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『かず』『しぜん』

山の学校では、息子二人小四の兄はかず、小一の弟はしぜんでそれぞれお世話になっています。

山の学校との出会いは、の前に私達家族には幼稚園との出会いがありました。幼児教育からはじまる山下先生の教育に対する想い、人として幼児教育がいかに大事であるかという節目節目での園長先生のお言葉は、親として我が子にどう成長してほしいか親としてどうあるべきかという問いに沢山のヒントをいただきました。息子が小学校に入学すると同時に山の学校へも通い始めました。理由は、山下先生が山びこ通信にも書かれている内容で、「学ぶことを楽しむために」とあります。親として、山の学校で学んでほしいことがこの言葉全てにあるからです。学力は結果であり、学ぶ楽しさが自然と身についていれば結果つながるものが必ずあると思っています。

幼稚園時代先生に手をひかれお友達と登って登園したお山への石段を今は一人力強く山の学校へ目ざして石段を登る姿をとてもたくましく思っています。

 M.H.さん(保護者)

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2012年10月24日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:会員の声

小学生かずの過去記事

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2010年8月15日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

中2・数の基本

下村 昭彦

x=√5+1 / 2

これは、二次方程式x2-x-1=0 の解のうちの一つです。高校1年生で習う解の公式さえ知っていれば、誰でも解ける問題です。では、この数字の意味するモノは?

数学とは、数や式の意味を追求する学問です。この数字が何を意味するのか、この数式は何を意味するのか。そして、物事を数式で表すことでより理解を深めようとする学問です。

お見せした数には二つの意味があります。その一つは、フィボナッチ数列(1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21,…と続く数列)のある項とその前の項の比の極限です。そして二つ目の意味は黄金比です。

今の学校教育では、残念ながらこの二次方程式の解き方を習う際に、この式が何を意味しているのか、ということを習うことはありません。しかし、フィボナッチ数列について考えるとき、黄金比について考えるとき、この方程式が解けなければその数の意味に辿り着くことができません。

計算練習ほど面白くないことはありませんが、計算力ほど数学について考える上で重要なこともありません。いくら面白いアイデアが生まれても、計算力がなければその考えを発展させることができないからです。

数学のクラスでは、数学のおもしろさや数式の意味を知ってもらうこと、そして自ら数学を学びたいと感じてもらうこと、を最終目標としています。

中学校2年のクラスでは、主に中学1年生の復習と授業の先取りをメインに行っています。中学の数学では文章題もさることながら、計算問題の練習が特に重要です。数学においては理解し、式を立てることこそがもっとも重要ですが、計算し解答まで導かなければ理解を活かすことができません。

にもかかわらず、計算問題はおろそかになってしまいがちです。そこで、このクラスでは計算問題にも力点を置き、文章題などの発展問題に進んだときにも計算でつまづいて数学を面白くないと感じることのないよう注意しています。

また、わからないところがあれば理解できるまでとことんつきあっています。数学嫌いを防ぐには、数学を面白いと思ってもらうことこそが最も重要です。生徒に数学を面白いと思ってもらえるよう、工夫を重ねていきたいと考えています。
(2005.2)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

数の基本(中3年)

下村 昭彦

中学3 年生のクラスでは、現在は公立高校受験に焦点をあてて授業を行っています。主に中1、中2 の分野の中で特に京都府公立高校の試験に高頻度に出ているもの、また生徒が苦手とする分野を中心に演習を行い実力がつくようにしています。

また実際の入試問題を解いてみる中で生徒に受験を実感させ、やる気を出させる工夫も行っています。加えて学校の授業にもついていけるよう、現在学校で教えられている分野を先取りする形で授業を行っています。

受験数学は暗記科目です。理解することは重要ですが、理解できても覚えていなければ実践することはできません。私のクラスではとにかく繰り返し演習を行うことで、生徒に「使える」知識を増やしてもらおうと考えています。
(2005.11)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

孟母

福西 亮馬

京都は大学も多く、学問の町だと言われます。私はそれを大文字山の「大」の字から見下ろしたときに実感します。

私が数学を好きになれたのは、大学に入ってからのことです。これまでの勉強を見下ろして「あれはこっち」「それはあっち」と、有機的に位置づけられる思いがしたからです。しかし高校までは、息の上がる山道でした。好きではなくて、ただあきらめずについていく、という感じです。

私が高校の数学の先生に「何の科目が好きか」とたずねられて、上気して「数学が好きです」と答えたら、「君が?」と笑われたことを思い出します。あれは駄目だと思いますが、それでも、あきらめなかった原因は何かと振り返ると、それは小学生のころの思い出です。

自分からやる気を起こして解こうとした一題と、しばしばではないにせよ、母親に見てもらった宿題のことが思い当たります。

私には六年生の頃、図形の面積を求める問題で、「中学入試のだから」と、解けても解けなくても一向に構わず素通りした一題に、俄然やる気が出たことがあります。そのころは放課後に「しっぽ取り」がはやっていて、私の好物の遊びでしたが、でもそれよりも、朝礼台の牢屋につかまっている間は、校庭の砂に、三時でも四時でも図を描いて解こうとしていた覚えがあります。

別に受験するわけでなし、ただその興味を内に絶やすまい、だれかに先を越されまいという思いに支えられて、西日を気にしながら、また解けたらどんなにかすごいだろうという気がして、家に帰っても、空に覚えたその図形を宝の地図か何かのようにしてうなっていたものです。

結局それは解けずじまいで、何日か経ってからまた思い立っては考え、やはり解けず、あとでたった一本の補助線を見つければ解けたのだということを知ったのです。今でもその時の残念さと健闘ぶりは胸に蘇り、また自分からやり出した、ほとんど初めての「冒険」だったと知るのでした。

さて次は、母が見てくれた宿題のことです。あれは忘れもしない、そろばんの宿題でした。夕飯の支度が始まる前だったか、母と二人で、小さなテーブルで向かい合って、でも私は目の前に本を立てて、手元が見えないようにし、パチパチ言わせながら、実は後ろの解答を写していたのでした。そして「できた!」と言いました。

私はそろばん塾に通っていたので、学校の宿題としてのそろばんは、いまさらという思いがしたので、すぐに済ませる力はあっても、やる気がなかったのです。それで策を弄して時間を潰していたのでした。

今思い出しても、あの瞬間は不思議です。私には自信があり、母には直感がありました。早い「おしまい」にピンと来た母は、すぐに嘘を糺し、叱りだし、目に涙を浮かべたこと、母が宿題をせっかく見てくれていたのに、自分は申し訳ないことをしたのだと思ったことです。

母との算数の思い出はもう一つあります。文章題で、母はx を使った解き方を教えようとし、私は「学校で習ってへんやり方はしたらあかん」とがんばったことでした。我ながら、小学生は恐るべき保守派だと思います。結局これは母が根負けして、「なら自分でやりよし。せっかく解けるように教えてるのに」と、それっきりになったのでした。

これは駄目なやり方の例で、母がx を使わない方法を十分に教えられなかったせいでもありますが、けれども、私の方もまた後になって、自分の頑固さを恥かしく思うので、それを思い出すたびに純化されて、宿題を見てくれた感謝だけが残りました。

結局中学に行っても、高校に行っても、大学に入るまで数学を嫌いにならなかった理由は、「孟母断機の戒め」ではないですが、こうした思い出の錦が断たれることをもったいなく感じたからでした。

私なりに今まで感じてきた勉強とは、次の二つです。一つは、自分で見つけた問題に情熱を持つこと。もう一つはその情熱を感謝に変えることです。

数学は古くからある学問なので、学校で習うことはいいも悪いもすでに道ができており、順番どおりにやりさえすれば、自力で理解できるようになっています。山に分け入って、登山道とそうでない道とは、だいたい人が歩きもし整備もされているので、迷わないのと同じです。

しかし「まだ習っていない」から「まだしなくてもいい」というのは、学問的態度ではありません。しようと思えば、いくらでも先へ進むことができるし、またそうした道が実は用意されていることにも気付いてほしいのです。

塾に、あるいはこの山の学校に通ったら「教えてもらえる」という気持ちがあっては駄目です。勉強はしてもらうのではなくて、するものだからです。私は五年生でも、六年生のことを自力で結び合わせ、中学生のことまで到達してくれるような人物を励ましたいのです。

リーマンはルジャンドルという人の書いた数百ページの数学書を、父親の目を「盗んで」、十代のときに読み通したといいます。それで父親がその子の天分を認め、牧師の家系でしたが、数学を学べる大学に行くことを許したといいます。

勉強は電気を消されたら、たちまち続けることはできません。そのように親の許しがなければ、できないものです。勉強はしてもいいと言われて、させてもらっているのです。

情熱と感謝、この二つの糸の縦横が、勉強という錦だと、私は思います。公園の砂場で、水道管の出現を口惜しいと思うくらい、とことん掘り抜く情熱がある一方で、晩には家に帰らなければなりません。家の人が心配するからです。授業中に勉強の仕方が分からないから聞く、ノートの取り方を工夫することなどは必要なことです。ですがそれだけでは十分なことではありません。

自分からやる気を出し、そして学ぶ環境を与えてもらっていることを子も知り、親もそのことを伝えられるような工夫が、何より小・中・高校生において勉強の要だと思います。
(2004.3)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

かず中級

福西 亮馬

このクラスでは、小学校中程度(3・4 年)の算数、すなわち、かけ算を基礎として、割り算、小数、分数の入口まで、数の世界を案内することを目的としています。

また初級・上級と同様、ドリルによって自信を培うことも大事にしています。特に小学生の時期に、大人にそばに付いて見てもらった思い出は、将来、数学の力を引き出す源になります。(この思い出はお家でも作れますし、お家と先生(複数の大人)で見るのであれば最高です)

今年度は、非常に好奇心の旺盛な生徒に恵まれました。そして自然と、発展的なことにまで触れました。たとえば、2×2×2…を電卓で叩き続けると、

(1=20),2,4,8,16……1048576,2097152,4194304,8388608,16777216……

といった数が得られますが、これを単に「数字の羅列」と見て、「0 から9 のどの数字がよく現れるか?」を調べたことがありました。(この問題は、何となく生徒の興味に添ううちに、その生徒が私の内から引き出してくれたのでした)。そして数字の個数を紙に書き出すうちに、

偶数:2>4>6(>8?)>0
奇数:1>3>5(>7?)>9 (>は数字の個数の関係)

という傾向がありそうだ、ということに気付いたのでした。24 番目の数まで取って調べた結果ですが、それを100 番目の数まで取っても、上の個数の関係は、保たれたままだろうか?それとも変化するのだろうか?──私にも答は分かりませんでした。

もちろんどこの教科書にも載っていません。でもそれを考えていたんだ──そういう思い出が、きっと将来の「数の情緒」となるのだろうと信じます。
(2005.2)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:クラス

かず初級・上級

宇梶 卓

初級クラスは1・2年生の、上級クラスは5・6年生の内容を扱っています。

おもにドリルなどの問題を解いているのですが、生徒は単元を終えるごとに教室に貼ってある大きな模造紙に棒グラフを書き込み、達成感を感じさせるようにしています。また、テキストを一冊やり終えたときの充実度は、成功体験としてその子の記憶に刻み込まれ、その後何をするにしても自信をもって取り組むことになるでしょう。

とりわけ算数(数学)は集中力が物を言う教科なので、「努力をすればできるんだ」という経験はその子の気力をいっそう高めることになるでしょう。そのためにも、努力の成果を目に残る形にするということは、きわめて重要なことであると思われます。

最近、高学年の生徒たちがこれまで自分で解いてきた中で難問だった問題を編集し、互いに出題し合っています。お互いに問題を出題し合うことは、普段問題を解く際に「出題する側の意図」を理解する助けにもなりますし、何よりも「遊び心」に満ちた感覚が算数に対する意欲を向上させると思うのです。

問題を解くときは真剣そのものですが、その真剣さは決して遊ぶときのあの楽しさとは対立しません。子どもは遊ぶときは、きわめて真剣ですから。

これからも問題を解く楽しみを共に経験していきたいと思います。
(2005.2)

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かず(小2・3年生)

福西 亮馬

2・3年生クラスで、ドリルをしている時のことです。

「せんせい、はよぅ、まるつけてー」

ある生徒の声です。私は、別の生徒への説明が終わると、はいはいと、声のする方に寄っていきました。その時ふと、去年ならば、よくその生徒のそばに座っていたことを思い出したのでした。

「はい、まる。これも、まる。えらいなあ。この計算、去年むずかしかったところやのに、わかるようになったんや…」
「お母さんが、『このやり方でええよ』って、言わはったん」
「そうかぁ。お母さんのそのやり方で、あってるんやで。…はい、ぜんぶまる」

私は、その子の心の中に、お母さんとのやり取りを聞くような思いがしました。春休みに、お母さんと一緒に解き終えた1冊で、よほど自信がついたのだろうと思います。

今では反対に、私が間接的に見ている時間の方が増えました。そして黙ってしている時は、心の中のお母さんが見ておられるのだろうと感じるのです。先週も、知らぬ間に9ページ分も宿題をして来られ、もう2冊目のドリルを終えようとしています。

下村先生が担当されている1年生たちも、今は頑張っています。しかし彼らの頑張りもそうですが、私は、お子さんについて見ておられる保護者の方のひたむきさに、いつも頭の下る思いがするのです。

今でも継続して、宿題を欠かさずにして来られることは素晴らしいことです。本当にありがたいことです。

「お家ではこうしているのですが、最近になるとこうなので…。だからこうしてみようかと思うのですが…」といったエピソードの一つ一つが、子どもたちにだけでなく、私たちにも、頑張ろうという励みになっています。そして来週の教室で、子どもたちから宿題を見せてもらう時にまた、

「日曜日にお母さんに見てもらった。こないだは、お父さんとした」

というような声を子どもたちからも聞くと、私もまた、いつか親からそうしてもらったことを思い出して、無性に嬉しくなるのです。

どうかこの調子で、山の学校でだけでなく、お家でも、勉強の習慣をつけてあげて下さい。それには、それぞれのお家で、お子さんとルールを作るのが良いと思います。おそらく、ドリルが後の方になればなるほど、子どもたちの「むずかしい」と感じることが多くなり、説明にも倍の時間がかかってきます。けれども決してゼロにはしないようにしていれば、いつかドリルは終わります。

そして1冊を乗りこえれば、そこから見える景色が全然変ってきます。それまで一緒に頑張りましょう。
(2005.6)

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2010年7月1日 | コメント/トラックバック(0) |

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