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高校生クラス 会員募集中。

(更新日:2017/10/1)

山の学校のクラス分けは便宜的なものです。「大学生・一般」クラスへの参加も歓迎します(ご相談下さい)。

「高校国語」

日本語を精読し議論するクラスです。教材は1つのまとまった日本語で書かれた作品です(翻訳を含む)。

・『西洋古典を読む』(対象:中学・高校生)

水曜18:40~20:00 講師 福西亮馬

 世の中には、「古典のことはよく分からない。読むのも訳するのも時間がかかる」と言う人と、「だからいい。なぜなら自分で立ち止まって考える時間が増えるか ら」と言葉を接ぐ人と、両方います。どちらも真実を言っており、前者は定説的で、後者は逆説的です。ビジネス書と違って、古典の文章はそれに注力した時間が長ければ長いほど、その人にとって、輝かしい価値を持ちます。打てば響くというわけです。そしていつしかその人の精神における不動の地位を得ます。クラシック(第一席)と呼ばれるゆえんです。

 西洋古典の最初のテキストは、セネカ『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読みます。「曰く、人生は短い」という定説で始まり、次いで、「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に 長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」という逆説で文章が展開します。このような論理 は、おそらく十代の若者の心を掴んで離さないでしょう。若いうちにこそ、学ぶ姿勢をはっとただされる、そんな名文だと思います。もとより古来より愛されて きたわけです。しかもそれほど長文ではありません。岩波文庫で50ページほどです。それを丸ごと味わって読みたいという人は、ぜひご参加ください。

・『東洋古典を読む』(対象:中学・高校生)

木曜18:40~20:00予定 講師 福西亮馬(予定)

 

 このクラスでは、『完訳 三国志』(羅貫中、小川環樹ら訳、岩波文庫)(全8巻)を通読します。黄巾党の乱から晋の成立まで、全120回に分けられています。1回ずつが講釈のよう に切りのいいところ、いわゆる「引き」によって構成されており、次がまた気になるという面白さです。私がみなさんと共有したいのは、テキスト(日本語訳) を読んで、英雄たちを再びよみがえらせる時間です。血湧き肉踊るような感情体験であり、過去の人物に発奮することです。プルタルコスのカエサル伝による と、カエサルはアレクサンドロス大王の像を見て、「彼は今の自分と同じ頃には世界を征服していた。なのに自分は……」と涙したと言います。三国志の英雄た ちの生き様もまた、それを愛好する人にとって、思いを同じくするところでしょう。

たとえば、正史(魏志)にある崔林は、「大器晩成」(の語源の一つ)として知られていますが、私は彼のことが大好きです。そのように「私はあの人が好き」「この人が好き」という人物を語ることは楽しいものでしょ う。ただそれが単なる同好のよしみにとどまらず、同じテキストを突き合わせて、すなわち「ソースをしっかり読んで」、あれこれ話し合えば、また違った角度 から興味を掘り起こせるでしょう。予備知識を総動員し、テキストに線をたくさん引きましょう。そして気に入った個所を写し取って愛蔵するなど、今から古典 の味に親しみましょう。

 「漢文」

『漢文入門』クラス(高校生〜一般)  木曜 20:10〜21:30 講師:福谷 彬
※2017年度秋学期は休講致します。冬学期(12月〜)からの受講生を募集中です。

この講義では、初学者を対象に漢文講読の手ほどきをしております。テキストは、小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波書店、1957年)を使用しておりま す。辞書は『全訳漢辞海』(第二版)を使用しております。授業の進め方は以下の通りです。『漢文入門』内の短文篇を一篇ずつ丁寧に訓読・翻訳し、構文中の 文法を確認しながら、受講者の漢文に対する理解を深めていきたいと思います。毎回、一・二篇を読み終わるぐらいのペースで進めております。(2017年2 月現在)

 「高校英語」

『高校英語A』 水曜 18:40〜20:00 講師:浅野直樹
『高校英語B』 木曜 18:40〜20:00 講師:浅野直樹
『高校英語C』 金曜 18:40〜20:00 講師:浅野直樹

基本的には高校での学習進度に合わせて単語や文法事項の習得に励んでいます。少人数クラスですので、各学校にぴったりと密着した内容をすることができます。このように学校での学習を活用しつつ、必要に応じて範囲外の事柄も紹介して、総合的な英語の力を磨いています。

 

 「高校数学」

『高校数学A』 水曜 20:10〜21:30 講師:浅野直樹
『中学・高校数学B 木曜 20:10〜21:30 講師:浅野直樹
『高校数学C』 金曜20:10〜21:30 講師:浅野直樹

[高校数学]段々と複雑になってくる高校数学の内容を一歩ずつ進んでいきます。ごまかすことなく自分のわからないところはわからないとはっきりさせて、わかるところを増やしていきます。わからない、できないからといって怒られることは一切ありませんので、安心してご参加ください。

『数学が生まれる物語を読む』(対象:中学・高校生)

火曜18:40~20:00 担当 福西亮馬(予定)

二 十年も昔の話になります。私が大学一回生の時、「数学という学問を愛する人の目には、物事がこんなにも豊かなものとして映っているのか!」と、筆者の知的 土壌に強い憧れを覚える、そんな一冊の本に出会いました。それは『固有値問題30講』(志賀浩二、朝倉書店)でした。当時は何度読んでも理解できませんで したが、それにも関わらず、私がこの本に魅了された理由は、作者が数学について読者に語りかける時の、あの何とも言えない、まるで未来の大樹となる種に語 りかけるような、筆者の日本語の音色にあります。

このクラスでは、同じ著者の『数学が生まれる物語』(全6巻)(岩波書店)を読みます。 先 人たちによって育まれた「数学」の歴史の本です。第1巻は、自然数、小数、分数です。ペースは1回の授業で半章進む程度でしょう。42章全部を読み切りた いと思うならば、長旅を覚悟しなければなりません。また未知の内容に不安を覚えるかもしれません。あるいは高度な記号が初学者の理解を躓かせるかもしれま せん。それでも、そのような危険を冒してでも、数学の広い海に憧れ、船出したいという人は必ずいると思います。そのような人はぜひ、門を叩いてください。

(上記は抜粋になります。全文の内容は「こちら」をご覧ください)

 

 山の学校ゼミ『調査研究』(中・高・大学〜一般)

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金曜 17:10〜18:30 講師:浅野直樹

興味のあるテーマを自分で設定し、そのことについて調べ、まとめます。文献収集や構成などのお手伝いをします。意欲的な中高生、論文やレポートを抱えた大学生、調べたいことがある一般の方をお待ちしております。
(←調査研究の発表会の様子)
受講生の感想(2015年2月)
「調査研究」ブログ記事

 

 

 山の学校ゼミ『歴史』

火曜 20:10〜21:30 講師:吉川弘晃(※現在開講しておりません。お問い合わせ下さい。)

高校レベルの基礎知識の定着を重視しながらも、教科書にとらわれない、政治・経済、地理、倫理、その他自然科学の知識を総動員して世界の動きを追えるような 力を世界の歴史に学ぶことで一緒に鍛えていきます。春学期は特定の地域・時代から、秋学期は普遍的なテーマ(歴史観や世界観)から、冬学期は生徒さんの希 望から、それぞれ1冊ずつ本を選び、それを読んで討論する授業を行います。 歴史を学びたいという方で、高校レベル の教科書を読む自信のある方ならば、誰でも歓迎します。  ●『山の学校ゼミ(歴史)』(旧クラス名:「歴史入門」)ブログ記事

 山の学校ゼミ『倫理』

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木曜17:10〜18:30 講師:浅野直樹

高校の科目である「倫理」の内容に沿いつつ、参加者の興味や関心に応じて自由に議論するクラスです。教科書は濱井修、小寺聡、三森和哉『現代の倫理』(山川 出版社、2014)を予定しております。「倫理」に興味を持つのは大人になってからのこともあるでしょうし、高校生の間に興味を持ったとしても学校の制度 上選択できないこともあります。そのような方を対象として、先人の哲学や思想、現代的な課題について学び、考えていきたいです。
『山の学校ゼミ(倫理)』ブログ記事  ●受講生の感想(2015.02)

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2013年5月13日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

ことば(山びこ通信より)

『山びこ通信』2003年7月号より
山の学校の創設第1年目、「ことば」クラスの様子です。執筆は故・山下一郎先生です。

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3月のイベント案内(小学生~一般対象)

※3月のイベントはすべて終了いたしました。4月のイベントにつきましては、「こちら」をご覧下さい。

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2011年2月26日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:イベント

第3回ことばの発表会

 3月16日(水)16:20~17:30
場所 北白川幼稚園 つき組教室
対象 山の学校会員(生徒のみ・保護者はご遠慮下さい)

ごあいさつ
山の学校の「ことば」のクラスが発表会をします。それぞれのクラスがいつも勉強していることをほかの生徒のみなさんにも紹介して、それを楽しんでもらおうという会です。みんなきてください!

>>プログラム

>>前回の様子

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2011年2月26日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:イベント

ことばの過去記事

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2010年8月15日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

ことば

山下一郎

山の学校の“ことばの教室”がスタートを起こしてから、ほぼ3ヶ月経過しました。

53年間の園生活の経験はあるものの、小学生相手のことば指導──作文指導は全く初めてのことですので、何からどう手をつけたものかと戸惑いながらも、私が日頃日本語に対して抱いている思いと、長年の幼児との触れ合いから得たものとをミックスさせながら、学校でもなく、塾でもない、オリジナルなことば教室の創造に向けて、焦らずじっくりと取り組んで行こうと心がけて、今日に到りました。

作文教育の前にまず手掛けましたことは、友達の前でのお互いの口頭発表でした。口頭発表と作文との相関関係を意外に思われるかも知れませんが、人前で発表するということは、頭の中の原稿用紙に、伝えたいことを刻々と纏めながら綴って行く、かなり難度の高い作業でして、この原稿用紙のない作文は、原稿用紙に書く作文のように書き直しが効きません。

言い直しはできますが、かっこよくありませんから、誰しも避けたいところです。ですから初めは原稿用紙でいえば、ほんの2行か3行程度の発表に止まっておりました。しかし、自己紹介から始まって、自分の生い立ち、自分の名前の由来など、回を追うごとにお互いに打ち解けてきたせいもあってか、何回目かに行った、ご両親にはナイショで“お父さん、お母さんのステキなところを見つけてくる宿題”の発表の折りには、生き生きと得意げに、しかも、けっこう時間をかけて伝え合うことが出来ました。

こうして、鉛筆を持たない作文、口頭発表による作文のトレーニングを重ねる一方、話の読み聞かせ(初めの間は紙芝居の鑑賞)も毎回行ってきました。そのつど、あとで感想文を書いてもらっておりますが、これも、現段階では作文教育で求められる、細かい言い回しや“てにをは”などにはあまりこだわらず、話の内容をどれだけ的確に把握できたか、その内容を、ひとりひとりはどう受け止めたか、どう感じたか、といった観点に重きをおくことにしております。

文法にとらわれないためか、自由な発想で個性豊かに感想が述べられておりますので、どの生徒の感想文にも褒めるべき箇所が、必ず1、2箇所は見出せます。そこを称揚します。認められることは自信につながり、次のやる気にと発展します。

先ずは、書こう!書きたい!の気持ちを持ってもらうことが先決なのです。と同時に生徒達は、感想文をあとで書く必要もあって、話を聞くときは目を閉じて静かにこころを集中させながら、静寂の気配にひたっています。このような雰囲気を、現代の子ども達はどれだけ味わっているでしょうか。

一方“ことば遊び”と称して、学年ごとに押さえておいてほしい、漢字の読み書きなどを含めた国語の基礎的な問題点と、ゲーム感覚で楽しく取り組んでもらうため、毎回、各学年毎の問題の作成にも腐心しております。

だいたい以上が、“ことばの教室”のこれまでたどってきた主な経緯ですが、土砂降りの日も、遠足でくたびれたその日も、山道を勇んで駆け上がって来る生徒達の元気な姿に接しますたびに、また次の週への“お話選び”や“問題作り”に意欲を燃やしている今日この頃です。
(2003.7)

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2010年7月10日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

言葉の教育

山下 太郎

「物言えば唇寒し秋の風」(松尾芭蕉)

何か言葉を口にすると、はからずも他人を傷つけることがある。物を言うことはとかく難しい。ラテン語にも、「言葉と武器は傷つける(Et arma et verba vulnerant.)」という格言がある。だが、この俳句の本来の意味は別のところにある。芭蕉はこの俳句の前で次のように述べている。

「ひとの短を言うことなかれ。おのれの長をとくことなかれ」

調子に乗って他人を批判したり、己の自慢をしたりすると、唇が何となく寒々しい感じになる。冒頭の俳句は、警句というよりも、人間の浅はかな一面を鋭くえぐり取った表現のように思う。

「口は災いの元」に相当する英語表現に、Out of the mouth comes evil. というのがある。ヘシオドスも「言葉の慎みより尊い宝はこの世にない」と戒めた。

では、災いを避けるために、口を貝のように閉ざせばよいのかというと、無論そういうわけでもない。「文は人なり」という言葉があるが、「言葉は人なり」である。言葉は心の内面を他人に見せる鏡ともなる。心の自由な言葉を失うことは、アイデンティティ・クライシス(identity crisis)を招くだろう。

このことから連想されるのが、ギリシア神話に出てくる妖精エコー(Echo)――カラオケでおなじみのエコー(echo)の語源――にまつわる悲劇である。彼女は、持ち前のおしゃべり好きが災いし、ゼウスの妻ヘラの怒りを買った。その結果、罰として自分の言葉を発することを禁じられた(ただし、相手の話の終わりをそのまま繰り返すことは許された)。

エコーは、森の中をさまよう美青年ナルキッソス(Narcissus)――ナルシスト(narcist)の語源――に恋をしたが、せっかく二人だけで話をするチャンスが訪れたのに、彼女は自分の胸の内を伝えることができず、ナルキッソスに対しては彼の不遜な言葉の最後を繰り返すのみであった。エコーは悲しみのあまり憔悴し、ついには森の奥に潜む声の響きだけの存在(=木霊)となったという。

エコーに許されたのは相手の言葉のオウム返しであったが、彼女の悲劇は、「自分の言葉」を失った者の苦悩を伝えてやまない。言葉を自由に操ることは、かくも人間にとって貴重なものであり、キケローによれば、言葉ほど真の人間性(humanitas)に固有のものはないといわれる。「というのも、互いに言葉を交わし、感じたこと、思ったことを言論によって表現できるという、まさにその一点こそ、われわれ人間が獣にまさる最大の点だからである」と。

むろん、言葉の自由は言葉の放埒ととり違えられてはならないだろう。自由とは喜びであると同時に責任でもある。ゆえに、どの国においても教育の基礎に言語教育を据え、国語力の鍛錬に努めるのである。だが、我が国において、若者の国語力は十分に教育されているだろうか。このことについて、司馬遼太郎氏は次のような警鐘を鳴らしている。

「国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。

言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い」(「何よりも国語」より)

友達とのおしゃべりには夢中になるが、文章語にして自分の考えを表現することは苦手である、あるいは肝心の国語教育の時間において、先生の示した「正解」を生徒がせっせとノートに書き写すだけで自分の感動や知的高揚を文章に表す機会が与えられないのなら、先に挙げたエコーの悲劇は我々にとって他人のものとは思われない。

(2004.6)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

『中学生・高校生向け『ことば』のクラスに期するもの』

山下 太郎
前回の山びこ通信(6月号)では、言葉の教育の大切さについて、(1)言葉を使って自分の絵を描く経験(塗り絵ではなく)が大切であるということ、しかし、(2)現実の教育の現場ではその機会がほとんどなおざりにされている、ということを指摘しました。

もちろん、言葉にならぬ感動をできるだけ多方面に渡って蓄積しておくことが、言葉の表現に親しむ大前提になります。その意味で、幼稚園、小学校時代の「生(なま)の経験」の大切さについては、いくら強調してもしすぎることはありません。園児は――たとえば自分が鉄棒や竹馬に一生懸命取り組んでいる姿を見てもらおうとして――「ねえ見て見て!」と自分の経験を力一杯大人に訴えます。

小学生も同じです。自然にふれ、目にするものは何でも口に出して教えあう──「ワっ!ダンゴムシ見つけたゾ!」――などなど(「山の学校」の小学生を見ていると、特にその感を強くします)。

さて、教育に話を戻しますと、子どもたち(とくに幼稚園児)は、まだ自分で本がうまく読めません(黙読・音読ともに)。それで、当初は親や先生にたいして「ねえ読んで!」とお願いすることで、子どもたちの読書経験はスタートします。子どもは本を読んでもらうことが大好きです。同じ本を飽きもせずに「もういっぺん(読んで)」とお願いします。「じゃあまた明日」というと、その約束を心待ちにしています。

こうして、じゅうぶんに本を「読んで」もらった子どもたちは、やがて自分自身の力で片端から本を読むようになります。言い換えますと、本を開くことで、未知の言葉の世界、ひいては人文学や自然科学等、大学の学問につながる抽象的な言葉の世界に向かって探検を始めます。

最初は受動的に始まった子どもたちの「読書経験」ですが、やがてはそれが能動的な「読書経験」に変わっていくのです。そしてさらには、本を読んで得た感動や発見を、今度は「ねえ、聞いて!」と他者に伝えたくなってくる、ここがポイントです。

では、こうした子どもたちの言葉を、どれだけの大人が丁寧に引き出し、かつそれを真剣に「聞こう」としているでしょうか。

冒頭で書きましたとおり、自分の考えや感動を文章によって表現する修練は、多感な中学、高校生にうってつけの学びの機会を与えます。幸い「山の学校」では、「青春ライブ授業!」でおなじみの若き情熱溢れる先生達が、子どもたちの知的好奇心を守り育てたいと――つまり、本物の「ことば」の勉強を共にしようと――手ぐすねをひいて待っています。

ぜひ、一人でも多くの中学生、高校生が「ことば」のクラスに参加され、言葉の表現に磨きをかけるとともに、みなの前でそれを発表する喜びを分かち合って頂きたいと願っています。

(2004.7)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

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