『お母さん肩に力を入れないで』

今日では、家庭教育のもろもろの責任を、ひとりお母さんが背負っているといってもいいくらいです。だからそのお母さんに、肩に力をいれないで、という方が無理なのかも知れません。子どもの幼い頃は、日常生活におけるしつけの問題、少し大きくなると、勉強の問題、受験の問題、非行の問題、家庭内暴力の問題etc 、つぎつぎに目の前に現れる難問を、そのつど、ひとりで処理していかねばならないのですから大変です。

これが、せめて相談相手がいるとか、力強い協力者でもいれば別ですが、多くのご家庭で、今日のお父さんは、まずその頼もしい対象とはなってくれそうにもありません。核家族では、遠く離れたお年寄りに気軽に相談に行くというわけにもまいりません。

子育てをどうする?
誰にも頼れず、責任だけは十二分に負わされている今日のお母さん、多くの方々が正直いって、どう育てていいのか、何を基準にして子育てをすればよいのか、羅針盤なしで航海するような心もとなさを日々感じながら、子育てという大仕事をひとりでこなしていこうとしておられるのです。そこで、そういった、多くの迷えるお母さんの前に力強い味方となって登場してくれるのが、数多くの育児書であり、心理学書であり、家庭教育図書のたぐいであります。

これらの本は、どんな不況のときでも当たり外れのない、出版社にとっても力強い味方なのだそうです。ということは、裏を返せば、それだけ子育てに不安なお母さんで、世の中満ち満ちているということにもなりましょう。

たしかに、著名な心理学者や教育者による育児書は、よき相談相手となってくれます。どの本も、やさしく書かれていますから、よく理解できるし、お母さんの悩みにはたいへん親切に応えてくれています。

百通りの個性
しかし、もう一歩踏み込んで、いちばん聞きたい,いちばん知りたい、肝心かなめの、わが子の具体的な問題解決を得ようとすると、何となくもやもやとした物足りなさが残ります。靴の上から足を掻く思いです。ある部分では期待に応えてくれますが、ある部分では手応えが得られません。そこで別の本を読んでみます。結果は同じです。金科玉条と頼む育児書に、何となく裏切られた思いです。

が、実はこれは無理もないことでして、どの本も、あなたのお子さんの“〇〇ちゃんのために”と、特別に執筆してくれた本は一冊もないからです。子どもは百人いましたら、百通りの個性を持っています。

百通りのちがった環境で育っていますし、親の触れ方も百通り。ですから、百人いれば、問題点も自ずと百通りに個々みな違うわけです。日常の、きわめて具体的な、個別的な親のひとつひとつの悩みにたいして、適格なアドバイスを与えるためには、まず何よりも執筆者自身が、個別的にその子のことをよく知っていなければなりません。その子の問題点をしっかりと把握できていなければなりません。

しかし、そのようなことは現実には不可能です。もし、できたとしても、百人のひとりひとりに専用の、お誂えの育児書を提供するためには、内容のちがった百冊の本を作らねばなりません。若いお母さんが10万人おられたら、10万冊です。著者も出版社も、とうていそのような注文には応じきれません。

お母さんの視線はどこに?
そこで、どの子にも共通したうわずみの常識論で、妥協せざるを得なくなります。ですから、うわずみの下にかくされた、いちばん求めているわが子の個々の問題にたいしての、究極の回答を与えてくれる本は、結局のところ皆無ということになるわけです。本を何十冊読んでも、テレビの教育番組を片っ端から視聴しても、わが子の問題解決には、どれも役立ってはくれない、こどもは日に日に成長するし、日に日に問題はふくらんでいく。

誰の頼りも得られないし、責任だけは十二分に持たされて───。これでは、お母さんの肩に力が入ってくるのも、当然といえましょう。では、誰をも、何ものをも当てにできないと悟ったお母さんの視線は、いったいどこへ注がれるのでしょう。それは他でもありません。ご自分の周囲のお母さん方の動静にたいしてです。

先ずは、お向かいは?お隣りは?子どもをどんなふうに教育しているだろうか。お向かいの、お隣りの子どもはどんな育ち方をしているであろうか。この一点に集中します。そこでまずお母さんは、一本の物差しを持ちます。それは、優劣という物差しで、この物差しでご近所やお知り合いの子どもとの比較をなさいます。

他人との比較で生じる悩み
たまたま同じ頃に生まれた赤ちゃんをお持ちのお母さんが何人かおられますと、表向きは親しく行き来して、こまめに情報交換をしたりされますが、お腹の中ではお互いに赤ちゃんの成長速度の探り合いです。お乳の飲みぐあいのことから、離乳のこと、歯の生える時期のこと、歩き始めの時期、そのほかこと細かなひとつひとつが、熾烈な比較の対象となります。そしてそのつど、一喜一憂。ちょっと優越感にひたってみたり、滅入りこんでしまったり。

しかも、どちらかというと、いい気持ちになれる場合の方は少なくて、これでいいのかしら、よそさんより劣っているのではないかしら、と不安に思うことの方が多いようです。不安になると、無駄とは知りながら、またしてもあの本、この本と首っ引き。こうしてお母さんの悩みは、幼稚園に入ってからも、小学校へ上がってからも、どこまでも延々と続くのです。

数字の比較はナンセンス
ところで、ここで大事なことは、おおよそ、赤ちゃんや幼児の成長過程における数字上の優劣というものは、そのこと自体、ほとんどがナンセンスだということです。たしかに、数字上の比較は手っとり早くて、誰にでも分かりやすく、やりやすいものです。しかし、よくよく考えて見ますと、標準より離乳が1ケ月早いか遅いか、お向いよりはいはいが1ケ月早いか遅いか。そのことが、その子の生涯に決定的な影響を及ぼすとは思えません。

1ケ月早く生えた歯でも、質の弱い歯もあります。生え始めは遅くとも、しっかりとした丈夫な歯もあります。一時期における早い遅いでなく、生涯を通しての強い歯か、弱い歯であるかが問題なのです。生涯を通しての結果は、いま比べようもありません。

よちよち歩きのSちゃん
3才児から通ってきていたSちゃんは、入園当初は、まるでよちよち歩きの状態でした。聞いてみますと、Sちゃんは、3人姉弟の末っ子で、上2人のお姉ちゃんのあとにかなり間があいて出来た待望の男の子だったのです。このSちゃんが愛おしくてならないご両親は、どこへいくにも、車か、抱っこ。ですからSちゃんは、入園直前まで、一度も地面に足をつけたことがない、と言ってもいいくらいの育ち方でした。

極度の溺愛が、歩行能力にかなりの遅滞をきたしていましたから、一日の保育が終わって幼稚園からの降園のとき、Sちゃんは山道の石段を降りるのが怖くて、初めのうちはひとりでは降りられません。

しばらくは私が抱っこして降りていましたが、それでも少しずつ慣れるにつれて、Sちゃんの石段を一段一段ひと足降りる速度に、周囲の子どもたちにも調子を合わせてもらいながら、ゆっくりゆっくり降りることが出来るようになってきました。

Sちゃんの成長
そのSちゃんも、3年たって卒園する頃には、そんな状態が過去にあったのかと、信じられないくらい、ほかの子どもと比べてもまったく見劣りがしなくなっていました。これを、Sちゃんのお母さんが、他のお子さんとの比較から、いたずらに悲嘆に暮れ、過酷に歩く練習を強制されたとしたらどうでしょう?

幸いにもこのお母さんは、「可愛がりすぎたので、今は歩くことに慣れてませんが、一生歩けないということはないでしょう。お山(の幼稚園)へ通わせて貰ったら、自然に足も丈夫になるでしょう」ということで、物事を、比較的楽観的にとらえられるタイプの方でした。

心配のいらない心配
多くのお母さんがいまお持ちの悩みは、ほとんどがSちゃんの場合と同じように、心配のいらない心配だといってもいいでしょう。おおらかな気持ちでみていれば、ほとんどのことが、知らず知らずに解決することばかりです。面白いもので、今の足の発達のことや、身長,体重などの身体的なことについては、お母さん方も、比較的、数値に関する関心度は低いようです。たとえば、身長の伸びが標準値より下回っていたとしても、あまり気にされません。

ところが、これがひとたび知的な面となると、そうはまいりません。「お向かいのお子さんは、3才なのに、もうちゃんと字がすらすら読める。うちの子は来年小学校だというのに、自分の名前ひとつ書けない。こんなことでいいのでしょうか?」というようなお尋ねをよく頂きます。そんなとき、わたしはいつも卒園児のSちゃんの話を持ち出すことにしております。

お母さん肩に力を入れないで
本を読んでは混乱し、ご近所に目をむけてはノイロ-ゼに陥りそうになる。その塞ぎこんだ顔つき、憂鬱な表情が、子どもにも家族にもつい出てしまうものです。これでは、家の中も暗くなり、子どもも明るい未来に向かって、伸びやかに“子育ち”できません。子どもの根っこに、こころをこめて愛情の水を注いでやって下さい。たっぷりと肥料を施してやって下さい。ゆったりとした気持ちで見守っていれば、無理なく自然に、よりよき変化、よりよき成長の花開く日は、かならず訪れるにちがいありません。

お母さん!その日のくるのを、肩の力を抜いてじっと待ってあげて下さい。

山下一郎「遺稿集」より

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