西洋古典を読む(2017/11/29)

福西です。セネカ『人生の短さについて』を読んでいます。17章に差しかかりました。

16章では、楽しい時間があっという間に過ぎ去ることは周知の事実ですが、それを嘆いたりそわそわしたりする態度が人生を短くするファクターとして考察されています。「彼らは夜の来るのを待ち焦がれて昼を失い、朝の来るのを恐れて夜を失う」(茂手木元蔵訳、岩波文庫)と。ふと漢の武帝の「歓楽極まりて哀情多し」(秋風辞)が連想されました。

17章では、ヘロドトス『歴史』7.60にあるクセルクセス王(ペルシャ戦争で敗れた王)の逸話が引用されていました。王は兵数の点呼のために、一万人入る柵で百七十回も計ったといいますが、その軍容を誇る兵士たちが、百年後には誰も生きていないことを嘆いたそうです。けれども現実ではそのあとのサラミスの海戦などですぐに死ぬ運命を王自身が用意したのだと、セネカは揶揄します。

そして、終わりがあるものを、あたかもいつまでも終わりがないものであるかのように所有し続けようと欲することから来る「苦」について書かれていました。「一つの仕合わせを守るために別の仕合わせが必要となり、またたとえ願いがかなっても別の願いが立てられねばならない」(茂手木元蔵訳、岩波文庫)と。

私がイメージしたことには、たとえば第二次世界大戦で、他国から攻められる心配を減らそうとして先に他国を占領したとします。すると状況はよくなったかというと、一時的にはそうですが、じつはそれまで以上に守るべき土地と、隣接地域が増えたことになります。こうなると、ますます隣接国に対して「有利になるための戦争」を継続しなければならなくなり、いつか破綻が訪れます。そのような状況を思いました。

残りの時間は、Aさんの学校であった大きな取り組み(諸外国の学生と5日間開いた会議)の話と、倫理の授業でのプレゼン内容とを伺いました。前者は環境と教育の機会について。後者は自身の大事に思っている三つのこと、というものでした。

会議の様子からは、「連日の準備で寝不足になりながら大変でしたが、時間があっという間に感じられました」と、達成にともなう充実ぶりが伝わってきました。その時間感覚は、この日読んだセネカの内容とは真逆のもので、「一日の経験があたかも七日分に感じられるよう」だったと思います。おそらくその五日間で一か月以上を「生きた」ことになるのでしょうね。

倫理のプレゼン(英語)で話されたことも、私の心を打ちました。その一つは、Aさん自身の大学進学とも関連して、

『最善の環境を選択しようと努力しても、「あのときAではなくBを選んでいればよかった」という後悔になる。そうではなくて、自分の選択(した環境)を自分の手で最善にしていこう』

というものでした。さりげなくnot butの構文が使われていました。

Aさんのアイデアは、環境から自分がどれだけ受け取れるのかと問うて汲々とするのではなくて、自分が環境の作り手にどれだけなれるかと問うて積極的になろう、という「意識の向け変え」でした。自身が「より自由になれる」提案だと思いました。