山下 太郎
前回の山びこ通信(6月号)では、言葉の教育の大切さについて、(1)言葉を使って自分の絵を描く経験(塗り絵ではなく)が大切であるということ、しかし、(2)現実の教育の現場ではその機会がほとんどなおざりにされている、ということを指摘しました。

もちろん、言葉にならぬ感動をできるだけ多方面に渡って蓄積しておくことが、言葉の表現に親しむ大前提になります。その意味で、幼稚園、小学校時代の「生(なま)の経験」の大切さについては、いくら強調してもしすぎることはありません。園児は――たとえば自分が鉄棒や竹馬に一生懸命取り組んでいる姿を見てもらおうとして――「ねえ見て見て!」と自分の経験を力一杯大人に訴えます。

小学生も同じです。自然にふれ、目にするものは何でも口に出して教えあう──「ワっ!ダンゴムシ見つけたゾ!」――などなど(「山の学校」の小学生を見ていると、特にその感を強くします)。

さて、教育に話を戻しますと、子どもたち(とくに幼稚園児)は、まだ自分で本がうまく読めません(黙読・音読ともに)。それで、当初は親や先生にたいして「ねえ読んで!」とお願いすることで、子どもたちの読書経験はスタートします。子どもは本を読んでもらうことが大好きです。同じ本を飽きもせずに「もういっぺん(読んで)」とお願いします。「じゃあまた明日」というと、その約束を心待ちにしています。

こうして、じゅうぶんに本を「読んで」もらった子どもたちは、やがて自分自身の力で片端から本を読むようになります。言い換えますと、本を開くことで、未知の言葉の世界、ひいては人文学や自然科学等、大学の学問につながる抽象的な言葉の世界に向かって探検を始めます。

最初は受動的に始まった子どもたちの「読書経験」ですが、やがてはそれが能動的な「読書経験」に変わっていくのです。そしてさらには、本を読んで得た感動や発見を、今度は「ねえ、聞いて!」と他者に伝えたくなってくる、ここがポイントです。

では、こうした子どもたちの言葉を、どれだけの大人が丁寧に引き出し、かつそれを真剣に「聞こう」としているでしょうか。

冒頭で書きましたとおり、自分の考えや感動を文章によって表現する修練は、多感な中学、高校生にうってつけの学びの機会を与えます。幸い「山の学校」では、「青春ライブ授業!」でおなじみの若き情熱溢れる先生達が、子どもたちの知的好奇心を守り育てたいと――つまり、本物の「ことば」の勉強を共にしようと――手ぐすねをひいて待っています。

ぜひ、一人でも多くの中学生、高校生が「ことば」のクラスに参加され、言葉の表現に磨きをかけるとともに、みなの前でそれを発表する喜びを分かち合って頂きたいと願っています。

(2004.7)