子どもたちの自信を育てるために

気がつくと11月になりました。幼稚園のお山はまさに秋本番といった趣です。日々子どもたちの笑顔に接し、緑の中を駆け回る姿を見ていると、めまぐるしい毎日の中にも充実した喜びを感じます。

さて、だいぶ以前のことになりますが、九月の保護者会では「鉄棒の取り組み」のビデオをご覧いただきながら、「子どもたちの自信を育てる教育」についてお話しする予定でした。その際は尻切れトンボのようなお話になり失礼しました。今回の「園長便り」はその補足です。

自信とは、やればできると信じること

本園保護者には周知の事実ですが、歩いての通園は子どもたちが自信をつける恰好のチャンスです。というよりもむしろ、保護者が親としての自信を深めるよい機会となっています。今でこそ、みなさんは自分のお子さんが山の階段をちゃんと上り下りできる、そんなことは当たり前だ、と思っておられるように見受けられますが、入園前はどうだったでしょうか?うちの子には無理じゃないか?ときっと不安でいっぱいだったのではないかと思います。

自信とは「やればできる!」と信じることです。園はお子さんに努力するチャンスを提供するにすぎません。1キロの道を歩き、170段の石段を登るのはお子さん自身です。その努力する姿を通し、親が子への信頼を深めることができるのです(じつは、子どもにとって石段を登ることは、「しんどい」とか「つらい」という先入観はなく、体の順応性がきわめて高いため、多少の困難にもすぐなれます。)

自信とは、依存しないこと

このように、歩いての送り迎えが重要なのは、子どもの通園を「楽にする」いっさいの助け船を断ち切る点にあると思います(といっても、歩いての通園は道中での会話が楽しく、見かけほど大変なことではありませんが)。子どもにとり、目の前の課題(=幼稚園に通うこと)を解決する上で安易な方法に依存しない経験を重ねることは、将来にわたって貴重な財産となります。

ここで少し「将来の問題」としての学校教育にふれますと、たとえば、中学・高校生にとって英語が苦手な人は多いようです。学校の試験はそこそこできても、試験範囲の定まらない模擬試験になるとからっきし、という人も少なくありません。どこに問題があるのでしょうか?

まるで教科書を開けないというお子さんはさておき、問題なのは、毎日の予習・復習を欠かさないというまじめなお子さんですら、英語に自信が持てないケースが多い点です。よく考えてみると、学校のテストは出題範囲が決まっていますし、問題を見ても、「正解を次の4つから1つを選べ」という形式も多いです(センター試験はこればっかり)。これだと生徒が出題範囲に依存し(=それ以外はお手上げ)、正解の選択肢に依存する(=選択肢がなければ答えが導けない)ようになるのは当然です(この依存は習慣になっているのでその弊害に気づきにくい)。英語の勉強で重要なのは、中学で習う英文なら何でもかんでも完璧に頭に入っている状態をつくることです(=上記依存的習慣を断ち切ること)。漢字の読み書きで、正しく書ける漢字は読めるように――その逆(=読めればいい)で満足していてはだめ――、中学時代に習う例文なら何でも日本語から英語にすらすら訳せなければダメです。(そこから先にどうするかはまたの機会にお話しします。)

昔は当たり前だった、教科書の音読、暗記、暗唱・・。今はこれが疎かにされています。めんどうでも大切なこと―― 自律的な勉強を可能にする道――は敬遠され、場当たり的でその場しのぎの勉強が幅をきかせ、ついにはどんどん知的体力が落ちていく・・・。幼児期に「歩けるのに歩かさない(=安易な助け船を出す)」弊害とどこか似ています。

ある事柄の弊害は、その現場にいるとなかなかそれと気づかないものです。普段は何らかの違和感(果たしてこれでいいのかな?)を感じることで、そのメッセージを受け取っているのでしょうが、「まっいいか。みんなそうしているし。」と深く考えたりはしない。そして、あるときハッと事の重大さに気づくことになります。

依存的な習慣の弊害について

そういった意味で、私が日頃感じているちょっとした子どもたちの「異変」(ちょっとおおげさ?)についてお話しします。(ここでは日本社会全体の傾向を問題にしています)

(1) ここ数年、笑顔でごあいさつができない子どもが増えています。形式的なことを言っているのではありません。子どもが大人に向かって口を開くことに自信がもてず、どこかおどおどしているように見えます(この傾向は小学校以上になるほど顕著です)。

(2) 静かにするときに静かにできない。逆に静かな場の中にいると、落ち着かない子どもが増えています。残念ながら本園でも俳句の時間にその傾向は見られます。かつては俳句に先立つ黙想の時間は5分あったと聞きます。園主先生の随想を読みますと、「黙想の時間が2分間に減った」というくだりがありますが、今は1分も持ちません。貧乏揺すりというのがありますが、あれに似ていて、静かにすべき時にもついつい体を揺すっていないと落ち着かないようです。

まず(1)についてコメントします。何よりもまず、家庭で子どもの話を聞いてあげる時間を大事にしていただきたいと思います。一般に、大人は子どもに「命令文」を使う時間が多いですし、たどたどしくても、幼稚園であったことを親に話そうとして子どもが口を開くとき、それより先に「命令文」(あれしなさい、これしなさい)を使ってしまいがちなのが大人です。自分の話をじっくり聞いてもらう経験は子どもに自信と喜びを与えます。それが少ないと、大人に口を開く(挨拶もその一つ)のが疎遠になります。

「自信」との関連で言えば、子どもが命令文ばかり耳にすると、次第にそれに慣れてしまい、何をするにも親の目を気にするようになります。このことについては、私はできるだけ多くの機会を利用してお子さんに絵本を読んであげてほしいと思います。その意義については、先日お手元に届いた「絵本通信」の拙文「むかしむかし」をご参照ください。

(2)については、静かな時間を楽しいと感じる経験がどうも不足しているのではないか、と思わずにいられません。真っ先に思い当たるのがテレビ、ビデオ、そしてテレビゲームに依存した生活習慣です。その結果就寝時間も遅くなります。俳句の時間、あくびをするお子さんがとても多いです。テレビやゲームの時間をいきなりゼロにするのは難しいとしても、それが習慣化すると(1)脳の発達、(2)姿勢を含め、子どもの心身の発達にとって何らかの悪影響があるかもしれません。何もないことを祈りますが、この手の問題は気づいたときには手遅れ、というケースが多いものです。私自身は、上に述べましたとおり、(1)親子の会話の減少、(2)静寂に身を置く時間の減少が何より気になります。

今後の展望

テレビ・ゲーム漬けの生活から脱却するには、お手玉が大変有効なのだという意見を最近耳にします。お手玉に限らず、竹馬や剣玉、めんこやあやとりといった昔ながらの遊びにヒントが隠されているようです。また、本園で注目しているカプラやひねもすも、同様に重要な意義を持つものと思われます。

一方、幼児期の体作り(=脳の健全な発達)という点で見ますと、最近本園では竹馬や雲梯、鉄棒にチャレンジする子どもたちが増えて参りましたが、できないことを乗り越えようと挑戦している姿は感動的ですらあります。やはり子ども時代には子ども時代にふさわしい過ごし方があります。日中は戸外でたっぷり体を動かし、コトンと早めに寝るのがベストでしょう。

つまりは、快適な、しかしコストのかかる文明生活を見直し、できる範囲で自然に即した暮らしを実践することが大切であると言えそうです。それが<子どもたちの自信を育てる>生活の基礎になると私は思いますし、その実現の鍵は子どもではなく大人自身が握っています。

(2003年11月5日)

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