『言うべきことを、言うべきときに言う』

新世紀の幕開けと言われたこの1月も、早くも今日で終わりとなり、あと正味1ケ月半ほどで皆様方ともお別れということになります。そこで、今日はひとつお母さま方へ、“餞(はなむけ)の言葉”を差し上げたいと思います。その言葉とは、「言うべきことを、言うべきときに言う」というのであります。

何だそんなこと、当たり前のことじゃないか、だれでもやっているよ、と思われるかも知れません。しかし、実際にはこの当たり前のことが意外に出来ていなくて、“言うべきことを言うべきときに言われずに育った子どもたち”が、大きくなってから大変困った人間に育っている例は、数限りなくございます。

世紀末の昨年は、子どもたちの荒れた事件が続発いたしました。世紀が変わって、1月早々の成人式では、こんどは、20才になったばかりの成人たちが、かつての成人式にはついぞ見られなかった、きわめて非常識な行動をとって式場を混乱に陥入れたことは、ご記憶に新しいところであります。

かれらの取った行動を、百歩譲って、精いっぱい好意的に見るとしましたら、本人たち、それほど悪意はなく、目立ちたがりの、好え恰好しいの若者が、大勢の前で成人式を祝ってかっぼれでも踊るところを、テレビカメラに記念に撮って貰おう、くらいの、軽い“のり”であったのかもしれません。 

ですから、あとで「行き過ぎました」と知事さんに詫びを入れていたのでありますが、しかし、軽い、座を沸かせるくらいの気持ちでしたとしても、それが許されて良い筈はありません。だいたい、成人式という催しには、どこの市も数百万円程度の予算を投じて、成人を迎えた若者に、大人になった自覚を与えるために招待している、と聞いております。 

新成人は、いわば市民の税金によって招かれているのであります。そこには、先ず、招かれた者としての市民への感謝の気持ちが、根底になければならないと思います。ご招待いただいて“ありがとう”の気持ちです。と同時に、主催者にたいしても、また、他のまじめに参加している多くの若者たちにたいしても、払うべき礼儀、といって古ければ、“尽くすべきマナ-”というものがなければならないと思います。

かれらは、おめでたい席へはどのような態度で臨むのがふさわしいのかという、招待を受けた者としてのマナ-に欠けていたのであります。おめでたい結婚式の式場へ、まさか喪服を着ていく人はありません。

 招かれた席をうち壊すようなことは、社会人としてのT・P・Oを心得ていない、成人になりきれていない人たちの行動であります。こうしたことは、やはり、“言うべきことを、言うべきときに言われずに育ってきた”その結果の姿であろうと思います。

 では、言うべき「こと」とは、何なのか? 言うべき「とき」とは、いつなのか? ということになるのですが、その前に、さきほどの新成人に欠けているものは、招いて頂いてありがとう、の感謝の気持ちと、会場内における社会人としてのマナ-の欠如であります。それらをひっくるめてかれらには、「われ今、なにを成すべきか!」という、“けじめというものが身についていない”ということであろうと思います。

つまり、かれらは、幼いときから、この“物事のけじめ”について、親から、“言うべきときに言われずに”育ってきたものと思われます。ですからわたしは、つき組の子どもたちの朝のお集まりのとき、この“けじめの大切さ”ということを常々申しております。

「けじめとはね、“今は、何をするときか?”をよく考えてすることです。本当に賢い人はね、本をすらすら読めたり、数がたくさん数えられたり、いろんなことを知っていたりすること、だけじゃなくって、“今は、遊ぶときか”“今は、お話を聞くときか”“今は、歌を歌うときか”その時その時をよく考えて、考えた通りのことをしっかりとできる人のことで、お話を聞くときに騒いだり、歌いたいからといって勝手に歌を歌ったりしては、お話を一生懸命に聞こうとしている人の邪魔になりますね。つまり、それは人に迷惑をかけることで、よいことじゃありませんね。だから、遊ぶときには遊ぶことに一生懸命、お話を聞くときは、お話を聞くことに一生懸命。これのできる人が、本当に賢い人です。

けじめを守って、みんなに迷惑をかけない、本当に賢い人になりましょうね」というようなことを、機会ある毎に、口を酸っぱくして申しております。このけじめの教育を、小さいときから受けていて身についていれば、17才の犯罪もなかったかも知れませんし、新成人の、悪ふざけの行動もなかったことでしょう。 

ですから、今ここで、保護者の皆さんへのわたしのお願いは、お子さんが小学校へ行かれてからあとは、こんどはご家庭においてわたしが子どもたちに言いつづけてきました、この「けじめの教育」を継続していただきたい、ということであります。

「今はなにをするときか」が分かっているかどうかのけじめ。

「人に迷惑をかけているかいないか」のけじめ。

「マナ-に反しているかどうか」のけじめ。「感謝の気持ちで物事を受け止めているかどうか」のけじめ、等々であります。

ですから、このけじめに反した時が言うべき「とき」であります。けじめに反したことに注意を与えることが、言うべき「こと」であります。このけじめを基本において、「言うべきことは言う」「言うべきときには言う」これをやっていただきたいのであります。

小学校で、勉強しているときに騒いだら、先生にも、クラスメ-トにも迷惑を掛けるな、だから今は騒ぎたくっても静かにしていよう。これが、授業を受けるときのけじめであります。

ひとりひとりの生徒が、このけじめをちゃんと守って授業に望んでくれれば、学級崩壊の問題も起こらない筈であります。

叱ることを恐れる

ところで、さいきんの親御さんのなかには、子どもに触れるのを怖いと思っておられる方がおられるようです。そこで、当たらずさわらずの触れ方をしておられます。

子どもを下手叱って反抗的な子どもに育ち、17才の犯罪少年たちのようになったらどうしよう。とくに昨年のいくつかの事件以来、そうした気持ちをお持ちの親御さんが増えてきているようです。

ですから、日常的な小言は耳たこでおっしゃっても、肝心なことはしつけられないお母さん。ここぞという肝心なときにお叱りにならないお父さん。そうした方々を多く見受けます。

また、べつに子どもに触れるのが怖いわけではないが、何を基準に叱ってよいか分からない、つまり、どう育ててよいか分からない。とおっしゃる方にもお目に掛かります。 ですから、結局は、目先の、靴を揃えなさい!ご挨拶をちゃんとしなさい!といった表面的な徳目を並べて、その実行を促しておられます。

靴を揃えることも、ご挨拶がちゃんとできることも、良いことには違いありません。しかし、靴を揃えなくとも、ご挨拶が出来なくても、他人に迷惑はかけません。親のしつけが出来てないと思われるだけです。

こうしたことは、どちらかといえば、今の目先のことであって、成長していけば自然に身についていくものであります。

こうした表面的なことは、日頃の親の立ち居振る舞いから自然に覚えていくものですから、これは、“言うべきこと”というよりは、親が“して見せるべきこと”というべきでありましょう。

本当に叱るということは、そんなに難しいことではなく、また恐れることでもなく、先程来申しておりますように、「けじめ」というものを基準に置いて、それに適っているか、適っていないかを見きわめて、適っていないときだけ話して聞かせる,さとす。

あるいは強く叱る、そのときそのときの現れに応じて、子どものこころに後々にまで残るよう、印象深くその本質を植えつけてやる。これが叱ると言うことの意味であろうと思います。

この間かなりな雪の降った日、出発前に、「今日は行く道で雪で遊びたいだろうけれど、幼稚園へ行けばうんと遊べるからね、途中では遊ばないでいこうね」といって出掛けましたが、こどもたちはちゃんと聞き分けてだれも遊ばない。

だれも転倒してけがをする子どももいませんでした。

「みんな、お約束がよく守れたね」と山道でいいますと、ひとりの子どもが、「そら、けじめやもん。歩くときは歩くのやなあ」といっていました。

あるとき赤信号で待っていますと、自転車の高校生が平気で渡っているのを見て、またひとりの子どもが、

「あの人、けじめ守ってはらへんわ」といいました。交通道徳を守っていない、ケジメのない人はよくない人、と子どもの頭にも染みついているようです。

つまり交通道徳や道路を歩くときのル-ルだけでなく、もっと将来につながる、人格にかかわるけじめのこころを、子ども自身のためにも、社会のためにも育てておいてやるのであります。

そのために“言うべきとき”に“言うべきことを言うう”という、これからの親御さんのの姿勢が大切になってくるものと思われます。

どうか、子どもに言うことを、叱ることを、恐れず、ためらわずに、言うべきときには言うべきことを言って、けじめある人間の育成に努めていただきたいと思います。これが、わたしのお子様のご卒園にあたっての、はなむけの言葉であります。

山下一郎「遺稿集」より

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