西洋古典を読む(2017/4/12)(その1)

福西です。4月からスタートした中高生のクラスです。よろしくお願いいたします。

『人生の短さについて』(セネカ、茂手木元蔵訳、岩波文庫)を読んでいます。

今は高校3年のAさんとマンツーマンです。受講の理由を尋ねると、「内容に興味がありました」とのことでした。

初回は、1章(p9~10)をじっくり読みました。「生は短く術は長し」(1.1)と「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである」(1.3)のフレーズで話が弾みました。

要約は2章までしてくれていました。それを読み上げてもらいました。申し分ない要約でした。

そしてテキストを音読したあと、訳注や他の訳を参照しながら、内容の確認作業に入りました。(今回は1章について)

早速、茂手木訳の最初の訳注では、

「人生」はvitaの訳語であって、表題もこれを用いたが、以後場合に応じて「生活」「生」「生命」「生涯」などと訳す。

とあります。vitaはウィータと読みます。lifeと同じように、色々な意味になる単語であること(日本語訳はその表れであること)がまず確認できました。

さて1章で確認したことは、セネカの言わんとすることが、「本当は、人生は長い」ということです(のっけから、タイトルと反対ですね)。「ただし有効に使われるならば」と条件が付きます。

「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである」(1.3)

「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしている」(1.4)

ここでは、自然が我々の人生を短く設定している、あるいは人生が我々を見捨てるのではなくて、我々が(主語で)それを短くしているのだ、と述べています。

この主客の逆転が、まずもってセネカの説得力だと思います。

それでは、どうすれば長くなり、どうすれば短くなるか。また、どういう人のが長くて、どういう人のが短いのか。今後はその例が表現を変えながら(ただしニュアンスとしては似たような主張として)、繰り返し出てくることになります。