのう、先生がいうた俳句、おとといと一字違うてたところがあるんや・・・」

そこまで言ってみんなを見回しましたが、相変わらず子どもたちは、わたしを見つめたままです。

「あのねえ、昨日、先生勘違いして、吹けども青しというところを、吹けども青き、て言ってしまったんや」

「分かった、なんやおかしいと思ってたんやけど、それで分かったわ」

ひとりの男の子が、納得顔で首を振り振り言いました。

「そう、よう気がついたね。先生はね、みなさんに間違うたこと言うて、ほんまに済まんことや思うて、きのうは1日中気にしてたの。ほんまにごめんなさい」

わたしは、子どもたちに丁寧に一礼して顔をあげました。子どもたちは、だれも何もいいませんでしたが、こちらの方に寄せられる皆の目は、

「気にせんかてええよ」

とでもいいたげな、大人を労わる一様に細くなごやかな目元になって、口許までどことなくほころんで見えました。

わたしは、子どもたちからお許しを得て、いつもの元気を取り戻しますと、

「じゃあこれから、間違い直しをするし、よう聞いててね。『吹けども青し』『吹けども青し』『吹けども青し』……」

と、わざと「し」に力を入れて何度も何度も繰り返しますと、子どもたちも面白がって後の方は合唱のようについてきました。

いってみればこれだけのことですが、先生が真剣になって謝ってくれたということは、子どもたちにとっては、たいへん大きな驚きであり、喜びであったようです。

子どもたちのなかには、今だに、幼稚園の先生はトイレにも行かないものと思っている子どももいます。まことに勿体ない話です。神聖視とまではいかなくとも、先生は何でもできる人、失敗はぜったいしない人くらいには、どの子も思っていてくれます。

先生を神聖視する子どもをこそ、先生は神聖視しなければなりません。先生を絶対に信頼してくれる子どもにこそ、先生はその信頼に全面的に応えてやらねばなりません。

一字の違いであっても、相手が大人であろうと子どもであろうと、間違いは間違い、失敗は失敗です。大人にするのと同じように礼をもって対さねばなりません。大人と同等に扱ってくれた喜びが、大人への新たな信頼を呼び起こすのです。

親と子の場合にも、これと全く同じことが言えるのではないでしょうか。

山下一郎「遺稿集」より

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