山下です。
ひらがなを正確にかけるように、いまはたくさんの文字をノートに書いてもらうことを心がけています。
今日は自作のドリルを使って、ひらがなの文字を書き込んでもらいました。
つづいて俳句のコーナー。素堂と芭蕉の俳句をひらがなでノートに書いてもらいました。
絵本コーナーは、「おこりんぼママ」の巻でした。
最後まで読み、内容について質問をしながら、もう一度最初から最後まで読み返しました。
山下です。
漢字検定の問題を子どもたちは喜々として解いています。10級は小1レベルらしく、よい復習になるのですね。
すでに知っている漢字についてはその音読みを教えたり、筆順を確認したり、それなりに学ぶべきことはまだまだ残っています。
「大文字」という昔からある左京区の小学生による作文集があり、先週に続き、それをピックアップして読んでいます。
どれも短いのですが、読んだあとに「クエスチョン!」と言って、内容に関する質問をします。子どもたちは喜んで手を挙げてくれます。
集中して耳を澄ませる練習になっています。
山下です。
木曜日のことばのクラスでは、今はひらがなを「書く」ことに慣れてもらっています。
「あかんぼばあさん」の紙芝居では、「戻れるならいつ?」という定番の質問をしました。
全員「たんぽぽぐみがいい。」とのこと。「でも、また泣いて通わないといけない(笑)」と一人。
よく覚えているものです。
山下です。
昨日より小1のことばがスタートしました。
自分の名前、家族の名前、知っている人の名前をひらがなでノートに書きました。
知っている人の名前に、ばしょうやぶそんという名前もありました(笑)。
幼稚園時代にかなりの数の俳句を覚えたことになります。
つづいて、目には青葉・・の俳句を全部ひらがなでノートに書きました。
絵本は、「はじめてのおつかい」を読みました。
この本のタイトルもノートに書きました。
お話を聞いた後で、いくつかクイズをしました。
主人公の名前も、その友だちの名前も、いくらお金をもっていったのか?パンを買った後のおつりはいくらだったか?までみんな正確に覚えていました。
続いて、紙芝居。「くわず女房」というお話です。
「にょうぼう」という言葉を分かりやすく説明するのにちょっと手こずりました(笑)。
この話はとても面白かった様子です。
全部読み終わってから、絵だけもういちど最初から見ていきました。
どの絵が一番すき?ということで聞くと、
この絵がすき、こっちもすき、・・・・中盤から最後まで、結局全部の絵がすき、という結果でした。
山下です。
1)はいく
2)漢字
3)かみしばい
以上でいきたいと思います。3)は、満たないようについて、あらすじを紙に書いてもらおうと思っています。
小学生高学年クラスは夏目漱石の「永日小品」、中学生は木曜日クラスは同じく漱石の「文鳥」、火曜日クラスはアリストテレス、高校生はヤスパースを読んでいます。
小学生・中学生クラスは、漢字検定3,4,5級の問題にも取り組んでいます。漢字は予習より復習をしっかりやってください。定期的に確認のテストをします。
また、小学生クラスは、まだ辞書を引くという作業に慣れていないようなので、早く慣れるように工夫したいと思います。
三つの俳句:
目には青葉 山ほととぎす 初がつお 素堂
かたつむり そろそろ登れ 富士の山 一茶
昼見れば 首筋赤き 蛍かな 芭蕉
以上について、耳で聞き、手元の紙に文字で筆写しました。その際、漢字で書ける箇所は漢字で書いてもらい、間違った箇所はすべて訂正しました。
絵本タイムは、今後、静かに聞き、自分でも音読できるようにすることに加え、内容をかいつまんで紙に書いてまとめることを目標としました。
今日は時間がなくて、簡単な作文をしてもらいました。
いつも思うことですが、時間があっとうまにたちました。
山下です。
火曜日はことば(小2)がありました。
#5月より小1は木曜日の4時10分から1クラス設けます。
俳句に続き、読み物は2冊。1冊はタイトルを失念(すみません)、もう一冊は私にとって愛着のある「三枚のお札」(昔話)でした。
少しずつ、漢字の書き取りにも挑戦していこうと思います。
俳句に続き、絵本を二つ読みました。
ひとつめは、「いもうとのにゅういん」でした。途中から子どもたちで読んでもらいました。
ふたつめは、「わかがえりのみず」でした。前回は紙芝居だったのですが、絵本になるとまた味わいが違いました。
昨日は、小1と小2の合同授業でした。新小1のお二人も見学に参加されました。
俳句では、「梅咲いて 喜ぶ鳥の 景色かな 芭蕉」と「竹馬や うれしさ見ゆる 高歩き 龍雨」の二つを紹介しました。
小1にとっては以前扱った俳句、年長の二人には三学期に扱った俳句、小2には未知の俳句でした。
小1、小2は漢字が好きな様子で、俳句を紹介する際、「できるだけ難しい漢字で頼みます。」と注文が入ります(笑)。
「梅咲いて・・」の俳句では「誰が作った俳句かな?」と聞くと、小2が「蕪村ちゃうか」とお兄さんぶって言ったのですが、見学できていた年長の女の子に「ばしょう」と正解を言われ、苦笑いでした。
絵本コーナーでは、Uちゃんが5冊ほど絵本を持ってきてくれました。中には「2歳~4歳向け」というのもあり、小2から「ちいさい子ども向けやな」とつっこまれていました。
一応、その2~4歳向け以外の絵本(どれも薄い本です)を全部読みました。
ひとつは、小2の二人に読んでもらいました。さすがお兄さんです。「ええよ、まかしといて」と引き受けてくれたとき、頼もしいなと思いました。
絵本の次は、紙芝居。小2の二人が年長の時に劇で取り組んだ「かさじぞう」を読みました。
ここでちょっとしたエピソードがあります。
おじいさんは町に何を売りに行ったでしょうか?と尋ねたとき、小2の二人は「かさ!」と答え、他の学年に「ちがうでー」と言われたのでした。
じつは、幼稚園の劇の場合、話を簡略化して「かさを売りに行って売れずに帰った」というように設定を変えていたのでした。
このことも説明し、逆に幼稚園時代のことをよく覚えているなぁと感心しました。
もうひとつの紙芝居は「あかんぼばあさん」でした。
こどもたちは、どうしておばあさんがあかんぼになったのか、よくすじを理解していました。
そしてみんなだったらその水を飲む?と聞くと、みんな首を横に振っていました(笑)。
N です。少し気が早いですが、新学期のことばクラスのテキストが決まりました。
小学校高学年クラス:夏目漱石『文鳥・夢十夜』新潮文庫、400円+税
中学校1年生クラス:上同
中学校2-3年生クラス:昨年度から継続(アリストテレス)
高校生クラス:昨年度から継続(ヤスパース)
(小学校高学年クラスと中学校1年生クラスは、テキストは共通ですが、読み始めるところが異なります)
持ち物は、ノート、筆記用具、国語辞典を持参してください。
小学生クラスと中学生クラスでは、漢字検定の問題も行います。
今年は小学生クラスが5級、中学1年生クラスが4級の復習または3級、中学2-3年生クラスが4級の復習または3級の問題を扱う予定です。後二者の級については生徒の希望を考慮します。
Uちゃんが4冊本を持ってきてくれました。(重かったでしょう。)
1冊目は私が読みました。
2冊目は、UちゃんとMちゃんが一緒に声を合わせて読んでくれました。途中からTちゃんが最後まで読むことに。
3冊目は、Mちゃんが一冊読みました。4冊目はUちゃんが全部。
読んだ本の名前は、メモできていませんが、「もりのなか」が印象に残っています。
今日は、先週の続きで「おしいれのぼうけん」を読みました。
ねずみばあさんの声をとびきりこわーく読んだら、椅子から落ちそうになった子どもたち(笑)
勉強している部屋にはおあつらえ向きの押し入れがあるので、「もしあの押し入れの中に入ったら・・・???」と現実と虚構のあいだで想像がふくらんだ模様です。
俳句は、芭蕉の「梅咲いて 喜ぶ鳥の 景色かな」を覚えました。
最後に、学校の教科書に載っているお話を読んで終わりました。
「ことばの力」と題するN先生のクラス紹介文です。
山の学校のことば小学校高学年クラスは、今年4月で3年目を迎えます。1年目は歌人である若山牧水の『みなかみ紀行』を、2年目(今年度)はフランスの哲学者アランの『四季をめぐる51のプロポ』を一年かけて読みました。今年度のテキストは少しハードルが高かったのですが、考え、模索し、なんとか「ことば」を探し出そうとする一連の取り組みの中で、どんな小さな主張でもその根拠は示さなければならないということを理解することが出来たならば、目標は達成されたと言ってよいと思います。加えて、本年度は「読むこと」だけではなく特に「記述すること」にも力を入れ、その基礎となる漢字力(読み書き、部首、熟語、誤字訂正など)の鍛錬も同時に行い、漢字検定に合格者を出すことが出来ました。生徒の頑張りの成果だと思います。漢字の学習は早すぎるということはありません。出来るだけ早くに、多くの漢字の読み書きを修得すれば、その後の文章力は確実に豊かなものとなるでしょう。
「考える力」と「記述する力」そしてそれらを支える「漢字力」が、このことばクラスで獲得を目指すものです。先日、文部科学省の指示する学習指導要領が、「ゆとり教育」の開始から約10年ぶりに全面改訂されるというニュースがありましたが、そこで新たに採択されたのは他ならぬ「言葉の力」でした。
英語や数学などと違い、国語は自国語であるためか、積極的に学ぼうというところがあまりありません。その結果は推して知るべしです。辞書を引くという基本的なことも疎かにしてはいけません。結果はすぐには出ないでしょう。しかしそこで離れるのではなく、地道に努力を続けることが、まさに「ことば」の学習なのです。ここまでやれば完成ということはなく、望んで学び続ければどこまでも伸ばせるのが「ことば」の学習であり、だからこそ日々学びを継続することが必要とされるのです。
また、本クラスの特色として「学習記録表」があります。これは毎日なにをどれだけ学習したか、どんなことを学んだか、ということを記録する表ですが、日記の役目も果しており、日々の大切な記録となっています。毎週提出された記録表には講師がコメントをつけてファイルに綴じ、学期末に学習のアドバイスなどを含んだまとめのお便りをつけて返却します。このとき保護者からの通信欄を一緒に綴じこみますので、講師への要望やご意見など率直に記入して戴き、授業に反映するよう努力しております。
ぜひクラスを見学し、「これは、わからないぞ」ということを実感してください。そして、わからないことをわかろうと努力する、意欲ある皆さんの受講をお待ちしております。
今日は、前の「しぜん」のクラスでとても楽しい経験をした直後だったので、集中できるかな?と思っていたのですが、気持ちをすぐに切り替えて、どんどん俳句をつくっていったのには驚かされました。
蕪村の俳句で次のものを覚えました。
春の海 ひねもすのたり のたりかな
続いて、「おしいれのぼうけん」を途中まで読みました。
最後に、Mちゃんの持ってきてくれた絵本をこれまた途中まで読みました。
どちらもかなり量がありますので、1,2回ではどうしても読み切れませんね。
小1ことば
冬学期初回のクラスでは、毎回授業で用意するプリント(A4)が散逸してはいけないので、簡単な紙製のバインダーを用意しました。俳句や作文など、クラスで配る紙に書いてもらう作業も、全部日付を書いてこのバインダーに閉じてもらっています。
冬学期最初の課題は、秋学期に扱った『ちびゴリラのちびちび』という絵本の文章を全部紙に書き写すことにしました。あらかじめタイプしておいた絵本の文章(全部でA4一枚の紙に収まります)を子どもたちに配り、その印刷された文字をよく見て正確に写し取る練習に取り組んでもらいました。全部ひらがなとはいえ、一字一句間違いなく書き写すことはなかなか難しく、根気の要る作業です。
しかし、子どもたちの集中力には驚きました。時間の許す限り、実に根気よく一字ずつ文字を書いていきました。文字通り、鉛筆の音だけが聞こえる時間は、時計の針が止まったようで、神聖にさえ感じられました。
このときの課題の取り組みも、しっかりバインダーに閉じてあります。思い出のスナップをアルバムに閉じるように、勉強に取り組んだ思い出の一こま一こまも、大切に保存していきたいと思っています。幼い日の真摯な学びの取り組みの記録は、いつか自分への大きな励ましになる日が来ると信じられるからです。
前回の授業メモです。
最初に俳句をおさらいしました。
犬の子が 追うてゆくなり 雪つぶて 一茶
続いて、みんなで自由に俳句を作りました。
Uちゃん
白クマは 白いクマだよ およげるよ
Mちゃん
犬の子が へびをおいかけ あそんでる
ドラえもん 未来からくる ロボットだ
Tちゃん
コクワガタ ローリングスマッシュで いちげきだ
サッカーは ボールを足で けるんだよ
ムシキング 強いぞ強い がんばれよ
犬の子が かげを追いかけ つかれたぞ
しんぶんし 船をつくってうかばせる
学校は 遊びがいっぱい たのしいな
グランディス 大きなつので かっこいい
最後に、紙芝居を読みました。冬の定番「かさじぞう」でした。
昨日は絵本の他に、めいめい次のような俳句をつくりました。
クリスマス サンタのおじさん ひげいっぱい
おしょうがつ おもちを食べて おめでとう
おしょうがつ おせちを食べて おいしいな
春休み 桜の花見 きれいだな
夏休み かぶとむしを つかまえよう
犬の子が 追うてゆくなり 雪つぶて
昨日は、冬の宿題を確認しました。
ひとつめは「ちびゴリラのちびちび」を正確に写すことでした。ふたつめは「ふゆのたのしかったおもいで」という題で作文することでした。
ひとつご紹介します。
ふゆのたのしかったおもいで
1月8日、おとうさんとおかあさんといよとぼくで木下大サーカスにいきました。はこの中でおねえさんが男の人にかわりました。ぼくはビックリしました。まるいボールの中をバイク3だいでぐるぐるはしっていました。ほかにもいっぱいありましたが、ライオンのオスとメスとヒョウとトラがでてきたショウがぼくはいちばんたのしかったです。また木下大サーカスにいきたいです。
司馬遼太郎氏は次のような言葉を残しています。 案外見逃されているポイントだと思います。
国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。
ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。
言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。
ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。(「何よりも国語」より)
家の中でテレビを見る家庭は多いと思いますが、能動的に言葉を発したり、家族同士で話を交わす時間を奪っているのではないかと感じます
山下です。
授業で用意したプリント(A4)が散逸してはいけないので、簡単なファイルを用意しました。
学期期間中はこちらでまとめておき、適宜コメントを書いたりします。学期の終わりに家に持ち帰ってもらい、子どもたちの日々の取り組みをご家庭でもごらん頂けるようにします。
今日は、一人ずつ真新しい紙製ファイルをもらい、その表紙に自分でタイトルをかき、1つだけ好きな絵を書き添えることにしました。
サインペンも駆使して、みんな満足のゆくファイルができあがりました。
冬学期の課題は、「ちびゴリラのちびちび」の文章を全部紙に書き写すこと。冬の楽しかった思い出を紙に書いて提出することです。
山下です。
前回の覚え書きです。
1)フリートーク
手を挙げて発言するルール。他人が発言するときは静かに聞く。この日は雪が降ったので、話は自然と盛り上がる。
2)作文
1)で話した内容をもとに、原稿用紙に文章をかく。思案しているときに、ほどよく話の展開の仕方を補助する。
3)本を読む
「虫歯くんとともだち」(タイトルは記憶による)
この本は、子どもが持参。
話の展開を予想させ、次のページに書かれている内容、挿絵を想像させる。
※この日は俳句はお休み。
以上メモの代わりとして。
秋学期をふりかえって
ことばの1年生クラスも秋学期の全日程を終えました。(火曜日はお休みとなりますのでご注意下さい。)
また12月から心機一転楽しく取り組んでいきたいと思っています。
9月以降、色々定番のスタイルを模索してきましたが、最近は次のようなスタイルで進めています。
以下、簡単にご報告をさせていただきます。
1 お話タイム
この1週間のできごとについて、5分間のお話タイムを設け、順番に発表します。
バラバラに思いついたことを口にするのではなく、手を挙げて順番に発表する時間を設けることで、適度の緊張の中、自分の言いたいことをまとめて発表する自信と、友達の発表に耳を傾ける習慣を身につけることをねらいとしています。
このお話タイムの発展形として、いずれは5分間でみんなに話したい内容を紙に書く(つまり作文)形式も取り入れようとタイミングを見計らっているところです。
2 俳句の書き取りと音読。
俳句は、毎回一句ずつ覚えています。
内容を暗唱した上、俳句の17文字をノートに5回書き写すことを課題としています。
早くできた人は、ホワイトボードに書いてもらいます。
前回は、すでに扱った複数の俳句を全部ホワイトボードに書き出し、一人ずつそれを見て音読してもらいました。
暗唱ではなく、見ながら発声するという点が今までとは違う点です。
今考えていますことは、教科書の音読に自信をもっていただきたい、ということなので、その前段階として、すでに覚えている内容(今の例では俳句の言葉)を文字で見てそれを発声するという形であれば、無理のない導入ができるのではないか、と考えているところです。
ちなみに、秋学期に扱った俳句は次の通りです。
雲おりおり 人を休むる 月見かな 芭蕉
今日からは 日本の雁ぞ 楽に寝よ 一茶
山はみな みかんの色の 黄になりて 芭蕉
猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶
行く秋や 手を広げたる 栗の毬 芭蕉
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺 子規
3 絵本の時間
最近、こどもたちが家から絵本を持ってきてくれることを嬉しく思います。
多少多くても、持ってきてくれた絵本を優先して読んでいます。
子どもたちは、この絵本タイムが大好きで、ものすごく集中して聞いてくれます。
読み終わってから内容について尋ねるのですが、本当に細かなところまでよく覚えているので驚かされます。
<全体をふりかえって>
あっという間に予定の時間が過ぎてしまうので、いつも時間配分に一番気を遣います。
同時に、内容に関してもあれをすればよかったとか、これもしてみたい、とか悩みはつきません。
今気になる点としては、子どもたちの書く文字のことです。筆順にも気をつけて、マス目の上で正確に書き写す練習を丁寧にしたいと思いながら、中々細かなところまで指導が行き届かないことを反省しています。
また、本を声に出して読む練習が不足している点も気になると言えばなるのですが、私自身の経験に照らしたとき、何かを上手に表現する練習の前に、何かを深く大きく感じ取る経験をたくさん積むことが大切なのだろうと思いますので、今は子どもたちが「ことば」をめぐる各自のイメージを楽しく豊かに大きくふくらませてもらえたら、と願っています。
山の学校のことばクラス、昨日が秋学期の最終日でした。
早いなあ、という気持ちでいっぱいです。
講師の側としても不完全燃焼の感がありますが、秋学期のまとめです。
まず春学期から実施している学習記録表ですが、少人数クラスの利点と思いますが、提出率はかなり良いです。
(一週間分まとめ書き?と思うようなのもちらほら…筆跡でばれます^^;)
毎日どんなことがあったか、何をしたか、記録しなければ忘れられていくものばかりです。
小学生クラスの記録表の日記欄は、ほぼ「毎日の記録」で、学校で勉強したこと、友達と遊んだこと、家族でお出かけしたこと、ひとことづつですが、大切な思い出の痕跡となって記されています。
中学生クラスになると、そこには、一週間を振り返って「勉強時間が少なかった」「部活を頑張りたい」また「来週○○があるから、頑張りたい」といった、記録だけではなく、青春を満喫していることがビシビシと伝わってくる、エネルギッシュな内容が多くなり、また反省や目標が書かれるようになります。自分が頑張ったことは何か、足りないことは何か、単なる一日の記録からは離れて考えるようになっているみたいです。過去の記録の振り返りもするようになります。「最初のころはこんなこと書いてたんや」と。一週間ごとにだんだん省略記号が多くなっていくことが明らかとなりました。
高校生クラスでは、一日一日の記録はほとんどなくなり(メモ程度)、今考えていることや、その一週間に何があったか、また将来についても、より大きな時間の捉え方で感想や意見を書くようになります。
幅広い年齢(小学6年生から高校2年生まで)を担当しているからでしょうか、こうした変化がとても興味深く思えます。本人達は意識していないでしょうが、時間の捉え方の変化というか。
それから、保護者通信欄が、学習記録表と秋学期まとめおたよりのファイルに綴じこんであります。ここにコメントや講師への要望など、率直にお書きになって、冬学期初日にファイルごとお持ち下さい。
授業ですが、秋学期は小中学校のクラスでは漢字の習得に力を入れ、毎回漢字検定4級の問題を、本来の制限時間の半分の時間(30分)で解答をしてもらいました。
最終日までで全10回の問題を解き終えたことになります。冬学期初日まで一週間空きますので、第11回分を宿題として持たせてあります。辞書を使って調べて解答してかまいませんので、満点とれるくらいしっかりやってきてください。
練習問題を4回終えるごとに復習として確認テストを行い、解きっ放しにならないように配慮をしました。
また問題集はまだあと数回分残っていますので、冬学期も引き続き漢字練習を行います。問題集が終った後は、復習の確認テストを何回かに分けて行う予定です。確認テストは復習した成果が出るように各回からまんべんなく同じ問題を抽出していますが、復習ができているところに関しては、順調に成果が出てきていると思います。
取り組んでいる問題のレベルは、少し前の学習指導要領の改訂のため、小中学校の現状と比較するとやや高めのようですが、初見で全問正解することではなく、復習して出来るようになることが大切ですので、確認テストで学習のあゆみを振り返りながら、さらに学習を進めてください。
テキストについては、漢字検定の問題を解いた後の残り時間すべてを使って、まず音読を行い、その内容について対話を行っています。春学期は小中両クラスとも要約練習を中心に学習していましたが、秋学期は小学生クラスは引き続き要約・まとめの練習、中学生クラスはテキストの内容そのものに関して、記述するよりはもっと気楽に自由に意見できるような授業にしました。
もちろんそれだけではなく、中学生クラスでは、記述の問題を行うときには、生徒同士で答案を交換し、その内容について互いに意見する、それらに対して講師からコメントとアドヴァイスをする、というパターンで行っています。高校生クラスで生徒と講師とで同じことをしていますが、中学生クラスでは、生徒同士の意見交流が人数の関係上可能なので、出来るだけとり入れるようにしています。
高校生クラスは、一年後の入試を控えて、進路相談も多くなってきました。僕の持っている情報は4年も昔のものなので、どれだけ適切なアドバイスになっているか不安なところもあり、いまさら大学入試センターや各種予備校のHPなどを見たりしていますが、学習内容の根本的なところは変更なさそうですので、少しずつ対策していきます。
野村克也監督の言葉ですが、努力に即効性はありません。いますぐに努力の結果がでなくても諦めずに地道に頑張ってください。
ではまた、冬学期に。頑張りましょう。
山下です。
今日は、「ちびゴリラのちびちび」の前半の書き取りをしました。
絵本は1ページにつき2,3行の文章しか載っていません。
10ページ集めると、ちょうど2,30行になります。
私が手書きで筆写したもののコピーを子どもたちに渡し、それを手でノートに書き写してもらいました。
速くできた子どもには、ホワイトボードで同じ事を繰り返してかいてもらいました。
そのあとで、子どもたちに音読してもらおうという作戦だったのですが、時間がなくなってしまいました。
一人の子どもが家から絵本を持参してきてくれました。「ちいさいおうち」という本です。
結構長い作品です。これをぜひ読みたかったので、どうしても時間が足りなく感じていました。
最初から最後まで読み通しました。
前半はちょっと子どもたちにはたいくつかなと思いながら読みましたが、後半に入り、どんどん内容が具体的でわかりやすくなり、自然と都会生活という対立が子どもたちにもリアリティをもって感じられるテーマのようで、「わぁーかわいそう!」とか合いの手もはいり、読みながらうれしく感じました。
よい本はよいです。
#ウェルギリウスの『農耕詩』に出てくる「農耕賛歌」のようなテーマの本だと思います。
ちいさいおうち
ばーじにあ・りー・ばーとん いしい ももこ 
山下です。
本日の授業メモです。
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1 お話タイム
この1週間のできごとについて、5分間のお話タイムをもうけ、順番に発表する。
私も手を挙げて、日曜日に小学校に参観に行ったこと、そこでみんなにあえてうれしかったことをお話しする。
2 俳句の書き取りと音読。
ホワイトボードに秋に習った俳句を4句順番に板書。
子どもたちはノートに筆写する。
順番に立って、ホワイトボードの文字を見ながら音読する。(今までは暗唱。今日は音読。)
1句ずつ言えることを確認した後、ホワイトボード上のすべての句を上から下まで通して音読してもらう。(負荷が高くなる。)
ねらいは、教科書の音読につなげること。
3 絵本の時間
「ちびゴリラのちびちび」を読む予定。
生徒の持参した絵本2冊を読む形に。「ちびゴリラ」は来週回し。
以上。
山下です。
今日のことばのクラスでは、いつものように俳句の書き取りと絵本の時間の二部構成でした。
部屋に入ったとき、皆ノートを広げて絵を描いているのだとばかり思っていました。
ところが、Mちゃんは、カブトムシでなく漢字の”模写”をやっていました!
今日の俳句は、「猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶」でした。
「猫」のつくりが手偏になったりしましたが、相変わらず「ひらがなより漢字が書きたい」症候群です。
絵本は、「おこりんぼママ」を読みました。
この作品のことは、お山の絵本通信で Ryoma 先生が素敵なエッセイを書いてくださっています。
今日はじめて試みたことがあります。
ようやく今頃?と思われるかもしれませんが、今日初めて子どもたちに絵本を見せて、順番に声に出して読んでもらったのでした。
こうして少しずつ変化をつけながら、子どもたちのリアクションも確かめながら、無理なく興味を引き出していきたいと思っています。
おこりんぼママ
ユッタ バウアー Jutta Bauer 小森 香折 
山下です。
今のお子さんはクワガタやカブトムシが大好きです。
授業前には、みな競うようにノートに虫の絵を描いています。描いても描いても飽きることなく描き続けます。
「ああ、無心になるってこういうことだなあ。」としみじみ感じる瞬間です。
先日、少し早めに教室に行くと、一年生の男の子が、二年生の男の子にクワガタムシの絵をノートに描いてもらっていました。
大人の目から見ても精緻なクワガタムシの絵ができあがりました。「おおすごい!」思わず私も見とれました。
描いた子どもも、描いてもらった子どもも、どちらも満足そうでした。
いい場面に出会えたなと思いました。
さて、絵の話をしたのには理由があります。
10月に入ってからギアチェンジをし、授業で覚えた俳句をノートに書き取る練習を始めましたが――それまでは幼稚園時代と同様、耳で聞いて復唱していました――、子どもたちはまるで「絵を描くように」正確に筆写しようとがんばるのです。
実際、文字への好奇心はたいへん強いものがあり、私はひらがなばかりの手本を示すのですが、子どもたちは漢字交じりの俳句を手本として見せろと言います。
私はまさか「毬」や「芭蕉」の文字を子どもたちが漢字で正確に書くとは思いませんでした(筆順は後で補足指導)。
ちなみにこの日扱った俳句は、「行く秋や 手を広げたる 栗の毬(いが) 芭蕉」でした。
むろん、このような純粋な意味での「遊び」は、それが日常化してしまうと「遊び」の意味を失うでしょう。
小学校とご家庭で、きちんと漢字の「山」や「川」といった基礎的な練習を繰り返しているからこそ、ここぞというときに「芭蕉」といった難易度の高い漢字にチャレンジしたくなる気持ちも芽生えるのだと思います。
裏を返せば、子どもたちの生き生きとしたチャレンジ精神に接するたび、私は日頃の生活の中でしっかりと基礎のトレーニングを繰り返している子どもたちの姿を思い浮かべることができるのです。
そして、このチャレンジ精神は、冒頭でふれた昆虫を模写し続ける気持ちとどこか通じるのではないかと直感する今日この頃です。
ーー
山下太郎
山下です。
例によって俳句を一つ覚えました。
猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶
つづいて、先週途中で終わっていた「森のセーター」を最後まで読みました。
なにか質問すると、全員自分を当ててくれ、と必死で手を挙げるので、こういう光景は写真にとって、残しておきたいと痛切に思います(笑)。
山下です。
今日も全員そろっての参加でした。
俳句の書き取りの続きをしました。
ひらがなを漢字で書きたいという気持ちが強いようです。
絵本はTちゃんがもってきた『こんとあき』を読みました。
砂丘にコンが埋まっているシーンがあるのですが、みな「ここにいるよ」と言いたくて仕方がありません。
時間が少しあったので、もう一つ絵本を読みましたが、途中で終わったので、続きは来週のお楽しみです。
「もりのセーター」というお話です。
● 『罪と罰』
ドストエフスキー作/工藤精一郎訳、新潮文庫、1987 年
『おわりとはじまり』
某
──「ことば高学年」「日本語の読み書き(中学/高校)」クラス担当
何度も何度も読み返していると、その本を最初に読んだのはいつのことだっ
たか分らなくなってくる。カバーが破れ、補修したセロテープも黄ばんできた
本。そういう本が何冊かあります。
ドストエフスキー著『罪と罰』(工藤精一郎訳、新潮文庫、上巻660 円、下巻
700 円)は、その中のひとつで、中学時代に読んだものです(これは覚えている)。
手塚治虫氏によって漫画化もされており(講談社、手塚治虫漫画全集。あるい
は角川文庫、手塚治虫初期傑作集に収録)、原作の分厚さに圧倒されるときには
こちらが手軽です。ドストエフスキーやトルストイに代表されるように、ロシ
ア文学はとにかく長いですが、それだけに、読後の余韻は深いものがあります。
貧しさから高利貸しの老婆を殺してしまった主人公の大学生ラスコーリニコ
フ、彼を追い詰める判事ポルフィーリイとの対決、ニヒリストのスヴィドリガ
イロフや娼婦ソーニャとの出会い、ドストエフスキーがこれらを物語る中で、
ラスコーリニコフの心理が不安に満ち、恐怖し、そして葛藤していく様子は、
読んでいて非常に興味深いものです。
この小説の終わりは、こんな言葉で締めくくられています。
「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだ
いに更正していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から
他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を
知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、―
─このものがたりはこれで終わった。」(上掲書、下巻、485 項)
読者がこの長い物語を読み終えようとする、まさにそのとき、また新たな物
語が始まるということ。それは、ひとつの書物の中に書いてあることがそこで
終わり、今度はその書物から得たものを自分自身に反映して行くということの
暗示であると、僕は思います。
山下です。
今週の「ことば」のクラスでは、前回に続き、俳句の暗唱と、その書き取りをしました。
お手本をよく見て何度も書き取ります。お手本を自分のノートに写すだけなのですが、個性がもっともよく現れる時間帯です。
絵本は、生徒の持ってきた本を読みました。図書館で借りた本をわざわざ持ってきてくれるところがうれしいです。
山下です。
小1ことばの記録です。
子どもたちは話したいことが山ほどあります。最初の5分間はおしゃべりタイムとし、手を挙げて順番にこの一週間に経験したことで、みなに伝えたいことを話してもらいました。
次に俳句の復習。先週の俳句を紙に書いてきてもらいました。漢字を書きたがる子もいます。
新しい俳句を一首加えました。全員で復唱して、書き写します。
残りの時間は、先週半分まで読んだ「てぶくろをかいに」の続きです。
内容をよく覚えていました。
村人にひどいめにあわされそうになった絵を見て、このきつねは誰だったかな?とたずねると、一人を除き、「おかあさんぎつね」と答えましたが、一人は「そのおともだち」と正解を答えました。
子どもたちは、次のページにどんなことが書いてあるかをわくわくしながら聞いてくれて、なかなか楽しかったです。
帽子屋のおじいさんの代わりに自分が店番をしていて、そこへ子狐が訪れたら?ということをみなで考えました。
子狐がかわいいので、自分のペットにしたいという意見が大半でした。でも、それはかわいそうだ、おかあさんが待っているから、というのが最終的な、みなの意見になりました。
最後にMちゃんは、もしお父さん、お母さんぎつねがいないのなら、人間がその子狐をひきとって育ててもいい、と発言をしたのにはみなでなるほどと感心しました。
Mちゃんはなんとしてでも、挿絵のかわいい子狐を飼ってみたいようでした。
帰りの石段をおりながら、ちょうど子狐が街の明かりをぼんやりきれいだなと眺めたように、みなで市内の夜景を眺めました。
Tちゃんは山の下で待っていたお母さんに飛びついて甘えていたので、読んだ本の影響かなと私は思いましたが、お母さんは少し驚いておられました。
来週も、楽しい絵本を探してみたいと思います。
てぶくろをかいに
新美 南吉 若山 憲 
今日は新しい俳句に取り組みました。ノートに書き写し、暗唱し、発表しました。その場で俳句を作った者もいます。
後半は、少し長めの絵本を読みました。「てぶくろをかいに」という新美南吉の作品です。全部は読めませんでしたので、つづきは来週のお楽しみです。
途中、母ぎつねがかつて人間に危害を加えられそうになったことを暗示させる挿し絵があるのですが、このことに関し、先日近隣に出没した猿の群れのことに子どもたちの連想は飛びました。
人間の生活を脅かすほうも悪い。しかし、動物に危害を加えることはやはり悪い。などなど、子どもたちの議論はなかなかとまりませんでした。
山びこ通信第一号に、『ことば』と題する一郎先生のエッセイが掲載されています。
クラス紹介のページにリンクを張りました。
このように、各講師が今まで書いてくださったエッセイをhtml化し、あらためてクラス紹介のページにてリンクを張っていきたいと思います。
山下です。
火曜日の小1クラスでは、絵本や紙芝居を読んでいます。
今回は、「ちょろりんととっけー」を読みました。
ちょろりんととっけー
降矢 なな 
どのページのどの絵を見ても、たいへん幻想的で細かい筆遣いがなされていて、内容的にもスリルのあるお話なのですが、不思議とせきこんで先を急ごうという気がおこりません。
子どもたちも、それぞれの絵をよく見ていて、こっそり隠れているちょろりんの弟(とっけー)の姿を見つけて指摘したり・・・。絵本や紙芝居は絵の持つ力が大きいと実感します。
紙芝居は「おけやのてんのぼり」を読みました。
今日は少し時間が余ったので、絵本の文字を紙に書き写してもらいました。
以前書いたものですが、「ことば」クラスの雰囲気をお伝えするため再掲します。
小1「ことば」のクラスだより
山下太郎
「ことば」の小1クラスでは、子どもたちに親しみのある俳句や絵本、紙芝居を紹介しながら、「楽しく言葉にふれること」をモットーにしています。
初めに新しい俳句一首を紹介し、全員でこれを繰り返します。何度も声を合わせて復唱していると、ちょうど音楽の歌詞を覚えるように、誰もが自信をもって暗唱できるようになります。
腹の底から声を出すと自然に大きな音になりますが、街中とは違い、山の緑がどこまでも優しく包んでくれるかのようです。「今の(大きな)声、山のてっぺんまで聞こえたかな?」――いつも、誰かが得意そうにこの台詞を言います。気心の知れた仲間と一緒に俳句を朗唱する経験は、大人になってから、山の風景と共に懐かしく思い出すことができるでしょう。
俳句の次は、絵本と紙芝居の時間です。日本の昔話やグリムやアンデルセンの作品をアレンジした絵本や紙芝居を選んでいます。絵本1つと紙芝居1つでちょうど時間いっぱいになります。
俳句を通して「言葉」のもつ美しさやリズム感を感じ取ることができるとすれば、絵本や紙芝居の読み聞かせを通し、子どもたちは「物語」の楽しさに触れることができます。起承転結のついた物語展開に何度も何度も接することによって、物語の「先を読む」能力が着実に形成されていきます。この点、テレビやビデオでは、立ち止まって先を読む必要もなく、また、その「考える」時間さえ奪われているので、これらのメディアに接すれば接するほど、子どもたちの「先読み能力」は乏しく貧弱なものになっていきます。
このようなわけで、私は絵本や紙芝居を読む際、新しいページや場面に移る前にいったん話をとめ、「次はどうなるでしょうか?」と期待を持たせるように合いの手を入れるようにしています。すると、あっちからこっちから、「次はこうなるんやで」、「いや違う、こうなるはずや」とめいめい私に「教えて」くれます。こうして期待のボルテージが最高潮に達した段階でページをめくると・・・子どもたちの期待通りに展開すればそれはそれでよし、まったく予想を裏切る展開になっていたとしても、それもよしです。
余談ですが、今ふれた「物語の先読み能力」は、学校教育において、とくに国語と英語の学習において、後々計り知れない恩恵をもたらします。たとえば、この能力が豊かに備わった生徒は短時間で要点を見抜く力、速読力に長けており、国語や英語の長文読解を苦にすることが少ないものです。しかしそれを培う原動力は、何より各家庭での会話や「読み聞かせ」の習慣――子どもではなく保護者がその鍵を握っている――にほかならないことをここに強調しておきたいと思います。
意外に思われるかも知れませんが、小学校に上がっても、子どもたちは親に「本を読んで!」とせがみます。これは「甘え」ではありません。まだ、「先読み能力」の未熟な子どもたちは「言葉の授乳」を渇望しているのです。このとき、色々な理由をつけて「自分で読みなさい」と突き放すのは子どもにとってかわいそうなことです。いずれ、「先読み能力」に自信が持てるようになれば、放っておいても一人で本を読むようになります。それが身についていない段階で「自分で読みなさい」、「たくさん読みなさい」と言うのは、酷なことなのです。乳児への授乳を「甘やかし」と称する人はいないように、子どもへの読み聞かせの習慣は、いかなる教材、いかなる教育メソッド――私の授業も含む!――にも勝る最高の教育なのだと私は思います。
さて、前回の「ことば」のクラスでは、アンデルセンの『人魚姫』の絵本(いわさきちひろの挿し絵が美しい)を読みました。私自身この作品の正確なあらすじはすっかり忘れていたのですが、読み進めるにつれ、子どもが理解するにはたいへん複雑な筋の展開になっていることに気づきました。最後に人魚姫が泡となって消えるところまで、正確に筋を覚えている大人は意外に少ないのではないでしょうか。
ところが、一人の女の子がこの話をよく知っていて、ページをめくるときに「これは次にこうなるのよ」と合いの手を入れ、筋の展開を正確に言い当てたのには驚かされました。また、その女の子の話しぶりを他の子どもたちも静かに聞き入っていたのが印象に残っています。
このような子どもたちの様々な合いの手――紙芝居の大蛇の絵を見て、「せんせー、あんなー、ぼくきのう、へびみたでー」等も含む――は、そのどれもが快い「場」の空気を作り上げ、絵本や紙芝居の魅力を全員で余す所なく分かち合う上で、不可欠のスパイスになっています。
今日は小学生・中学生クラスで漢字検定の問題を解きました。小学生が4級、中学生が3級です。
春学期から毎回何かしらの文章を書く練習を積んできましたが、知っている漢字でも、つい平仮名で書いてしまうところがあるのが気になっていました。そこで、秋学期は漢字のレベルアップを目指します。
漢字は地道な努力によって確実に身に付くものなので、継続して取り組めるようにしたいと思っています。これは同じようなやり方で、後々は英単語力のアップにも繋がるでしょう。
今日は「いったんもめん」が大人気でした。
1度目は電気をつけて読みました。終わってから、各自自分の言いたいことを順番に述べていきましたが、他人の言うことを最後まで聞いてから「はいっ」と手を挙げて発言できるようになっていたので、「おお、成長したなぁ」と感心したのでした。
最後の場面で「でも、私も笑っていられません。あさましい欲を出したために、こんなめにあったんですからね」という台詞があるのですが、「あさましい欲」とは何のことだったのか、みなで話し合いました。
ここで次の作品に移る予定だったのですが、子どもたちはぜひ「いったんもめん」をもういちど読んでほしい、と。しかも、「電気を消して!」と懇願されました。
みなしーんと静かになって、同じ話を最初から最後まで聞きました。二度目は、一度目とちがうところまで気づいて理解できますね。おもしろい作品は、なんど読んでも、おもしろいということを子どもたちは本能的に知ってくれているとしたら、これから作品選びにおいて、あれもこれも、と手を広げずにすむかなぁと思った次第です。
むしろ、このクラスの「定番作品」というのをみなで選定していけたらと思っています。
ある人はうつくしい窓を持ち
椅子に凭れて眺めるといふが
僕の窓には黒ずんだ埃ばかり
高い空を流れる雲の せめてあのあたりの
青い色をと思ふのだが
いつかの日にはそれさへ曇天の灰色だつた
いつそ潮風でも吹いて来て
海がひろがつてくれればいい
この窓から ヨツトに乗るんだ
火曜日ことばクラスの秋学期の予定です。
どのクラスも作文・小論文・討論があります。
<小学生>
アラン『四季をめぐる51のプロポ』を続けて読みます。
漢字検定4級の勉強をします。(予定)
<中学生>
アリストテレス『弁論術』を続けて読みます。
漢字検定3級の勉強をします。(予定)
<高校生>
ヤスパース『哲学入門』新潮文庫、を、新たに読み始めます。
各クラスに夏休みの宿題を出してあります。保護者の方からのおたよりと一緒に、初回の授業時間に提出をお願いします。
秋学期からの高校生のことばですが、テキストは三木清『人生論ノート』を終え、新たに
ヤスパース、草薙正夫訳『哲学入門』新潮文庫、1954(400円+税)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102036016/qid=1121305080/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-5803962-3213813
を使用します。
全体で12章あるので、秋学期12回を使って読了できればいいですが、あるいは冬学期も視野に入れて24回で12章を読むかどうか、まだ思案中です。
今回、「たろうのひっこし」を読みました。
今までは、私が絵本を読んできたのですが、今回は、こどもたちに交替で読んでもらいました。9月からは少しずつ「音読」も心がけていこうと思っています。
この作品については、幼稚園の Rumi 先生のエッセイがあります。想像力のふくらむ素敵な一冊です。
紙芝居は「あかんぼばあさん」を取り上げました。
PS
このところ、Mちゃんが小学校の図書館で借りてきた本を持参してくれるので、それを読むことからクラスが始まります。今回はファーブルの「かまきり」の話を読みました。
ことば小学2年生 担当:宇梶 卓
先日の授業では、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』という絵本をみんなで読みました。最初にじゃんけんをして順番を決め、一人一人声を出してゆっくり音読していきます。「本を読むのが苦手」というKくんも、ここ二ヶ月でめきめきと力をつけてきました。とりわけ句読点に注意し、文を一つ一つ区切りながら読むことができるようになったのは、Kくんの進歩だと思います。また、音読が得意で本を読むのが好きなAくんの存在がKくんに良い影響を与えていて、おそらくKくんはAくんの読み方から音読について学んでいる(「真似ぶ」という意味での「学ぶ」)ようにも思われます。
少し前まで、音読がちょっとしたブームになっていた感があります。『声に出して読みたい日本語』という本が流行したり、音読が脳に良い刺激を与えるという説が唱えられたりと、音読というきわめて基礎的な行為に改めて焦点が当てられていました。その当否は差しおいても、確かに音読というのは、私の印象から言えば、大変重要なものです。私たちは成長して大人になるにつれ、音読をしなくなり、黙読によって文章を読むようになりますが、実際には黙読それ自体が音読の経験に多くを負い、そして支えられているのではないでしょうか。作家の谷崎潤一郎はその著『文章読本』(中公文庫)の中で、こんなことを述べています。
「現代の口語文に最も欠けているものは、眼よりも耳に訴える効果、即ち音調の美であります。今日の人は「読む」と云えば普通「黙読する」意味に解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけて来ましたので、自然文章の音楽的要素が閑却されるようになったのでありましょうが、これは文章道のために甚だ嘆かわしいことであります。
...たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない。人々は心の中で声を出し、そうしてその声を心の耳に聴きながら読む。黙読とは云うものの、結局は音読しているのである」。
谷崎の指摘する通り、私たちは文章を黙読するにしても心の中で読んでいる声を響かせています。文章の意味を理解するというのは、畢竟いかに文字の中にこのような声を読み取るかにかかっているともいえます。そのためにも、音読の経験の積み重ねこそが、黙読を含めた文章読解の一番の基本になると思われるのです。私自身、今でも一読してよく分からない文章にぶつかると、丁寧に音読することで意味をつかんでいくようにしています。
しかし、子どもの中には学校の授業でも音読を嫌がり、小声でぼそぼそと読む子がいます。これはとても残念なことで、実際には何も恥ずかしがる必要はないのです。
「ことば」の授業では、何ら恥じることなくみんなで楽しく絵本を読んでいます。最初は読み間違え、つっかえることもあります。しかし、学ぶために重要なことは、そういう間違いを怖れないことです。物怖じしないからこそ、いっそうの向上を目指せのではないでしょうか。Kくんの上達はまさに、このことを示していると思うのです。
宇梶 卓(うかじ まさる)
今日の「ことば」のクラスでは、次の絵本を読もうと思っています。あと、こわーい紙芝居を一つ。いつもは、紙芝居2つと絵本1つ、それに子どもたちが家から持ってくる絵本を1つ、ないし2つ読んでいますが、今日は少し控えめにして、その分、みんなで感想を言い合ったりする時間を長く取ろうと思っています。
ゆっくりがいっぱい!
エリック カール Eric Carle くどう なおこ
今日は、新しい俳句を覚えました。
じっとして 馬に嗅がるる 蛙(かはず)かな 一茶
宇梶先生の記事をアップします。(アップしてくださったエントリは文字コードが異なるためか、文字化けしておりました。)
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宇梶です。遅くなりましたが、5月31日「ことば」(中学生)の授業(N先生の授業の代講)について報告させていただきます。
5月31日の中学生の「ことば」は、前回に引き続いて寺田寅彦氏の「わが中学時代の勉強法」という文章を読みました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/1695_10185.html
この中で寺田氏は、「抜き書き」ということをしていたと告白しています。これはそれほど難しい話ではなく「教科書中の主要の点を抜き書きして、教科書の欄外などへそのまま書き抜いておく」ということです。他方、彼は「中学時代にあまりノートへしるすことはせなかった」のですが、それはノートと教科書とを同時に出してあわせ読むのが面倒だったからだそうです。
これに対し、生徒からは「ノートにきっちり書かないと内容を記憶できない」「授業の内容を理解するためには書くことが重要だ」という反論があり、そこから勉強法や暗記の仕方について話に花が咲きました。
僕は「記憶するということでは、書くことも必要だけど、音読も重要じゃないかな」と提案しました。中学生ぐらいになると、みんな恥ずかしいのか、授業中に先生から指されたりしない限りあまり音読はしないものです。でも、とりわけ国語や英語などは、実際に声を出して読むことでその文章が身体に染み渡るというところがあるので、恥ずかしがらずに音読するといいのではないかと思います。そう主張したら、Mさんは「私はいつも家で音読しているよ」とうれしそうに言ってくれました。
そのほか、板書の内容をどうまとめるかなど、一見些細なことのように思えながらも重要なノウハウについて話し合いました。みんなけっこういろんなことを考えているようです。
福西です。
N先生の代理で二週続けてクラスに入らせてもらいました。
先週は『はだかの王様』を読んで、あらすじを書いてもらいました。
1年生のことばで、「人魚姫は、意外に知っているようで、知らない。なかなか筋が複雑ですよ」ということが話題にのぼったので、6年生でも試してみようかと思ったのでした。
高学年なので、もとにある小説を丸読みしました。本当は最初、人魚姫を読みたかったのですが、文庫本で50ページ近くあるので、うんと短いはだかの王様にかえたのでした。
知っているようで知らない話は、読むときは、なぞるような感じなので、案外面白いです。またあらすじを書いてもらうときも、前に知っていると組み立てやすいので、都合がいいと思いました。私が六年生だった頃はこんなに書けなかっただろうなあという感じで、たいていの生徒が書けていたので驚きました。読むと書くとは、やっぱり筋の先読みと筋の構築の練習になりますね。
かわって今週は『モモ』を読みました。
どろぼうにだまされていることに、子どもが気付いた、という先週からの連想です。
モモというと、私が六年生だった時にもやっぱり学級文庫の棚にあって、先生から「これはいい、これはいい」と言われながら、なかなか手に取らなかったせいで、知っているようで知らないその感じが、かえってすっぱいぶどうに変ってしまったという苦い経験があります。
なので、今回導入を失敗するとモモ嫌いに終わるかもしれないと思って、あらすじをまぶしながらデリケートにはじめたのですが、生徒の方から「モモ、早く読もう」と催促されたので、案ずるより産むが易し! やっぱり本そのものの秘めた力というか、内容を信じていいんだとこの時確認できて、うれしかったです。
今日読んだ箇所は、灰色の男がフージー氏をだます話でしたが、そこだけ読んで面白さが伝わるところが、ストーリーテラーのエンデのすごさだと感じました。それで、紙を用意していたのですが、読んでいるうちにあらすじを書いてもらう時間がなくなってしまいました。
K君が「今日読んだところはどこ?」と聞いてきたので、第六章のところだよと教えると、「へえ、こんだけしか読んでへんかったんか」と、妙ににやにやして、目次を見たり、表紙を眺めたりしていました。
「(表紙の)この絵って、どこなん?」
「それは…多分、時間の国やと思うよ」
「時計ばっかりのところやな」
「そこにマイスター・ホラっていう、時間をみんなに配ってくれる人がいてな…」
「あ、かめの絵がかいてある」
「そうそう、このかめにつれてってもらうんやけどな。後ろ向けに、ゆっくり歩けば歩くほど、時間の国に早く着けるんや。灰色の男たちっていうのは急いでるから、決してそこを通れへんでな。そういえば、浦島太郎もかめにつれられて、竜宮城に行くなあ」
とかなんとかしゃべっているうちに心なしか興味を持ってくれて、「借りていってもええか?」と言って持って帰りました。(私は、心の中でガッツポーズしました)
今日はちなみにK君とTちゃんだけでしたが、Tちゃんは何と、『はてしない物語』の方を読んだそうです。「お父さんが読んでみって言わはった」ということですが、本当に読んだというところがすごいと感じました。(それで、「モモ、早く読もう」と言ったのかなと思ったりします)
そこで、うっかりしていたのでした。K君がモモを「借りる」と言ったことに「いいよ!」と即答してしまったので、Tちゃんも、もしかしたら借りたかったのかもしれないという、そのことに気付きませんでした。もしそうだったとしたら、ごめんなさい。
明日すぐに確認します。
俳句は芭蕉のものを紹介しました。
六月や 峰に雲置く あらし山 芭蕉
絵本は、「もりのかくれんぼう」、紙芝居は、「あき寺のばけもの」と「こぶとりじいさん」でした。
子どもたちに一番人気のあったのは、「もりのかくれんぼう」でした。また読んでもらうとしたら、今日の3つの中でどれがいい?と聞くと、全員が「もりのかくれんぼう」でした。
内容的に夢があって、なかなか子どもたちも目が高いな(笑)と思いました。
宇梶です。
中学生の「ことば」のクラスの代講を行ないました。
テキストとして、(文章の長さとしても内容としても的確と思われる)寺田寅彦氏のエッセイ
「流言蜚語」を用いました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43260_17028.html
このエッセイが書かれたのは関東大震災の翌年で、ここで例に挙げられている「流言蜚語」
は、おそらくは朝鮮人虐殺事件の際のものだと思われます。何故デマというものは生じるの
か、何故鵜呑みにされてしまうのか、そしてどうしたら防げるのか、そういった点が論じられ
ています。
寺田氏は、「科学的常識」というものを土台にし、冷静になって情報を判断すれば、流言蜚語
が拡大するのは防げるのではないか、といった主張をしていました。
授業としてはまず音読を行い、内容について議論し、最後に作文を書いてもらいました。
生徒のMさんは、
「まず、物理的には誰がうわさを流したのだろうと考える。そして誰かをついせきする。単
じゅんだが、そのだれかをついせきするのならば、その方法が一番いいと思った。」
つまり、誰が噂を流したのかを追跡し、当人に確認を求めることで、噂の真偽を確かめること
ができるのではないか、ということです。
Jくんの意見。
「例えば、「急に教室のドアがはずれて近くにいたC君が頭を打って重傷なんだって。」みたい
な本当にありそうなことを流してしまったら防ぐためにはそのC君に聞くしかないのでとても広
がりやすいデマだが、だれかがそのC君に聞いてうそとわかったらその事を伝えればいいと思
う」。
寺田氏は「科学的常識」に従って冷静に考えればよいのでは、との主張でしたが、Jくんが言う
には、それでも「常識的に考えていかにもありそうなことを伝えるデマ」に対してはどうすれ
ばいいのかと問い、やはり当人や実際の事実を確認するべき、と主張していました。
授業後、山下先生との雑談の中で、僕が山下先生のブログに書いた「ローマ文化に対する偏
見」が話題に上がりましたが、
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/mt/archives/001338.html
やはり直接原典に触れることが大切だ、という話になりました。偏見を解消するには、事実を
確認するに如くはない、ということです。
この点からしても、MさんやJくんの主張は正しいのだな、と感心した次第です。
下記の原稿を山びこ通信用に書きました。
小1「ことば」のクラスだより
山下太郎「ことば」の小1クラスでは、子どもたちに親しみのある俳句や絵本、紙芝居を紹介しながら、「楽しく言葉にふれること」をモットーにしています。
初めに新しい俳句一首を紹介し、全員でこれを繰り返します。何度も声を合わせて復唱していると、ちょうど音楽の歌詞を覚えるように、誰もが自信をもって暗唱できるようになります。
腹の底から声を出すと自然に大きな音になりますが、街中とは違い、山の緑がどこまでも優しく包んでくれるかのようです。「今の(大きな)声、山のてっぺんまで聞こえたかな?」――いつも、誰かが得意そうにこの台詞を言います。気心の知れた仲間と一緒に俳句を朗唱する経験は、大人になってから、山の風景と共に懐かしく思い出すことができるでしょう。
俳句の次は、絵本と紙芝居の時間です。日本の昔話やグリムやアンデルセンの作品をアレンジした絵本や紙芝居を選んでいます。絵本1つと紙芝居1つでちょうど時間いっぱいになります。
俳句を通して「言葉」のもつ美しさやリズム感を感じ取ることができるとすれば、絵本や紙芝居の読み聞かせを通し、子どもたちは「物語」の楽しさに触れることができます。起承転結のついた物語展開に何度も何度も接することによって、物語の「先を読む」能力が着実に形成されていきます。この点、テレビやビデオでは、立ち止まって先を読む必要もなく、また、その「考える」時間さえ奪われているので、これらのメディアに接すれば接するほど、子どもたちの「先読み能力」は乏しく貧弱なものになっていきます。
このようなわけで、私は絵本や紙芝居を読む際、新しいページや場面に移る前にいったん話をとめ、「次はどうなるでしょうか?」と期待を持たせるように合いの手を入れるようにしています。すると、あっちからこっちから、「次はこうなるんやで」、「いや違う、こうなるはずや」とめいめい私に「教えて」くれます。こうして期待のボルテージが最高潮に達した段階でページをめくると・・・子どもたちの期待通りに展開すればそれはそれでよし、まったく予想を裏切る展開になっていたとしても、それもよしです。
余談ですが、今ふれた「物語の先読み能力」は、学校教育において、とくに国語と英語の学習において、後々計り知れない恩恵をもたらします。たとえば、この能力が豊かに備わった生徒は短時間で要点を見抜く力、速読力に長けており、国語や英語の長文読解を苦にすることが少ないものです。しかしそれを培う原動力は、何より各家庭での会話や「読み聞かせ」の習慣――子どもではなく保護者がその鍵を握っている――にほかならないことをここに強調しておきたいと思います。
意外に思われるかも知れませんが、小学校に上がっても、子どもたちは親に「本を読んで!」とせがみます。これは「甘え」ではありません。まだ、「先読み能力」の未熟な子どもたちは「言葉の授乳」を渇望しているのです。このとき、色々な理由をつけて「自分で読みなさい」と突き放すのは子どもにとってかわいそうなことです。いずれ、「先読み能力」に自信が持てるようになれば、放っておいても一人で本を読むようになります。それが身についていない段階で「自分で読みなさい」、「たくさん読みなさい」と言うのは、酷なことなのです。乳児への授乳を「甘やかし」と称する人はいないように、子どもへの読み聞かせの習慣は、いかなる教材、いかなる教育メソッド――私の授業も含む!――にも勝る最高の教育なのだと私は思います。
さて、前回の「ことば」のクラスでは、アンデルセンの『人魚姫』の絵本(いわさきちひろの挿し絵が美しい)を読みました。私自身この作品の正確なあらすじはすっかり忘れていたのですが、読み進めるにつれ、子どもが理解するにはたいへん複雑な筋の展開になっていることに気づきました。最後に人魚姫が泡となって消えるところまで、正確に筋を覚えている大人は意外に少ないのではないでしょうか。
ところが、一人の女の子がこの話をよく知っていて、ページをめくるときに「これは次にこうなるのよ」と合いの手を入れ、筋の展開を正確に言い当てたのには驚かされました。また、その女の子の話しぶりを他の子どもたちも静かに聞き入っていたのが印象に残っています。このような子どもたちの様々な合いの手――紙芝居の大蛇の絵を見て、「せんせー、あんなー、ぼくきのう、へびみたでー」等も含む――は、そのどれもが快い「場」の空気を作り上げ、絵本や紙芝居の魅力を全員で余す所なく分かち合う上で、不可欠のスパイスになっています。
今日は全員勢揃いでした。最初に俳句の復習をしました。恥ずかしながら、私もうろ覚えだったのですが、子供たちに、「目には青葉・・・」の次には何をやったっけ?ときくと、「はいっ」と手を挙げて、答えてくれたので、「そう、それ」という感じで、もういっぺん、全員でその俳句を復唱する、ということをどんどん続けていき、結局、4月からあつかった俳句を全部おさらいしました。
Mちゃんが、自宅から絵本をもってきてくれました。キャベツくんとぶたくんが道でであい、ぶたくんがキャベツくんを食べようとすると、きゃべつくんが、もし僕を食べたら、とんでもないことになるよ、と言おうとして、いろいろな動物がキャベツを食べた結果、とんでもなくおかしな格好になっている例をつぎつぎに空の上に示して見せる・・・という展開の、おかしなおかしな絵本でした。あらすじをかいていても、まことに変な日本語になっていますね。百聞は一見にしかず、です。一度子供たちの前で読んでみてください。子供たちは、大笑いの連続になるでしょう。
つぎに、用意してきた絵本と紙芝居をしました。絵本は「あさえとちいさいいもうと」、紙芝居は、「かぐやひめ」とあと一つは、妖怪ものでタイトルを忘れました。のっぺらぼうなのですが、自分を退治しにきた若者3人のめだまをもぎとって、自分の体にうめこむと、今まで見えなかったものが見えるのに味を占め、次から次へと人のめだまを奪っては体中に埋め込んだ・・・というようなイントロで始まるお話でした。
いつもとかわらず、何を読んでも、あっちからこっちから合いの手がはいり、私も楽しく、絵本読み聞かせの時間の魅力を堪能させてもらいました。
火曜日には3回目の授業を行いました。
前回に引き続き、俳句の復唱をしました。家で何度かノートに書いてきた子もいました。
家でお母さんも応援してくれているんだなとか、思いました。
2つめの俳句も復唱し、これで終わろうか?とわざと言うと、「もう一つ!」と子どもたちは声を合わせました。1人、「もうええ」という子もいましたが。間を取って(笑)、幼稚園で習った俳句、「目には青葉
山ほとどぎす 初がつを」を3つめとして加えました。毎回一つにこだわるつもりはないのですが。

絵本の代わりに、この日は紙芝居を2つ用意しました。一つは「ききみみずきん」で、もう一つは「のっぺらぼう」。
山の上にいると、いろいろな鳥の声が聞こえます。
この話は知らないという子が多かったです。
話終わってから、どの場面が一番覚えている?と聞くと、「へび!」と答えが返りました。
屋根裏で苦しんでいるヘビの夫婦の場面です。
ヘビを見たことがあるという子、手でつかんだという子、ヘビはこわいから嫌だという子、いろいろ「意見」が出ました。
私はその2日ほど前、ヘビをちらっと見ましたが。
ヘビといえば、マムシ。子どもたちは「毒蛇」になぜか興味があるようでしたので、私の「毒蛇体験」を語りました。友人と山に登り、彼が毒蛇に咬まれながらも、別の友人の機転の利いた処置の御陰で、命を救われた話です。
このお話をしていると、「のっぺらぼう」の出番はなくなりました。
絵だけを通して見ました。どうも怖そうです。来週時間があれば読みたいと思います。
私も子ども時代、飽きずにこの手の話は読みました。
福西です。
昨日はことばの高学年の代行でした。
大きいつづらと小さいつづらのどちらをあける? という冗談から入り、『二分間の冒険』と『竜退治の騎士になる方法』(ともに岡田淳/作)のうちから選んでもらいました。

どちらも主人公は6年生で、竜の出てくるお話です。また、竜はどちらの作品でも、仲間同士のよそよそしさ、心の刺として描かれていて、それを抜くというモチーフです。正味45分ぐらいなので、起承転結の起の部分が特に上手な児童書の中から、これらの作品を用意しました。
『竜退治の騎士になる方法』がいいことに決まって、早速読み始めました。授業の最後までノンストップでした。(あえてどこまで集中が続くかな? とわかってやってみました)。50ページで上出来と見ていたのですが、70ページも進んで、彼らのポテンシャルに驚きました。これはN先生が平素彼らに力をつけているおかげだろうと感じました。
私が小学生のころは、段落読みばかりでしたが、最近、流行り(?)の丸読みをしました。たしかに頭のスポーツみたいで集中が途切れにくく、面白かったです。(「あ。」とか、短い箇所にあたると、笑いが出ますね)。
6年生にもなると、それまでの読書量には差がついてしまっているので、その底上げをしようと思って、昨日はシンプルに、読むだけの時間をとりました。その「読む」だけがかえって、生徒についてきてもらえるか心配でしたが、お話の面白さが常に助けとなって、いい時間が持てました。いちおう、どこで切れても面白い話なのですが、やはり続きが気になった生徒は、本を借りて帰ることになりました。
先週に引き続き、はいく、絵本、紙芝居をしました。
俳句は前回のおさらいをしました。
春の海 ひねもすのたり のたりかな 蕪村
これを全員復唱し、一人ずつ発表してもらいました。
つづいて今日の俳句のコーナーです。
空をゆく 一かたまりの 花吹雪 素十(すじゅう)
お山の桜の花吹雪を知っている子どもたちにとって、なかなかタイムリーな俳句ではなかったでしょうか。
つづいて、「そらいろのたね」を読みました。とても有名な絵本なので、ご存じの方も多いでしょう。
すこし読むたびに、「きつね わるいなあ」とかチャチャが入るのでおもしろかったです。
思いついた感想を間髪入れずに口にしてくれるのですが、これこそ将来の文章表現の萌芽なのでしょう。
最後に「したきりすずめ」の紙芝居を読みました。話の内容はビデオなどでもおなじみですが、紙芝居バージョンとは表現なのが微妙に違っています。そのあたりを、子どもたちは気にしていちいち報告してくれます。
すずめの名前は「ちょん」ではなく「おちょん」だ、等
あっとうまの一時間でした。ではまた来週。
N です。今日は本の紹介です。
川端康成『美しい日本の私 その序説』講談社現代新書 \660+税
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061155806/qid=1113821971/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-3308927-2411534
小説『雪国』でノーベル文学賞を受賞した川端康成の講演。
本文の英訳が後半部分にあり、古典的な日本語をどのように英語に訳すか、という点でも参考になる。
いよいよスタートです。幼稚園時代と同様、最初は目をつむって心を静めます。つづいて、俳句を復唱しました。今回扱ったのは、蕪村の「春の海 ひねもすのたり のたりかな」です。ひねもすという言葉は、子どもたちにとってなじみがあるのですが、一日中という副詞である点で、ちょっと注意が必要でした。何回か繰り返し復唱していたのち、全員にあてて、覚えた結果を発表してもらいました。
残りの時間は、用意してきた紙芝居と絵本の時間です。
「うらしまたろう」の絵本は、すでに知っている話のようでしたが、しずかに集中して最後まで聞くことができました。幼稚園で見たビデオのバージョンだと最後に太郎は鶴になりました。そんなことも話しながら、夕日の沈みかけた京都の街を皆で眺めました。
部屋は幼稚園の中の一番下の園舎で、西の窓からは京都市内が一望できます。ぼんやりくれなずむ街の姿と、うらしまの曖昧模糊としたエンディングの余韻とが妙に響きあったひとときでした。
最後に「はなさかじいさん」の紙芝居。せっかくの桜の季節なので、この紙芝居を読みたかったのでした。
来週からも、基本的にこのスタイルでいこうと思っています。私にとって、このクラスははじめてなのに、はじめてでない、なつかしい気持ちのするクラスです。
N です。
中学生と高校生のことばクラスですが、テキスト、筆記用具、国語辞典の3点は毎回必ず持参してください。
配布したプリントなどを綴じこむための紙ファイルを初回授業時に配布します。これも毎回持参してください。ノートは特に用意する必要はありません。
これとは別に、学習記録表を綴じこむための紙ファイルも配布しますが、これは山の学校に保管します。持ち帰りは出来ません。
授業の進め方については小学生クラスと基本的に変りはありませんが、第2点よりは第3点に重点を置くことになるかと思います。
N です。
僕の担当クラスでは、小学生から高校生まで全クラスに対して、新学期から学習記録表を導入します。毎日の学習の成果を自分の目で確かめるとともに、自分で学習計画を立てられるようにし、また同時に日記を並行してつけることで書き癖をつけてもらうためです。
使い方としては以下の通りです。
1、毎週の授業時に記録用紙を配布されたら、記名する
2、次回の授業時まで、一週間の学習記録と日記をつけて担当講師に提出する
3、提出された記録表は、次回の授業時までに担当講師がコメントをつけて、山の学校の教室に保管してある紙ファイルに綴じこんでおく
4、綴じこまれた記録表を確認する
これを繰り返し行います。
毎学期末には生徒宛の担当講師からのおたよりである「成績のない通信簿」を綴じこみます。
一年たったらファイルごとお持ち帰りいただくことになります。
なお、紙ファイルと記録用紙はこちらで用意します。
簡単な記録でよいので、毎日欠かさず自分の歩みを振り返ってみましょう。
N です。小学生高学年ことばクラスの授業のすすめかたです。
初日にガイダンスする内容と同じですが、以下のとおりです。
使用テキストは既にお伝えしましたようにアランの『四季をめぐる51のプロポ』です。これを一回の授業で一章づつ読むことになります。授業の内容は標準的なものになると思いますが、テキストの内容自体は高度です。
授業の進め方としては、
1、正確な音読
2、文章の構造解析と読解
3、問題/作文
のようになります。
さしあたり、予習段階では読めない漢字や意味不明の語を調べてくることが出来れば良いですが、これは復習でカバー出来ますので、ご自分で判断して必要な場合は行ってください。
なお、持ち物ですが
1、筆記用具
2、テキスト(初回はコピーを配布します。次回以降ご自分でテキストを用意できない場合は、その旨お伝えください)
3、国語辞典
4、ノート
以上4点は毎回必ず持参してください。ノートは少々大きめですがA4のものをおすすめします。
N です。今日は冬学期最後の授業でした。
まとめとして「ことばのクラスについて、思うところ」を書いてもらいました。
全体として「大変だった」「難しかった」という感想が多かったですが、しかし「全部できたのはうれしかった」とか「一冊読破し、とてもおもしろい本だなと思いました」とか、どの生徒もそれぞれに達成感を感じ、また来期へつなげていこうとする意志を持っているということが、僕にとってとても嬉しいことでした。
また、自分の現在位置と将来いるべき位置についてよく把握することができているということも、きっと新しく伸びる土壌になると思います。迷い込んだ場所でも、あとになれば山の上から、見晴るかすことが出来るはずです。
この感想を読んで、授業をはじめた当初の「どうしよう」という困惑も、この一年で「これでよいのかも知れない」という確信に、少しく近付いたような気がします。
小学生は明日卒業式だそうですね。おめでとうございます。
…山の学校って卒業はいつになるんでしょうね(笑)?
ながらくご無沙汰していますが、N です。
新学期からのことばで、僕が担当するクラスに関しては以下のテキストを予定しています。
小学生:アラン(神谷幹夫編訳)『四季をめぐる51のプロポ』岩波文庫
中学生:アリストテレス(戸塚七郎訳)『弁論術』岩波文庫
高校生:三木清『人生論ノート』新潮文庫
いずれのクラスでも授業はテキストに基づいた作文、小論文、討論を毎回行います。
昨年から今年にかけての授業が日本語の美しさといった感覚的なものを磨く内容であったとすれば、
4月からの授業はもっぱら論理的な思考力の更なる鍛錬といってよいかも知れません。
僕もまだ全部に目を通していませんので、生徒のみんなと一緒に考えながら読んでいこうと思います。
もし他にも「こういうのが読みたい」という希望があれば、ぜひ言ってください。
今日は小学生クラスで『みなかみ紀行』を完読しました。
一年かけてようやく一本の道を歩き終えた気分です。
来週は最後の授業になります。
ちょっとした確認テストと一年の授業の感想などを書いてもらおうかなと思っています。
福西です。以下は、数学と国語の交差点として──
岡:文章を書くことなしには、思索を進めることはできません。書くから自分にもわかる。自分にさえわかればよいということで書きますが、やはり文章を書いているわけです。言葉で言いあらわすことなしには、人は長く思索できないのではないかと思います。
(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』)
最近、単語としての「言葉」の段階から、それを組み立てる段階へと移行する、その間にかかる負荷のことを考えています。言葉から作文へ。これはなかなか当たり前ではない様子です。『山びこ通信』2月号で、
『ことばというものは、身体が文字通り体得している「リズム」を基点として発せられる』
『俳句などの韻文から散文に移行するのはなかなかの難問』
と宇梶先生が書かれていたことが頭に残っています。韻文か散文か、どちらかに軍配を上げるのではなくて、韻文も、散文も、両方が持っている可能性を確認することが大事なのだという気がします。韻文には、ことばの思い出と言ってもいい、絶対的な価値があります。一方で、散文が世の中になければ、長い思索から作り出された、さまざまな知の構築物は存在しなくなります。そのどちらもが必要条件なわけです。どちらかが十分条件ではなく。
小林:
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法が一番忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまずなにを措いても、万葉の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としての方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。
(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』)
「すがた」に親しむという主張が、宇梶先生の「リズム」から入るということと似ているのかもしれません。数学でも、むしろ暗記というか、素読に近いのが九九ですね。すがたとして、リズムとして頭に残る。あれは「だからこうなる」という理屈よりも、音色で覚えた方が後々のためになるようです。暗記と素読の境界線は、曖昧ですね。

今日は、「ことば」(小学校高学年)の代理の授業を2コマ引き受けました。どちらのクラスも、司馬遼太郎『一六の話』(中公文庫)の中から「二一世紀に生きる君たちへ」を読みました。
五年生の生徒によると、道徳の教科書に、この作品の最後の段落のみ抜粋されているとのこと。今日は、最初から最後まで全部読めたのでよかったかもしれません。ただし、時間があっという間になくなり、恒例の作文の時間がとれなくなってしまいました。
生徒たちは、みな音読が上手だと感じました。難しいかなと思う漢字もしっかり読めていたのは、びっくりしたほどです。適当な段落ごとに音読する当番を代え、内容について質問したり、皆で意見を言い合ったりしながら進めました。
冒頭の「もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。」について、K君は、歴史といえば恐竜の活躍していた時代を真っ先に思いつくそうです。しかし、「(歴史の中には)この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。」という一文に応じて、すぐさま日本史を飾る有名な人物名をどんどん挙げていったのには驚きました。彼は幕末の志士が好きな様子です。
私はここで脱線し、ローマ時代のこと、とくにシルクロードのことやポンペイの遺跡のことなどについてお話ししました。
「自然こそ不変の価値なのである」という主張を読んでいるとき、ちょうど私の席から夕日が赤々と見えました。皆で西の空を見つめながら「わー大きい夕日やねえ」とか言いながら、自然への畏怖というテーマで話を交わしました。
「科学と技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。」という司馬氏の言葉には皆の共感が集まりました。
各人で具体例を交えて書いていけば、ちょっとした小論文やレポートが書けそうなサビの部分です。
最後の締めくくりのパラグラフは次の通りです(小学校の道徳の教科書はここだけを抜粋している)。
「君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見つづけながら、以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。」
今日の高学年の生徒たちと接した私の心境を、見事に代弁した文章だと思いました。
「楽しくやるのは大いに結構、しかし楽をしようとするな」
同じ字でも気持ちの向かう方向は真逆ですね。
誰から聞いたんだっけ、と、ようやく思い出しました。
小学校のときの担任の言だったような気がします。
火曜日小学生クラスでは冬学期は作文が中心になります。
自分で考えたことを文章にして記述するということは、できるだけ早い時期に始めておくのが良いというのは、わざわざ書くほどのことではないかも知れません。
理由はこれも蛇足のような気もしますが、自分の意見をしっかり持つとか思考力を鍛えるとかいった当然期待されるであろう学習成果に加えて、考えたことを単に「しゃべる」ことと、紙に「書く」ことは随分違うことだ、しかしその「方法」は同じだ、ということを知ってもらうためでもあります。
私自身は思考したことを「書く」ことはわりと上手く出来ていると自分では思っているのですが、筋道だてて論理的に解りやすく「しゃべる」のは苦手で、そういう意味では山の学校に来ている子供たちのほうが圧倒的に「しゃべり上手」なのであります。
しかしながら、その子供たちが書いた作文を読むと、おしゃべりでは素晴らしく展開されていた話の筋があっちに行ったりこっちに行ったりで、なかなか上手いこと行きません。
会話はキャッチボールであり、相手の存在がかならず必要であるのに対して、作文は良くも悪くも「自分の意見を自分だけで書く・主張する」わけなので、一人キャッチボールと言うか、そういうスタンスの違いもあるかも知れません。
しかし、もっと大事なことは、会話では「これは伝えたい」という思いがあるのに、作文ではそれがないということです。だから何を書いたらいいのか解らない、という事態になってしまうんでないか、と思うのです。
読んだ文章がつまらなかったり良くわからなかったりしたら、それを作文にしても良いわけです。「これはつまらない、なんでかというと…」でも良いのです。そこは「おしゃべり」の要領です。しゃべるように書いたらいいのです。そうすればもっと肩の力を抜いて文章が書けます。読んで面白い文章にもなります。自分が書いたものへの自信にもつながると思います。
あとは、できれば「せんせ、聞いて聞いて」ではなくて、「せんせ、これ書いたから読んで読んで」という風に、もちろん他の生徒も含めて、おのおのの作文の輪読会のようなものが出来たら一番良いのですが、どうも恥ずかしいという気持ちのほうが先立つのは致し方ないことかもしれません。
どうもあけましておめでとうございます。
火曜日ことばのNです。今日は小学生クラスで書初めをしました。
聞いてみると最近の小学校では書初めもしないそうで、毎年のように冬休みの宿題といえば書初めと思っていた僕とは(年の)ギャップも感じましたが、僕も久しぶりにまともに紙に向かうことになり、下手になったなアという感じもしました。
普通の楷書体より少し崩した字体(行書までいかない)で書こうと思ったのですが、
例えば草かんむりなど、真ん中を離して書いたら、「何それ、くさかんむりちゃうの?」というふうに、
いつもと違う書き方に戸惑っていたようです。
ほんとは一人一作品にしたかったのですが、いかんせん量が多いので時間内に終わらず、
小学生4人の合作ということになりました。
たった一時間ちょいしか練習しませんでしたが、結構見事に書けていると思います。
字は性格が現れるというか…(笑)
また来週は通常授業に戻りますので、最後の学期、頑張っていきましょう。
小学生のことばクラス(火曜日)で読んでいる若山牧水の歌集が、
岩波文庫から新編集で発売されました。
伊藤一彦編『若山牧水歌集』岩波文庫、緑、760円
約1700首が収録されています。350ページ近くあるので結構読み応えがありそうです。
このエントリを書いている時点ではまだアマゾンには載ってませんでした。
直接書店でお求めください。
草暖雲昏萬里春
宮花拂面送行人 李賀
…さて、どんな意味なのでしょう?
これは、N先生が、新年のクラスで予定
している「書き初め」のお題だそうです。
「この一字だけを書くの?」とAちゃんが聞いてましたね^^
>やっぱり全部でしょう、N先生?
和紙の大きさもそれ用だったり、いつもとは
ちょっと違う趣きがあるそうです。たのしみですね。
クラス連絡
寒い日が続きます、秋学期も最終日になりました。
今日は小学生クラスでは発展的なまとめということで
梶井基次郎『檸檬』について考えをまとめる作業、
高校生クラスで秋学期14回かけて読んできたプラトン『メノン』について
「徳とは結局なんであるか」をまとめる作業を行いました。
かなりの進歩が見られた人も、たまたま実力を発揮できなかった人も、
これから仕上げの冬学期です。
小学生クラスでは引き続き『みなかみ紀行』読解をしますが、
筆記ものを多く取り入れてゆく予定です。
高校生クラスでは古典(古文)の学習に入ります。
年内は簡単な文法の再確認(これは面白くない)、
年明けから『堤中納言物語』読解編(これはやればやるほど報われるし面白い)です。
年内の予定では
来週:助動詞の確認と小論文
再来週:動詞の確認と小論文
その次の週(年内最終回):形容詞・形容動詞の確認と小論文
基礎的な内容ですから、この回だけ参加というのも歓迎します。
『堤中納言物語』読解編では、文法的解釈から訳文作成(現代日本語訳。英語訳も可能なら可)まで、まず一人で全部予習し、授業で講師と読み合わせ、という流れです。
授業では文法解釈と訳文の検討を主として行います。
ではまた来週。
火曜日ことばのNです。
冷え込みが厳しくなりあとは冬へ…というような日々ですね。
晴れの日の夕方は放射冷却で気温がぐっと下がるので被服環境とやらの調節が面倒です。
さて、Kくんの授業では最近脱線しており、前半は世界地理、後半は文章読解をしています。
以前までは日本の県名を全部漢字で書けるように、というのをやっていましたが、先週から南北アメリカ大陸の国々の位置と特色を覚えることが出来るように、という発展版をしています。
しかも、いきなり問題をやらせてもチンプンカンプンだと思うので、「辞書を使ってもよい」という(これも基本的なことですが、必要に迫られると自然と引き方を覚えるものですね)留保つきでやっています。
一石二鳥と言えるかも知れません。
音読はどのクラスとも春に比べるとかなりレヴェルが向上してきました。
難読漢字も「こうじゃないか?」という推測が出来るようになってきたみたいです。
秋学期も余すところあと1回。頑張りましょう。
追伸:小学生ことば(火曜日)の4人へ。
今日連絡し忘れましたが、年明け最初の授業である2005年1月11日は書初めをしようと思っていますが、どうでしょう?
遅れましたがN です。秋晴れの気持ちの良い日が続いていますね。
このあいだのKくんの授業では、福沢諭吉の『学問のすゝめ』第二編の端書を読みました。
「今日読むのは学問のすゝめ」と言ったら、すぐに「福沢諭吉!」と元気な声が返ってきました。
慣れない旧かな正字体の漢字にところどころつまづきながらですが、ずいぶん上手に音読できました。この本の初版刊行直後は明治時代、それも文字の読めない人がまだ多かった時代です。つまり、この本は多くの人が誰か文字の読めるひとが音読したものを「音声として」聴いたのだと考えられるのです。Kくんが音読しているのを傍で聴いていて、非常に雄弁に聞こえるのはきっとそのせいなのでしょう。
そのなかには「文字を読むことのみを知て物事の道理を弁へざる者はこれを学者と云ふ可らず」という一文がありました。そのあとには「所謂論語よみの論語しらずとは即是なり」と続きます。
文字の一言一句を正確に読解するだけでなく、それを実際に社会的行為として行動にあらわすこと―これは簡単そうで実は相当に困難なことです。正確に読解するということだけにとどまることは、いわば単に片言隻句に拘泥しているだけとも言い得るのです。
僕自身にも警句としながら、また来週の授業の内容を考えていきたいと思います。
追伸
高校生のことばは冬学期から古典をやることになりましたが、読む量が結構多いので受講生がもう2-3人いるとやりやすいなアなんて思っています(もちろんマンツーマン希望も歓迎)。「古典文法があやしい」とか「学校で読む古典のはつまんない」とか思っている高校生諸君、是非!
だいぶごぶさたしていますが…
( )の中にはどんな言葉が落ちているでしょう?
『決闘』
「いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。
しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。
西郷隆盛ははしゃいでばかりいて、次郎君のいうこと
などちっともききません。しかしこのくらい元気なら大
丈夫だと次郎君は( )しました。
高校生ことばの冬学期の予定です。
但し、秋学期のテキストが終わらない場合は予定を繰り下げます。
【古文の読解と実践小論文―山の学校・高校生ことば 2004冬学期予定】
1、テキスト
大槻修校註『堤中納言物語』岩波文庫
2、予定
12/7:助動詞の確認
12/14:動詞の確認
12/21:形容詞・形容動詞の確認
1/11:「花桜折る少将」
1/18:「このついで」
1/25:「虫めづる姫君」
2/1:「ほどほどの懸想」
2/8:「逢坂越えぬ権中納言」
2/15:「貝合」
2/22:「思はぬ方にとまりする少将」
3/1:「はなだの女御」
3/8:「はいずみ」
3/15:「よしなしごと」
3/22:「断章 冬ごもる」
3、すすめかた
①音読
②読解(文法確認と現代語訳)
(③再度音読)
(④小論文)
4、その他
・年内は古典文法の最低限の確認と小論文。
・2005年度からテキストを毎回一章づつ読みます。冬休み中に予習してあると良い。
・テキストを読み始めると小論文に時間が割けなくなる可能性があります。その場合、読解用のテキストはコピー配布するので時間があるときに目を通してください。小論文を書いてきた場合は提出すれば添削して返却します。
・予定通り終わらない場合は、春学期に繰越して終わらせます。
<木曜日> シリーズ:新美南吉
( )にはどんな言葉が落ちてるでしょう?(「続き」もお読みください)
『ごん狐』
そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出か
けました。兵十は物置で縄をなっていました。それでご
んは家のうら口から、こっそり中へはいりました。
そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中
へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみ
やがったあのごん狐めが、またいたずらをしにきたな。
「ようし。」
<火曜日>
『ひよどり越』
ひよどり越の さかおとし、
蟻の大軍 攻めくだる。
めざす平家は ( )、
わたしの捨てた ( )。
峠の茶屋の ひるさがり、
ふるは松葉と 蝉しぐれ。
蟻の大軍 いさましく、
梨のお城を とりまいた。
(──金子みすず『世界中の王様』より)
ヒント:ひらがなだと5文字!
ことばの色紙<金曜日>
( )の中には、どんな言葉が落ちているでしょう?
『雪女』
小屋の戸が力強く開けられた。そして、雪( )に、
一人の女が部屋の中にいるのを見た。女は真白
い衣装をまとっておった。
(…)
ある夜、子どもたちが寝入ってから、おゆきはあ
んどんの( )で針仕事をしておった。そしてみ
のきちは彼女を見ながら、言った。
「お前がそこで針仕事をしているのを、その顔に
映っている( )を見ていると、おれが十八の若
造の時にあった不思議な出来事を思い出すよ…」
(──ラフカディオ・ハーン『怪談』より・試訳)
今日、ことば(一郎先生のクラス)のY君が、
早く来すぎた時間、遊具に寝転がって空を
見上げていました。

すっかり秋めいています。それで思い出すのは、与謝野晶子の歌。
金色のちひさき( )のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に
さて、( )の言葉は次のどれでしょうか?
1.ゆび 2.あかご 3.そら 4.とり
ああ。最近何でもクイズに見えてしまう性が…。

目には青葉 山ほととぎす 初がつを 素堂
これは5月の頃。それが今では、

もう、お山もすっかり秋です。
ことばの色紙クイズ<水曜日>
プーがうさぎの穴でごちそうになりすぎて、穴に「つまっ
ちゃった」話。足は穴の中、顔は穴の外です。やせる
には1週間はかかるだろうと言われて…。
さて、( )の中には、どんな言葉が落ちているでしょう?
少し気が早いですが、高校生・日本語の読み書きの今後の予定を。
秋学期は以前お知らせした通りプラトンと小論文の基礎を行います。
冬学期以降は、
<冬学期:古文の読解と実践小論文 または 現代文の読解と実践小論文>
[古文の読解の場合・テクスト候補(どれかひとつ)]
菅原孝標女(西下経一校註)『更級日記』岩波文庫
作者不詳(大槻修校註)『堤中納言物語』岩波文庫
久松潜一・久保田淳校註『建礼門院右京大夫集―付平家公達草紙』岩波文庫
鴨長明(市古貞次校註)『新訂 方丈記』岩波文庫
新井白石(松村明校註)『折たく柴の記』岩波文庫
※毎回の授業でかなりの予習が必要。たぶん14回では一冊終わらない。
[現代文の読解の場合]
毎回異なった文章を読み、多様な文章に対する正確な読解を行う。
テクストはコピー配布。予習は必要なし。
※歴史や思想ものに偏る可能性あり。
[実践小論文]
秋学期に習得した小論文の基本を使った応用編。
<番外2005年春学期:漢文の読解と現代文に関する総合的対策Ⅰ>
[漢文の読解]
小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波書店(岩波全書)?
小川環樹訳注『老子』中公文庫?
金谷治訳注『荘子(1-4)』岩波文庫?
※まだ未定です。
[現代文に関する総合的対策Ⅰ]
読解と要約作成・小論文の仕上げと「味読」
2005年夏学期・冬学期は「現代文に関する総合的対策Ⅱ」と「古典に関する総合的対策Ⅰ&Ⅱ」を予定しています。
初めての方は、そのつど希望に沿うよう進度調整を行います。
福西です。
先週、先々週と、宇梶先生のクラス(ことば・中学年)では、
「新美南吉童話大全」を使っているそうです。
これは選集ですが300ページ以上あって、貫禄があります。
(このシリーズにはあと宮沢賢治があります)

(講談社super文庫)
絵本だと、一つ一つの話が独立していますが、選集(全集)
のメリットは、ひとつ読んだら、すぐに次のタイトルが目に
入って、ついつい「あ、これも…」となる点です。
ここに、実際S君も食いついて、「もっと読みたい」となった
そうです。いい読書のきっかけだなと思います。
宇梶先生は、S君が動物が出てくる話が好きだという点
にも配慮して、たとえば最初に読まれた「決闘」という話は、
二人の小学生が自分の犬のことを作文に書いて発表する
うちにけんかになって、お互いの犬を決闘させようというこ
とになったのだけれど、肝心の犬同士は友達だった、という
オチです。
二人で一つの本を読み合う、それで一時間が取れるという
のは、実にシンプルでいい授業でしょう。
幼稚園で、昨年2学期に子どもたちが覚えた俳句を見直していました。次のようなものです。
静けさや 岩にしみいる 蝉の声 芭蕉
人は寝て 籠(かご)の松虫 啼(な)きいでぬ 子規
猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶
山はみな 蜜柑(みかん)の色の 黄になりて 芭蕉
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 子規
行く秋や 手を広げたる 栗の毬(いが) 芭蕉
遠山に 夕日一筋 時雨(しぐれ)かな 蕪村
葱(ねぎ)白く 洗ひあげたる 寒さかな 芭蕉
初時雨 猿も小蓑(こみの)を 欲し気(げ)なり 芭蕉
昨今、言葉の音読の重要性が指摘されますが、私自身は、俳句に加え、漢文の素読を小学校三年生から高校三年生まで毎週日曜日の朝、続けました。すぐに役に立つ、とはいえませんが、大事な思い出になっています。
今日は小学生の授業の後、高校生向けのサンプル授業でした。
小学生クラスは春学期に続いて主として『みなかみ紀行』です。
今日は漫才の脚本を見つけたのでコピーして配布したら好評でした。
次に読むのは劇の台本なども面白いかなアと思っています。
幸い手元には倉本聰『定本・北の国から』(理論社)があるのですが…
さて、サンプル授業ですが、
今日はプラトンの『メノン』の第一章と第二章を読む予定でした。
ただ読むだけではありません。
『メノン』は対話篇なので、ソクラテスからメノンへ、また逆にも、さまざまな質問が出されます。
その質問に、自分が回答者となってみる、ということです。
つまり、ソクラテスとメノンの対話に自分も参加してみるというわけです。

まず、何も見ずに『メノン』からの引用文(質問文)に対する自分の考えを記述し、
その後、『メノン』の該当箇所を読み、最後に講師と生徒が互いに記述した文章を読みあい質疑応答する、というパターンです。
まず自分の考えを書いてみることで、「概念くだき」の前提をつくるのだ、といえるかも知れません。
少人数だからこそ出来ることです。
僕自身も一読者としてプラトン哲学に接することになります。
2000年以上の時を超えて、彼がどんなことを語りかけてくるのか楽しみです。
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/yama/archives/000493.html
このN先生のご提案にあるように、中学、高校生の皆さんにプラトンの作品は絶妙の取り合わせでしょう。きっと、「こんな面白い作品があったのか!」と思うに違いないです。日本の古典は人生の機微がわかって読んでこそ面白いのですが、プラトンを初め、ヨーロッパの古典的作品は、推理小説のようなスリルがあります。
一時間ではたくさん読めないかもしれませんが、続きを最後まで自分で読みたいという気持ちになってもらえたら、授業として成功なのではないかと思います。私が大学の西洋文化論や文学入門でやっていたことを、中学・高校生に味付けして提供する・・・なかなか粋なことをされますね。
--
山下太郎
25日のサンプル授業のことで、N先生よりご連絡
25日の高校生ことばは、参加者がいる場合は、テキストにプラトンの『メノン』かマルクス・アウレリウス帝の『自省録』(共に岩波文庫版)を使おうと思っています。該当箇所は当日コピー配布にします。そんなに高価でもないので参加者に購入していただいてもよいのですが(笑)。前者は(対話篇なので)複数名の参加者がいる場合、後者は(自己反省の書物なので)参加者一人だけの場合をとりあえず想定しています(変更も有)。
秋学期から継続して受講希望がある場合は、テキストは上記のどちらか、サンプル授業で使用した方を使う予定です。
時間は多少必要かもしれませんが、なんとしてでもこのような授業に生徒た
ちがこぞって訪れるような時代になってほしい、と願っています。
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606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp
一であって多にゆくものを博学といい、多であって多にとどまるものを多学とい います。博学はたとえば根のある木であって、根から幹や枝や実がびっしり茂り、 それらは無数だが、しかも樹液の至らぬ所はなく、いつまでも成長をつづけるよ うなものです。多学はたとえば切り花であって、枝葉や花や実が相ならび輝かし く、見る目に美しいが、しかもかわき枯れて長もちせず、成長しないようなもの です。生と死が相反するようなもので、同一視してはいけません。 (伊藤仁斎、童子問)メールでどしどしお送り下さい>中学生・高校生。私のコメントを書いてお返事 します。(中学・高校名と学年を明記して下さい)。
--
山下太郎 taro@kitashirakawa.jp
今日はことば高学年の最終日でした。
僕の試行錯誤のせいで、この三ヶ月14回の間、
かなりハイ・レヴェルな内容になってしまった回もありましたが、
とりあえずみんなよく頑張りました。
以下、春学期の反省点です。
【生徒篇】
・忘れ物が多い。
→辞書や筆記用具は毎回必ず持ってくる。
特に筆記用具を持ってこないなどというのは論外。
・配布プリントは捨てない。
→できれば高校生になってからもう一度読み返して下さい。
・作文は人前で発表しても恥ずかしくないものを書く。
→「恥ずかしく思わないようにする」のも大事。
【講師篇】
・毎回の授業プランをもっと明確にする。
→ばらつきが大きかったような気がするので、秋学期からはもう少し一定に。
・毎回のレヴェルをなるべく一定にする。
・しかも読む文章の多様性は保つ。
・難易度はだんだん上げる。
→いい文章を探してきます。
・作業のヴァラエティを増やす。
・学校の授業対策にもなるように。
→ここが思案のしどころ。まだ考え中です。
・生徒のペースに乗せられないように頑張る←大事。
→こっちが乗せてやるくらいに。
秋学期も、『みなかみ紀行』を続けて読みます。
できたら今学期に配布したプリント・自分で書いた文章を、
家でもう一度眼を通して見てください。
夏休みの間に『みなかみ紀行』を自分で読み進めてみるのもいいでしょう。
そのときは必ず傍らに辞書を置いておくこと。
それではまた秋学期に。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
今回は、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を読みました。
主人公の一郎がある日、山猫呼ばれて山奥に導かれ、そこで不思議な体験をするというお話です。
生徒と山のイメージについて話し合ってみたかったので、この本を選びました。
青春ライブでもお話しましたが、私は山の中で育ったので、「山」についてはかなりの思い入れがあります。
子どもの頃は、山の中には何か恐ろしいものがいるのではないかとビクビクしていた一方、どこかその秘密に惹かれていた節があります。なので、今の子どもが「山」に対してどういうイメージを抱いているのか、興味を持ったのです。
このお山で成長してきたのですから、きっといろいろ考えているのではないかと。
この絵本を読みながら、私は「山の奥って、どんな風になっているんだろう?」とたずねてみました。
Sくんは、「山の奥は地獄だよ」と答えました。
確かに、山の奥は他界とつながっているという伝説は昔からあります。Sくんはそれを指摘してくれたのだと思いました。
「〈立ち入り禁止〉っていう看板の100メートル先あたりからはあの世だよ」という意見に対し、私は「じゃあ、授業が終わったら、その看板のところまで連れていってくれる?」とお願いしました。
授業後、僕はその看板のところまで連れていってもらいました。
園舎の間を通り抜けていくと、確かに
「立入禁止」
という看板がありました。その先はちょっとした崖になっていたので、確かにどこか別の世界につながっているような気がしました。
また、そこではたくさんのねこが私たちを出迎えてくれていました。
まさに私たち自身が「どんぐりと山猫」の世界を体験していたような気がします。
(ちょっとこじつけっぽいですけど)
中学生・高校生向け「ことば」のクラスに期するもの
山下太郎
前回の山びこ通信では、言葉の教育の大切さについて、(1)言葉を使って自分の絵を描く経験(塗り絵ではなく)が大切であるということ、しかし、(2)現実の教育の現場ではその機会がほとんどなおざりにされている、ということを指摘しました。
もちろん、言葉にならぬ感動をできるだけ多方面に渡って蓄積しておくことが、言葉の表現に親しむ大前提になります。その意味で、幼稚園、小学校時代の「生(なま)の経験」の大切さについては、いくら強調してもしすぎることはありません。園児は――たとえば自分が鉄棒や竹馬に一生懸命取り組んでいる姿を見てもらおうとして――「ねえ見て見て!」と自分の経験を力一杯大人に訴えます。小学生も同じです。自然にふれ、目にするものは何でも口に出して教えあう――「ワっ!ダンゴムシ見つけたゾ!」――などなど(「山の学校」の小学生を見ていると、特にその感を強くします)。
さて、教育に話を戻しますと、・・・
さて、教育に話を戻しますと、子どもたち(とくに幼稚園児)は、まだ自分で本がうまく読めません(黙読・音読ともに)。それで、当初は親や先生にたいして「ねえ読んで!」とお願いすることで、子どもたちの読書経験はスタートします。子どもは本を読んでもらうことが大好きです。同じ本を飽きもせずに「もういっぺん(読んで)」とお願いします。「じゃあまた明日」というと、その約束を心待ちにしています。
こうして、じゅうぶんに本を「読んで」もらった子どもたちは、やがて自分自身の力で片端から本を読むようになります。言い換えますと、本を開くことで、未知の言葉の世界、ひいては人文学や自然科学等、大学の学問につながる抽象的な言葉の世界に向かって探検を始めます。最初は受動的に始まった子どもたちの「読書経験」ですが、やがてはそれが能動的な「読書経験」に変わっていくのです。そしてさらには、本を読んで得た感動や発見を、今度は「ねえ、聞いて!」と他者に伝えたくなってくる、ここがポイントです。では、こうした子どもたちの言葉を、どれだけの大人が丁寧に引き出し、かつそれを真剣に「聞こう」としているでしょうか。
冒頭で書きましたとおり、自分の考えや感動を文章によって表現する修練は、多感な中学、高校生にうってつけの学びの機会を与えます。幸い「山の学校」では、「青春ライブ授業!」でおなじみの若き情熱溢れる先生達が、子どもたちの知的好奇心を守り育てたいと――つまり、本物の「ことば」の勉強を共にしようと――手ぐすねをひいて待っています。ぜひ、一人でも多くの中学生、高校生が「ことば」のクラスに参加され、言葉の表現に磨きをかけるとともに、みなの前でそれを発表する喜びを分かち合っていただきたいと願っています。
『ことば』中学年クラス
(水曜日4 :10~5 :10)
──遊んでいる子どもというものはみな、一つの独特な世界の事物を、
自分の気に入った、ある新しい秩序の中へと置き換えることによっ
て詩人と同じように振舞っているといっても差し支えないだろう。
実際、子どもというのは遊びの名人です。
自分たちでルールを決め、それに則って積極的に活動する。子どもの自主性の根幹はここにあるのだと思います。フロイトはこの「遊び」を想像力の源泉であると論じました。そこに詩人の世界を見出したのです。
この授業では、名作の物語を読み合わせたり、俳句を作ったりしています。俳句を作る際は、こちらから作り方を強制することはなく、子どもたちの自主性に任せるようにしています。
最初の授業の際に、こんな俳句が詠まれました。
・はっぱわね さいしょわきれいで いつかちる
有終の美を感じさせる、季節感に溢れた作品です。この美しい句を前にしては、「〈わ〉は〈は〉の間違いだよ」という批判はたいした意味をなさないでしょう。また、このような句も詠まれました。
・はっぱはね いろいろいろが あるんだよ
韻を踏んだ、おもしろみを感じさせる作品です。子どもは一般にリズムに愛着を覚えますが、この句はそれを踏まえた「遊び心」のようなものを感じさせてくれます。
勉強というのは本来、禁欲的なもので、遊びとは相容れないという通念が存在します。真面目な「お勉強」と不真面目な「お遊び」というのは本性上対立するものであると。
間違うことはいけないこととされ、「正しい」答えを押しつけられることで、子どもはやがて間違うことを恐れ、自分の意見を言えなくなってしまうでしょう。日本特有の文化神経症と言われる「対人恐怖」もこれと大きく結びついていると言えます。間違いを恐れ、恥じるあまり、何も言えなくなってしまうのです。
しかし、間違いを恐れること、それ自体がそもそもの間違いなのではないでしょうか。むしろ遊びの中で培ってきた「遊び心」を、そしてそれを基盤とした自主性を勉強の中にも根づかせる必要があるのだと思います。フロイトは先の文章に続いて、こう述べています。
──遊ぶ子どもはこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、
それは誤りである。どうしてどうして子どもは自分の遊びを非常に真
剣に考えている。…真剣さは遊びの反対物ではないのである。
確かに子どもは遊んでいるときは、きわめて真剣です。真剣に遊んでいるのです。このような真剣さを勉強の際にも生かせれば、というのがこの授業のモットーとなっています。実際にこの授業の中では、子どもたちは無心になって俳句を作って詠んだり、恥ずかしがることなく自分の意見を述べています。
例として、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を読んだ際の出来事を挙げたいと思います。熊を殺すことに業を感じていた兵十郎という猟師は、最後には熊自身によって殺されてしまいます。この物語を読み終えた後、私は「兵十郎は死んだ後にどうなったんだろう?」と生徒に尋ねてみました。すると、次のような答えが。
「熊たちは小十郎を神様にしたの」
「だって、熊たちはもともと小十郎のこと好きだったんだもん」
これはとても美しい「解釈」です。私はこのような「解釈」が現れるとは、思いもよりませんでした。なるほど、フロイトの述べる通り、子どもは「詩人と同じように振舞っているといっても差し支えない」のです。
今後は子どもたちと一緒にお話を創作する予定です。子どもはその「遊び心」のためか、替え歌やお話の創作を好むようです。この傾向を伸ばしていけたらなと考えています。きっと一生物の財産となることでしょう。
(文章 宇梶卓)
『ことば』低学年クラス
(水曜日 4 :10~5 :10 )
『レアの星』 子どもの死生観
──担当 山下一郎
だれしも、死の問題にはあまり触れたがりません。まして、未成熟な子どもに生死の問題と真正面から向き合わせるのは、好ましいことと思われないようです。
しかし、幼い子どもといえども、いや、幼少の時期だからこそ、死のもつ厳粛な意味を知ることによって、生を尊重する意識が芽生え、その後の成長にも大きく影響を与えるものと思われます。
そこでわたしは、ある日の“ことばの教室(小1,2年生)”の読み聞かせで、子どもの死をテーマにした、『レアの星』の絵本を取り上げることにしましたが、じつは、この絵本を選ぶに当たっては、かつて、感銘を深くしたある出来事との出会いがありました。先ずそのことについて、触れておきたいと思います。
*
それは、今から30年以上も前の、ある年の秋のお彼岸の頃、お墓参りの帰り道に、母親の身体に子ども二人をロープでしっかり括りつけて、母子三人で奈良の池へ入水心中した事件がありました。この報道を、当時、年長児だったYちゃんが、母親といっしょにテレビで視ていたときのことです。
「あのお母さん、なんで死なはったんや?」
「何かつらいことがあって、生きていくのが苦しくなったのと違う?」
「そんなら、二人の子どもは、なんで死んだんや?」
「そりゃ、お母さんが死ぬから、いっしょに死んだんでしょ。」
「子どもも、いっしょに死にたかったんか?」
「子どもは死にたくなかったけれど、お母さんが死ぬから子どもを置いておけないし、仕方なかったのね。」
「それやったら、そのお母さんおかしいわ。自分が死にたいんやったら、一人で、だまって死ななあかん。子どものこと心配なんやったら、お母さんかて死んだらあかんわ。」
「……。それじゃあ、もしも、うちが貧乏に貧乏になってどうしても生きていかれへんし、お母さん死ぬいうたら、Yちゃんどうする?」
「ぼくやったら、やめといていうて、お母さんの足もって離さんように、一生懸命引っぱるわ。」
「それでも、死ぬいうたら?」
「それはハクジョウや。ぼく、警察の人にきてもろて、お母さん死なさんように守ってもらうわ。ぼくらな、貧乏になったかて、家の人がみんな一緒やったら、なんともあらへん。絶対に死んだらあかん、絶対にやで。いのち、粗末にしたら、バチ当たるわ!」
まさに、5才の幼児のすさまじいばかりの情念であり、死生観であります。いのちの尊厳を切々と訴えるYちゃんの、上滑りでない、魂をゆさぶる言葉のひと言ひと言は、30年以上経った今もなお、わたしの脳裏に焼きついて離れないでいました。
そうしたとき、たまたま店頭でであったのが、パトリック・ジルソンの手になる『レアの星』の絵本でした。ふつう、動物や植物に姿を借りて、子どもたちに生と死の問題を象徴的に語りかける絵本は多く見られます。中でも『わすれられないおくりもの』や『葉っぱのフレディ』などは、名作として知られています。だがこの『レアの星』は、視点をごく身近な人間間の“友だちの死”に置いているところに、それらとは一線を画しています。
──小児がんにかかった女の子レアと、同級生の男の子ロビンの二人は、残されたわずかな時間の中で、あたたかな友情を育んでいきます。
ある夜のことでした。シーンとした寒い空には、無数の星が光っています。
「ずっと、星を見てるとね、星はひとつずつみんな違うの。大きさも、色も。わたしはあの青くて小さい星が好き。なんて名前かしら?」
「あの星はね、だれかが名前をつけてくれるのを、待ってるんだ。レアみたいに、どんな星よりかわいいあの星は、誰の星でもない、“レアの星”だよ。」
ロビンはそういって、確実に近づく死を自覚しているレアに、希望を与えながら励ますのです。やがて、夜空にかがやく星となったレアの死を通してこの絵本は、死とはなにか、生きるとはなにか、真の幸せとはなにかを、子どもたちに語りかけてくれるのです……。
もしも、大好きな友だちが重い病気にかかったら、そしてそれが元で永遠に別れなければならなくなったら。そればかりか、もっと身近な自分の家族のだれかに、もしものことが起こったら……?
そんなことにまで、思いを巡らせたのか、『レアの星』の読み聞かせが終わったあと、いつになく神妙に、しばらくは子どもたちの間を静かな時間が流れていました。
やがて、ぽつりぽつり、子どもたちは語りはじめました。
「レアは、かわいそうやけど、ほんまは、幸せなんや。」
「そうや、お星さまになって、天国いけたんやもん。」
「ロビンちゃんと、さいごまで仲良しでいられて、よかったね。」
「ぼくのおばあちゃん、92才で死なはったけど、お星さんになってはるやろか?」
「そら、生きている間にええことしてたら天国いけるんやし、お星さんにかてなれるんとちがう?」
「お星さんになれたかて、ぼく、やっぱり早う死ぬのはいやや。長生きしたいわ。」
「そういうたかて、神さんが決めはることやし、どうにもならんわ。」
ざっと、こんな会話が交わされていました。そこでわたしは、
「そうだね、100才まで生きれるお年寄りもいるし、たった10才で死ぬ子どももいる。人のいのちはだれも自分で決めることはできないね。でも、どんな人にでもできることは、生きている間、いのちの長い人は長い間、短い間は短い間、その一日一日のいのちを大事に、一生懸命生きていくことね。お勉強だって、大人になってからのお仕事だって、何でも、しぶしぶ、いやいや、だらだらしながら生きていても、死ぬときにはきっと悔いが残って、お星さまにはなれないよね。それから、お父さん、お母さん、兄弟、お友達、そういう回りにいる人たちと、こころを込めて、ありがとうの気持ちで、一人一人と大切に過ごしていく。これも大事なことだね。そうしたことが、さっき、お友だちの言った『ええことしてたら、天国いけるし、お星さまにもなれる』ということになるんだろうね。」
子どもたちは、先ほどからの神妙な顔つきを崩さないまま聞いていましたが、教室が終わって園庭へ出るなり、さっそくジャングルジムのてっぺんへ駆けのぼり、街へ向ってヤッホーと呼びかけたり、“泥巡ごっこ”で庭を駆け回ったりして元気いっぱい、ふだんの表情に戻っているのでした。
*
Yちゃんは、必死になって死を否定しました。ロビンは、静かに死を肯定し、励ましを与えています。まるで正反対のようですが、いずれも、子どもの感性に基づく純粋な死生観です。そして、死の問題と真剣に向かい合った子どもにとっては、それは生涯忘れ得ぬ感動だったのです。
このような、幼少期に受けた感動が、いついつまでも心のどこかに残っていたり、何かのはずみに思い起こされたりして、これからの人生の折々に生きる支えとなったり、判断の道しるべとなってくれるような、そのような絵本や紙芝居の選択に、今後も努めたいと思っています。
と同時に、福音館の松居氏も、
「絵本の読み聞かせは、絵本の力を生かす方法である」
と強調されるように、充分、読みの練習に時間をかけて、作者の意図が子どもたちの胸の中に浸透するような、そんな、効果ある読み聞かせを目指して、これからも努力したいと思っております。
(文章 山下一郎)
『ことば』低学年クラス
(水曜日 4 :10~5 :10 )
『レアの星』 子どもの死生観
──担当 山下一郎
だれしも、死の問題にはあまり触れたがりません。まして、未成熟な子どもに生死の問題と真正面から向き合わせるのは、好ましいことと思われないようです。
しかし、幼い子どもといえども、いや、幼少の時期だからこそ、死のもつ厳粛な意味を知ることによって、生を尊重する意識が芽生え、その後の成長にも大きく影響を与えるものと思われます。
そこでわたしは、ある日の“ことばの教室(小1,2年生)”の読み聞かせで、子どもの死をテーマにした、『レアの星』の絵本を取り上げることにしましたが、じつは、この絵本を選ぶに当たっては、かつて、感銘を深くしたある出来事との出会いがありました。先ずそのことについて、触れておきたいと思います。
*
それは、今から30年以上も前の、ある年の秋のお彼岸の頃、お墓参りの帰り道に、母親の身体に子ども二人をロープでしっかり括りつけて、母子三人で奈良の池へ入水心中した事件がありました。この報道を、当時、年長児だったYちゃんが、母親といっしょにテレビで視ていたときのことです。
「あのお母さん、なんで死なはったんや?」
「何かつらいことがあって、生きていくのが苦しくなったのと違う?」
「そんなら、二人の子どもは、なんで死んだんや?」
「そりゃ、お母さんが死ぬから、いっしょに死んだんでしょ。」
「子どもも、いっしょに死にたかったんか?」
「子どもは死にたくなかったけれど、お母さんが死ぬから子どもを置いておけないし、仕方なかったのね。」
「それやったら、そのお母さんおかしいわ。自分が死にたいんやったら、一人で、だまって死ななあかん。子どものこと心配なんやったら、お母さんかて死んだらあかんわ。」
「……。それじゃあ、もしも、うちが貧乏に貧乏になってどうしても生きていかれへんし、お母さん死ぬいうたら、Yちゃんどうする?」
「ぼくやったら、やめといていうて、お母さんの足もって離さんように、一生懸命引っぱるわ。」
「それでも、死ぬいうたら?」
「それはハクジョウや。ぼく、警察の人にきてもろて、お母さん死なさんように守ってもらうわ。ぼくらな、貧乏になったかて、家の人がみんな一緒やったら、なんともあらへん。絶対に死んだらあかん、絶対にやで。いのち、粗末にしたら、バチ当たるわ!」
まさに、5才の幼児のすさまじいばかりの情念であり、死生観であります。いのちの尊厳を切々と訴えるYちゃんの、上滑りでない、魂をゆさぶる言葉のひと言ひと言は、30年以上経った今もなお、わたしの脳裏に焼きついて離れないでいました。
そうしたとき、たまたま店頭でであったのが、パトリック・ジルソンの手になる『レアの星』の絵本でした。ふつう、動物や植物に姿を借りて、子どもたちに生と死の問題を象徴的に語りかける絵本は多く見られます。中でも『わすれられないおくりもの』や『葉っぱのフレディ』などは、名作として知られています。だがこの『レアの星』は、視点をごく身近な人間間の“友だちの死”に置いているところに、それらとは一線を画しています。
──小児がんにかかった女の子レアと、同級生の男の子ロビンの二人は、残されたわずかな時間の中で、あたたかな友情を育んでいきます。
ある夜のことでした。シーンとした寒い空には、無数の星が光っています。
「ずっと、星を見てるとね、星はひとつずつみんな違うの。大きさも、色も。わたしはあの青くて小さい星が好き。なんて名前かしら?」
「あの星はね、だれかが名前をつけてくれるのを、待ってるんだ。レアみたいに、どんな星よりかわいいあの星は、誰の星でもない、“レアの星”だよ。」
ロビンはそういって、確実に近づく死を自覚しているレアに、希望を与えながら励ますのです。やがて、夜空にかがやく星となったレアの死を通してこの絵本は、死とはなにか、生きるとはなにか、真の幸せとはなにかを、子どもたちに語りかけてくれるのです……。
もしも、大好きな友だちが重い病気にかかったら、そしてそれが元で永遠に別れなければならなくなったら。そればかりか、もっと身近な自分の家族のだれかに、もしものことが起こったら……?
そんなことにまで、思いを巡らせたのか、『レアの星』の読み聞かせが終わったあと、いつになく神妙に、しばらくは子どもたちの間を静かな時間が流れていました。
やがて、ぽつりぽつり、子どもたちは語りはじめました。
「レアは、かわいそうやけど、ほんまは、幸せなんや。」
「そうや、お星さまになって、天国いけたんやもん。」
「ロビンちゃんと、さいごまで仲良しでいられて、よかったね。」
「ぼくのおばあちゃん、92才で死なはったけど、お星さんになってはるやろか?」
「そら、生きている間にええことしてたら天国いけるんやし、お星さんにかてなれるんとちがう?」
「お星さんになれたかて、ぼく、やっぱり早う死ぬのはいやや。長生きしたいわ。」
「そういうたかて、神さんが決めはることやし、どうにもならんわ。」
ざっと、こんな会話が交わされていました。そこでわたしは、
「そうだね、100才まで生きれるお年寄りもいるし、たった10才で死ぬ子どももいる。人のいのちはだれも自分で決めることはできないね。でも、どんな人にでもできることは、生きている間、いのちの長い人は長い間、短い間は短い間、その一日一日のいのちを大事に、一生懸命生きていくことね。お勉強だって、大人になってからのお仕事だって、何でも、しぶしぶ、いやいや、だらだらしながら生きていても、死ぬときにはきっと悔いが残って、お星さまにはなれないよね。それから、お父さん、お母さん、兄弟、お友達、そういう回りにいる人たちと、こころを込めて、ありがとうの気持ちで、一人一人と大切に過ごしていく。これも大事なことだね。そうしたことが、さっき、お友だちの言った『ええことしてたら、天国いけるし、お星さまにもなれる』ということになるんだろうね。」
子どもたちは、先ほどからの神妙な顔つきを崩さないまま聞いていましたが、教室が終わって園庭へ出るなり、さっそくジャングルジムのてっぺんへ駆けのぼり、街へ向ってヤッホーと呼びかけたり、“泥巡ごっこ”で庭を駆け回ったりして元気いっぱい、ふだんの表情に戻っているのでした。
*
Yちゃんは、必死になって死を否定しました。ロビンは、静かに死を肯定し、励ましを与えています。まるで正反対のようですが、いずれも、子どもの感性に基づく純粋な死生観です。そして、死の問題と真剣に向かい合った子どもにとっては、それは生涯忘れ得ぬ感動だったのです。
このような、幼少期に受けた感動が、いついつまでも心のどこかに残っていたり、何かのはずみに思い起こされたりして、これからの人生の折々に生きる支えとなったり、判断の道しるべとなってくれるような、そのような絵本や紙芝居の選択に、今後も努めたいと思っています。
と同時に、福音館の松居氏も、
「絵本の読み聞かせは、絵本の力を生かす方法である」
と強調されるように、充分、読みの練習に時間をかけて、作者の意図が子どもたちの胸の中に浸透するような、そんな、効果ある読み聞かせを目指して、これからも努力したいと思っております。
(文章 山下一郎)
『ことば』高学年クラス
(火曜日A 4 :10~5 :10 / B 5 :30~6 :30)
『ほったんかけたか』
──担当 某
タイトルを見て何のことやらと思われた方が多いかと思いますが、これ、現在火曜日の「ことば」のクラスで読んでいる若山牧水の『みなかみ紀行』所収、「山上湖へ」という一章にでてきますひとことです。
ひとこと、といいますか、要は牧水が憩う木立の中で耳を澄ませた郭公(カッコウ)の鳴き声の音写であります。
私なぞは日本海側の生まれであるせいか、この「ほったんかけたか(ほっけんかけたか)」を読むと反射的に親不知子不知(おやしらずこしらず)、安寿と厨子王の昔話を思い出してしまうのですが、そういえばこれも森?外がたいへん優れた文章に書いております(『山椒大夫』)ので、そのうち授業で取り上げるかも知れませんし、また「何でほったんかけたかと?外が関係あるの」と思われた向きには繙読されると面白いかも知れません。
さて、私の担当している「ことば」のクラスでは、まず音読。そして漢字の読み書き。辞書を引く。という三本柱を建てています。
まだ屋根が載っかっておりませんけれど、屋根というのは文章を読んで感じ味わい、そしてそこから受けたこころの動き(ジーンとしたとか面白くなかったとか、何にも感じなかったとか、快不快ひっくるめてぜんぶ)を「自分が使える日本語で表現する=書く」ということであるのですが、そこまではまだ達成できておりません。
「何にも感じない」ことを表現する、というのはどうも一見矛盾しているようですが、感じないからにはその理由があって、どうしてそうなのという根本まで突き詰めて考える、そういうことが出来れば良い訳です。不可能なことではありません。
そしてその基礎となるのはやはり読み書きであり、土台もしっかりしてないのに屋根は載っかりませんし、また「音読」というのもポイントで、牧水は歌人でありますから、ことばの持つリズムとか舌の上に転がる感覚とか、そういったものを非常に大切にしています。それは実際に声に出して読んでみないとなかなか調子がわかりません。
文章を読む楽しみというもの、そのひとつには「自分のお気に入りのことばや文章を見つける」というのがあるかと思いますが、タイトルの「ほったんかけたか」は最近の授業でちょっとブレイク(まさに文字通り爆笑が割れて出る感じ)したことばであります。意外な面白さを湛えた日本語の発見、それはやはり他人から受ける感化の力が大きい。
自分は授業前に通読したときは、その前後の心情描写が非常に美しいことばかりに気を取られて、「ほったんかけたか」には特別注意を払うというようなことはしませんでしたけれども、この音写の絶妙なこと、それは柔らかな感受性に教えられたことであります。寂しさばっかりを感じてしみじみするのみならず、頭蓋骨に響いてくる朗らかさがあります。
本というのはいっぺん買ったら捨てるか売るか無くすまで、ずっと手元にあることになりますから、何年かまた何十年かあと、ふっと読み返してみるような偶然があるかも知れません。そんなすてきな偶然が、今は小さな雛鳥たちに、きっと訪れますように。
『ことば』高学年クラス
(火曜日A 4 :10~5 :10 / B 5 :30~6 :30)
『ほったんかけたか』
──担当 某
タイトルを見て何のことやらと思われた方が多いかと思いますが、これ、現在火曜日の「ことば」のクラスで読んでいる若山牧水の『みなかみ紀行』所収、「山上湖へ」という一章にでてきますひとことです。
ひとこと、といいますか、要は牧水が憩う木立の中で耳を澄ませた郭公(カッコウ)の鳴き声の音写であります。
私なぞは日本海側の生まれであるせいか、この「ほったんかけたか(ほっけんかけたか)」を読むと反射的に親不知子不知(おやしらずこしらず)、安寿と厨子王の昔話を思い出してしまうのですが、そういえばこれも森?外がたいへん優れた文章に書いております(『山椒大夫』)ので、そのうち授業で取り上げるかも知れませんし、また「何でほったんかけたかと?外が関係あるの」と思われた向きには繙読されると面白いかも知れません。
さて、私の担当している「ことば」のクラスでは、まず音読。そして漢字の読み書き。辞書を引く。という三本柱を建てています。
まだ屋根が載っかっておりませんけれど、屋根というのは文章を読んで感じ味わい、そしてそこから受けたこころの動き(ジーンとしたとか面白くなかったとか、何にも感じなかったとか、快不快ひっくるめてぜんぶ)を「自分が使える日本語で表現する=書く」ということであるのですが、そこまではまだ達成できておりません。
「何にも感じない」ことを表現する、というのはどうも一見矛盾しているようですが、感じないからにはその理由があって、どうしてそうなのという根本まで突き詰めて考える、そういうことが出来れば良い訳です。不可能なことではありません。
そしてその基礎となるのはやはり読み書きであり、土台もしっかりしてないのに屋根は載っかりませんし、また「音読」というのもポイントで、牧水は歌人でありますから、ことばの持つリズムとか舌の上に転がる感覚とか、そういったものを非常に大切にしています。それは実際に声に出して読んでみないとなかなか調子がわかりません。
文章を読む楽しみというもの、そのひとつには「自分のお気に入りのことばや文章を見つける」というのがあるかと思いますが、タイトルの「ほったんかけたか」は最近の授業でちょっとブレイク(まさに文字通り爆笑が割れて出る感じ)したことばであります。意外な面白さを湛えた日本語の発見、それはやはり他人から受ける感化の力が大きい。
自分は授業前に通読したときは、その前後の心情描写が非常に美しいことばかりに気を取られて、「ほったんかけたか」には特別注意を払うというようなことはしませんでしたけれども、この音写の絶妙なこと、それは柔らかな感受性に教えられたことであります。寂しさばっかりを感じてしみじみするのみならず、頭蓋骨に響いてくる朗らかさがあります。
本というのはいっぺん買ったら捨てるか売るか無くすまで、ずっと手元にあることになりますから、何年かまた何十年かあと、ふっと読み返してみるような偶然があるかも知れません。そんなすてきな偶然が、今は小さな雛鳥たちに、きっと訪れますように。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の「やまなし」を読みました。
「やまなし」は私自身、小学生の頃に教科書で読んだ記憶があります。
高学年ぐらいだったでしょうか。
最近、「青空文庫」でこの文章を見てその頃を思い出し、ふと懐かしい思いに駆られることがありました。
もしかしたら、この後生徒は学校の教科書でまた読むことになるかもしれません。そのときにせよ、あるいは他のときにせよ、この文章を思い出してくれればと思い、テクストに選びました。
でも、生徒のSくんは最初からこちらの予想をいい意味で裏切りました。
二匹の蟹が会話をしているのを見て、Sくんは、
「(この話は、)実はやまなしが弟の蟹に当たっているのをお兄さんの蟹が助ける話だよ」
と言いました。
最近気づいたことなのですが、Sくんは自分の中でいろんなお話を作るのが得意なようです。
もともと子どもはすぐに替え歌を作ったりするのが好きなようですが、Sくんは自分から新たなお話を作るのが好きなようです。
物語を改作してしまったり、新たな物語を作ったりするこのような傾向に私は注目しています。
もしこの流れをうまく引き出すことができれば、Sくんは「小さな作家」になれるかもしれませんから。
もしSくんがお話を紡ぎだすことができれば、これは山の学校の、そしてSくん自身の財産になるのではないでしょうか。
などということをちょっと期待しています。
もっとも、過剰な期待でSくんを押し潰してもいけないので、彼の気持ちを一つ一つ受けとめながら、やりとりしていきたいと思います。
今日はここまでということで失礼します。
Appendix.
以下はちょっとした夢想です。
例えば「小さな作家」となったSくんがつくったお話が、その後山の学校の生徒たちの前で読まれ、それに刺激されて新しい「小さな作家」たちが生まれたら、などということを考えてしまいます。
日本民俗学の祖である柳田國男は、物語の改作や新作のメカニズムをきわめて重視しました。
それはここでの話にも一致すると思います。
子どもたちの創作意欲によって生まれた物語が、後輩たちに受け継がれ、そしてその後輩たちがまた新たな物語を生み出し、それもまた受け継がれていく。
これは実現できればすごい話だと思います。
以上、ちょっとした夢でした。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の「やまなし」を読みました。
「やまなし」は私自身、小学生の頃に教科書で読んだ記憶があります。
高学年ぐらいだったでしょうか。
最近、「青空文庫」でこの文章を見てその頃を思い出し、ふと懐かしい思いに駆られることがありました。
もしかしたら、この後生徒は学校の教科書でまた読むことになるかもしれません。そのときにせよ、あるいは他のときにせよ、この文章を思い出してくれればと思い、テクストに選びました。
でも、生徒のSくんは最初からこちらの予想をいい意味で裏切りました。
二匹の蟹が会話をしているのを見て、Sくんは、
「(この話は、)実はやまなしが弟の蟹に当たっているのをお兄さんの蟹が助ける話だよ」
と言いました。
最近気づいたことなのですが、Sくんは自分の中でいろんなお話を作るのが得意なようです。
もともと子どもはすぐに替え歌を作ったりするのが好きなようですが、Sくんは自分から新たなお話を作るのが好きなようです。
物語を改作してしまったり、新たな物語を作ったりするこのような傾向に私は注目しています。
もしこの流れをうまく引き出すことができれば、Sくんは「小さな作家」になれるかもしれませんから。
もしSくんがお話を紡ぎだすことができれば、これは山の学校の、そしてSくん自身の財産になるのではないでしょうか。
などということをちょっと期待しています。
もっとも、過剰な期待でSくんを押し潰してもいけないので、彼の気持ちを一つ一つ受けとめながら、やりとりしていきたいと思います。
今日はここまでということで失礼します。
Appendix.
以下はちょっとした夢想です。
例えば「小さな作家」となったSくんがつくったお話が、その後山の学校の生徒たちの前で読まれ、それに刺激されて新しい「小さな作家」たちが生まれたら、などということを考えてしまいます。
日本民俗学の祖である柳田國男は、物語の改作や新作のメカニズムをきわめて重視しました。
それはここでの話にも一致すると思います。
子どもたちの創作意欲によって生まれた物語が、後輩たちに受け継がれ、そしてその後輩たちがまた新たな物語を生み出し、それもまた受け継がれていく。
これは実現できればすごい話だと思います。
以上、ちょっとした夢でした。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
一日過ぎてしまいましたが、今週の授業について書き込みさせていただきます。
今回は「動物」にまつわる俳句を詠むことにしました。
生徒が動物好きなので、今回はこのテーマを選んでみたのでした。
最初に小林一茶の動物にまつわる有名な俳句を紹介した後で、一緒に作り始めました。
ここに生徒の作品をいくつか紹介してみます。
・うぐいすは きれいなこえで うたってる。
ちょうど授業をはじめた直後に、うぐいすが「ホーホケキョ」と鳴いていたので、この句ができました。
鳴き声を歌声として捉え、それを美的なものと感じているような印象を受けます。
・くまはねえ あうとさいごは ころされる
ちょっと残酷な気もしますが、何で熊について一句詠むのかと思ったら、前に宮沢賢治の「なめとこやまのくま」を読んだときのことを覚えていたからのようです。
先週からこの子は教室にある動物図鑑に興味を持っており、授業が始まる前に熱心に読んでいました。
なので、今回はこの図鑑を見せて、気に入った動物について詠んでもらおうと思いました。
以下はその例です。
・ライオンは さるやえものを ねらってる
ライオンの獰猛なイメージが感じられます。
ちなみにこの「さる」は僕のことなのだそうです。むごい。
文章を書くのには抵抗はあっても、俳句は好きなようです。
こどもはことばのリズムみたいなものが好きなところがありますが、その観点から見れば俳句はまさに打ってつけの自己表現の手段なのでしょう。
今回はここまでということで失礼します。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
一日過ぎてしまいましたが、今週の授業について書き込みさせていただきます。
今回は「動物」にまつわる俳句を詠むことにしました。
生徒が動物好きなので、今回はこのテーマを選んでみたのでした。
最初に小林一茶の動物にまつわる有名な俳句を紹介した後で、一緒に作り始めました。
ここに生徒の作品をいくつか紹介してみます。
・うぐいすは きれいなこえで うたってる。
ちょうど授業をはじめた直後に、うぐいすが「ホーホケキョ」と鳴いていたので、この句ができました。
鳴き声を歌声として捉え、それを美的なものと感じているような印象を受けます。
・くまはねえ あうとさいごは ころされる
ちょっと残酷な気もしますが、何で熊について一句詠むのかと思ったら、前に宮沢賢治の「なめとこやまのくま」を読んだときのことを覚えていたからのようです。
先週からこの子は教室にある動物図鑑に興味を持っており、授業が始まる前に熱心に読んでいました。
なので、今回はこの図鑑を見せて、気に入った動物について詠んでもらおうと思いました。
以下はその例です。
・ライオンは さるやえものを ねらってる
ライオンの獰猛なイメージが感じられます。
ちなみにこの「さる」は僕のことなのだそうです。むごい。
文章を書くのには抵抗はあっても、俳句は好きなようです。
こどもはことばのリズムみたいなものが好きなところがありますが、その観点から見れば俳句はまさに打ってつけの自己表現の手段なのでしょう。
今回はここまでということで失礼します。
暑くなりましたね。
窓を開け放つと虫が入ってきて大騒ぎ…になるような季節。
日向で猫がごろごろと気持ち良さそうに寝そべって…。
さて、今日も牧水を読みました。第2章の真ん中くらいまで進みました。
ここのところ驚異的なスピードで音読が進んで行き、吃驚です。
今日はこんなことがありました。
教室へ行こうとすると、坂の下からMちゃんが上がってきて、
「先生、広辞苑買ったで」
重そうな鞄を見せてくれたのです。
その時、高校時代の恩師の言葉を思い出しました。
「重たい鞄は、ウチの高校の生徒のトレードマークだ!!」
背中にずしりと感じる辞書の重み。
そこには先人達の苦労と汗の結晶が詰まっています。
辞書は使い込めば使い込むほど手になじみ、眼になじみ、頭になじんできます。
自分だけの辞書になるのです。
真っ黒に手垢をつけるまで引く。
国語辞典なんて日本語なんだからそんなに引くこともないだろうと思うかもしれませ
ん。
でもそれは間違い。
ふだん自分達が使っている日本語が、どれほど貧弱なものか。
辞書は一生もの。
きっと大事な宝物になるでしょう。
今日の輝く夕陽のような…。
ではまた。
暑くなりましたね。
窓を開け放つと虫が入ってきて大騒ぎ…になるような季節。
日向で猫がごろごろと気持ち良さそうに寝そべって…。
さて、今日も牧水を読みました。第2章の真ん中くらいまで進みました。
ここのところ驚異的なスピードで音読が進んで行き、吃驚です。
今日はこんなことがありました。
教室へ行こうとすると、坂の下からMちゃんが上がってきて、
「先生、広辞苑買ったで」
重そうな鞄を見せてくれたのです。
その時、高校時代の恩師の言葉を思い出しました。
「重たい鞄は、ウチの高校の生徒のトレードマークだ!!」
背中にずしりと感じる辞書の重み。
そこには先人達の苦労と汗の結晶が詰まっています。
辞書は使い込めば使い込むほど手になじみ、眼になじみ、頭になじんできます。
自分だけの辞書になるのです。
真っ黒に手垢をつけるまで引く。
国語辞典なんて日本語なんだからそんなに引くこともないだろうと思うかもしれませ
ん。
でもそれは間違い。
ふだん自分達が使っている日本語が、どれほど貧弱なものか。
辞書は一生もの。
きっと大事な宝物になるでしょう。
今日の輝く夕陽のような…。
ではまた。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
水曜日「ことば」の授業担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の『なめとこの山の熊』を読みました。
熊を銃で殺してその肝を売る猟師が、最後には自分の方が熊に殺されるという話です。
この猟師(小十郎)は「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも撃たなけぁならねえ」と言います。
そんなかたちで自らの業を感じていた小十郎は、一頭の熊に殴られて死んでしまいます。熊は「おお小十郎、おまえを殺すつもりはなかった」と言っています。
そして、亡くなった小十郎の周りに熊が集まってきて、お話は終わりになります。
今日は生徒が自分から積極的に音読したいと言ってきたので、交替で読むことにしました。
読み終えた後、私は「小十郎は死んだ後にどうなったんだろう」と尋ねてみました。
すると「神様になったんだよ」という答えが。「熊たちは小十郎を神様にしたの」。「だって、熊たちはもともと小十郎のこと好きだったんだもん」。
以前に民俗学関係の本で読んだのですが、もともと東北のマタギの間では、殺した熊の霊を送る儀式が行なわれていたそうです。
おそらくは山岳信仰と関係があり、その霊は山の神のもとに送られていたそうで。
『なめとこ~』の中では、生徒の意見を踏まえて考えるならば、この図式が最後で反転するのだと思います。
つまり、熊たちの方こそが儀礼を施すことで、最後に殺された小十郎は神様になるのだと。
(確かにこの絵本の最後のシーンでは、熊たちが喪に服し、霊を送るための儀式を行なっているように見えます)。
他にもいろいろ興味深い対話があったのですが、今日のところはここまでにします。
水曜日「ことば」の授業担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の『なめとこの山の熊』を読みました。
熊を銃で殺してその肝を売る猟師が、最後には自分の方が熊に殺されるという話です。
この猟師(小十郎)は「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも撃たなけぁならねえ」と言います。
そんなかたちで自らの業を感じていた小十郎は、一頭の熊に殴られて死んでしまいます。熊は「おお小十郎、おまえを殺すつもりはなかった」と言っています。
そして、亡くなった小十郎の周りに熊が集まってきて、お話は終わりになります。
今日は生徒が自分から積極的に音読したいと言ってきたので、交替で読むことにしました。
読み終えた後、私は「小十郎は死んだ後にどうなったんだろう」と尋ねてみました。
すると「神様になったんだよ」という答えが。「熊たちは小十郎を神様にしたの」。「だって、熊たちはもともと小十郎のこと好きだったんだもん」。
以前に民俗学関係の本で読んだのですが、もともと東北のマタギの間では、殺した熊の霊を送る儀式が行なわれていたそうです。
おそらくは山岳信仰と関係があり、その霊は山の神のもとに送られていたそうで。
『なめとこ~』の中では、生徒の意見を踏まえて考えるならば、この図式が最後で反転するのだと思います。
つまり、熊たちの方こそが儀礼を施すことで、最後に殺された小十郎は神様になるのだと。
(確かにこの絵本の最後のシーンでは、熊たちが喪に服し、霊を送るための儀式を行なっているように見えます)。
他にもいろいろ興味深い対話があったのですが、今日のところはここまでにします。
水曜日「ことば」の授業担当の宇梶です。
忙しさにかまけてまだ先週分を書き込んでいません。
しかし、その日のうちに書き込まないと、細かい様子や感動が失われていってしまうようで、今となってはあの臨場感を再生するのが難しいです。
これからは少しでもいいから時間を見つけて書き込もうと思います。
今日はちょっと冒険しようと思い、ネット上で見つけた「鳥獣戯画」の画像をプリントアウトして持ってきました。
これで登場人物(というか動物)のセリフを考えてもらったり、物語を考えてもらおうと思っていました。
生徒の一人が蛙が相撲でうさぎを打ち負かしている絵を見てセリフを考えていましたが、そこで私は小林一茶の有名な一句を紹介しました。
・やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
「でもこの絵では蛙は勝っているね」と言ったところ、この生徒も一句詠みました。
・かえるがね はじめてかった うれしいな
そして「かえるはいつも負けてばっかりだけど、はじめて勝ったからうれしいんだよ」と付け加えていました。「それにこのかえるはでかいし」。
また、待ちぼうけしているうさぎたちに声をかけている猿の絵を見て、この生徒はこう詠んでいました。
・子どもたち 待ちくたびれた 猿先生
そして「僕たちが猿先生のことを待ってるの」と言っていました。
つまり、
・待っているうさぎたち=生徒たち、
・遅れてやってきた猿=私
となっているのです。
(註:私の下の名前が「まさる」なので、生徒からは「猿先生」とあだ名がつけられています)。
でもこの子は「あ、でも遅れてきたのは僕たちのほうだったっけ」と気付きました。
(註:確かにこの子は今日は遅刻してきました)。
授業前に園主先生とお話したのですが、山の学校の生徒たちはみんな率先して俳句を作っています。
小学生だった頃の私とは大違いです。俳句といえば、夏休みの宿題で無理矢理作らされた記憶しかないので。
にもかかわらず、ここの子たちはみんなうれしそうに作るので、見ていてすごく気持ちがいいです。
さあ、来週はどんな授業にしてみよう。
水曜日「ことば」の授業担当の宇梶です。
忙しさにかまけてまだ先週分を書き込んでいません。
しかし、その日のうちに書き込まないと、細かい様子や感動が失われていってしまうようで、今となってはあの臨場感を再生するのが難しいです。
これからは少しでもいいから時間を見つけて書き込もうと思います。
今日はちょっと冒険しようと思い、ネット上で見つけた「鳥獣戯画」の画像をプリントアウトして持ってきました。
これで登場人物(というか動物)のセリフを考えてもらったり、物語を考えてもらおうと思っていました。
生徒の一人が蛙が相撲でうさぎを打ち負かしている絵を見てセリフを考えていましたが、そこで私は小林一茶の有名な一句を紹介しました。
・やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
「でもこの絵では蛙は勝っているね」と言ったところ、この生徒も一句詠みました。
・かえるがね はじめてかった うれしいな
そして「かえるはいつも負けてばっかりだけど、はじめて勝ったからうれしいんだよ」と付け加えていました。「それにこのかえるはでかいし」。
また、待ちぼうけしているうさぎたちに声をかけている猿の絵を見て、この生徒はこう詠んでいました。
・子どもたち 待ちくたびれた 猿先生
そして「僕たちが猿先生のことを待ってるの」と言っていました。
つまり、
・待っているうさぎたち=生徒たち、
・遅れてやってきた猿=私
となっているのです。
(註:私の下の名前が「まさる」なので、生徒からは「猿先生」とあだ名がつけられています)。
でもこの子は「あ、でも遅れてきたのは僕たちのほうだったっけ」と気付きました。
(註:確かにこの子は今日は遅刻してきました)。
授業前に園主先生とお話したのですが、山の学校の生徒たちはみんな率先して俳句を作っています。
小学生だった頃の私とは大違いです。俳句といえば、夏休みの宿題で無理矢理作らされた記憶しかないので。
にもかかわらず、ここの子たちはみんなうれしそうに作るので、見ていてすごく気持ちがいいです。
さあ、来週はどんな授業にしてみよう。
もう夏のような天気ですね。
実家では5月初旬くらいまで雪が残っていることもあり、日本は狭くて広いことを実
感します。
さて、今日の授業の様子です。
初回が短く易しかったのに対して、今回はとても長くなりました。
しかも難読漢字が頻出ときています。
そのせいかはやばやと諦めの気持ちが出てきたようで、少々集中力に欠けた様子でし
たが、まだまだ旅の道は長いのです。気楽に行きましょう。
長い文章を読みきるというのは、結構根気の要るものです。
僕自身もそうでしたし、今でもそうかもしれません。
しかも小学校高学年、遊びたい盛りですから、ジッとしているのが不自然なくらい活
力に満ちていますね。
書いてきてもらった生徒の作文の中にも…
「ぼくが初めて言葉をしゃべれた時は、「昨日はなになにした、今日はなになにし
た、明日は外で遊びたい。」と言っていました。」
たぶん、この「なになに」の部分にも「遊んだ」が入るのでしょうね(笑)
それならば尚更、この本を読んで自ら行動を起こして、広い日本を見てきたい!と感
じてくれたらなあと心中密かに期待しています。
辞書を引く、という作業は今日で2度目ですが、こちらのほうはかなり楽しげにやっ
ています。
字引をひくばかりなんて面白くないかなあと思っていましたが、そうでもなさそうな
んですね。
何となくでも意味が記憶に残るように、少しづつアドバイスも含めて授業していこう
と思います。
「万巻の書を読み、万里の道を旅する」
池内紀氏によれば、これが古来、文人の条件であったそうです。
また老子は、
「学を絶たば、憂ひ無からむ」(上篇第20章)
と書いています。
学ぶことを止めるならば、憂慮することもなかろう、というくらいの意味でしょう
が、
これは老荘思想によくある逆説として理解してよいのだろうと思います。
学ぶこと…それは一体何のためなのでしょうか。
先人達の問いかけが、何度も何度も聞こえてきます。
ではまた来週。
追伸
4月27日の授業は当方の都合により休講とします。
そのぶんの授業は7月20日に行いたいと思いますが、その日都合のつかない方はご連
絡下さい。
もう夏のような天気ですね。
実家では5月初旬くらいまで雪が残っていることもあり、日本は狭くて広いことを実
感します。
さて、今日の授業の様子です。
初回が短く易しかったのに対して、今回はとても長くなりました。
しかも難読漢字が頻出ときています。
そのせいかはやばやと諦めの気持ちが出てきたようで、少々集中力に欠けた様子でし
たが、まだまだ旅の道は長いのです。気楽に行きましょう。
長い文章を読みきるというのは、結構根気の要るものです。
僕自身もそうでしたし、今でもそうかもしれません。
しかも小学校高学年、遊びたい盛りですから、ジッとしているのが不自然なくらい活
力に満ちていますね。
書いてきてもらった生徒の作文の中にも…
「ぼくが初めて言葉をしゃべれた時は、「昨日はなになにした、今日はなになにし
た、明日は外で遊びたい。」と言っていました。」
たぶん、この「なになに」の部分にも「遊んだ」が入るのでしょうね(笑)
それならば尚更、この本を読んで自ら行動を起こして、広い日本を見てきたい!と感
じてくれたらなあと心中密かに期待しています。
辞書を引く、という作業は今日で2度目ですが、こちらのほうはかなり楽しげにやっ
ています。
字引をひくばかりなんて面白くないかなあと思っていましたが、そうでもなさそうな
んですね。
何となくでも意味が記憶に残るように、少しづつアドバイスも含めて授業していこう
と思います。
「万巻の書を読み、万里の道を旅する」
池内紀氏によれば、これが古来、文人の条件であったそうです。
また老子は、
「学を絶たば、憂ひ無からむ」(上篇第20章)
と書いています。
学ぶことを止めるならば、憂慮することもなかろう、というくらいの意味でしょう
が、
これは老荘思想によくある逆説として理解してよいのだろうと思います。
学ぶこと…それは一体何のためなのでしょうか。
先人達の問いかけが、何度も何度も聞こえてきます。
ではまた来週。
追伸
4月27日の授業は当方の都合により休講とします。
そのぶんの授業は7月20日に行いたいと思いますが、その日都合のつかない方はご連
絡下さい。
はじめまして。水曜日「ことば」のクラス担当の宇梶と申します。
授業後、すぐにこちらに書き込もうと思っていたのですが、その後大学で研究会がありましたので、この時間に書き込ませていただきます。
はじめての授業ということで大変緊張していたのですが、生徒の顔を見て不安はすべて吹き飛んでしまいました。
今日は新年度ということで「桜」をテーマにした俳句を作ることにしていたのですが、生徒たちが「〈桜〉は前にもうやったから他のがいい」と言ったので、「何がいい?」と尋ねてみたら、「竹がいい」というのでこれをテーマにしました。

ここに作品を二つ載せます。
・はっぱわね さいしょわきれいで いつかちる
「寂しげな句だね」とコメントしたら、「はっぱってそうだもん」と言っていました。どこか悟ったような感じです。
・はっぱはねえ 赤いはっぱも あるんだよ
この子は色や大きさにこだわった句をたくさん作っていました。当たり前に思えそうなことを素朴に疑問に思っていたようで、好奇心が旺盛という印象を受けました。
私は授業をするにあたって、「表現する」ということに重点を置きたいと考えていました。
それも、できるだけその子の持ち味を内在的に引き出していこうと。
精神分析には「自由連想」という概念がありますが、それは治療者が一方的に遮ったり解釈するのではなく、患者さんが思いついたことを何でも自由に話してもらうというものです。そうすることで、患者さんが持っている「ことば」を内在的に引き出していくというのがこの手法の眼目です。
これは治療の場に限らず、自己表現という文脈でも当てはまると思っています。
教える側が一方的に文章を矯正するのではなく、その子が自分の「ことば」を発し、それを豊かに展開していくような、そのような自己表現の授業をすることができればと考えています。
大人(自分も含めて)だとどうしても連想の途中で「こういうことを思いつくのは恥ずかしいことかな」という風に自制がかかってしまい、発想の自由さを展開することができないのではないでしょうか。
新たな考えや思いを生み出す豊かな着想、言ってみれば「着床としての着想」みたいなものを目の当たりにできることを望んでいます。
本を読み聞かせたりするときも、内容を一方的に押し付けるのではなく、その子なりに「ことば」を内面化してもらって、その子なりに消化してもらえればと思っています。
来週は「百万回生きたねこ」を読み聞かせて、感想文を書いてもらおうと思っています。どんな文章が飛び出すか、大変楽しみです。
それでは失礼いたします。
はじめまして。水曜日「ことば」のクラス担当の宇梶と申します。
授業後、すぐにこちらに書き込もうと思っていたのですが、その後大学で研究会がありましたので、この時間に書き込ませていただきます。
はじめての授業ということで大変緊張していたのですが、生徒の顔を見て不安はすべて吹き飛んでしまいました。
今日は新年度ということで「桜」をテーマにした俳句を作ることにしていたのですが、生徒たちが「〈桜〉は前にもうやったから他のがいい」と言ったので、「何がいい?」と尋ねてみたら、「竹がいい」というのでこれをテーマにしました。

ここに作品を二つ載せます。
・はっぱわね さいしょわきれいで いつかちる
「寂しげな句だね」とコメントしたら、「はっぱってそうだもん」と言っていました。どこか悟ったような感じです。
・はっぱはねえ 赤いはっぱも あるんだよ
この子は色や大きさにこだわった句をたくさん作っていました。当たり前に思えそうなことを素朴に疑問に思っていたようで、好奇心が旺盛という印象を受けました。
私は授業をするにあたって、「表現する」ということに重点を置きたいと考えていました。
それも、できるだけその子の持ち味を内在的に引き出していこうと。
精神分析には「自由連想」という概念がありますが、それは治療者が一方的に遮ったり解釈するのではなく、患者さんが思いついたことを何でも自由に話してもらうというものです。そうすることで、患者さんが持っている「ことば」を内在的に引き出していくというのがこの手法の眼目です。
これは治療の場に限らず、自己表現という文脈でも当てはまると思っています。
教える側が一方的に文章を矯正するのではなく、その子が自分の「ことば」を発し、それを豊かに展開していくような、そのような自己表現の授業をすることができればと考えています。
大人(自分も含めて)だとどうしても連想の途中で「こういうことを思いつくのは恥ずかしいことかな」という風に自制がかかってしまい、発想の自由さを展開することができないのではないでしょうか。
新たな考えや思いを生み出す豊かな着想、言ってみれば「着床としての着想」みたいなものを目の当たりにできることを望んでいます。
本を読み聞かせたりするときも、内容を一方的に押し付けるのではなく、その子なりに「ことば」を内面化してもらって、その子なりに消化してもらえればと思っています。
来週は「百万回生きたねこ」を読み聞かせて、感想文を書いてもらおうと思っています。どんな文章が飛び出すか、大変楽しみです。
それでは失礼いたします。
福西@余談です。
朗読の素材として、一ついいものを見つけました。
落語です。
「落語図書館」(三遊亭円窓)という本が十冊あって、図書館
(児童書の棚)から借りてきて、読んでいます。それを少しず
つ読むのが、我が家に帰ってからの楽しみです。
落語は、時々テレビで見るくらいだったので、ほとんどはじめ
ての話が多く、いつも最後まで「落ち」が見えないのが面白い
です。(タイトルがやっとそこで思い出されます)
しかも、最後の一言で、からくりがとける、というあたりの、言
葉の凝縮された使い方がすごいなと感心します。その後ろに、
言葉を洗練してきた歴史を感じます。
噺は、内容が先を知りたくなるので、「読まされている」という
気持ちにならずにすむ期待があります。また、朗読の素材に
使うにつもりで、実はそれだけに終わらないところで、何か
たくさん伝えられそうです。
これは、手の内に入れたいなと思って、勉強中です。
(そこでまた、日本語を見つけるのは実に楽しいです)
朗読が大事なのは、それを書くときにも、声となって蘇ってくる
からですが、書いた文章の自然さ、不自然さは、声に出して読
めるか、どうかで出てきます。落語や時の忘却に耐えてきた
古典にはそれがあります。
読んだ作品が自分の文章に反映することもあります。あれも、
頭の中で、自分が黙読している時の「頭の中の声」を聞いて
いるからです。古典に限らず、日本の作品は、その意味で日
本語の香りをそのまま身に染み付ける恰好のお手本です。
(最近そのことに目覚めて、N先生にも触発されて、外国
だけでなく、日本人のものを読んでいます。)
ぼくは今でも、読み聞かせと、朗読を大事にしたいと考えます。
去年は、紙芝居、昔話、俳句、和歌、漢文をしてきましたが、
落語はその延長で、新しい地平を拓きそうです。
新しいと言いながら、実は昔からあるものを発見するのが、
ぼくは楽しいです。
福西亮馬
福西@余談です。
朗読の素材として、一ついいものを見つけました。
落語です。
「落語図書館」(三遊亭円窓)という本が十冊あって、図書館
(児童書の棚)から借りてきて、読んでいます。それを少しず
つ読むのが、我が家に帰ってからの楽しみです。
落語は、時々テレビで見るくらいだったので、ほとんどはじめ
ての話が多く、いつも最後まで「落ち」が見えないのが面白い
です。(タイトルがやっとそこで思い出されます)
しかも、最後の一言で、からくりがとける、というあたりの、言
葉の凝縮された使い方がすごいなと感心します。その後ろに、
言葉を洗練してきた歴史を感じます。
噺は、内容が先を知りたくなるので、「読まされている」という
気持ちにならずにすむ期待があります。また、朗読の素材に
使うにつもりで、実はそれだけに終わらないところで、何か
たくさん伝えられそうです。
これは、手の内に入れたいなと思って、勉強中です。
(そこでまた、日本語を見つけるのは実に楽しいです)
朗読が大事なのは、それを書くときにも、声となって蘇ってくる
からですが、書いた文章の自然さ、不自然さは、声に出して読
めるか、どうかで出てきます。落語や時の忘却に耐えてきた
古典にはそれがあります。
読んだ作品が自分の文章に反映することもあります。あれも、
頭の中で、自分が黙読している時の「頭の中の声」を聞いて
いるからです。古典に限らず、日本の作品は、その意味で日
本語の香りをそのまま身に染み付ける恰好のお手本です。
(最近そのことに目覚めて、N先生にも触発されて、外国
だけでなく、日本人のものを読んでいます。)
ぼくは今でも、読み聞かせと、朗読を大事にしたいと考えます。
去年は、紙芝居、昔話、俳句、和歌、漢文をしてきましたが、
落語はその延長で、新しい地平を拓きそうです。
新しいと言いながら、実は昔からあるものを発見するのが、
ぼくは楽しいです。
福西亮馬
今日初めて山の学校で授業をしました。
小学校高学年に若山牧水は難しすぎて最初からやる気をなくしてしまうのではないか
という危惧もありましたが、いざ始めてみると、そうでもなさそうでした。
来週からは、どーんと読む量が増えますが、頑張ってやっていきましょう。
さて。
「本を読むとき、解らないことばや表現に出会ったら辞書を引けるようにする」とい
うことが、この授業の目標の第一ですけれども、それもあまりに堅苦しくやると面白
くありません。かえって「つまんない」という思いにさせてしまうかもしれません。
「探すということ」
これが辞書を引くという行為のことですが、別なことばで言えばゲームみたいなもの
です。お正月のカルタ遊びのようなものでしょうか。「あ、あった!」「ないなあ」
ということの連続です。
探検家や冒険家や学者と呼ばれる人たちの眼はきらきらと輝いて、まるで子供のよう
だといわれることがありますが、これらの人々は広義にはみな「探す」ということを
しているのだと思います。
不思議に満ち溢れた世界に身を置き、眼に映るものがなにであるかを知ろうとするこ
と。
あるいはそこに何かを探しに行くこと。
望みのものが見つかるかも知れないし、それとは別だけれども、何か面白いものが見
つかるかも知れない。
「探す」ことの面白さはそこにあると思います。そういう意味では辞書を引くという
ことを「ことばの探険」といって差し支えないかも知れません。
人間がなにか不思議に出会ったときの眼に宿る言いようのない素直な煌きは、
加齢と共に抑圧されてしまうように思います。
妙な気取りや衒いといってよいかも知れません。
「上野の草津の湯より
沢渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠」
小野竹喬の描くあの淡い朱のような西空を眺めつつ
灯りの点り始めた街並へと坂道を降りてゆくとき、
春に出かけてきた草津の暮色が重なりました。
ではまた来週。
今日初めて山の学校で授業をしました。
小学校高学年に若山牧水は難しすぎて最初からやる気をなくしてしまうのではないか
という危惧もありましたが、いざ始めてみると、そうでもなさそうでした。
来週からは、どーんと読む量が増えますが、頑張ってやっていきましょう。
さて。
「本を読むとき、解らないことばや表現に出会ったら辞書を引けるようにする」とい
うことが、この授業の目標の第一ですけれども、それもあまりに堅苦しくやると面白
くありません。かえって「つまんない」という思いにさせてしまうかもしれません。
「探すということ」
これが辞書を引くという行為のことですが、別なことばで言えばゲームみたいなもの
です。お正月のカルタ遊びのようなものでしょうか。「あ、あった!」「ないなあ」
ということの連続です。
探検家や冒険家や学者と呼ばれる人たちの眼はきらきらと輝いて、まるで子供のよう
だといわれることがありますが、これらの人々は広義にはみな「探す」ということを
しているのだと思います。
不思議に満ち溢れた世界に身を置き、眼に映るものがなにであるかを知ろうとするこ
と。
あるいはそこに何かを探しに行くこと。
望みのものが見つかるかも知れないし、それとは別だけれども、何か面白いものが見
つかるかも知れない。
「探す」ことの面白さはそこにあると思います。そういう意味では辞書を引くという
ことを「ことばの探険」といって差し支えないかも知れません。
人間がなにか不思議に出会ったときの眼に宿る言いようのない素直な煌きは、
加齢と共に抑圧されてしまうように思います。
妙な気取りや衒いといってよいかも知れません。
「上野の草津の湯より
沢渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠」
小野竹喬の描くあの淡い朱のような西空を眺めつつ
灯りの点り始めた街並へと坂道を降りてゆくとき、
春に出かけてきた草津の暮色が重なりました。
ではまた来週。
一郎先生のクラスも、亮馬先生のクラスも今日が最終日。
小学生も、いつもより早く山に登ってきました。クラスが始まるまで、友達同士、遊具で遊ぶのです。
一郎先生は、俳句と本の読み聞かせ(どちらも私が子ども時代にたくさん学んだことですが)を中心に教えて下さっています。4月からは、低学年を担当して頂きます。
亮馬先生は、カプラルームで授業だったので、園長室から中身がよく聞こえておりました(笑)。
今日はなぜか手に菜の花を抱えてご登場。
菜の花や 月は東に 日は西に 蕪村
うぐいすの 鳴くや小さき 口あけて 蕪村
今日はこれらの俳句を低学年に教えて下さっていた模様。
だから、菜の花をもってこられたのですね。じゃあ、うぐいすは?ということで、授業の後半はなんと、山の奥まで子ども達とでかけました。
行く先は、「秘密の森」です。道すがらうぐいすの声を聞くためにです。
途中、Kei ちゃんが遅れてやってきました。
私が Kei ちゃんをつれて秘密の森まで行くと、本当にたくさんのうぐいすがないていました。
■ 「かず」の補習
あと、Shu くんと Junpei くんの「かず」の補習も今日はありました。二人は兄弟のように仲がよいのですが、前回は卒園式の前の日で、遅れてきた Shu くんは、いつもの場所に Junpei 君の靴がないので、今日はお休みだと勘違い。
いったん家に戻ったところ、じつはひねもすルームで授業だとわかって、もう一度お山に向かって登ってきました。
でも、ついたときにはすでに5時半。ちょうど入れ違いに Junpei 君は家に帰っていました。亮馬先生は、そこから Shu 君に勉強を個別に教えて下さったのですが、やはり二人一緒に教えてあげたかった、という心残りがありました。
そこで、補習。亮馬先生も子ども時代に校庭の砂の上で解こうと取り組んだ図形の問題があります。じつは、先週まで解けないままだったそうで、いつ見ても、腕組みして考え中の姿。
それが先週の授業の中で答えが見つかったそうです。しかし、子ども達には解き方は言わずに考えさせたのだ、と。
最終回の昨日も二人はウンウンうなってその問題を考え、ああでもないこうでもない、と相談しながらも、結局解き方はわからなかったそうです。
しかし、亮馬先生は正解を言わなかった。私はそれが正解だと思いました。
二人の子どもは家の都合で一人は遠くに引っ越します。
二人が一緒に勉強する日は昨日が最後でした。
しかし、子ども達の心には、ずっと解けないままの図形の問題が、山で学んだ楽しい思い出といっしょにいつまでも、心に残りつづけると思います。
Shu 君は、言ったそうです、「問題解けたら、この山に来るしな」と。
--
忘れぬよう、私が書かせてもらいました。時間があれば、亮馬先生、またフォロー
をお願いします。
一郎先生のクラスも、亮馬先生のクラスも今日が最終日。
小学生も、いつもより早く山に登ってきました。クラスが始まるまで、友達同士、遊具で遊ぶのです。
一郎先生は、俳句と本の読み聞かせ(どちらも私が子ども時代にたくさん学んだことですが)を中心に教えて下さっています。4月からは、低学年を担当して頂きます。
亮馬先生は、カプラルームで授業だったので、園長室から中身がよく聞こえておりました(笑)。
今日はなぜか手に菜の花を抱えてご登場。
菜の花や 月は東に 日は西に 蕪村
うぐいすの 鳴くや小さき 口あけて 蕪村
今日はこれらの俳句を低学年に教えて下さっていた模様。
だから、菜の花をもってこられたのですね。じゃあ、うぐいすは?ということで、授業の後半はなんと、山の奥まで子ども達とでかけました。
行く先は、「秘密の森」です。道すがらうぐいすの声を聞くためにです。
途中、Kei ちゃんが遅れてやってきました。
私が Kei ちゃんをつれて秘密の森まで行くと、本当にたくさんのうぐいすがないていました。
■ 「かず」の補習
あと、Shu くんと Junpei くんの「かず」の補習も今日はありました。二人は兄弟のように仲がよいのですが、前回は卒園式の前の日で、遅れてきた Shu くんは、いつもの場所に Junpei 君の靴がないので、今日はお休みだと勘違い。
いったん家に戻ったところ、じつはひねもすルームで授業だとわかって、もう一度お山に向かって登ってきました。
でも、ついたときにはすでに5時半。ちょうど入れ違いに Junpei 君は家に帰っていました。亮馬先生は、そこから Shu 君に勉強を個別に教えて下さったのですが、やはり二人一緒に教えてあげたかった、という心残りがありました。
そこで、補習。亮馬先生も子ども時代に校庭の砂の上で解こうと取り組んだ図形の問題があります。じつは、先週まで解けないままだったそうで、いつ見ても、腕組みして考え中の姿。
それが先週の授業の中で答えが見つかったそうです。しかし、子ども達には解き方は言わずに考えさせたのだ、と。
最終回の昨日も二人はウンウンうなってその問題を考え、ああでもないこうでもない、と相談しながらも、結局解き方はわからなかったそうです。
しかし、亮馬先生は正解を言わなかった。私はそれが正解だと思いました。
二人の子どもは家の都合で一人は遠くに引っ越します。
二人が一緒に勉強する日は昨日が最後でした。
しかし、子ども達の心には、ずっと解けないままの図形の問題が、山で学んだ楽しい思い出といっしょにいつまでも、心に残りつづけると思います。
Shu 君は、言ったそうです、「問題解けたら、この山に来るしな」と。
--
忘れぬよう、私が書かせてもらいました。時間があれば、亮馬先生、またフォロー
をお願いします。
福西(ことば・高学年)です。
今回も、古文の暗唱です。
疎水べりを歩きながら、方丈記の冒頭と、漢文を暗唱しました。
歩きながら、手をあげた人の暗唱を一人ずつ聞いていき、
言えたら、「合格」と言ってあげます。
ぼくのすることは、まあこれだけです。
方丈記の「行く河」が流れている京都で、「歩きながら暗唱したなあ」
という思い出を作る。そんな授業でした。(鴨川ではありませんが)
今日の暗唱は、次の二文。
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例なし。
年年歳歳 花 相似たり
歳歳年年 人 同じからず
方丈記は一目で「長い」と感じたらしく、どの子も敬遠しがちでした。
でも、「年年歳歳…」からクリアーすると、食欲(まさに食欲です)
が出てきて、「よっしゃ、次!」という流れができました。
でも、まだ方丈記はハードルが高かったらしく、その中間に、
前回の復習をあてました。
東風吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
帰りなんいざ 田園まさに蕪れなんとす なんぞ帰らざる
やっぱり一回目と二回目は覚えがちがうようで、よく言えました。
あの微妙に記憶回路をくすぐるのが面白いようです。
これで合格が一つから三つに増え、そこで残した方丈記にも、
食欲が出たようです。方丈記は三つに切って「食べ」ました。
小学生が六人口々に、疎水に到着するまで、暗唱。暗唱。暗唱。
そして疎水べりでは、「行く川の水は…」。
散歩で行き交う人に、彼らの声はどんなふうに聞こえたのかなあ
とふと思いました。
「今度三年生の教室に入ってくるのが、今三年生の君
じゃないように…」というふうなことも話しながら、
みんなで疎水を見つめていました。
山の下に戻ってくる間もまたよくて、熱唱続きでした。
あれはまたもう一度したいです。
福西(ことば・高学年)です。
今回も、古文の暗唱です。
疎水べりを歩きながら、方丈記の冒頭と、漢文を暗唱しました。
歩きながら、手をあげた人の暗唱を一人ずつ聞いていき、
言えたら、「合格」と言ってあげます。
ぼくのすることは、まあこれだけです。
方丈記の「行く河」が流れている京都で、「歩きながら暗唱したなあ」
という思い出を作る。そんな授業でした。(鴨川ではありませんが)
今日の暗唱は、次の二文。
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例なし。
年年歳歳 花 相似たり
歳歳年年 人 同じからず
方丈記は一目で「長い」と感じたらしく、どの子も敬遠しがちでした。
でも、「年年歳歳…」からクリアーすると、食欲(まさに食欲です)
が出てきて、「よっしゃ、次!」という流れができました。
でも、まだ方丈記はハードルが高かったらしく、その中間に、
前回の復習をあてました。
東風吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
帰りなんいざ 田園まさに蕪れなんとす なんぞ帰らざる
やっぱり一回目と二回目は覚えがちがうようで、よく言えました。
あの微妙に記憶回路をくすぐるのが面白いようです。
これで合格が一つから三つに増え、そこで残した方丈記にも、
食欲が出たようです。方丈記は三つに切って「食べ」ました。
小学生が六人口々に、疎水に到着するまで、暗唱。暗唱。暗唱。
そして疎水べりでは、「行く川の水は…」。
散歩で行き交う人に、彼らの声はどんなふうに聞こえたのかなあ
とふと思いました。
「今度三年生の教室に入ってくるのが、今三年生の君
じゃないように…」というふうなことも話しながら、
みんなで疎水を見つめていました。
山の下に戻ってくる間もまたよくて、熱唱続きでした。
あれはまたもう一度したいです。
N先生の「ことば」高学年では、若山牧水の作品を扱う予定とのこと。
さっそくいただいたシラバスは、なかなか骨がありますね。
ファイルは、ここです。
N先生の「ことば」高学年では、若山牧水の作品を扱う予定とのこと。
さっそくいただいたシラバスは、なかなか骨がありますね。
ファイルは、ここです。
福西(ことば)です。
この詩が、私の見ている理想です。
童冠 業を斉(ひと)しくし
閑かに詠じて以て帰る。
我れ其の静を愛し、
ごび交々揮う。
(時運、陶淵明)
いっしょに授業を受けている
元服前と元服後の若者同士が、
のびやかに詩を吟じつつ帰っていった。
わたしはその静けさを愛し、
寝ても覚めても思い焦がれる。
宮沢賢治ではないですが、
「…そんなクラスに、私はしたい。」
です。
福西(ことば)です。
この詩が、私の見ている理想です。
童冠 業を斉(ひと)しくし
閑かに詠じて以て帰る。
我れ其の静を愛し、
ごび交々揮う。
(時運、陶淵明)
いっしょに授業を受けている
元服前と元服後の若者同士が、
のびやかに詩を吟じつつ帰っていった。
わたしはその静けさを愛し、
寝ても覚めても思い焦がれる。
宮沢賢治ではないですが、
「…そんなクラスに、私はしたい。」
です。
福西(ことば)です。
漢文を読んでいたら、ホラティウス
を連想する句が出てきました。
「歳月人を待たず」です。
得歡当作楽 歓を得てはまさに楽しみを作すべし、
斗酒聚比鄰 斗酒、比隣(ひりん)を集む。
盛年不重来 盛年、重ねて来たらず
一日難再晨 一日、再び朝(あした)なり難し。
及時当勉勵 時に及んでまさに勉励すべし、
歳月不待人 歳月は人を待たず。
(雑歌、陶淵明)
うれしい時は、心ゆくまで楽しみ、
酒をたっぷり用意して近所の仲間と一緒に飲むがいい。
若い時は二度とはやって来ないし、
一日に二度目の朝はない。
楽しめる時には、せいぜい楽しもう。
「時」というのは人を待ってはくれないぞ。
「勉」というのが中国語では「楽しむ」という意味らしく、
勉励は「楽しみに励む」、従って、「カルペ・ディエム」
の本来の意味と似ているのを知って、驚きました。
carpe diem(一日を摘め)でも、
「まじめに生きよう」的な意味は、後からの解釈でしたね。
原文(ホラティウス、詩集Ⅰ・ⅩⅠ)
http://www.thelatinlibrary.com/horace/carm1.shtml
恋人に呼びかけている文脈で、「人生いちどきり、だから恋愛しよう」
というのがもともとなことから、
carpe diemと「歳月人を待たず」は、後の解釈のされ方も
似ていて、なんだか、不思議な一致を見たような感じがしました。
carpe diemの訳は、taro先生のHPにもありますね。
福西(ことば)です。
漢文を読んでいたら、ホラティウス
を連想する句が出てきました。
「歳月人を待たず」です。
得歡当作楽 歓を得てはまさに楽しみを作すべし、
斗酒聚比鄰 斗酒、比隣(ひりん)を集む。
盛年不重来 盛年、重ねて来たらず
一日難再晨 一日、再び朝(あした)なり難し。
及時当勉勵 時に及んでまさに勉励すべし、
歳月不待人 歳月は人を待たず。
(雑歌、陶淵明)
うれしい時は、心ゆくまで楽しみ、
酒をたっぷり用意して近所の仲間と一緒に飲むがいい。
若い時は二度とはやって来ないし、
一日に二度目の朝はない。
楽しめる時には、せいぜい楽しもう。
「時」というのは人を待ってはくれないぞ。
「勉」というのが中国語では「楽しむ」という意味らしく、
勉励は「楽しみに励む」、従って、「カルペ・ディエム」
の本来の意味と似ているのを知って、驚きました。
carpe diem(一日を摘め)でも、
「まじめに生きよう」的な意味は、後からの解釈でしたね。
原文(ホラティウス、詩集Ⅰ・ⅩⅠ)
http://www.thelatinlibrary.com/horace/carm1.shtml
恋人に呼びかけている文脈で、「人生いちどきり、だから恋愛しよう」
というのがもともとなことから、
carpe diemと「歳月人を待たず」は、後の解釈のされ方も
似ていて、なんだか、不思議な一致を見たような感じがしました。
carpe diemの訳は、taro先生のHPにもありますね。
福西(ことば)です。

きのうは低学年クラスでした。幼稚園のまねをして、
春の海 ひねもすのたり のたりかな 蕪村
を今日は暗唱し、それから、これまでの俳句(十二月~二月)
のおさらいをしました。
一つぶの 音にはじまる 時雨かな 柏翠(はくすい)
竹馬や うれしさ見える 高あるき 龍雨(りゅうう)
いかのぼり きのふの空の ありどころ 蕪村
隠れ家や 歯のない口で 福は内 一茶
寒月や くひつきさうな 鬼瓦 一茶
雀子や 走りなれたる 鬼瓦 鳴雪(めいせつ)
後半からは、自分たちの作品を一句ずつあげてきました。
富山はね 立山あるよ たのしいな 幸太郎
太陽は 沈むときれいな 星が出る 駿
窓はね 一寸開くと さぶいな 圭介
うちわはね 冬にすると 寒すぎる 祐介
正月 息吐いたらね 白けむり 遼亮
春にはね 入学式で かわいいな 泰生
朝はまぶしい
眠いのを 取ってくれるよ ありがとう 洋美
その後、梅が山の上でも下でも咲いているので、見に
行きました。それから部屋に戻ってきて、また自分
たちで俳句を作ってもらいました。
梅見の道中、五七五を指折り数えて、
「はやく(忘れないよう)に帰ろう!」
とある男の子が言ったことが、ほほえましかったです。
しだれ梅(何と言うのか知らない)の下に立つと、
「梅の香」というのは、本当にあるんだなと知りました。
福西(ことば)です。

きのうは低学年クラスでした。幼稚園のまねをして、
春の海 ひねもすのたり のたりかな 蕪村
を今日は暗唱し、それから、これまでの俳句(十二月~二月)
のおさらいをしました。
一つぶの 音にはじまる 時雨かな 柏翠(はくすい)
竹馬や うれしさ見える 高あるき 龍雨(りゅうう)
いかのぼり きのふの空の ありどころ 蕪村
隠れ家や 歯のない口で 福は内 一茶
寒月や くひつきさうな 鬼瓦 一茶
雀子や 走りなれたる 鬼瓦 鳴雪(めいせつ)
後半からは、自分たちの作品を一句ずつあげてきました。
富山はね 立山あるよ たのしいな 幸太郎
太陽は 沈むときれいな 星が出る 駿
窓はね 一寸開くと さぶいな 圭介
うちわはね 冬にすると 寒すぎる 祐介
正月 息吐いたらね 白けむり 遼亮
春にはね 入学式で かわいいな 泰生
朝はまぶしい
眠いのを 取ってくれるよ ありがとう 洋美
その後、梅が山の上でも下でも咲いているので、見に
行きました。それから部屋に戻ってきて、また自分
たちで俳句を作ってもらいました。
梅見の道中、五七五を指折り数えて、
「はやく(忘れないよう)に帰ろう!」
とある男の子が言ったことが、ほほえましかったです。
しだれ梅(何と言うのか知らない)の下に立つと、
「梅の香」というのは、本当にあるんだなと知りました。
福西(ことばクラス)です。

先週の「ことば」(高学年)では、梅と桃がモチーフでした。
梅には、大宰府に左遷された菅原道真の話をし、桃には陶淵明
の桃源郷の話をしました。(その日の紙芝居はもちろん、『花さか
じいさん』でした。)
さて、今回は二つの文を暗唱しました。まるで吸い取り紙のように
覚えてくれて、この意欲、なかなか暗唱も捨てたものではないです。
爽やかな寺小屋みたいでした。
東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな 道真
(春な忘れそ)
帰去来兮 田園将蕪 胡不帰 陶淵明
(かえりなんいざ、でんえんまさにあれなんとす。なんぞかえらざる)
それまでがいちおう和歌をしていたので、漢文は人気ないかな?
と思ったら、意外や意外、積極的に声にしてくれます。わりと渋め
好みかもしれません、このクラス。
そのようなわけで最近は漢文も読み出しています。
ところで、
山滌余靄
(山はもやに洗われ)
という個所をはじめて目にしたとき、ちょうど今の季節かなと思います。比叡
や大文字のことが浮かんだのがきっかけで、私は漢文が好きになりました。
漢文はまだまだ未開拓ですが、トンネルを掘る楽しみが少し見えてきたよう
に思います。
「靄に洗われている」という表現には、山はちがっても、中国も日本もなく伝
わってくる感情がありますね。それで(ああ、あの様子のことだ)と、心の中
で何度かつぶやいているとふと、このように感じたことのあるのは、何も私
一人ではないと気付きました。
そして、同じく感じた古人先達のことがふと思い浮かんだのです。私はその
ことで、ついうれしくなりました。漢文を学びながら日本人が見えたからです。
それまでの私と漢文との関係は、「漢文」と「私」という一対一(マンツーマン)
状態でした。中学・高校で漢文の授業があるのは、「その書かれている事柄
が大事だから」だろうと個人的に思っていたくらいです。しかし今振り返ると、
「漢文」が今も教えられていることの原動力は、「日本人の情がわくから」で
はないかと思います。
「あのときのあれを、こう表現するんだなあ」──このしみじみ然とする一致、
共感を、おそらく日本の古人は返り点でも打ちながら、空間を超えて重ねて
きたのでしょう。そのことを時間を超えて思いながら、再び漢文の作品を紐解
くにつれ、私と漢文との関係は、「漢文」と「日本の古人」と「私」というように
広がっていきました。
漢文そのものの楽しみを 聞こえるメロディーとするなら、それに付随するも
の、共感し暗唱し書き写してきた日本人の心の履歴を知る愉しみこそは、
聞こえないものです。これが聞こえて、私はついうれしくなったのです。
「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす、何ぞ帰らざる」にしても、その
言葉で慰められてきた人の心が、今では地層になっている。それで、噛みし
めるたびに何とも言えず情がわくのだと思います。
福西亮馬
福西(ことばクラス)です。

先週の「ことば」(高学年)では、梅と桃がモチーフでした。
梅には、大宰府に左遷された菅原道真の話をし、桃には陶淵明
の桃源郷の話をしました。(その日の紙芝居はもちろん、『花さか
じいさん』でした。)
さて、今回は二つの文を暗唱しました。まるで吸い取り紙のように
覚えてくれて、この意欲、なかなか暗唱も捨てたものではないです。
爽やかな寺小屋みたいでした。
東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな 道真
(春な忘れそ)
帰去来兮 田園将蕪 胡不帰 陶淵明
(かえりなんいざ、でんえんまさにあれなんとす。なんぞかえらざる)
それまでがいちおう和歌をしていたので、漢文は人気ないかな?
と思ったら、意外や意外、積極的に声にしてくれます。わりと渋め
好みかもしれません、このクラス。
そのようなわけで最近は漢文も読み出しています。
ところで、
山滌余靄
(山はもやに洗われ)
という個所をはじめて目にしたとき、ちょうど今の季節かなと思います。比叡
や大文字のことが浮かんだのがきっかけで、私は漢文が好きになりました。
漢文はまだまだ未開拓ですが、トンネルを掘る楽しみが少し見えてきたよう
に思います。
「靄に洗われている」という表現には、山はちがっても、中国も日本もなく伝
わってくる感情がありますね。それで(ああ、あの様子のことだ)と、心の中
で何度かつぶやいているとふと、このように感じたことのあるのは、何も私
一人ではないと気付きました。
そして、同じく感じた古人先達のことがふと思い浮かんだのです。私はその
ことで、ついうれしくなりました。漢文を学びながら日本人が見えたからです。
それまでの私と漢文との関係は、「漢文」と「私」という一対一(マンツーマン)
状態でした。中学・高校で漢文の授業があるのは、「その書かれている事柄
が大事だから」だろうと個人的に思っていたくらいです。しかし今振り返ると、
「漢文」が今も教えられていることの原動力は、「日本人の情がわくから」で
はないかと思います。
「あのときのあれを、こう表現するんだなあ」──このしみじみ然とする一致、
共感を、おそらく日本の古人は返り点でも打ちながら、空間を超えて重ねて
きたのでしょう。そのことを時間を超えて思いながら、再び漢文の作品を紐解
くにつれ、私と漢文との関係は、「漢文」と「日本の古人」と「私」というように
広がっていきました。
漢文そのものの楽しみを 聞こえるメロディーとするなら、それに付随するも
の、共感し暗唱し書き写してきた日本人の心の履歴を知る愉しみこそは、
聞こえないものです。これが聞こえて、私はついうれしくなったのです。
「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす、何ぞ帰らざる」にしても、その
言葉で慰められてきた人の心が、今では地層になっている。それで、噛みし
めるたびに何とも言えず情がわくのだと思います。
福西亮馬
N先生よりのご提案:
昨日も申しましたように、今のところは何か「日本の名作」とよばれるような文章を
読んで、その中に含まれる漢字や文法も含めて、日本語の豊かさ美しさを感じることの出来、
それが生徒さんの表現力や感受性に強い影響を与えて、
いつまでも思い出に残るようなものができたらいいかと考えています。
単純な読書感想文を書くのではなくて、読んだ文章を踏み台にして
オリジナルを創作するというようなものも時間に余裕があれば面白そうだなあと思い
ます。
--
私も賛成です。
N先生よりのご提案:
昨日も申しましたように、今のところは何か「日本の名作」とよばれるような文章を
読んで、その中に含まれる漢字や文法も含めて、日本語の豊かさ美しさを感じることの出来、
それが生徒さんの表現力や感受性に強い影響を与えて、
いつまでも思い出に残るようなものができたらいいかと考えています。
単純な読書感想文を書くのではなくて、読んだ文章を踏み台にして
オリジナルを創作するというようなものも時間に余裕があれば面白そうだなあと思い
ます。
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私も賛成です。