前川です。
フルブラウザのついた携帯に替えました(Willcom)。
フルブラウザを装備した携帯だと、ラテン語に関するホームページも当然見られます。
いわゆるローマ字なので、文字化けとも無縁。(ただしマクローンは文字化けの可能性あり)
Perseus Digital Lib.にあるLewis&Shortの検索もできます!
ラテン語辞書の検索ができる携帯端末。恐るべし(笑)
これがあれば、通勤しながら「アエネイス」原文を読めますよ(^ ^ )
なお、「携帯でラテン語!」の実際については、8月の「ラテン語の夕べ」で披露する予定です。
山下です。
水曜日はキケローを読んでいます。
「アルキアース弁護」は今日9,10節を読みましたので、全体の約3分の1を踏破したことになります。
これから展開される芸術論も楽しみですが、今読んでいる裁判での弁論も、なかなか読み応えがあります。
金曜日は、山下先生の代講として私が出講しました。
第4歌の26行目から39行目までを一時間ほどで読み、
あとは背景思想などについてディスカッションをしました。
全部で4名の参加でしたが、やはりある程度の人数がいると
盛り上がりますね(笑)
私にとってはひさびさのウェルギリウスでしたが、
昔取った杵柄というか、そこそこ読めるものです。
また、読書会はやはり顔を合わせて、ああでもないこうでもない、と
気軽に議論するのが大切だなあ、と改めて思いました。
昨日は「牧歌」4歌を25行まで読みました。
来週は所用で前川先生に代講をお願いしています。9時には戻るので、そこからコメントさせていたく予定です。
次回扱う omnis feret omnia tellus. はさっそく格言集に追加しました。
山下です。
金曜日はウェルギリウスを読んでいます。
今日は『牧歌』の第4歌です。
この作品については、試訳があります。
「くまのパディントン」はなかなか本格的なラテン語訳です。
日本語訳と英語原文とを揃えて、原文と対照しながら読み進めています。
時代的な制約から、通常の辞書には載っていない単語(鉄道や眼鏡とか)もあり、
訳がないとちょっと苦戦しますね。
ラテン語散文の最高峰、キケローの弁論を読んでいます。
「アルキアース弁護」です。
今日はテキスト自体に問題の多い箇所でした。
なんとか5節の後半と6節全部を読みました。De Senectute とはまた趣がちがって面白いです。
金曜日は、ウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
今回は、第3歌を最後まで読みましたが、訳は出来ても意味がよくつかめない感じの詩句が続きます。
次回は、黄金時代がよみがえると歌った、有名な第四歌です。
山下です。今日も頑張ってキケローの「アルキアース弁護」を精読しました。4節と5節の途中までです。(existimarunt まで)。
山下です。
金曜日のクラスはウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
昨日は3歌の60行以下を読みました。
専門的な解釈はいろいろできるのでしょうが、文法に照らして正確に読んでも、何が書いてあるのか、具体的なイメージが今ひとつピンとこない箇所ばかりでした。
いうまでもなく、『牧歌』は『アエネーイス』と同じか、それ以上に大きな影響を後世に与えました。
アルキアース弁護の第1節の復習をしてから、第3節まで一気に読みましたが、内容的にも面白く、キケローの心憎いまでの論理のきめ細かな展開に参加者一同感嘆することしきりでした。
なんと言っても圧巻は第三節で、124語で一文をなしているのでありました。
ピーターラビットは読了しました。易しいながらも、文法事項が
(無理しながらも(笑))盛り込まれているので、なかなか効果が
あると思われます。
続けて、「くまのパディントン」のラテン語版を読んでいきます。
山下です。
金曜日はウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
今日は第3歌の59行まで読みました。
歌比べがテーマの詩です。
山下です。
水曜日のクラスでは、この4月からキケローの「アルキアース弁護」を読みます。
初回のこの日は、第一節を丁寧に読みました。どこまでもロジカルで、その一方、大変パセティックな文体である、と感じました。ほれぼれするようなキケローの文体でした。
次回は、学問の絆にかんするたいへん有名な一節があります。
ラテン語講読Aは、とりあえず「ピーターラビット」の続きを読んでいます。
あと1回で終わりそうなので、その後は「熊のパディントン」を読んでいきます。基本的に受講生の希望に沿っていくので、ある程度進んだら別のテキストになるかもしれません。
前回の授業で無事『老年について』を最後まで読み終えることが出来ました。さっそく受講生のお一人から以下の感想文をいただきましたので、ご紹介します。
私自身にとっても、たいへん充実した2年間でした。
キケロー『老年について(De Senectute)』を終えて
ちょうど2年前の3月に、田中利光著『ラテン語初歩』によって初級文法を終えたことをご報告した者です。その後4月から、引き続き山下先生のご指導の下、直ちにキケローの『老年について』の講読に入りました。ラテン語名文中の名文であるキケローの作品を読むのですから、日本の古典に例えて言うなら、文語文法の初歩からいきなり源氏物語に入るようなものです。
しかし、まがりなりにも文法の一通りは済ませていましたので、辞書と文法書を手がかりに、間違ってもよいから翻訳や注釈は見ないことにし、ともかくも自分で試訳を作って授業に臨みました。半年くらいは、1節分わずか数行を読むのに2,3日は優にかかりました。というのも、まず単語はほとんどすべて辞書で引く必要があったからであり、それでもなかなか正確な意味は捉え切れません。その上、あるまとまった部分の意味をおおよそ捉えたら、もう一度意味の理解がずれていそうな単語を引き直し、それをまたより大きな範囲でやり直すことの繰り返しだったからです。それだけやっても、意味を大きく取り違えていることが何度あったか知れません。当初は時間ばかりかかり、大変苦しくて、これはちょっと無理ではないかと何度も思いました。
それでもめげずにやっているうちに、だんだん正しく読める部分が増えてきました。しかも、今、自分は長い間のあこがれであったキケローの作品をじかに原文で読んでいるのだと思うと、気持ちも奮い立ってきます。とはいえ、その後も、「今日はよく読めた」と少し自信をつけると、その次の週はまた間違いだらけで再び自信をなくし・・の繰り返しでした。しかし、ともかくも2年間続けると、キケローの表現テクニックのバリエーションに一通りは出会い、おおよそ全体的な感じはつかめてきました。途中からいっしょに学ぶ仲間も増え、一層楽しくなってきています。
結局、まるまる2年間かかりましたが、一つの作品の全体をなんとか最後まで読み上げることができました。これもひとえに山下先生のご親切なご指導の賜物であり、山の学校に通えて本当によかったと深く感謝している次第です。4月からは同じキケローのPro Archiaという文学論を読むことになっています。(これは、ともに学ぶ仲間の一人が、キケローの思想理解に大変役に立つはずだと、見つけてきてくれたものです)。また4月から、楽しくも予習に忙しい日々が始まりそうです。
H.K.
ラテン語講読Cでは、1月からピーターラビットを読み進めてきました。
時間の都合で全ては終わりませんでしたが、初級文法の復習のためには
たいへん有効なテキストです。おそらく、ほとんどの文法項目が
出てきていると思われます。(今のところ、gerundiveとspinumが
未確認) おそらく、意図的に翻訳しているのではないかと思われます。
春学期の課題は、参加者と相談する形で決めたいと思います。
現代ものになるか、古典ものになるか。
参加を希望される方は一度、山の学校までご相談頂けますと幸いです。
なお今のところでは、現代物では「熊のパディントン」、古典ものでは
ネポス「英雄伝」あたりを考えています。キケロー、セネカについては
別にクラス設定がありますので、そちらをご参照下さい。
山下です。
前回の授業では、82の途中から(An censes...)83の最後まで読みました。
グランドフィナーレ間近です。個人的に、ここでカトーが語っている死生観は私もうすうす共有しているなと感じました。
「スキーピオーの夢」のラストにも似た盛り上がりがここにありますが、ここだけ読んでも面白くないのだろうと思います。
語り手の高揚にシンパシーを覚えるには、読み手にも相応の時間の経過が必要です。
現在は、「ピーターラビット物語」を読んでいます。
これがなかなか侮れないテキストで(笑)、最初は比較的易しく、
あとになると難しい文法事項が出てきます。時制に関しても
わかりやすい翻訳となっています。未来分詞や過去完了も
出てきました。
ちなみに挿し絵があるので、参考になります(^^ )
新訳が話題となっている「星の王子さま Le petit prince」ですが、
ラテン語訳もあります。現在、京都のジュンク堂四条店の洋書絵本コーナーに
あります。Regulusというのがラテン語訳のタイトル。
興味あるかたは、手にとってご覧下さい。
なお、ハリーポッターのラテン語訳は、京都のアヴァンティブックセンターに
置かれているのを発見しました。当分、あると思います(笑)
山の学校に所蔵している、現代ラテン語書籍蔵書の一部です。
「星の王子さま」
「くまのプーさん」
「くまのプーさんはいつも遊んでいる」
「ハリーポッター:賢者の石」
「不思議の国のアリス」
「鏡の国のアリス」
「ピーターラビット」
「くまのパディントン」
ラテン語書籍の寄贈も歓迎致します(笑)
福西です。
昨日は『ラテン語のゆうべ』の第5回目でした。

回を重ねていくうちに、内容も、「ラテン語って何?」というところから、だんだんと推移して、「ラテンは知っている。ではどうやって読むのか?」というところまできたように思われました。
「ラテン語を読むために必要な物」についての説明がまずあって、次に、10の格言を使って、実際に文法に触れてみることがなされました。(いわば初級文法の体験授業のような時間でした)
1 Amicitia sal vitae.
2 Dum fata sinunt vivite laeti.
3 Miserum est arbitrio alterius vivere.
4 Nihil sine magno vita labore dedit mortalibus.
5 Nec possum tecum vivere, nec sine te.
6 Non scholae sed vitae discimus.
7 Pios et probos praemium vitae aeternae exspectabit.
8 Tu fui, ego eris.
9 Vive hodie.
10 Vive memor mortis.
訳す際、下に語彙の対照表が用意されていて、誰でも分かるところまで降りていける補足がなされていました。
たとえば、8の Tu fui, ego eris. で、
fui = I was
Tu = you,
eris = You will be
ego = I.
と語彙表を見れば分かり、(その際に山下先生が文法を説明される)、
「私はお前だった。お前は私になるだろう」とたどりつくことができました。
さらに、
「この文が墓石に刻まれていて、墓の中の人が通りがかりの人々に話しかけている、というようにイメージできるには、やはり人生の経験が必要です」
と、文法の+αとしての「年の功」を強調されていました。

上の格言には実は、共通のキーワードが隠されていて、それは「生vita」(あるいは死mors)ということでした。それから、「Vive memor mortis.(死を思って生きよ)と、まさに言っている、それが結論であるような文章を紹介します」と、先生ご自身の解釈の上に立って、(講読のクラスでどんなことをしているのかも兼ねて)、キケローの「老年について」74節を、持って来られました。
<テキスト> De Senectute 74.
① Non censet lugendam esse mortem, quam immortalitas consequatur.
② Iam sensus moriendi aliquis esse potest, isque ad exiguum tempus, praesertim seni;
③ post mortem quidem sensus aut optandus aut nullus est.
④ Sed hoc meditatum ab adulescentia debet esse mortem ut neglegamus, sine qua meditatione tranquillo animo esse nemo potest.
⑤ Moriendum enim certe est, et incertum an hoc ipso die.
⑥ Mortem igitur omnibus horis impendentem timens qui poterit animo consistere?
<対訳>
① 彼(エンニウス)は判断している、死は嘆き悲しむものではない、と。死の後には永遠の生命が続くのだから。
② すでに何か死の感覚というものが存在しうるが、それは短い時間のものでしかない。とりわけ老人にとっては。
③ じっさい、死の後にその感覚は待ち望むべきものであり、あるいはまったく存在しないものである。
④ だが、このことは若者の時代から、死を軽視するために、練習されるべきなのである。この練習がなければ誰も平静な心境でいられなくなるからである。
⑤ というのも、死ぬことは確実であるが、それが今日この日であるかは不確かであるから。
⑥ それゆえすべての瞬間に差し迫る死を恐れながら、一体誰が心の中で泰然としていられるだろうか。
(配布した資料には、この下にさらに一行ずつの詳細な解説が連ねてありました。それは六行の原文に対して、2ページにも渡っていました)

(紙端のメモはその時私の頭に浮かんだことです)
私は、①の immortalitas consequatur.という表現が一番印象に残りました。
生の完成こそが、死の後に続く永遠の生命であり、一個のテーマを完成させる時間は、一生だけで十分あるはずで、人々が恐れているのは、そのテーマが完成されないこととしての死なのである、という思考が脳裏を駆け巡りました。また「永遠の生命」とは、immortalitasの訳出であり、山下先生の解説を見ると、「immortalitas(不死、不滅、不朽、永遠の生命、不朽の名声、人の心に生き続けるもの、永遠の記憶、滅びがたい(消し難い)もの、神の状態(存在)、神聖、至福 by 古典ラテン語辞典)」、と書かれていました。
また、「人生を舞台にたとえるなら、ある幕で拍手喝さいを浴びた俳優が、だからといって調子に乗って次の幕にも登場したら、恥ずかしいことでしょう」というお話も大変面白く思われました。
ラテン語文献は、生や死(または愛)について書かれたもの、というのが特徴であり、そこでいわば「一を聞いて十を知る」ような例を示していただいたのだと理解しました。そしてこれを原文で味わえば、深い人生の洞察が、今の人生に付け加わるように感じ、西洋古典のメッセージが、立ち止まって聞こえてくる思いがしました。
今日は、78、79を読む予定です。
79の内容は次のようなものです。魂の不滅を話題にしています。
クセノポーンの書物の中で、大キューロスが死に臨んで次のような話をしていると伝えています。
「目の中に入れても痛くない息子たちよ、わしがお前たちから離れていったとしても、どこにもいなくなるなどと考えてはならぬ。
一緒にいた時でさえ、お前たちにはわしの魂は見えなかったが、それがこの体の中にあるということは、わしの行いから理解していたではないか。
それだから、たとえお前たちに見えなくなったとしても、あり続けるのだと信じるがよい。」
(岩波文庫、中務哲郎先生訳)
キケローを読むクラス
クラスではキケローの『老年について』を読んでいます。まもなく最後まで読み切ることができそうです。ここまで来るのにまる二年かかりました。参加者の真摯な取り組みにはいつも脱帽です。
昨日の授業を終えたとき、しみじみと「これは原文で読まないと面白くないですねぇ」とのお声をいただき、私も大きく頷きました。
タイトルだけ見ると、老人向けの作品のようですが、内容を読むにつれ、この作品は人生の大海に船出する若い人向けの必読書だと痛切に感じます。
4月からは参加者一同の希望で、キケローの学問論、文化論満載の『アルキアース弁護』を読む予定です。
De Senectute は大詰めです。73以下を読みました。
さーっと駆け足で訳してみます。
vetatque Pythagoras iniussu imperatoris, id est dei, de praesidio et statione
vitae decedere.
ピュータゴラースは指揮官、すなわち神の命令無しに、人生のとりで、見張りの場から退くことを禁じている。
73. Solonis quidem sapientis est elogium, quo se negat velle suam mortem
dolore amicorum et lamentis vacare. Volt, credo, se esse carum suis; sed haud
scio an melius Ennius:
Nemo me lacrumis decoret neque funera fletu faxit.
賢者ソローンはその金言の中で、自分の死が友人たちの悲しみや号泣を欠くことを望まないと述べている。私は信じるのだが、彼は自分が縁者にとって愛すべき人間であることを望んでいるのだ。だが、おそらくエンニウスはよりよく述べているように思う。
誰も号泣で私を飾るな、葬式を涙で行うな。
74. Non censet lugendam esse mortem, quam immortalitas consequatur. Iam sensus
moriendi aliquis esse potest, isque ad exiguum tempus, praesertim seni; post
mortem quidem sensus aut optandus aut nullus est. Sed hoc meditatum ab
adulescentia debet esse mortem ut neglegamus, sine qua meditatione tranquillo
animo esse nemo potest. Moriendum enim certe est, et incertum an hoc ipso die.
Mortem igitur omnibus horis impendentem timens qui poterit animo consistere?
エンニウスは判断している、死は嘆き悲しむものではない、と。死の後には永遠の生命が続くのだから。何か死の感覚というものが存在しうるが、それは短い時間のものでしかない。とりわけ老人にとっては。死の後にその感覚は待ち望むべきものであり、あるいはまったく存在しないものである。だが、若者の時代から、死を軽視するために、練習を積むべきなのである。この練習がなければ、誰も平静な心境でいられなくなるからである。死ぬことは確実であるが、それが今日この日であるかは不確かである。それゆえすべての瞬間に差し迫る死を恐れながら、一体誰が心の中で泰然としていられるだろうか。
75. De qua non ita longa disputatione opus esse videtur, cum recorder non L.
Brutum, qui in liberanda patria est interfectus, non duos Decios, qui ad
voluntariam mortem cursum equorum incitaverunt, non M. Atilium, qui ad
supplicium est profectus, ut fidem hosti datam conservaret, non duos
Scipiones, qui iter Poenis vel corporibus suis obstruere voluerunt, non avum
tuum L. Paulum, qui morte luit conlegae in Cannensi ignominia temeritatem,
non M. Marcellum, cuius interitum ne crudelissimus quidem hostis honore
sepulturae carere passus est, sed legiones nostras, quod scripsi in
Originibus, in eum locum saepe profectas alacri animo et erecto, unde se
redituras numquam arbitrarentur. Quod igitur adulescentes, et ei quidem non
solum indocti, sed etiam rustici, contemnunt, id docti senes extimescent?
このことについてそれほど長い議論は必要ないと思われるのは、私が祖国を解放しようとして殺されたルーキウウス・ブルートゥスや、志願して死を迎えに馬の突撃を駆り立てた二人のデキウス(デキウス父子)や、敵に約束した誓約を果たすため、拷問を受けに出発したマールクス・アティーリウスのことや、ポエニー人に自らの身を挺して進路を封鎖しようとした二人のスキーピオーのことや、カンナエの屈辱にさいし、同僚の無謀を自らの死によって償ったおまえの祖父、ルーキウス・パウルスのことであるとか、その死にたいし最も残酷な敵でさえ埋葬の礼儀を欠くことを許さなかったマールクス・マルケッルスであるとかではなく、むしろわれらが軍団、私が『起源』に書き記しておいたように、そこから二度と戻ることができないと思われたその同じ場所に、溌剌とした気高い精神で何度も訪れた軍団について思い出すからである。
昨日は、前回の復習をしたあと、次の箇所を読みました。
XX. 72. Senectutis autem nullus est certus terminus, recteque in ea vivitur,
quoad munus offici exsequi et tueri possit mortemque contemnere; ex quo fit,
ut animosior etiam senectus sit quam adulescentia et fortior. Hoc illud est
quod Pisistrato tyranno a Solone responsum est, cum illi quaerenti, qua tandem
re fretus sibi tam audaciter obsisteret, respondisse dicitur: 'Senectute.'
Sed vivendi est finis optimus, cum integra mente certisque sensibus
opus ipsa suum eadem quae coagmentavit, natura dissolvit.
Ut navem, ut aedificium idem destruit facillime, qui construxit,
sic hominem eadem optime quae conglutinavit natura dissolvit.
Iam omnis conglutinatio recens aegre, inveterata facile divellitur.
Ita fit ut illud breve vitae reliquum nec avide
adpetendum senibus nec sine causa deserendum sit; vetatque Pythagoras iniussu
imperatoris, id est dei, de praesidio et statione vitae decedere.
ところで老年には確かな終わりはない。その中で(老年の中で)人は正しく生きることができるだろう。義務の遂行を果たし、それに心を配り、死を軽蔑することが可能である限りは。
そこから次のことが起こる、老年が青年より活気に満ちた、雄々しいものになるということが。これがあのことに相当する、すなわち、僭主ピシストラトゥスに対しソローンによって返答された内容に相当する。このとき、いったい何を頼りとしてそれだけ大胆に自分に逆らうのかと尋ねる王に、ソローンは次のように答えたと言われる、すなわち、「老年を(頼みとして)」と。
だが、生きることの終わりは最良となる、人に汚れなき心と確かな感覚が備わる間に、自然自らが自分の作品、すなわち自分が組み立てた同じものを解体するときに。
ちょうど船も建築物も、それを作った者が最も容易にそれを解体するように、人間も、それを組み立てた自然がもっと上手に解体する。
ところで、新しくできた結合はすべて困難を伴いながら、昔に確立されたそれは容易に引き離される。そこで、次のようになる、その短い人生の残りの時間は、老人によってどん欲に求められるべきでないし、理由なく見捨てられるべきでもない、と。
昨日読んだ範囲のテキストと訳をアップします。
次回は第二歌です。
Meliboeus
At nos hinc alii sitientis ibimus Afros,
pars Scythiam et rapidum cretae veniemus Oaxen 65
et penitus toto divisos orbe Britannos.
en umquam patrios longo post tempore finis
pauperis et tuguri congestum caespite culmen,
post aliquot, mea regna, videns mirabor aristas?
メリボエウス
だが、われわれの中には(nos)この地を去って(hinc)渇きに苦しむ(sitientis)アフリカ人のもとに(Afros)赴く者もいるだろう(ibimus)。中には(pars)スキュティア(Scythiam)や、白亜の(cretae)流れも急な(rapidum)オアクセス川(Oaxen)をめざす者もいるだろう(veniemus)。
あるいは、全世界から(toto...orbe)すっかり(penitus)切り離された(divisos)ブリタンニア人のところへ(Britannos)行く者もいるだろう(veniemus)。
ああ(en)長い年月を経たのちに(longo post tempore)、いつの日か(umquam)この父祖の土地を(patrios...finis)見て (videns)、わたしは驚くことがあるのだろうか (mirabor) 。この貧しい (pauperis) 小屋の (tuguri) 芝草を (caespite) つみ重ねた (congestum) 屋根 (culmen)を見て、また、かつてはわたしの王国であった(mea regna)麦の穂を(aristas)いくつか(aliquot)見つけて(videns)驚くのだろうか(mirabor)。(69)
impius haec tam culta novalia miles habebit, 70
barbarus has segetes. en quo discordia civis
produxit miseros; his nos consevimus agros!
insere nunc, Meliboee, piros, pone ordine vites.
ite meae, felix quondam pecus, ite capellae.
non ego vos posthac viridi proiectus in antro 75
dumosa pendere procul de rupe videbo;
carmina nulla canam; non me pascente, capellae,
florentem cytisum et salices carpetis amaras.
不敬な(impius)軍人が(miles)、こんなにも(tam)よく耕した (culta) 土地を (novalia) 手にいれるのだ(habebit)。
あの野蛮人が(barbarus)この(has) 収穫物を(segetes)だと?見るがいい(en)。内乱は(discordia)惨めな市民たち(civis...miseros)をどこに (quo) 連れていったのかを(produxit)。
彼らのために (his)、わしらは (nos) 畑に (agros) 種をまいたというのに(consevimus)!
メリボエウスよ 、今こそ (nunc) なしを (piros) 植えるがいい (insere)。
葡萄の苗を (vites) 整然と (ordine) 植えるのだ (pone)。
かつては (quondam) 幸福だった (felix) 家畜たちよ (pecus)、行くがいい (ite)。わたしの(meae)山羊たちよ (capellae)、さあ行け (ite)。74
今後 (posthac)、わたしは緑の (viridi) 洞穴の中に (in antro) 寝そべって (proiectus)、おまえたちが(vos)藪の生えた (dumosa) 崖 (rupe) から (de) ぶらさがるのを (pendere)、遠くから(procul) 眺めることもないだろう(non...videbo)。
わたしはもう歌は歌わない (carmina nulla canam)。山羊たちよ(capellae)、わたしが 世話をして (me pascente)、おまえたちが花咲く (florentem) ウマゴヤシや (cytisum) 苦い (amaras) 柳を (salices) 食べることはもうないだろう (non...carpetis)。(78)
Tityrus
Hic tamen hanc mecum poteras requiescere noctem
fronde super viridi. sunt nobis mitia poma, 80
castaneae molles et pressi copia lactis,
et iam summa procul villarum culmina fumant
maioresque cadunt altis de montibus umbrae.
ティーテュルス
だが(tamen)今夜は (hanc...noctem) この (hic) 緑の草の上で (fronde super viridi) わたしと一緒に (mecum) 休むことが(requiescere)できるだろう(poteras)。
我々には(nobis)熟した (mitia) リンゴも (poma) あるし (sunt)、柔らかい (molles) 栗の実も (castaneae)、しぼった (pressi) ミルクも(lactis)たっぷりある (copia)。
そして今 (et iam) 遠くでは(procul)屋敷の(villarum)屋根の (culmina) てっぺんが(culmina)煙を出している(fumant)。高い(altis)山々からは(de montibus)いっそう長い(maiores)陰が (umbrae) おりている(cadunt)。(83)
今日は『牧歌』だけを読みました。セネカはお休みです。
読んだ範囲の訳をメモ代わりに記しておきます。
Meliboeus
Fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
non insueta gravis temptabunt pabula fetas
nec mala vicini pecoris contagia laedent. 50
fortunate senex, hic inter flumina nota
et fontis sacros frigus captabis opacum;
hinc tibi, quae semper, vicino ab limite saepes
Hyblaeis apibus florem depasta salicti
saepe levi somnum suadebit inire susurro; 55
hinc alta sub rupe canet frondator ad auras,
nec tamen interea raucae, tua cura, palumbes
nec gemere aeria cessabit turtur ab ulmo.
メリボエウス
幸福な老人よ(Fortunate senex)、だから(ergo)おまえの土地は(tua rura)これからも残るのだな(manebunt)。だが(et)あれはおまえには(tibi)大きすぎる(magna satis)。
裸の石ころや(lapis...nudus)泥だらけの(limosoque)イグサによって(iunco)沼が(palus)すべてを(omnia)覆っている(obducat)にせよ(quamvis)。
慣れない草が(insueta...pabula)重く(gravis)仔をはらんだ母牛たちを(fetas)襲うことはないし(non...temptabunt)、近くの家畜の(vicini pecoris)悪い病気が(mala contagia)害をおよぼすこともない(nec...laedent)。
幸福な老人よ(fortunate senex)、ここでは(hic)愛着のある川(flumina nota)と神聖な泉の(fontis sacros)間に囲まれて(inter)、おまえは木陰の(opacum)涼しさを(frigus)手にするだろう(captabis)。
こちらから(hinc)、すなわち隣家との境界から(vicino ab limite)、垣根は(saepes)いつものように(quae semper)、ヒュブラの蜜蜂に(Hyblaeis apibus)柳の花(の蜜)をすわれ、しばしば(saepe)軽いうなり声で(levi...susurro)眠りを(somnum)始めるよう(inire)誘うだろう(suadebit)。
こちらで(hinc)、すなわち深い崖の下で(alta sub rupe)、葡萄の葉を摘む者は(frondator)そよ風に向かって(ad auras)歌を歌うだろう(canet)。だが(tamen)、その間中(interea)おまえのお気に入りの(tua cura)山鳩は(palumbes)低い声で(raucae)、また、キジバトは(turtur)、高い(aeria)楡の木から(ab ulmo)、悲しい声で鳴くのを(gemere)止めることはないだろう(nec...cessabit)。(58)
Tityrus
Ante leves ergo pascentur in aethere cervi
et freta destituent nudos in litore pisces, 60
ante pererratis amborum finibus exsul
aut Ararim Parthus bibet aut Germania Tigrim,
quam nostro illius labatur pectore vultus.
ティーテュルス
だから (ergo)、足の軽い (leves) 鹿が (cervi) 空中で (in aethere) 草をはみ (pascentur)、海が (freta) 魚を (pisces) 裸のまま (nudos) 浜辺に (in litore) 置き去りにする (destituent) までは (ante)、あるいは、二つの(amborum)国境が(finibus)入れかわり(pererratis)、パルティア人が (Parthus) 追放者として(exsul)アラル川(の水)を(Ararim)、ゲルマニア(人)が(Germania)ティグリス川(の水)を (Tigrim) 飲む (bibet) までは (ante)、あの方の(illius)面影が(vultus) 私の胸から(nostro...pectore)消え去ることは(labatur)ないだろう(※quam 以下よりante 以下のことが先に生じるだろう。なお ante 以下はアデュナタと言われる技法で、この世にあり得ない話が書かれる。quam 以下は、そのあり得ないことが起こってから後に生じるというわけで、まったくもってあり得ない話として紹介されている。)。(63)
本日は70節から71節にかけて読みました。
来週は同じ箇所を復習します。
70節の逐語訳は次の通りです。一カ所未解決の箇所があり、メモ程度の訳ですが。
70. Neque enim histrioni, ut placeat, peragenda fabula est, modo, in quocumque fuerit actu, probetur, neque sapientibus usque ad 'Plaudite' veniendum est. Breve enim tempus aetatis satis longum est ad bene honesteque vivendum; sin processerit longius, non magis dolendum est, quam agricolae dolent praeterita verni temporis suavitate aestatem autumnumque venisse. Ver enim tamquam adulescentiam significat ostenditque fructus futuros, reliqua autem tempora demetendis fructibus et percipiendis accommodata sunt.
実際、役者にとって、人を喜ばせるためには、劇の最後まで演じるべきではない、どこであれ、彼の登場する場面において、彼が評価される限りは。同様に、賢者にとっても、「みなさま拍手を」にまで至るべきではない。というのも、人生の短い期間とはいえ、立派に誠実に生きるには十分長いからである。もしそれ以上長く生きても、春の季節の甘美さが過ぎ、夏や秋が訪れたといって農夫が嘆くことがないように、我々も(老年に至ったことを)嘆くべきではない。というのも、春はいわば青春時代を意味し、未来の収穫を表すのに対し、残りの季節は、収穫を刈って取り入れるのにふさわしいからである。
聞かぬは一生の恥という言葉がありますので、ちょっとした疑問もメモ書きしておきます。
ちょっとウェブサイトを読みかじっただけの知識ですが、「神のみに栄光あれ!」という言葉はラテン語の翻訳で、そのラテン語というのが soli deo gloria だと記されているケースが多いので?と思いました。
たとえば、ここなど。
solus, -a, -um は第1・第2変化形容詞なので、私が思うに原文は solo deo gloria なのじゃないかと。
そう思って英語圏のウェブサイトを見ていますと、確かにその綴りでも見つかります。
でも、こんな不統一なことがあるなんて・・・。少し狐につままれたような気がしています。
ちなみに、sola scriptura (御言葉のみ)と sola fide (信仰のみ)という言葉も併せて出てきます。これらは fide から見ていずれも奪格なのでしょう。とすれば厳密には、「御言葉のみによって」、また「信仰のみによって」というのが直訳になります。
以上、ラテン語文法にかんしての疑問点でした。
キケローは人生を劇に例え、ある場面の役者は自分の役を演じきったら、劇の最後まで残っていてはいけないといいます。
自分の役がなになのか?何を演じきることが自分の役なのか。ひごろ立ち止まって考える余裕はありませんが、折を見て考えてみたいものです。
70. Neque enim histrioni, ut placeat, peragenda fabula est, modo, in quocumque fuerit actu, probetur, neque sapientibus usque ad 'Plaudite' veniendum est. Breve enim tempus aetatis satis longum est ad bene honesteque vivendum; sin processerit longius, non magis dolendum est, quam agricolae dolent praeterita verni temporis suavitate aestatem autumnumque venisse. Ver enim tamquam adulescentiam significat ostenditque fructus futuros, reliqua autem tempora demetendis fructibus et percipiendis accommodata sunt.
70 実際、役者にとって、人を喜ばせるためには、劇の最後まで演じるべきでない、どこであれ、彼の登場する場面において、彼が評価される限りは。また賢者にとっても(sapientibus)、「みなさま拍手を (Plaudite)」にまで至らなくてもよい。というのも(enim)、人生の(aetatis)短い(breve) 期間は(tempus)、立派に(bene) 誠実に(honesteque) 生きるには (ad...vivendum) 十分(satis) 長いからである(longum...est)。もしそれ以上長く生きても、春の(verni) 季節の(temporis) 甘美さが(suavitate) 過ぎ(praeterita)、夏や秋が訪れたといって農夫が嘆くように嘆くべきではない。実際、春はいわば青春時代を意味し、未来の収穫を約束するのに対し、残りの季節は、収穫を刈って取り入れるのにふさわしい。
「ラテン語格言集」に次の言葉を追加しました。
Legum omnes servi sumus ut liberi esse possimus.
「レーグム・オムネース・セルウィー・スムス・ウト・リーベリー・エッセ・ポッシムス」と読みます。
legum は「法律」を意味する第3変化名詞 lex の複数・属格です。servi にかかります。
「すべて」を意味する第3変化形容詞 omnes はこの文の主語である nos (一人称複数・主格)と同格で、男性・複数・主格です。なお nos は省略されています。
servi は「奴隷」を意味する第2変化男性名詞 servus の複数・主格です。
sumus は「・・・である」を意味する不規則変化動詞 sum の直説法・能動相・現在・1人称・複数です。
ここまでをまとめると、「我々は皆法律の奴隷となる。」
ut は目的文を導きます。続く従属文の動詞は接続法になります。
liberi は「自由な」を意味する第1・第2変化形容詞 liber の男性・複数・主格です。
esse は sum の不定法・能動相です。
possimus は不規則変化動詞 possum の接続法・現在・一人称・複数です。
ut 以下は「我々が自由でありうるために」となります。
「我々は皆、自由であり得るために法律の奴隷となる。」と訳せます。
キケローの言葉です。
Vox populi vox dei. なんと発音するのでしょうか?
「ウォークス・ポプリー・ウォークス・デイー」と読みます。
voxは単数属格がvocisとなる第三変化名詞で意味は「声」。
populi は第2変化名詞 populus の単数属格で、意味は「人間」、ここでは「人民」の意味です。
dei とはdeus(神)の単数属格です。
動詞がありませんが、est(→不規則動詞sumの3人称単数)を補うといいでしょう。
直訳は「民衆の声は神の声(である)」
朝日新聞の「天声人語」はこのラテン語を元にしているようですね。
Dum spiro, spero. という言葉を紹介します。どう発音するのでしょうか?
「ドゥム・スピーロー・スペーロー」と読みます。 ローマ字そのままですね。ではどんな意味でしょう?
dumは「~の間」という意味の接続詞。spiro, spero はそれぞれ第一変化動詞単数1人称(要するに主語は「私」ということ)で、「息をする」、「希望を持つ」の意味です。
直訳は「息をする間、私は希望を持つ。」すなわち、「生きる限り、希望をもつことができる。」(=死んだら希望などもてない。) となります。
アメリカ南カロライナ州の標語だそうです。 質問があればコメントに書き込んでください。ちょっとずつ紹介していきたいと思います。
山下です。
前回読んだ箇所(69節)の最後を締めくくる表現:
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
時間の中で、生きるためにめいめいに与えられた部分に、人は満足しなければならない。
これについて、補足します。temporis は属格です。部分の属格になります。永遠の時の流れという意味になります。
その中で、(神によって)めいめいに与えられた時間というのが寿命と言うことになります。
ここの文脈の趣旨は、各自は己の寿命に満足しなければならないということです。
つづく70節はたいへん印象的な比喩が使われます。
人生を舞台にたとえます。
各自に配役がある。
それを立派に演じて拍手をもらったら、その舞台から速やかに退くべし。
次の舞台までぐずぐず残っていたら喜劇になってしまいます。
今の世の中は、配役の台詞の数を数えてみたり、登場時間の長短を気にしてみたり、劇を演じる本質と無関係な観点から人生をとらえているにすぎないように感じます。
堂々と演じきった者の臨終の言葉には、次の台詞があります。
Plaudite, acta est fabula.
読み方は、「プラウディテ・アクタ・エスト・ファーブラ」となります。
plauditeは第三変化動詞plaudo(拍手する)の命令法・能動相で、「拍手せよ」となります。
actaは「行う、なす」を意味する第三変化動詞agoの完了分詞で、estと組み合わされて、完了の受動相を表します。
主語はfabula(第一変化名詞)で「芝居」を意味します。
「拍手を。お芝居はおしまいだ。」という意味です。
アウグストゥスの臨終の言葉と伝えられます。
昨日で今年の授業は終了しました。
授業記録をかねて扱った範囲の逐語訳を記しておきます。
69. Quamquam, O di boni!
とはいえ、おお、立派な神々よ、
quid est in hominis natura diu?
人間の本性の中において何が長くあるだろうか。
Da enim summum tempus, exspectemus Tartessiorum regis aetatem (fuit enim, ut scriptum video, Arganthonius quidam Gadibus, qui octoginta regnavit annos, centum viginti vixit)--sed mihi ne diuturnum quidem quicquam videtur in quo est aliquid extremum.
というのも、最高の時(最高齢)を(われわれに)与えてみよ。(つまり)われわれは、タルテッススの王の寿命を望んでみよう――というのも、書かれたものを見ると、ガーデースにアルガントーニウスという者がいて、80年間王として君臨し、120歳まで生きたからであるが――だが、実際終わりあるものの存するいかなるものも、私には永続的であるとは見なされない。
Cum enim id advenit, tum illud, quod praeteriit, effluxit;
というのも、それ(終わり)が訪れたとき、過ぎたものは消えてなくなってしまうのだから。
tantum remanet, quod virtute et recte factis consecutus sis;
ただ次のものだけが残る。美徳とよくなされた行いによってあなたが達成したものだけが。
horae quidem cedunt et dies et menses et anni, nec praeteritum tempus umquam revertitur, nec quid sequatur sciri potest;
実際、時間も日も月も年も去っていく。過ぎ去った時は決してよみがえらず、何が未来に起こるのか、知ることはできない。
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
時間(永遠の時の流れ)のうち、生きるためにめいめいに与えられた部分に、人は満足しなければならない。
冬学期からのラテン語講読Cは、前半は前期に引き続いてテキストを進め、後半は読解をしています。テキストは43課まで進み、あと一回で終了予定です。読解については、参加者の希望する中世のテキストを文法を確認しながら解釈していく作業を進めています。だいぶいい感じで解釈ができるようになってきました。
やはり文法だけでなく、実際の文章を読んでなんぼ、ですね(笑)
山下です。
「老年について」を読んでいます。次回の予習になりますが・・・。
以下69節の逐語訳で、自分用のメモです。
思わぬ見落としや勘違いが含まれているかもしれません。
69. Quamquam, O di boni!
とはいえ、おお、立派な神々よ、
quid est in hominis natura diu?
人間の本性の中において何が長くあるだろうか。
Da enim summum tempus, exspectemus Tartessiorum regis aetatem (fuit enim, ut scriptum video, Arganthonius quidam Gadibus, qui octoginta regnavit annos, centum viginti vixit)--sed mihi ne diuturnum quidem quicquam videtur in quo est aliquid extremum.
というのも、限度いっぱいの時を与えてみよ。(つまり)タルテッススの王の寿命を希望してみよう――というのも、書かれたものを見ると、ガーデースにアルガントーニウスという者がいて、80年間王として支配し、120歳まで生きたから――。だが、実際終わりあるものの存在する者は、私には長命であるとは見なされない。
Cum enim id advenit, tum illud, quod praeteriit, effluxit;
というのも、それ(終わり)が訪れたとき、過ぎたものは消えてなくなってしまうからだ。
tantum remanet, quod virtute et recte factis consecutus sis;
ただ次のものだけが残る、美徳とよくなされた行いによってあなたが達成したものだけが。
horae quidem cedunt et dies et menses et anni, nec praeteritum tempus umquam revertitur, nec quid sequatur sciri potest;
時間も日も月も年も過ぎていく。過ぎ去った時は決してよみがえらず、何が後に続くのか知ることはできない。
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
人は、めいめいに生きるべく与えられた時間の一部に、満足しなければならない。
山下です。
今日の授業ではキケロー『老年について』の67節から読み始めます。
67. Quid igitur timeam, si aut non miser post mortem aut beatus etiam futurus sum?
それゆえ何を私は恐れよう、もしも、死後に私は惨めでないのなら、または幸福でさえあるのならば。
Quamquam quis est tam stultus, quamvis sit adulescens, cui sit exploratum se ad vesperum esse victurum?
だが、いかに若かろうと、自分が夕方まで生きるだろうと確信できるほど愚かな者はいるだろうか。
Quin etiam aetas illa multo pluris quam nostra casus mortis habet;
さらに、かの年齢(若年)は私たちのそれ(年齢)以上に死の危険を持っている。
facilius in morbos incidunt adulescentes, gravius aegrotant, tristius curantur. 若者はより容易に病気になり、病状は悪化しやすく、より悲劇的な治療を施される。
Itaque pauci veniunt ad senectutem;
それゆえ老年まで到達する者はわずかである。
quod ni ita accideret, melius et prudentius viveretur.
それがそのように起こるのでなければ、よりよく、より賢明に(生が)生きられるはずであろう。
Mens enim et ratio et consilium in senibus est;
というのも、老人にこそ精神と理性と判断力が備わっている。
qui si nulli fuissent, nullae omnino civitates fuissent.
もし彼ら(老人)が一人もいなければ、都市国家は一つとして存在しなかっただろう。
Sed redeo ad mortem impendentem.
だが押し寄せる死(の問題)に戻ろう。
Quod est istud crimen senectutis, cum id ei videatis cum adulescentia esse commune?
何があなたの言う老年の罪なのだろうか、それがそれ(老年)にとってと、青春時代とに共通しているとあなた方がみなすときに。
68. Sensi ego in optimo filio, tu in exspectatis ad amplissimam dignitatem fratribus, Scipio, mortem omni aetati esse communem.
私は感じた、自分の最もよき息子に関して、おまえはもっとも大きな権威へと期待された弟たちに関して、スキーピオーよ、死がすべての年代に共通であることを。
At sperat adulescens diu se victurum, quod sperare idem senex non potest.
だが、若者は自分が長生きすることを期待するが、この同じことを老人は期待できない(と反論するだろう)。
Insipienter sperat.
愚かな仕方で彼は期待している。
Quid enim stultius quam incerta pro certis habere, falsa pro veris?
というのも、何がより愚かなことがあろう、不確実なことを確実であるとみなし、偽りを真理とみなすことほどに。
At senex ne quod speret quidem habet.
だが老年はそれが望むものを実際にはもたない(と反論するだろう)。
At est eo meliore condicione quam adulescens, quoniam id, quod ille sperat, hic consecutus est;
だが、若者よりよい条件の中にいる。なぜなら、かの者(若者)が望むものをこちらの者(老人)は手に入れているからだ。
ille vult diu vivere, hic diu vixit.
かの者(若者)は長く生きたいと望むが、こちらの者(若者)は長く生きたのである。
山下です。
金曜日のクラスではセネカの『幸福な生活について』を読んでいます。
前回は8-3を読みました。
3. Incorruptus uir sit externis et insuperabilis miratorque tantum sui,
fidens animo atque in utrumque paratus,
artifex uitae; fiducia eius non sine scientia sit, scientia non sine constantia; maneant illi semel placita nec ulla in decretis eius litura sit. Intellegitur, etiam si non adiecero, compositum ordinatumque fore talem uirum et in iis quae aget cum comitate magnificum.
人は(vir)外的なものによって(externis)損なわれず(incorruptus)、征服されず(insuperabilis)、自己のみの賛美者(miratorque tantum sui)であるべきだ(sit: 接続法)。精神を恃みとし(fidens animo)、(禍福)いずれに対しても(in utrumque)準備ができており(paratus)、人生の創造者(artifex uitae)であるべきだ。
彼の自信は(ficucia eius)知識を伴い(non sine scientia)、その知識は(scientia)恒心を伴う(non sine constantia)べきである(sit)。
ひとたび(semel)彼にとって(illi)決定されたことは(placita)不動であるべきだ(maneant)。また、彼の(eius)決断には(in decretis)いかなる修正もあってはならない(nec illa...litura sit)。
Intellegitur, etiam si non adiecero, compositum ordinatumque fore talem uirum et in iis quae aget cum comitate magnificum. ~erat uera.
次のことが理解される(intellegitur)、たとえ私が(言葉を)付け加えないとしても(etiam si non adiecero)、そのような男が(talem uirum)泰然自若とした(compositum)冷静沈着な人間であり(ordinatumque fore)、彼が親愛の情をもって(cum comitate)行動する事柄において(in iis quae aget)偉大である、ということが(magnificum)。
山下です。
金曜日のクラスでは、はじめにウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
Meliboeus
Fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
non insueta gravis temptabunt pabula fetas
nec mala vicini pecoris contagia laedent. 50
fortunate senex, hic inter flumina nota
et fontis sacros frigus captabis opacum;
hinc tibi, quae semper, vicino ab limite saepes
Hyblaeis apibus florem depasta salicti
saepe levi somnum suadebit inire susurro; 55
hinc alta sub rupe canet frondator ad auras,
nec tamen interea raucae, tua cura, palumbes
nec gemere aeria cessabit turtur ab ulmo.
以下、メモ書きです。
--
メリボエウス
幸福な老人よ(Fortunate senex)、だから(ergo)おまえの土地は(tua rura)これからも残るのだな(manebunt)。だが(et)あれはおまえには(tibi)大きすぎる(magna satis)。
裸の石ころや(lapis...nudus)泥だらけの(limosoque)イグサによって(iunco)沼が(palus)すべてを(omnia)覆っている(obducat)にせよ(quamvis)。
慣れない草が(insueta...pabula)重く(gravis)仔をはらんだ母牛たちを(fetas)襲うことはないし(non...temptabunt)、近くの家畜の(vicini pecoris)悪い病気が(mala contagia)害をおよぼすこともない(nec...laedent)。
幸福な老人よ(fortunate senex)、ここでは(hic)愛着のある川(flumina nota)と神聖な泉の(fontis sacros)間に囲まれて(inter)、おまえは木陰の(opacum)涼しさを(frigus)手にするだろう(captabis)。
こちらから(hinc)、すなわち隣家との境界から(vicino ab limite)、垣根は(saepes)いつものように(quae semper)、ヒュブラの蜜蜂に(Hyblaeis apibus)柳の花(の蜜)をすわれ、しばしば(saepe)軽いうなり声で(levi...susurro)眠りを(somnum)始めるよう(inire)誘うだろう(suadebit)。
こちらで(hinc)、すなわち深い崖の下で(alta sub rupe)、葡萄の葉を摘む者は(frondator)そよ風に向かって(ad auras)歌を歌うだろう(canet)。だが(tamen)、その間中(interea)おまえのお気に入りの(tua cura)山鳩は(palumbes)低い声で(raucae)、また、キジバトは(turtur)、高い(aeria)楡の木から(ab ulmo)、悲しい声で鳴くのを(gemere)止めることはないだろう(cessabit)。(58)
山下です。
先週の続きをアップします。
Tityrus
Quid facerem? neque servitio me exire licebat 40
nec tam praesentis alibi cognoscere divos.
hic illum vidi iuvenem, Meliboee, quot annis
bis senos cui nostra dies altaria fumant,
hic mihi responsum primus dedit ille petenti:
'pascite ut ante boves, pueri, submittite tauros.' 45
ティーテュルス
このわたしに何ができたというのか(Quid facerem)。奴隷の状態から(servitio)私が(me)外に出ることも(exire)、 これほど(tam)頼りになる(praesentis)神々を(divos)見付けることも(cognoscere)、(ローマ以外の)他の場所では(alibi)できなかったのだ(neque...licebat)。
メリボエウスよ、ここで(hic: ローマ)わたしはあの若者(illum...iuvenem: オクタウィアーヌス)を目にしたのだ(vidi)。
この人のために(cui)、わたしの祭壇は(nostra...altaria)毎年(quot annis)12日(bis senos...dies)煙を出すのだ(fumant)。
ここで(hic)かの人が(ille)初めて(primus)、嘆願するわたしに(mihi...petenti)答えてくれたのだ(responsum...dedit)。
「少年たちよ(pueri: 牧人を指す)おまえたちは、以前のように(ut ante)、牛を養うがよい(pascite...boves)。雄牛を飼うがいい(submittite tauros)。」と。(45)
山下です。
ラテン語格言集に新しい言葉を追加しました。
Numquam et ille miser, cui facile est mori.
セネカの言葉です。
山下です。
本日のラテン語クラスでは66節を読みました。
原文(ラテンライブラリーから引用)と逐語訳をメモ代わりに記しておきます。
66. Avaritia vero senilis quid sibi velit, non intellego;
老人の貪欲さが何を自らに求めているか、私は理解できない。
potest enim quicquam esse absurdius quam, quo viae minus restet, eo plus viatici quaerere?
というのも、人生行路の残りが僅かになるほど、路費をいっそう多く求めること以上に愚かなことは、何がありえようか。
XIX. Quarta restat causa, quae maxime angere atque sollicitam habere nostram aetatem videtur, adpropinquatio mortis, quae certe a senectute non potest esse longe.
我々の年齢をもっとも苦しめ、不安なものにしているように見える第四の原因が残っている。死の接近である。死は確かに老年から遠いものではありえない。
O miserum senem qui mortem contemnendam esse in tam longa aetate non viderit!
おお、みじめな老人よ、これほど長い年齢の中で死が軽視すべきものと悟れなかったとは。
quae aut plane neglegenda est, si omnino exstinguit animum, aut etiam optanda, si aliquo eum deducit, ubi sit futurus aeternus; atqui tertium certe nihil inveniri potest.
死はあるいは明らかに無視すべきものである、もしも魂を完全に消滅させるものであれば。(死は)あるいは望ましいものでさえある、もし魂が永遠に存在するような別の場所に魂を導くのであれば。そして第三(の可能性)は確かに見出しえない。
山下です。
私のHPではラテン語の情報を載せていますが、そこではラテン語文法の解説を行っています。
その内容に準拠した「ラテン語アクセント問題」があり、昨日満点の方が現れました。
匿名で参加できますので、腕試しにどうぞ。
前回の続きです。自分用のメモでもあります。いずれHPにアップします。
Tityrus
Urbem quam dicunt Romam, Meliboee, putavi
stultus ego huic nostrae similem, cui saepe solemus 20
pastores ovium teneros depellere fetus.
sic canibus catulos similes, sic matribus haedos
noram, sic parvis componere magna solebam.
verum haec tantum alias inter caput extulit urbes
quantum lenta solent inter viburna cupressi. 25
ティーテュルス
メリボエウスよ(Meliboee)、愚かなわたしは(stultus ego)、人がローマと呼ぶその町を(urbem quam dicunt Romam)、このあたりの町と同じようなもの (huic nostrae similem) と勘違いしていた (putavi: 考えた)。
われわれ(動詞 solemus から主語は nos となる)牧人が(pastores)しばしば (saepe) 幼い (teneros) 羊の(ovium)子どもたちを(fetus)追い立てていく(depellere)のを常とする(solemus)ような町と。
#cui (20)について。先行詞は huic nostrae urbi で「我々牧人が羊の子どもたちを(そのために)追い立てる(ところの)町」
別の読みでは quo となっている。
そのように(sic)、子犬は (catulos: 対格不定法の意味上の主語) 犬と (canibus) 似ており(similes)、子山羊(haedos)は母山羊と(matribus)(似ている)と思っていたし(noram: nosco の過去完了・1人称・単数)、私は、大きなものを(magna)小さいものから(parvis)作り上げるのを(componere:構成する)常としていた(solebam)。
#最終行の解釈:「大きなものが小さいものからできていると想像する」=「ローマという大きなものも、小さいもの(=田園世界)を拡大したものと想像すること。大きなものと小さいものとの間には、類似性があると信じること。
だが(verum)、この都市(haec: ローマ)は他の(alias)都市の間でも(inter...urbes)quantum 以下ほど、それほど(tantum)頭を(caput)高く掲げていた(extulit:くらべものにならないくらい抜きん出ていた)、すなわち、しなやかな(lenta)柳の間で(inter viburna)糸杉が(cupuressi)(頭を高く掲げるのが)常であるほどに(quantum...solent)。(25)
Meliboeus
Et quae tanta fuit Romam tibi causa videndi?
メリボエウス
では(Et)おまえにとって(tibi)ローマを(Romam)見にいく(videndi: 動名詞・単数・属格)それほどの(tanta)理由は(causa)何(quae)であったのか(fuit)?(26)
Tityrus
Libertas, quae sera tamen respexit inertem,
candidior postquam tondenti barba cadebat,
respexit tamen et longo post tempore venit,
postquam nos Amaryllis habet, Galatea reliquit. 30
namque - fatebor enim - dum me Galatea tenebat,
nec spes libertatis erat nec cura peculi.
quamvis multa meis exiret victima saeptis
pinguis et ingratae premeretur caseus urbi,
non umquam gravis aere domum mihi dextra redibat. 35
ティーテュルス
「自由」だ(Libertas)。「自由」は(quae)しかし(tamen)遅まきながら(sera)、ぐず(のわたし)に(inertam)振り向いたのだ(respexit)。
(髭を)切り落とす者に(tondenti:barber のこと)髭が(barba)より白くなって(candidior)落ちるようになってからのこと(postquam: ~の後に)。
#postquam 以下の内容を説明すると、「散髪屋が髭を切り落とすと、その髭に白いものが混じって散髪屋の足下に落ちるようになってから(=年老いてから)」という意味。
しかし(tamen)(「 自由」は)(わたしに)振り向いたのだ(respexit)。つまり(et)長い年月の後(longo post tempore)訪れたのだ(venit)。
(それは)アマリュリスが(Amaryllis)わたし(の心)を(nos: 一人称単数の代用)とりこにし(habet:原義は「持つ」)、ガラテアが(Galatea)去って(reliquit)からのこと(postquam)。(30)
というのも(namque)、実際(enim)白状するが(fatebor)、ガラテアがわたしを(me)とらえて放さぬあいだ(dum...tenebat)、(わたしには)自由の(libertatis)希望も(spes)、金銭への(peculi)執着も(cura)まるでなかったのだ(nec...nec...erat)。(32)
たとえどんなに(quamvis)多くの(multa)犠牲獣が(victima)わたしの(meis)家畜小屋から(saeptis)出ていこうと(exiret)、恩知らずの都会のために(ingratae...urbi)たっぷり(pinguis)チーズが(caseus)圧搾されようと(premeretur)、わたしの(mihi: 私にとっての=私の)右手が(dextra)銅貨で(aere)重くなって(gravis)家に(domum)戻ることは(redibat)ついぞ(umquam)なかったのだ(non)。(35)
Meliboeus
Mirabar quid maesta deos, Amarylli, vocares,
cui pendere sua patereris in arbore poma.
Tityrus hinc aberat. ipsae te, Tityre, pinus,
ipsi te fontes, ipsa haec arbusta vocabant.
メリボエウス
わたしはよく驚いたものだ(Mirabar)、アマリュリスよ、どうして(quid)悲しげな顔で(maesta)、おまえが神々に(deos)祈りをささげているのかと(vocares)。
誰のために(cui)木に(in arbore)その果実(リンゴ)が(sua...poma)垂れ下がるのを(pendere)あなたは許しておくのか(patereris)と。
ティーテュルスがここ(家)から出たからなのだ(aberat)。ティーテュルスよ、松の 木自身も(ipsae...pinus)、泉自身も(ipsi...fontes)、この(haec)果樹園自身も(ipsa...arbusta)おまえを(te)何度も呼んでいたというのに(vocabant:未完了過去ゆえ過去の反復的行為を表現している)。(39)
秋学期はいろいろありましたが、11月分も終了しました。
11月については、すでにある程度文法を履修済みということで、
テキストを10課ずつ程度進めて文法の要点をチェックしていきました。
講義の後半は、実際のテキストを文法的に丁寧に解析しながら
読んでみる、という方法でした。
この講義は、「ラテン語講読C」に続く予定です。
"AE"という綴りは、ちょっと古い英語の本などを見るとくっついた文字で表記されていることがあります。
例: encyclopaediaとか
もともとのラテン語では「あえ」と両方発音していたと思われますが、
現代語では単純に「え」とか「いー」と発音します。
例: aegis→「イージス」
では、「ドラエもん」はどうなるでしょうか?
Doraemon →「どれもん」or「どりーもん」(笑)
となります。ちなみに私の名前「前川」は…
Maekawa →「めかわ」or「みーかわ」(^^ ;)
となります。実際には「めかわ」と呼ばれたことが何度もあります。
「ラテン語入門」の講義において、「辞書での形容詞の見出しの見方がよくわからない」との
意見がありましたので、形容詞の基本3パターンを整理しました。
1)第一・第二活用型 -us, -a, -um
2)第三活用i幹(omnis型)-is, -e ←二つ目は中性単数主格の形
3)第三活用混合幹(felix型) --, -is ←二つ目は単数属格の形
2)と3)に違いがあるということに気づかずに悩んでいた、
とのことでした。私もぜんぜん考えたことがないポイントでした。
見た限り、『羅和辞典』の凡例にもこのような記載はないようです。
山下です。
ラテン語ネタが続きます。
水曜日の授業で、たまたまテレンティウス『兄弟』の内容が話題に上りました。
その際、簡単に作品の内容を解説しましたが、十分とは言えず、いい足らない面が多々ありました。
私が翻訳したさい、作品につけた解説があります。
参考にしてください。今読み返したのですが、内容的に、中々オリジナルな解説になっていると思います(笑)。
解釈としては、英語の論文もかきました。
これは10年前にシエナ大学で発表したときのものです。
ほんとに、この作品はどこかで上演してもらいたいものです。
しみじみとした人情味あふれる作品です。
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ローマ喜劇集〈5〉
テレンティウス 木村 健治 谷 栄一郎 
山下です。
昨日の読書メモをかねて。いずれ化粧直しをしてHPにアップすると思います。
『牧歌』第1歌(訳)
「土地没収」
Meliboeus
Tityre, tu patulae recubans sub tegmine fagi
silvestrem tenui Musam meditaris avena;
nos patriae finis et dulcia linquimus arva.
nos patriam fugimus; tu, Tityre, lentus in umbra
formosam resonare doces Amaryllida silvas. 5
メリボエウス
ティーテュルスよ(Tityre)、おまえは(tu)枝を広げた (patulae) ぶなの木の (fagi) 覆い (tegmine) の下に (sub) 横たわりながら (recubans) 、ほっそりした (tenui) 葦笛で (avena) 森の調べを (silvestrem...Musam) 吹こうとしている(meditaris)。
このわしは (nos) 愛する (dulcia) 土地を (arva) 離れ、祖国の (patriae) 国境を (finis) 去ろうというのに (linquimus)。(※ nos は ego の代用。「私は祖国の国境と愛する土地を離れる。」が直訳。)
それもこれも祖国から逃れるためだ (nos patriam fugimus)。だが汝(tu)、ティーテュルスよ (Tityre)、おまえはのんびりと (lentus) 木陰で (in umbra) 美しい (formosam) アマリュリス (Amaryllida) (の名)を響かせるように (resonare) と森に(silvas)教えている (doces)。(5)
Tityrus
O Meliboee, deus nobis haec otia fecit.
namque erit ille mihi semper deus, illius aram
saepe tener nostris ab ovilibus imbuet agnus.
ille meas errare boves, ut cernis, et ipsum
ludere quae vellem calamo permisit agresti. 10
ティーテュルス
おお、メリボエウスよ(O Meliboee)、この閑暇は (haec otia) 神(=オクタウィアーヌスを暗示)のたまものにほかならない (deus nobis fecit)。
(※「神が(deus)私たちに(nobis)これらの(haec)閑暇を(otia)作った(fecit)」が直訳。)
実際(namque)かの人は (ille)、いつまでも (semper) わたしの (mihi) 神 (deus) であるだろう (erit)。
かの人の (illius) 祭壇を (aram) 我々の囲いの中から (nostris ab ovilibus) (選んだ)幼い(tener) 羊が(agnus)何度も(saepe)血で濡らすだろう (imbuet)。
かの人は(ille)、わたしの牛たちが (meas...boves) さまよい歩き(errare)、おまえも見ているように (ut cernis)、わたしが田園の (agresti) 葦笛で (calamo) 欲するとおり(quae vellem; (直)私の欲すること) 歌にするのを (ludere: 原義は「遊ぶ」、転じて「歌を作る」) 許されたのだ(permisit)。(10)
Meliboeus
Non equidem invideo, miror magis; undique totis
usque adeo turbatur agris. en ipse capellas
protenus aeger ago; hanc etiam vix, Tityre, duco.
hic inter densas corylos modo namque gemellos,
spem gregis, a, silice in nuda conixa reliquit. 15
saepe malum hoc nobis, si mens non laeva fuisset,
de caelo tactas memini praedicere quercus.
sed tamen iste deus qui sit da, Tityre,nobis.
メリボエウス
実は(equidem)わたしは妬(ねた)んでいるのではなく(non...invideo)、不思議でならないのだ (miror magis)。
いまや四方八方 (undique) すべての(totis)農地で(agris)大変な(usque adeo)騒乱があいついでいる(turbatur)。
見てくれ (en)、わしは(ipse)悲しみに暮れて (aeger) 山羊を (capellas) 追い立てていく (protenus...ago) 。
ティーテュルスよ(Tityre)、これなんかは(hanc: capellam が省略)断腸の思 いで(vix)連れていくところなのだ (duco)。
(※vix は英語の hardly 同様「ほとんど・・・ない」を意味する。「ほとんど連れて行くことができない。」というのが直訳。)
この(hic)ハシバミの茂みで (inter densas corylos: (直)「ここ(すなわち)濃いハシバミの中で」) たった今(modo)(母山羊は)ふたご(の仔山羊)を(gemellos)、この群れの希望を(spem gregis)産み落としたのに(conixa)、ああ (a)、はだかの岩の上で(silice in nuda) 捨ててきたのだ (reliquit)。
わしの頭さえおかしくなければ (si mens non laeva fuisset)、しばしば (saepe) この災いについては (malum hoc)、 天から(雷に)打たれた樫の木が (de caelo tactas...quercus) われわれに(nobis)予言していたと(praedicere)思い出す (memini)。
だが(sed)、おまえのいう (iste) 神とは (deus) いったいだれなのか (qui sit)。ティーテュルスよ (Tityre)、われわれに(nobis)教えてくれないか (da)。(18)
昨晩は65節を読みました。
以下覚え書きの試訳です。
65. At sunt morosi et anxii et iracundi et difficiles senes.
だが老人は(senes)頑固で心配性、怒りっぽく気むずかしい。(と反論するだろう。)
Si quaerimus, etiam avari; sed haec morum vitia sunt, non senectutis.
もし求めるなら、どん欲で(avari)さえある。だが、これらは(haec)
(個々人の)性格の欠点であり、老年(に共通)の欠点ではない。
Ac morositas tamen et ea vitia, quae dixi, habent aliquid excusationis non
illius quidem iustae, sed quae probari posse videatur; contemni se putant,
despici, inludi; praeterea in fragili corpore odiosa omnis offensio est.
しかし(tamen)頑固さや今私の述べた(dixi)欠点(vitia)はある種の弁解の余地を有している(直訳は「言い訳の幾分かを持つ」)。かの正当な(justae)弁解でなく、是認されうると(probari posse)見なせるような弁解であるが。すなわち、老人は自分が(se)馬鹿にされ、軽蔑され、笑いものにされていると思っているし、さらに(praeterea)脆弱な肉体においては(in fragili corpore)すべての攻撃が(omnis offensio)憎むべきもの(odiosa)となる。
Quae tamen omnia dulciora fiunt et moribus bonis et artibus; idque cum in vita, tum in scaena intellegi potest ex eis fratribus, qui in Adelphis sunt.
だがこれら(quae)すべて(の欠点)は(omnia)立派な生活態度や(moribus bonis)生きる工夫によって(bonis...artibus)(周囲にとって)受け入れやすくなる(dulciora fiunt)。そしてこのことは(idque)、実人生においてだけでなく(cum in vita)舞台においても(tum in scaena)『アデルポエ(兄弟)』に出てくるあの兄弟の例から(ex eis fratribus)理解されうるだろう(intellegi potest)。
今日のラテン語にはいろいろな格言が出てきます。
Non scholae sed vitae discimus. (学びは、学派のためでなくおのが人生のために。)
私はこれをひきあてました。
先日の「ラテン語の夕べ」でもこれが一番という方がいらっしゃいました。
そのときは、schola は「学校」と説明しましたが、元来は「学派」の意味で使われています。
なんらかの主義主張を正当化するための手段となる学びではなく、主役は自分なのだ、と確認することは、大切だと思います。
山下です。
先日のアンケートを読ませていただきました。また次回の参考にさせていただきます。
ご紹介します。
(順不同)
・非常に有意義に聞かせていただきました。
・学生時代には「ラテン語入門」をほとんど一通り終えたのですが。時間がありさえすれば『ガリア戦記』などを自由に読みこなせる位にはなりたいと思っています。
・Mors certa, hora incerta. 生涯青春中!
・「日本人は外国語というと英語という人が多すぎる」という話を授業でなさっていたことを思い出しました。英語から離れられるといいなと思うのですが。
・色々文法事項を思い出しては、まったく身に付いていないことがわかりました。何とか継続し勉強できればと思います。
・ラテン語・ギリシア語がどのように現代に受け継がれているのか。言語の歴史がわかるかなと思って参加しました。なぜラテン語があるのか不思議でした。ラテン人はいない、ラテンという国はないと思っていました。それが最初のお話で少しわかりました。
・温故知新の心境です。
・難しいけれど、楽しかったです。
・なぜ古代ラテン人は詩人や哲学者が多いのでしょうか?ヨーロッパ人以外では、あまり哲学思想家とか聞かないですね。
・参加させていただき感謝します。先生なのにいばらなくて偉いと思いました。ゆっくり学んでいきたいと思いました。
・NHKでお世話になりました。これからも勉強します。
・ラテン語の有機的なつながりが少しわかった気がする。早くわかりそうな気がする。
山下です。
アクセントの確認テストをバージョンアップしました。
アクセントの解説の内容とぴったりあわせてありますので、復習になると思います。
山下です。
ラテン語のアクセントについて、以前書いたものを手直ししました。
内容はとてもくどいです(笑)。これでわからないことはないだろう、と思っています。
でも、わからない!という方は、ふるってメールでお問い合わせ下さい。
山下です。
おそまきながらキケローのページを少し手直ししています。
これはやり出したらきりがないので、今は文献案内と、有名な言葉のご紹介にとどめたいと思います。
あと、ウェルギリウスも同様に手直ししたいと思っています。
山下です。
雨の降る中を20名以上の方がお越し下さり、本当にありがとうございました。
次回は二月下旬か、三月上旬に開催を予定しています。
私自身、ラテン語に関心をお持ちの方々とお会いし、さまざまな質問をしていただけることが楽しく、次回もたくさんの人とtお会いできることを楽しみにしています。
山下です。
今日はPCなどを使わずにプレゼンします。サイトの紹介などは、いずれまた。(>前川先生)
ホラーティウスの詩の紹介まで踏み込めたらと思っているのですが、たぶん時間切れになるかも。
山下です。
本日午後八時からラテン語の夕べを開きます。
何人こられるのか、ラテン語をどのくらい学ばれた方々なのか、あるいは、今日初めてラテン語と出会われるのか?まったく未知数なのですが、できるだけ皆さんのご関心にこたえることができるようにと思って準備を進めているところです。
ご参加になれない方でも、何かご質問とかありましたら、これを機にコメントをどうぞ。
山下です。
「1年間のラテン語通信講座を振り返って」と題する受講生の声を「クラス紹介」にアップしました。
山下です。
水曜日はキケローの『老年について』を読んでいます。
今日は予定通り、64節の最後まで進みました。
内容と表現の両面で「濃い」一節でした。
前節でスパルタでは老人が重んじられている例が紹介されていたのですが、その老人は決して auctoritas の備わった人間としての exemplum ではなかった、と今日気づきました。
単に、quidam...grandis natu (ある老人)と呼ばれ、精神的な卓越性に関しては何も語られていないのが、今日読む箇所の伏線であったと思いました。
そこではむしろ、老人を重んじる態度を示したスパルタ人の立派さが強調されています。
64節では、ローマの例が紹介されます。ここでは名もない老人ではなく、auctoritas (権威)を備えた老人が周りから尊敬される例があげられています。
つまり、先に見たスパルタの例のバージョンアップです。(敬う側の態度も立派である――少なくとも前節で見たように、理屈しかこねないアテーナエの人間よりも――が、尊敬される側にも相応の人間的卓越性が備わっている例となる。)
自然に年を取るだけでも尊敬される例(スパルタ)もあるが、ローマではそれに加えて、精神的な立派さを備えた老人が周囲に尊敬される例には事欠かない、と話が発展していくのです。前節の例は話の前振りだったわけです。
ちなみに今日読んだ箇所の締めくくりはこうです。
Quae sunt igitur voluptates corporis cum auctoritatis praemiis comparandae?
それゆえ(igitur)いかなる(quae)肉体の(corporis)欲望が(voluptates)権威の(auctoritatis)褒美(praemiis)と(cum)比較されえようか?
※auctoritatis の属格は「同格の属格」とみて、「権威という褒美」と訳すこともできます。
Quibus qui splendide usi sunt, ei mihi videntur fabulam aetatis peregisse nec tamquam inexercitati histriones in extremo actu corruisse.
これらを(quibus: i.e. praemiis)見事に(splendide)享受した(usi sunt)者たちは、私には(mihi)思われる(videntur)、人生の(aetatis)物語を(fabulam)最後まで演じきった(peregisse)のであり、あたかも(tamquam)下手な(inexercitati)役者のように(histriones)最後の場面で(in extremo actu)しくじるのでは(corruisse)なかった(nec)、と。
山下です。
次の中からピックアップしてラテン語格言集に追加していきたいと思います。
Numquam et ille miser, cui facile est mori. Seneca
Vulgare amici nomen, sed rara est fides. Phaedorus
Amicus certus in re incerta cernitur. Ennius
Ut ameris amabilis esto. Ovid
Legum omnes servi sumus ut liberi esse possimus. Cicero
Orandum est ut sit mens sana in corpore sano. Juvenalis
Tacere qui nescit, nescit loqui. P.Syrus
Breve tempus aetatis, satis longum est ad bene honesteque vivendum. Cicero De Senectute
Aspiciunt oculis superi mortalia iustis. Ovid
Discite iustitiam moniti, et non temnere divos.
Pauperis est numerare pecus. Ovid
Aurea sunt vere nunc saecla: plurimus auro ??? honos.
Pecuniam in loco neglegere maximum interdum est lucrum. Terentius
Quaaerenda pecunia primus est, virtus post nummos. Hor.
Fortuna opes auferre potest, non animum. Seneca
Passibus ambiguis Fortuna volubilis errat. Ovid.
Fortuna vitrea est; tum cum splendet frangitur. P.Syrus
Nihil aliud est ebrietas quam volutaria insania. Seneca
Natura semina nobis scientiae dedit, scientiam non dedit.
Nemo enim potest omnia scire. Varro
Tacitum vivit sub pectore vulnus. Vergil
Etiam iucunda memoria est praeteritorum malorum. Cicero
山下です。
FF7ACのサイトにて、そこで使われているラテン語についてファンの方々が意味や歌い方を徹底的に解明しておられます。
山下です。
金曜日のクラスではセネカを読んでいます。
作品は、『幸福な人生について』です。
今回は、8.1を読みました。大学書林のテキストには誤植があります。
hanc ratio observant, hanc consulit. (誤)
→ ...observat,... (正)
ちなみに、hanc は直前の natura をさしています。
どちらの動詞も主語は ratio (女性・単数・主格)ですから、ともに単数になります。
内容的には
...praeceperunt veteres optimam sequi vitam, non jucundissimam,...
昔の人たちはこう教えている、最も楽しい生活を送るのではなく、
最も善い生活を送るように、と。
この表現が個人的に印象に残りました。
どの時代も同じなのでしょうか、
楽しければいい、それが bonus であろうとなかろうと考えるのは。
セネカは voluptas (快楽)と virtus (美徳)を峻別します。
virtus は勇気という意味も持ちます。
つらくてもやらなくてはならないことがあります。
それを立派にやり通すとき virtus が発揮されたということになります。
神話に例をとると、ヘラクレスは voluptas と virtus とどちらの道を選ぶか?
岐路に立ったときに、迷わず virtus を試す道を選んだことが知られています。
ヘラの与える艱難辛苦をことごとく克服してつかんだ名誉(クレス)が彼の名には刻印されています。(ヘラ+クレス)
昨日のニュースで、ヤンキースの松井選手は「迷ったらいつも困難な道を選んだ」と
インタビューでそう答えたそうです。彼もまた現代における"virtus の人"ですね。
山下です。
最近少しずつラテン語に関するページが増えてきたように思います。
Ishigaki さんのページは、塩野さんに触発されてガリア戦記を読みたいと思われた方には、Est est est (ここに求めていたものがある!!)と叫びたくなるページです。
山下です。
私のHPにてラテン語の格言を紹介しています。その中に次の表現があります。
Cultura animi philosophia est.
これは、「クルトゥーラ・アニミー・ピロソピア・エスト。」と読みます。
culturaは、「耕すこと」の意で、カルチャー(文化)の語源です。
animi は「精神」を意味する第二変化名詞 animus の単数・属格です。 「精神の」と訳せます。
「精神の耕作が哲学である」となり、いわんとすることは「精神を耕すことが哲学である。」という意味です。
キケローの『トゥスクルム談義』2.13 に見られる言葉です。
山下です。
昨晩は、少しだけ進みました。63節の途中から、64節の始めの一行までです。
スパルタのリューサンドロスの言葉:「スパルタは老人が最も立派に住める国だ」という言葉について、カトーは次のようなエピソードを紹介します。
アテーナイの演劇祭において、ある老人が満員の劇場の中、同国人はまったく席を譲ってくれなかったのに対し、国家使節としてこの場所を訪れていたスパルタ人の一行は、この老人が近づいたとき、いっせいに起立して席を譲った。
このスパルタ人の一人がこう言ったそうです。(64節の最初の一行)
...dixisse ex eis quendam Athenienses scire, quae recta essent, sed facere nolle.
彼ら(スパルタの国家使節)のある者が言った、アテーナイ人は何が正しいかは知っているが、それを行おうとは欲しない、と。
アテーナイといえば、哲学のメッカですが、議論好きが多かったのでしょうか。そのわりに実行力が乏しかった、対してスパルタ人は「不言実行」というイメージが当時のローマにはあったのかな、と想像します。
最後のセンテンスはちょっとした格言的な言い回しになっています。日本語でも、「言うは易く行うは難し」と言いますね。
山下です。
7月のラテン語の夕べの感想を up します。
(1) 大変楽しいお話をありがとうございました。私は小学館の英語辞書を引いている中に英単語にラテン語起源が大変多いことに驚き興味がわいてきました。
(2) 同志社大学4回生のときに先生の授業を受けました。当時もおもしろかったですが、4年ぶりにお話を聞いてやっぱりおもしろかったです。山の上からの夜景きれいですね。
(3) いつもながらとても楽しかったです。”辞書”、”文法書”、”やる気”と何より”人生経験”があればラテン語はできる、というコメントが心に残りました。思い出されるのは、大学受験の際に現代国語が思うようにできず苦しんでいた自分です。人生経験を多少積んだ今は、そのときの現代国語ももう少し理解できるようになっている(と思う)し、そうやって苦しんだ自分を今は笑って受け入れられるのがちょっと嬉しく感じられます。”人生経験”をもっと積み、ラテン語をもっと読めるようになって、ずっと何年も先に、ラテン語がまだわからない今の自分を笑えるようになっていたいと思いました。
(4) なぜラテン語やギリシア語をやろうと思われたのですか?ギリシア語もしたいのですが・・・。与える情報が豊かだなあと思いました。しっかりと考えておられるなあと思いました。
(5) 興味あるお話をありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします。
(6) 真理の追究の一つにラテン語を学ぶことが、世界が四方八方に広がることを実感しました。ラテン語を通して古典に触れることのすばらしさと山下先生の情熱を通じて生の輝きを直接体験したように思います。ラテン語を学ぶことは、人間を学ぶことなのだとあらためて感じました。
(7) "uni" のお話もとても共感できるものでした。ますますラテンに興味を持ちました。
山下です。
次回は12月から心機一転勉強を始めたいと思います。
初級文法のコースは1学期(4ヶ月)で1冊を終えるというパターンが定着してきました。
「我こそは!」という方は、お問い合わせ下さい。
なお、受講生の声として、次の二つの感想文をご紹介いたします。
山下です。
昨日の授業では、1節進むつもりでした。
しかし、出だしから雑談の脇道にそれてしまいました。
「神々の本性について」の話や「国家について」の話などで盛り上がり、
結局予定の半分しか進みませんでした。(63節の途中まで。)
とはいえ、残すところあと少しになってきましたので、
ビールのように一気飲みするのではなく、
熟成した vinum をゆっくり味わうように読んでいきたいと考えています。
Festina lente.
老年について
キケロ 中務 哲郎 ![]()
山下です。
本日のラテン語では、キケローの「老年について」を読みました。
61,62節を読みました。
Non ceni nec rugae repente auctoritatem arripere possunt.
白髪も皺も突然権威を掴み取ることはできない。
この表現は格言として切り取ってもよいなと感じました。
青年時代から志高く生きてきた者だけに手にすることのできる人生の果実について、キケローは述べているというわけです。
老年について
キケロー ![]()
山下です。
本日NHK文化センターにて「ラテン語の世界」と題するお話をしに参ります。
これを機に、予備知識のない方でもすぐに理解できるような格言集を50用意しました。
それぞれの文章に必要な語彙表もつけました。
パズルを解くように、ラテン語の原文を読み解く楽しさを味わっていただきたいと思っています。
山下です。
英語の単語力をチェックするサイトはこれ(たんごりき)。
ラテン語の語彙力判定サイトを作りたいですね。自分のためにも(笑)。
いちおう私の個人ページ(山下太郎のラテン語入門)では、ラテン語クイズというコーナーがありますが、更新をまめにしないといけないなと思うこのごろです。
山下です。
ラテン語の講読クラスはあいかわらず熱いです。
水曜日、京大のSくんが入門しました。
木曜日のクラスで前川先生に文法を学んだのが今年の4月から2ヶ月ちょっと。
最短時間で文法を終え、セネカを読んだとのこと。その後、コプト語を習得するため時間をとりますとのことでしたが、無事この言語もマスターされ、今度はキケローに挑戦しますと、再び元気な姿を見せてくれました。
「老年について」は今回1節のみ進みました。
金曜日のセネカのクラスでは、今回は先に進まずに、ていねいに復習しました。私も見落としていることがいくつも発見でき、有意義でした。
virtus (徳)と voluputas (快楽)について議論が続きます。
山下です。
tempus を用いた例文です。
Tempus est quaedam pars aeternitatis. 時間は永遠のある部分である。キケロー
De Inventione の中の言葉です。
自分の生きている時代は、永遠の時間の流れの中のひとこまです。
自分の住んでいる地域は、無限の空間の中の一つに過ぎません。
それゆえにはかなく、それゆえにかけがえがないのです。
De Re Publica の最終場面(スキーピオーの夢)では、地上での fama が芥子粒のようなもの、と教えさとしていますが、現実の生活に照らして時間と空間を考えれば、sine fine でなく finis に縛られたこの時、この場所で精一杯生きる(res publica と信じられるものにたいして)のがベストと思われます。
じっさい、DRP の中では、死後の生にいち早くはせ参じたいと願うスキーピオー(孫)にたいし、大スキーピオーいわく、地上の生を勝手に断ち切ることは許されない、と。
『国家について』は、限りある生から永遠の生に至る道筋を描いている作品、と読むこともできます。
自分にとって res publica はなにか、考える貴重なチャンスが得られるでしょう。
山下です。
以下はラテン語の格言をめぐる覚え書きです。
志とは、心の志向するものという意味。忙しいと「志のあるなし」に注意が向かなくなりがちである。それでも生きてはいけるのだが。ラテン語に「偉大なことを欲したことが偉大である。」(Magna voluisse magnum.)という言葉があるが、偉大なことをなしたことが偉大である、というのが今のご時世かもしれない。そうなると、「偉大さ」比べの競争が絶えなくなる。だがわかりやすい偉大さの競い合いは、本当に偉大なことなのかどうか。
そう考えると、magna voluisse (偉大なことを欲した)というラテン語の意味が少し分かってくる。志や目線の高さというものを問題にしたい。世間の評価は二の次と達観しよう。よしんば世間の評価(ラテン語では fama がこれにあたる)が得られたとて、それは己の志の高い低いとは直接関係はない。
「このことをなして死ねれば本望」という「このこと」を今即答できるかどうか。一人静かに自問してみたい。
山下です。
以前書いたエッセイです。
ラテン語版「四季の歌」(オウィディウスによる)をご紹介しましょう。Poma dat autumunus: formosa est messibus aestas:
ver praebet flores: igne levatur hiems. Ov.Rem.187ff.
(秋は果実を与える。夏は豊作で美しい。春は花々をもたらす。冬は火で楽になる。)ラテン語で四季を表す語が、2行のほぼ四隅に置かれ、それぞれの季節の特徴が簡潔に記されています。春→夏→秋→冬の順に記すわが国の『枕草子』とは異なり、秋→夏→春→冬の順で記されています。私の感心するのは、最後の冬に関する表現です。「冬は雪が降る」とか、「北風が強くふく」というのでは平凡です。冬と火の結びつき。火は人間の暮らしの象徴です。家族の団らんをも意味しているのでしょう。冬の厳しさは認めながらも、ほっとした心の安らぎが感じられる表現です。
さて、日本の和歌から秋の趣きを称えた歌をひとつ、ふたつ。
春はただ花のひとへに咲くばかり 物のあはれは 秋ぞまされる 「拾遺集」
春に関して。
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも
「万葉集」『源氏物語』(「野分」)には、「春秋の争ひに、昔より、秋に心寄する人は数まさりけるを」と述べていますが、どちらも甲乙つけがたいです。
一方、春の到来について、『イリアス』第6巻では、次のように語っています。
「度量ひろきテュデウスの子よ、わたしの素性などをどうして訊ねる。人の世の移り変わりは、木の葉のそれと変わりがない。風が木の葉を地上に散らすかと思えば、春が来て、蘇った森に新しい葉が芽生えてくる。そのように、人間の世代も、あるものは生じ、あるものは移ろうてゆく。」
季節のうつろいに、人生のサイクルを重ね合わせる見方は、洋の東西を問わないように思われます。
山下です。
ラテン語格言集は現在220まで公開していますが、新たに二つ追加しました。
まだ、HPにリンクははっていません。
こういうのを加えたら、というのがありましたらどしどし教えてください。
山下です。
『ラテン語広文典』が復刊されました。
ラテン広文典
泉井 久之助 ![]()
ラテン語の教科書を勉強していて「もっと詳しく知りたい」というとき、この本は役に立ちます。
9月から授業に参加されているGさんは、すでに入手しておられましたが。
「新ラテン文法」も巻末の「事項索引」を使いこなせると、同様の意義があると思います。
山下です。
次のセンテンスをラテン語格言集に新しく追加する予定です。
omnia mecum porto mea.
キケローの言葉です。
意味は?
「私は、自分の(mea)すべてのものを (omnia)、自分と共に (mecum)、運ぶ (porto)」というのが直訳です。
祖国が占領されて逃げる際、ギリシアの七賢人の一人ビアスは何も持たずに逃げました。
その理由は、「自分のすべての財産」が自分の「知恵」であったから、というものです。
『ストア派の矛盾について』に見られる表現です。
山下です。
NHK文化センター京都にて、10月17日(月)、10月31日(月)の二回にわたり、特別講座を担当します。
タイトルは、「ラテン語の世界」です。
Memento mori.
「メメントー・モリー。」と発音します。
動詞 memini(メミニー) 「覚えている」の命令法が memento で、「覚えていなさい」。
moriは、動詞 morior(死ぬ)の不定法の形。
(自分が)死ぬことを覚えていなさい。
人の死を忘れてはならない、という意味ではなく、自分がいつか死ぬ身である、ということを胸に刻め、という意味で用いられます。
タイトルの問いについて、私の書いたものがテレビで取り上げられたそうですが、その内容は自分で考えたものなので、ほんとうにそうなのか、ちょっと自信がありません。違う説明の仕方をご存じの方がおられたら、これを機に教えてください。
『老年について』より。
「次の世代に役立つようにと木を植える」
これは、キケローの『老年について』(De Senectute)に見られる表現です。
サビーニー地方の農夫を引き合いに出し、「この人たちは、自分にはまったく関係のないことが分かっていることにせっせと励んでいる」(idem in eis elaborant quae sciunt nihil ad se omnino pertinere)とキケローはいいます。
「次の世代に役立つようにと木を植える」(Serit arbores, quae alteri saeclo prosint)というスターティウスの詩句を引用し、農夫は「誰のために植えるのか」と問われるなら、
Dis immortalibus, qui me non accipere modo haec a maioribus voluerunt, sed etiam posteris prodere.
「不死なる神々のために。神々は、私がこれを先祖から受け継ぐのみならず、後の世に送り渡すようにとも望まれた」
と迷わず答えるだろう、と続けます。教育もしかり、研究もしかり、と強く感じる次第です。解釈は、それぞれのお立場でご自由にどうぞ。
<語釈>
dis は「神」を表す deus の複数・与格です。
immortalibus は「不死の」を意味する形容詞 immortalis の複数・与格で dis にかかります。「不死なる神々のために」
qui は関係代名詞。先行詞は dis です。
me は人称代名詞 ego の単数・対格です。不定法 accipere の意味上の主語です。→「対格不定法」と呼ばれる構文です。
non modo...sed etiam は、英語の not only A but also B と同じ用法になります。
haec は指示代名詞 hic の中性・複数・対格です。
a maioribus について。a は「~から」を意味する前置詞で、奪格を伴います。maioribus は「先祖」を意味する名詞(元は形容詞) maior の複数・奪格です。
voluerunt は「望む」を意味する不規則変化動詞 volo の完了・三人称・複数です。主語は「神々」と解釈できます。
posteris は「後の世の者たち」を意味する名詞 posteri の複数・与格です。
prodere は「送り渡す、伝える」を意味する第三変化動詞 prodo の不定法・能動相・現在です。
前回の授業の補足です。
岩波の大西訳を参照してみました。
「善きものの始原はすべて徳に遡るから、さぞかし、君たちが愛しもし、恋い慕いもする善きもの(快楽)も当然その徳の根から生じるものだから、ということなのだろう。」(P.323)
>Videlicet はどこにかかるのか。
私は quia...est にかかると考え、この従属文の内容は明白である。しかし、だからといって、ex 以下は成り立つだろうか?という意味でとりました。大西先生の解釈では quia 以下の内容全体(エピクーロス派の考えをさす)にかかるようです。
>bonis はどう解釈すればよいか(何にかかるか)。
与格で principium にかかります。大西訳では「善きものの始原」に相当します。
日本語にすると属格が期待されますが、「善きものにとっての始原」というのが直訳です。
>hujus は何を指すのか。
virtus と考えられます。ex virtute (徳から)との対応からすると、hujus radicibus は「徳の根」と訳せますが、同格の属格(徳という根っこ)と考える方がよいでしょう。徳という花を咲かせるさらに根本の根っこが別にあるというのでは話が矛盾してきますので。
>ea quae...expetitis は具体的に何を意味しているのか?といったことがポイントになります。
大西訳では( )で説明されていますが、快楽です。エピクーロス派のキーワードとなりますが、セネカがここで批判する「快楽」はエピクーロス派が批判する「似非快楽」であることが話をややこしくしています。
金曜日はセネカの「幸福な人生について」(De Vita Beata)を読んでいます。
昨日は、VII.1の後半を読みました。水、木、金と週3日ラテン語を学びに通われているOさんに訳読をご担当いただきました。
文法を一方で学びながら、水曜日はキケロー、金曜日はセネカのテキストを独力で調べ抜いて解釈を発表されます。たいへんな studium です。
私も気になった表現が、Videlicet quia omne bonis ex virtute principium est, ex hujus radicibus etiam ea quae vos et amatis et expetitis oriuntur? でした。
Videlicet はどこにかかるのか。bonis はどう解釈すればよいか(何にかかるか)。hujus は何を指すのか。ea quae...expetitis は具体的に何を意味しているのか?といったことがポイントになります。
(・・・つづく)
キケローの「老年について」を読んでいます。
お仕事の都合で従来参加されているお二人が9月いっぱいはお休みされますが、
新しいメンバーを一人迎え、昨日はマンツーマンで読みました。
キケローを読みながら文法の確認をしていくというスタイルでした。
キケローの文章は、「教科書的」で、教科書の例文として使えるものばかりでした。
Tempus est quaedam pars aeternitatis.
「テンプス・エスト・クウァエダム・パルス・アエテルニターティス」と読みます。
「時間(tempus)は、永遠の(aeternitatis)ある(quaedam)部分(pars)である。」という意味です。
aeternitas の単数・属格が aeternitatis となります。
以下、覚書です。引用文はキケローの言葉です(De Inventione)。
自分の生きている時代は、永遠の時間の流れの中のひとこま。自分の住んでいる地域は、無限の空間の中の一つに過ぎない。
それゆえにはかなく、それゆえにかけがえがない。
De Re Publica の最終場面(スキーピオーの夢)では、地上での fama が芥子粒のようなもの、と教えさとしているが、現実の生活に照らして時間と空間を考えれば、sine fine でなく finis に縛られたこの時、この場所で精一杯生きる(res publica と信じられるものにたいして)のがベストと思われる。
じっさい、DRP の中では、死後の生にいち早くはせ参じたいと願うスキーピオー(孫)にたいし、大スキーピオーいわく、地上の生を勝手に断ち切ることは許されない、と。
『国家について』は、限りある生から永遠の生に至る道筋を描いている作品、と読むこともできる。
キケロー選集 (8)
キケロー ![]()
ラテン語の詩によって、ギリシアの哲学者エピクーロスの考えをローマに広めようとした人、それがルクレーティウスです。ウェルギリウスの少し先輩にあたります。
そのメッセージの核になるのが「死は我々にとって何ものでもない」という主張です。
「未来が我々にいかなる運命をもたらすか、偶然の機会が我々をどのような目に遭わせるか、また、いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。
また、生命を延ばしてみたところで、それによって死の時間を少しも減らすことにもならず、すなわち、我々が死の状態にある間の時を短くすることができるものではない。
であるから、たとえ君の好きなだけ多くの世代を生き抜いて生を全うすることがかりに出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているだろう。
そして、今日一日で生命を終わった人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過ごしたとは言えないだろう。」
そう簡単に割り切れるものでもないだろう、という思いを抱きながら、ウェルギリウスの「農耕詩」を読めば、この先輩詩人の考えを尊重しながら、生と死の問題をより広い観点でとらえなおした詩人の言葉に出会えるでしょう。
福西です。最後もやってしまいます。
8巻末の3行は精神の高揚する詩句ですね。
724
hic Nomadum genus et discinctos Mulciber Afros,
ここにウルカヌスが、ノマスの種族(ヌミディア人)と裸のアフリカ人を、
Mulciber=ウルカヌス
Afros < Aferアフリカの(人)adj.pl.acc.
725-6
hic Lelegas Carasque sagittiferosque Gelonos
finxerat; Euphrates ibat iam mollior undis,
ここにレレゲス人を、カール人を、矢を運ぶゲローニー人を、
作っていた。穏やかなエウプラテスが今、波と一緒に来ようとしていた。
finxerat < fingo作るplu.p.3sg.
727-8
extremique hominum Morini, Rhenusque bicornis,
indomitique Dahae, et pontem indignatus Araxes.
辺境人であるモリニー人が、二つ角のレーヌス川が、
支配されないダハ人が、橋に対して憤るアラクセス川が。
729
Talia per clipeum Volcani, dona parentis,
miratur rerumque ignarus imagine gaudet
両親からのこのような贈物に対して、ウルカヌスの盾に対して、
彼(アエネアス)は驚いた。歴史について知らぬ者としてその絵に喜んだ。
rerum < res:出来事、歴史pl.gen.
730-1
attollens umero famamque et fata nepotum.
その両肩に名声と子孫の運命とを担った。
アップが遅れてすみません。福西です。
707-8
ipsa uidebatur uentis regina uocatis
uela dare et laxos iam iamque immittere funis.
自ら風を呼んでいる女王が(盾の絵柄に)見られる。
帆を与え(張り)、自由にされたロープを緩めている。
ventis vocatis風が呼ばれて:絶対的奪格
dare, immittere:歴史的不定法
709-10
illam inter caedes pallentem morte futura
fecerat ignipotens undis et Iapyge ferri,
血の間で未来の死に青くなっている彼女を、
波の上でイアピュクス(北西の風)に運ばれることをウルカヌスは描いていた。
illam:feceratの目的語、あるいはferriの対格主語
ferri < fero運ぶpass.inf.
fecerat < facio作る、描くplu.p.3sg.
711-3
contra autem magno maerentem corpore Nilum
pandentemque sinus et tota ueste uocantem
caeruleum in gremium latebrosaque flumina uictos.
一方その反対側に、悲しみに暮れる大きな体のニールス(ナイル)川を(描いていた)、湾を広げながら、衣服の全体で、
空色の懐へ、隠された流れへと、敗者を呼んでいる(ナイル川)を。
maerentem, pandentem, vocantem=Nilum
victus:vincoされた者たち→敗者(アントニウスらのこと)
714-5
at Caesar, triplici inuectus Romana triumpho
moenia, dis Italis uotum immortale sacrabat,
さてカエサル(アウグストゥス)は、三重の凱旋でローマの城壁へと運ばれた彼は、
イタリアの神々に不死の誓いを捧げようとしていた。
immortalis,e不死のadj.sg.acc.
716
maxima ter centum totam delubra per urbem.
(誓いとして)三百の大神殿を都全体に。
→votumの内容物として大神殿を捧げ(寄付す)る。
717
laetitia ludisque uiae plausuque fremebant;
喜んで街道が、芝居や拍手でどよめこうとしていた。
laetitia_:adv.
viae街道f.pl.nom.
718
omnibus in templis matrum chorus, omnibus arae;
全ての寺院の中に、母たちのコロスが、全ての祭壇のために(いる)。
719
ante aras terram caesi strauere iuuenci.
祭壇の前で、殺された牡牛たちが大地に身を投げ出した。
strave_re < sterno身を投げ出すpf.3pl.
iuvencus牡牛m.pl.nom.
720-2
ipse sedens niueo candentis limine Phoebi
dona recognoscit populorum aptatque superbis
postibus; incedunt uictae longo ordine gentes,
彼自身(アウグストゥス)は、輝くポエブスの白い敷居で座りながら、
民衆の献上品を識別し、高い門柱に掲げる。
敗れた種族が長く順番に行進する。
723
quam uariae linguis, habitu tam uestis et armis.
あたかも住む場所や服装や武具に関して様々であるごとく言語に関して様々である。
tam A quam B:AのごとくBである
よろしくお願いします。
Audendo magnus tegitur timor.
「アウデンドー・マグヌス・テギトゥル・ティモル」と読みます。
主語は timor(恐怖)。magnus (大きな)がこれを形容します。
audendo は audeo (敢えて行う)の動名詞・単数・奪格の形で、「敢えて行うことによって」と訳します。
tegitur は「覆う、隠す」を意味する動詞 tego の現在・受動相・単数・3人称の形で、「隠される」となります。
「大きな恐怖は、敢えて行うことによって、隠される。」となります。
少しずつ、「ラテン語の夕べ」で取り上げるような格言をご紹介できたらと思います。すでに、私のHPで公開しているものが中心ですが、文法的な質問をコメントでお寄せいただけるのがメリットかと思います。
Asinus in tegulis.
「アシヌス・イン・テーグリース」と読みます。
asinus は「ろば」を意味する第二変化の男性名詞、単数・主格です。
tegulis は「屋根」を意味する第一変化の女性名詞、複数・奪格です。
「屋根におけるろば」という意味で、珍しいことを言い表す表現です。
ラテン語をご紹介していきます。
Ars longa vita brevis.
「アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス」と読みます。
ars は英語で art ですが、広く「技術」という意味をもちます。
longus(長い)という形容詞が ars(女性・単数・主格)を修飾しています。
動詞 est が省略されています。「ars は longa である」となります。
vita は「人生、生活」という意味です。
brevis は vita を修飾する第三変化の形容詞です。
「技術は長く、人生は短い」
たとえば、エジソンは亡くなりましたが、彼の残した技術は今も利用されています。
<補足>ars は芸術という意味の前に技術という意味を持っています。英語でも、art の形容詞に artificial (人工的な)という言葉がありますね。ars はまた「学問」という意味も持っています。私が以前勤めていた京都工芸繊維大学の喫茶店の名前はアルスとベリタスで、アルス(1F)がベリタス(2F)を支える構造です。ベリタスは何を意味するでしょうか。これもラテン語で veritas とつづりますが、真理を意味します。命名者は、ノーベル賞をとられた福井謙一先生です。
いよいよ間近になりました。はじめてラテン語に接する方を念頭に置いています。すでにラテン語を学ばれた方もちょっとした復習のチャンスになればと思っています。私自身とくに肩に力の入った準備をしているわけでなく、来られた方の顔ぶれを見ながら、興味のある話をしたいと思っています。ラテン語クラス初回のガイダンスのような内容をイメージしています。山の学校では実際初級文法のクラスもありますので、本当に勉強したい方はそちらにお越しいただければ一番ですが、じつはラテン語は独学が可能な語学です。その最大の理由は、現代語と異なり、文字ベースの学習、とくに辞書を引いてラテン語を読む作業に集中できるという点があげられます。
福西です。
後半部分698-706を担当します。よろしくお願いします。
698-699
omnigenumque deum monstra et latrator Anubis
contra Neptunum et Venerem contraque Mineruam
全種類の神々の怪物と、吠えるアヌビスが、
ネプトゥヌスとウェヌスとミネルウァに相対して、
deum:pl.gen.
700-1
tela tenent. saeuit medio in certamine Mauors
caelatus ferro, tristesque ex aethere Dirae,
槍を構える。戦闘の真っ只中で、鉄で彫琢された戦いの神が荒れ狂う。
天から、悲惨な復讐の女神らと、
caelatus < caelo(1)彫る、レリーフする
*Diraeは地下から出てきそうなものですが、
意図的なイメージの逆転でしょうか。
702
et scissa gaudens uadit Discordia palla,
喜びながら不和の女神も、破かれた裳裾をまとって馳せ参じる。
scissa_ palla_:abl.
703
quam cum sanguineo sequitur Bellona flagello.
彼女と共に、戦の女神が血のついた鞭を携えて後に従う。
quamの先行詞Discordia
cum:accのquamを支配
704-6
Actius haec cernens arcum intendebat Apollo
desuper; omnis eo terrore Aegyptus et Indi,
omnis Arabs, omnes uertebant terga Sabaei.
アクティウムの神アポロがこれらを見定めながら、
高みから弓を引き絞っているところだった。
この時点で、恐怖で、全エジプト人とインド人と、
全アラブ人が、全サバエ人が背中を向けているところだった。
haec:異国の神々のmonstra
desuper:adv.=from above
eo:adv.=in this point
宇梶です。
前半部分(675-681)の訳を提出いたします。ご指導のほど、よろしくお願いいたします。
[675-677]
in medio classis aeratas, Actia bella,
cernere erat, totumque instructo Marte videres
feruere Leucaten auroque effulgere fluctus.
【試訳】
「中央には青銅の艦隊、アクティウムの戦争を
見分けることができた。そこで見て取ることができるのは、戦闘態勢をとり沸き立つレウカーテと、黄金によって輝く波であった」。
【語釈】
videres:「見ることができるであろう」(imperf subj act 2nd sg)
totum(que):「すべて」→Leucate にかかる?
feruere:「沸き立つ」(pres inf act)
effulgere:「輝く」(pres inf act)
→Leucate が feruere し、fluctus が auro によって effulgere するのを videres する、という構文でしょうか。
[678-681]
hinc Augustus agens Italos in proelia Caesar
cum patribus populoque, penatibus et magnis dis,
stans celsa in puppi, geminas cui tempora flammas
laeta vomunt patriumque aperitur vertice sidus.
【試訳】
「こちらからはアウグストゥス・カエサルがイタリア軍を戦場へと導く。
元老院も人民も、祖国の守護神や偉大なる神々をも連れて、
高い船尾に立つと、そのこめかみは一対の炎を喜んで
吐き出す。父の星々が頭上に現れる」。
【語釈】
agens:「導く」(pres part masc nom sg)→主語は Augustus Caesar
stans:「立つ」(pres part masc nom sg)→主語は同上
cui:ここでは celsa ~ puppi を指す。
→cui tempora laeta:「その(船尾の)こめかみは喜んで」
patribus:「元老院」(でしょうか?Loebの英訳に従いました)
vertice:「頭上に」(masc abl sg)
いよいよアウグストゥスが出てきました。まるで歴史小説を読んでいるようです。
ちょっと鳥肌が立ちました。
福西です。
中途半端な所からで申し訳ありませんが、666行の途中から担当させて下さい。
666-7
/ hinc procul addit
Tartareas etiam sedes, alta ostia Ditis,
ここ(の絵模様)から離れて、
奈落の屋敷もまた加える、冥府の深い入口を、
668-9
et scelerum poenas, et te, Catilina, minaci
pendentem scopulo Furiarumque ora trementem,
罪に対する刑罰をも(加える)、汝もだ、カティリーナよ、張り出した
岩にぶら下がっている(汝)を、復讐の女神に対して怯えている(汝の)顔を、
et te 呼びかけ
minaci < minax張り出した、突き出た
670
secretosque pios, his dantem iura Catonem.
そして隔離された敬虔な人々を、ここに法を与えているカトーを(加える)。
secerno隔離する
pios < pius敬虔な人々(Boni amant bonum.のBoniと同じ用法)
his:この(敬虔な人々の描かれている)場所に
671-2
haec inter tumidi late maris ibat imago
aurea, sed fluctu spumabant caerula cano,
これらの(絵模様の)間に、広々と、膨らんだ海の黄金の姿が来る。
しかしそれは白い波によって、空色に泡立っている。
tumidi maris膨らんだ海のgen.
*海の描写→これから「アクティウムの海戦」を描き込もうとしている
? ibat こういう時の未完了過去の訳し方が分りません。
673-4
et circum argento clari delphines in orbem
aequora uerrebant caudis aestumque secabant.
そのまわりに輪になって、銀色に光るイルカたちが
海を掃き、尻尾で潮流を切っている。
argento clari:銀によって光っている
in orbem = in troops
cauda(coda)尻尾
*楽譜のコーダも曲の最後にあるから、そんな名前なのでしょうね。
よろしくお願いします。
その4です。
Eadem probamus, eadem reprehendimus.
「エアデム・プロバームス・エアデム・レプレヘンディムス」と読みます。
eadem は、「同じもの」を意味する指示代名詞 idem (イーデム)の中性・複数・対格です。
probamus は「是認する、認める」を意味する第一変化動詞 probo の能動相・現在・1人称・複数の形です。
reprehendimus は「非難する」を意味する第三変化動詞 reprehendo の能動相・現在・1人称・複数の形です。
「我々は同じものを是認し、同じものを非難する」という意味になります。
人間の定見のなさを指摘した一文です。
これも、セネカの『幸福な生活について』(De Vita Beata)の中に見られる表現です。
その3です。
Sanabimur, si separemur modo a coetu.
「サーナービムル・シー・セーパレームル・モド・アー・コエートゥー」と読みます。
sanabimur は、「健康、健全にする」を意味する第一変化動詞 sano の受動相・未来・1人称・複数の形です。
「我々は健康にされるだろう」という意味から、日本語としては「我々は健康になるだろう。」と訳せます。「心が健やかになるだろう」と解釈してもよいでしょう。
si は条件文を導く接続詞です。
separemur は、「分ける」を意味する第一変化動詞 separo の接続法・能動相・現在・1人称・複数の形です。
主文も従属文も「本時称(primary tenses)」に置かれています。
modo は「ただ、単に」(英語の only)を意味します。
a は奪格の名詞を支配し、「~から」という意味を示します。英語の from と同じ用法です。
coetu は「集団」を意味する第四変化名詞 coetus の単数・奪格です。
「我々は心が健やかでいられるだろう、ただ単に、集団から離れているだけで。」と訳せます。
これも、セネカの『幸福な生活について』(De Vita Beata)の中に見られる表現です。
その2です。
Animi bonum animus inveniat.
「アニミー・ボヌム・アニムス・インウェニアト」と読みます。
animi は「魂、心」を意味する animus の単数・属格で bonum にかかります。
bonum は「善」を意味する中性・単数・対格です。
animus はこの文の主語です。第二変化名詞・単数・主格になります。
inveniat は「見出す、発見する」を意味する第4変化動詞 invenio の接続法・能動相・現在・3人称・単数です。
この接続法は「命令・義務」のニュアンスを持ち、「見出すべきだ、見出すのがよい」と訳せます。
「魂の善良さは魂が見出すべきである。」
セネカの『幸福な生活について』(De Vita Beata)の中に見られる表現です。
金曜日のクラスではセネカを読んでいます。印象に残る表現をいくつかご紹介します。(いずれも、私の「ラテン語入門」のページに掲載したものです)。
Ergo exeundum ad libertatem est. 「エルゴー・エクセウンドゥム・アド・リーベルターテム・エスト」と読みます。 ergo は「それゆえ」という意味をもちます。 exeundum は「立ち去る、出発する」を意味する動詞 exeo の動形容詞で、中性・単数・主格です。 est とともに、非人称的表現をつくり、この場合 exeo は自動詞なので、「・・・すべき」の意味を持ちます。 ※他動詞の場合、「・・・されるべき」となります。 ad は対格を支配する前置詞で、「・・・に向かって」の意味を持ちます。 libertatem は「自由」を意味する第三変化名詞 libertas の単数・対格です。 「それゆえ、自由に向かって出発すべきである。」となります。 セネカの『幸福な生活について』(De Vita Beata)の中に見られる表現です。 exeo は、あるものから外に向かって出て行く、ということですが、この文脈ではvoluptas (快楽)やdolores (苦悩)といった domina (女主人)による隷属状態から脱出し、libertas (自由)に向かって突き進まないといけない、という意味になります。
6月から新しいメンバーをお迎えし、パワーアップしてがんばっています。
前回は、53節を読みました。vere ineunte (春が始まると)など、教科書の文法通りの表現が出てきて、よい復習ができました。
新しいメンバーの方は、1学期間で文法を終え、キケローの講読に合流されていますが、部分的に説明を補足するだけでじゅうぶん内容をこなしておられます。
考えてみれば、すごいことだと思います。
木曜日クラスでも、来週で初級文法が終わるようですね。これもすごいことで、2ヶ月と1週間というのは、「山の学校」の新記録ですね。
続きにセネカの「人生の短さについて」(De brevitate vitae) を読むと聞いていますが、問題なく読み進めることができるでしょう。
「ラテン語の夕べ」のご案内です。
第3回目
日時 7月8日(金) 午後8:00~9:30
場所 北白川幼稚園 >>地図
対象 ラテン語に関心のある方
講師 山下太郎
ラテン語は日常の中に息づいています。映画やCMで見かけたあの言葉、この言葉。ラテン語を語源とする英単語はたくさんあります。合唱をされている方は、歌詞そのものがラテン語ということもあるでしょう。できれば、歌詞を理解した上で歌いたいと思われるかもしれません。今回「山の学校」では「ラテン語の夕べ」と題し、ラテン語の魅力にふれていただくひとときをご用意致しました。教科書も、ノートも要りません。「ラテン語はおもしろい!」と言ってお帰り頂けることを何より願っています。この機会にどうぞお気軽にお越し下さい。
前回の感想はこちらです。>第2回の夕べ
Aeneis8.642-58
福西です。後半分649-58をアップします。
649-51
illum indignanti similem similemque minanti
aspiceres, pontem auderet quia uellere Cocles
et fluuium uinclis innaret Cloelia ruptis.
まるで苛立っている者のような、まるで威嚇している者のような彼を(ポルセンナ王を)、
あなたは見るだろう、なぜなら、コクレスが橋を落さんとまさに敢行しているので、
クロエリアが鎖を壊してまさに川を泳がんとするとしているので。
similis+[dat](indignanti と minanti)
quiaなぜなら
aspiceres < aspicio見る sub.impf.2sg.
auderet < audeo敢えて行う sub.impf.3sg.
innaret < inno泳ぐ sub.impf.3sg.
接続法未完了:まさに~せんとするところ?
vinclis ruptis:絶対的奪格
652-3
in summo custos Tarpeiae Manlius arcis
stabat pro templo et Capitolia celsa tenebat,
タルペイアの城砦の頂上に、守り手であるマンリウスが
立って、神殿のために、高いカピトリウムを保っているところだった。
pro:前に? ために?
654
Romuleoque recens horrebat regia culmo.
(当時)新しい王宮はロムルスの藁で恐ろしかった(粗野で今ほど立派ではなかった)。
culmus屋根を葺くための藁
*同行が641の後ろにある説と、どちらがいいのでしょうね?
655-6
atque hic auratis uolitans argenteus anser
porticibus Gallos in limine adesse canebat;
そしてここで、金の廊下で銀のガチョウが飛びながら、
ガリア人が玄関に近付いたことを警告した。
657-8
Galli per dumos aderant arcemque tenebant
defensi tenebris et dono noctis opacae.
ガリア人は藪を通って近付き、城砦を取っているところだった。
闇すなわち小暗い夜の贈り物によって守られて。
Galli=defensi
et言い換え
あと70行ぐらいで8巻も終わりですね。
よろしくお願いします。
文法ばっかりでもたいくつする。モットーはよい刺激になる。アメリカの州、世界の都市や大学にはラテン語のモットーをもつものがすくなくない。そのよいコレクションはこちら。
ある程度ラテン語の勉強に親しんだ人向けに。
動詞の活用については、語尾変化の一覧だけを見て、任意の動詞の変化を自分で発音してみるとよい。
次のサイトがおすすめ。貞廣さんのページの「ラテン語規則動詞 未完了系 能動相」
福西です。
8.626-641の後半部分をアップします。
盾の描写が続きます。
635-6
nec procul hinc Romam et raptas sine more Sabinas
consessu caueae, magnis Circensibus actis,
ここ(雌狼の彫刻部分)から離れず、ローマを、そして
劇場の集まりから、大キルクス祭から、
無法にも略奪されたサビーニーの女たちとを
Sabinas:f.(サビーニー人というより、その女たちを含意)
sine more:無法にも
637-8
addiderat, subitoque nouum consurgere bellum
Romulidis Tatioque seni Curibusque seueris.
加えていた。突然、ロムルスの子孫から、
また老いたタティウス治下の堅固なクレスの町から、
新しい戦争が起こることを(加える)。
consurgere:addideratの目的語
bellum:consurgereの対格主語
Cures f.pl.abl.クレス(町名)
severus 固い(サビーニーのクレスは山城なので)
Tatio :abl(統率者をあらわす)
639-41
post idem inter se posito certamine reges
armati Iouis ante aram paterasque tenentes
stabant et caesa iungebant foedera porca.
この後、同じ武装した王たちが、お互いに決闘を置いて、
ユピテルの祭壇の前へ杯を掲げながら、
立っているところだった。そして豚を屠って同盟を結んでいるところだった。
posito certamine 絶対的奪格:戦いが置かれて(休戦して)
caesa_ porca_ 絶対的奪格:豚が屠られて
よろしくお願いします。
現在が第何回目かも、思い出さないといけませんね。(6巻末で第171回という記録が残っていたので、今は第240回ぐらいでしょうか?)
アエネイス8.608-625
At Venus aetherios inter dea candida nimbos
dona ferens aderat; natumque in ualle reducta
ut procul egelido secretum flumine uidit, 610
talibus adfata est dictis seque obtulit ultro:
'en perfecta mei promissa coniugis arte
munera. ne mox aut Laurentis, nate, superbos
aut acrem dubites in proelia poscere Turnum.'
dixit, et amplexus nati Cytherea petiuit, 615
arma sub aduersa posuit radiantia quercu.
ille deae donis et tanto laetus honore
expleri nequit atque oculos per singula uoluit,
miraturque interque manus et bracchia uersat
terribilem cristis galeam flammasque uomentem, 620
fatiferumque ensem, loricam ex aere rigentem,
sanguineam, ingentem, qualis cum caerula nubes
solis inardescit radiis longeque refulget;
tum leuis ocreas electro auroque recocto,
hastamque et clipei non enarrabile textum. 625
いよいよお待ちかね、ウルカヌスの盾の登場ですね。
福西
608-10
At Venus aetherios inter dea candida nimbos
dona ferens aderat; natumque in ualle reducta
ut procul egelido secretum flumine uidit,
さて、輝く女神ウェヌスが天の雲の間から、
贈り物を運びながら現れる。奥まった谷にいる息子を、
涼しい川から遠くに、彼が一人でいるところを彼女は見る。
ut:secretumな状態でいるところを
secretum < secerno離す(secretusでaloneの意味もある)
611
talibus adfata est dictis seque obtulit ultro:
姿(自ら)を突然現すなり、次のような言葉で彼女は語った。
612-4
'en perfecta mei promissa coniugis arte
munera. ne mox aut Laurentis, nate, superbos
aut acrem dubites in proelia poscere Turnum.'
「見よ、我が夫の技術によって、完成されたる、約束の贈り物を。
すぐにでも、息子よ、驕れるラウレンテース人でも、
精悍なトゥルヌスでも、戦場へ呼ぶことを、お前はためらわないがよい」
percecta=promissa=munera
ne:dubitesを否定
dubito(1)ためらうsub.pr.2sg.勧誘?
*このウルカヌスの「技術」は、作者の技術とも重なりますね。
615
dixit, et amplexus nati Cytherea petiuit,
彼女は言った。そして息子の抱擁をキュテラの女神は求めた。
616
arma sub aduersa posuit radiantia quercu.
輝く武具を正面のカシの下に置いた。
このarmaは武具一式ですね。(盾単品ではなく)
617-8
ille deae donis et tanto laetus honore
expleri nequit atque oculos per singula uoluit,
彼(アエネアス)は、女神の贈り物とこれほどの名誉に嬉々とし、
満たされることなく(飽きずに)、そして目を一つ一つに移した。
expleri:inf.pass.満たされること
nequit:~ができない
619-20
miraturque interque manus et bracchia uersat
terribilem cristis galeam flammasque uomentem,
彼は驚いた。手と腕を回す間に、
羽飾りで恐ろしい──炎を吐いている兜に対して(驚いた)
621-3
fatiferumque ensem, loricam ex aere rigentem,
sanguineam, ingentem, qualis cum caerula nubes
solis inardescit radiis longeque refulget;
また必殺の剣に対して、青銅製のかたい──
血色の、大きな胸当てに対して。さながら、ねずみ色の雲が
日光で火がつき、長く反射する時のよう(な色であった)。
qualis cum:さながら~の時のよう
solis radiis:太陽の放射(日光)で
624-5
tum leuis ocreas electro auroque recocto,
hastamque et clipei non enarrabile textum.
合金と鋳直された金で滑らかなすね当てに対して、
槍と、物語ることのできない盾の模様に対して(驚いた)。
non enarrabile:物語ることができない
*そのように前置きしておいて、作者は文字で絵画的な表現に腕を振うわけですね。
624の韻律:tum levis ocreas electro auroque recocto
トゥムレー|ウィーソクレ|アーセー|レクトラウ|ロークェレ|コクトー|
従ってlevisは、レウィス(軽い)ではなく、レーウィース(滑らかな)の方。
福西です。
ウェブログで読書会再開! 山下先生と宇梶先生、これからもご一緒させてください。よろしくお願いします。というわけで、さっそくベタ貼りしてみましたが、これでよかったでしょうか?
アエネイス8.592-607
stant pauidae in muris matres oculisque sequuntur
pulueream nubem et fulgentis aere cateruas.
olli per dumos, qua proxima meta uiarum,
armati tendunt; it clamor, et agmine facto 595
quadripedante putrem sonitu quatit ungula campum.
est ingens gelidum lucus prope Caeritis amnem,
religione patrum late sacer; undique colles
inclusere caui et nigra nemus abiete cingunt.
Siluano fama est ueteres sacrasse Pelasgos, 600
aruorum pecorisque deo, lucumque diemque,
qui primi finis aliquando habuere Latinos.
haud procul hinc Tarcho et Tyrrheni tuta tenebant
castra locis, celsoque omnis de colle uideri
iam poterat legio et latis tendebat in aruis. 605
huc pater Aeneas et bello lecta iuuentus
succedunt, fessique et equos et corpora curant.
福西
592-3
stant pauidae in muris matres oculisque sequuntur
pulueream nubem et fulgentis aere cateruas.
震える母たちが城壁の上に立っている。
砂っぽい雲を、青銅で輝いている列を目で追いながら。
594-6
olli per dumos, qua proxima meta uiarum,
armati tendunt; it clamor, et agmine facto
quadripedante putrem sonitu quatit ungula campum.
彼らは茂みを抜けて、そこから一番近い道の目印へ
武装して至る。歓声が上がり、そして隊列をなして、
(馬の)爪が、四拍子で砕けやすい平原を揺らす。
agmine facto:絶対的奪格
596の主語はungula。
597-8
est ingens gelidum lucus prope Caeritis amnem,
大きな聖森が、カエレの涼しい川のそばにある。
598-9
religione patrum late sacer; undique colles
inclusere caui et nigra nemus abiete cingunt.
先祖の深い宗教心で神聖とされ、四方から丘が
囲んでいた。谷間と森が黒いモミで囲む。
incluse_re:pf.3pl
600-1
Siluano fama est ueteres sacrasse Pelasgos,
aruorum pecorisque deo, lucumque diemque,
ギリシア人が、農地と家畜の神シルウァヌスに
祭ったという古い噂がある。聖森と(祭の)日を。
Pelasgos:sacrasseの対格主語
602
qui primi finis aliquando habuere Latinos.
その彼らが最初に、ついにラティウムの領土を得たのだった。
qui=Pelasgi
habue_re:pf.3.pl
603-4
haud procul hinc Tarcho et Tyrrheni tuta tenebant
castra locis, celsoque omnis de colle uideri
そこから遠からず、タルコンに付随するテュレーニー人も、
場所的に安全な陣地を保っているところだった。
そびえる丘から全体が見られる。
videri:pass.inf?
605
iam poterat legio et latis tendebat in aruis.
今は軍団が広大な農地を占領し、展開しているところだった。
606-7
huc pater Aeneas et bello lecta iuuentus
succedunt, fessique et equos et corpora curant.
ここへ父アエネアスと戦いのために選ばれた若者たちが
到着する。疲れた者たちも馬も体の世話をする。
こんなメルマガがあるらしいです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ラテン語動詞を一日一語覚えよう!」
『まぐまぐ』『Macky!』より配信
(c) 2005 Justus. All rights reserved.
http://www.lingua-latina.info/
登録・解除・ご連絡等は、ウェブサイトから
お願いします。
※相互紹介は受け付けておりません。
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文法のクラスはすごい。前川先生と生徒さんとのマンツーマンですが、5月中には終わるのではないかという勢いです。そのあと、セネカの「人生の短さについて」を読みたいんです、とのこと。がんばってください。
私の担当している講読の2クラスはどちらも私自身がエンジョイして授業に臨んでいます。5月から新しいメンバーをそれぞれのクラスでお迎えし、また心機一転がんばろうと思います。
金曜日のクラスでは、IVの2にはいりました。4行目まで進みました。
その中で、
summum bonum をめぐり、いろいろな定義の仕方があるとのべた上で、たとえば、
summum bonum est animus fortuita despiciens virtute laetus
至高善は、偶然の出来事を軽蔑し、美徳を喜ぶ精神である
とか、
invicta vis animi, perita rerum,...
打ち負かされない精神の力で、・・・
とか定義できるとします。
自分の力ではコントロールできない出来事に一喜一憂するようでは精神がそれに打ち負かされていることになるのでしょう。宝くじに当たって有頂天になるのでも、その逆になるのでもなく、偶発的な出来事を「軽視」できないと invicta vis animi は実現しない、というわけです。
昨日のラテン語のクラスでは、予定通り最後の最後まで進むことが出来ました。
来週、ユークリッド幾何学のテキストをすこし読む予定です。
参加者の皆さんの熱意によって、一気に山頂に上り詰めることの出来た4ヶ月間でした。
キケローの『老年について』を読んでいます。
45,46節を読みました。46節で描かれているサビーニーの田舎での暮らしぶりというのは、現代の都会人もあこがれる「ゆとりある老後生活」の見本だと感じました。
動形容詞まで進みました。残すところあと4課で教科書が終わります。
次回で全部終わってしまうと思うと、あっという間だったと感じます。
受講生の皆さんには、4月から講読にご参加頂けるとうれしいです。
--
金曜日のクラスでは、今セネカの「幸福な人生について」を読んでいます。
「魂の立派さは魂が見出すべきである。」という一文に出会い、私自身セネカが一歩身近に感じられるようになりました。
この言葉は、たとえば「魂の立派さは(魂ではなく)数値が見出す」という価値観の横行する現代、含蓄ある言葉と感じられます。
人生の短さについて 他二篇
セネカ Lucius Annaeus Seneca 茂手木 元蔵
by G-Tools
昨日も予定通り4課進みました。ゴールがはっきり見えてきました。あと2回で終わります。昨日は少し時間に余裕があったので、最後にラテン語に由来する現代語について、あれこれ考えてみました。非人称動詞 interest と英単語 interest の関係を考えることから始まって・・・。
De Vita Beata 幸福な生活について
今週は、3,4節を読みました。最後の一行、sanabimur, si separemur modo a coetu. (人々の群れから離れれば、健全になれる。)というのが、全体の要約になっていると思います。授業を終えてから、日本語で言う「みんな・・・している」という意識にとらわれることをやめることなのかな、と自分勝手に解釈しています。では、セネカは、何を幸福の本質とみているのか、これからの展開が楽しみになってきました。
昨日は、24課「完了、過去完了、未来完了の受動相」から27課「能動欠如動詞」まで。
少し余談も混ざり、時間を若干オーバーしました。受講生のみなさんの熱意に寒さを忘れ、あっというまに4課進みました。
デポーネントの話は、なんかトリッキーで、いまひとつ、しっくりいかないですね。「慣れ」がものをいう世界の一つだと思います。完了、完了分詞の形も「覚える」ほかないわけで、同様です。

昨晩は、先生が仰るとおり、友遠方より来るあり、の会でした。
また、口では言えない満足があり、終わりに際してはまったく、
人知らずしてうらみず、でした。
私もまた、先生の口から繰り出される言葉によって、まだ眠っ
ている、さまざまな余白を喚起されて、精神を耕す喜びをおぼえました。(福西)
以下は、夕べにお越しいただいた方からの感想です。
1 Acta est fabula.
2 Amicitia sal vitae.
3 Alea jacta est.
4 Ars longa vita brevis.
5 Aurea mediocritas.
6 Calamitas virtutis occasio est.
7 Cultura animi philosophia est.
8 Homo homini lupus.
9 Homo sum.
10 Mors certa, hora incerta.
11 Post nubila Phoebus.
12 Scientia est potentia.
13 Sit tibi terra levis.
14 Tu fui, ego eris.
15 Vox populi vox dei.
昨日は、昨日でたいへんでしたが、前回の復習のような趣でした。予定通り、4課進みました。1時間20分の授業にしては、超ハイペースです。第三変化名詞のバリエーション。動詞では受動態がお目見えしました。作文は、自宅からメールで送って頂いています。よい復習の時間となります。1冊教科書が終わってから、まとめて取り組んで頂いても結構です、ということを申し上げました。ラテン語を日本語に直す課題をこなすだけでも、相当時間を取られると思いますので。ここ2,3回を乗り越えたら、あとは楽です。>受講生のみなさん
水曜日は、2節分進みました。このペースだとあと20回で「老年について」を読み終えることができます。去年の今頃は、初級文法をご一緒に勉強していましたので、それを春に終えてすぐ、キケローに挑戦するという選択肢は、一見無謀のようですが、今から見ると、正しかったと思います。同じ事は、他の言語では難しいのではないでしょうか。14回の初級文法を終えて、いきなりその国の言語でかかれた最高の古典作品を読んでいくということは、ふつうありえません。が、ラテン語では、それができます。少なくとも、ここ「山の学校」では!
キケローの「老年について」を読んでいます。
30、31節を読みました。クセノポーン、ホメーロスなど、ギリシアの古典作品への言及が効果を上げています。
”10人のアイアースより、10人のネストールがいれば、すぐにもトロイアは滅ぼせる”というアガメムノンの確信は、武勇の徳より、老人の知恵を賛美した表現として、うまい引用だと思いました。
キケローの『老年について』を読んでいます。次の一文から、「老人による若者への教育」というモチーフが展開していきます。
Quid enim est jucundius senectute stipata studiis juventutis? 若者の熱意に取り囲まれた老年ほど喜ばしいものがあろうか。(28節)
昨日のラテン語のクラスでは、マルティアリスの寸鉄詩を読んできましたが、ついに最後まで読み切りました。教科書は、
マールティアーリス詩選 M.V. マールティアーリス 藤井 昇
を使いました。読み切った感想をうかがうと、「マルティアリスの詩は現代で言えば波田陽区(はたようく)の切れ味がありますね!」とのことで、なるほどうまいなぁと感じました。世相を「斬る」鋭さが面白いです。彼の詩の中ではお医者さんがだいぶ斬られています。。。
来週から、セネカを読みます。教科書は大学書林の対訳書を使います。
12月からスタートしたラテン語初級文法ですが、昨日で3回目。教科書でいえば、4課分を一気に終えました。(これで、4/3/4のペース)。次回も4課進みます。これでも、時間は余っていました。私のHPからDLしたページを身ながら補足説明をしました。
PS
ラテン語に興味のある方は、月末の「ラテン語のゆうべ」にお越し下さい。
キケローを読んでいるクラスですが、昨日は26,27節を読みました。進んだ分量は今までで一番多かったです。ちょうど一年前に文法を始めたばかりの方ですが、なんと一年後にはキケローをばりばり読んでおられるわけです。さて、昨日読んだ言葉の中で、次の一行が印象に残りました。
Quod est, eo decet uti et, quicquid agas, agere pro viribus.「あるもの(quod est)それを(eo)もちいるのが(uti)適切である(decet)、そして(et)あなたが何を行うにせよ(quicquid agas)力にあわせて(pro viribus)行うのが(agere)よい(decet)。」
体力に関して、ないものねだりはしない、無理しないという考えでしょうか。逆に、若い頃体力に自信のあった者が、目の前の若者の体力をうらやましく思う(「ああ、俺の腕は早死んでいる」)点について、キケローは手厳しく批判しています。「愚か者め、腕というよりお前自身が死んでいるのだ。」と。
要は、体ではなく心と知性を終生磨いていくべきであり、その点で、人間は死ぬまで向上していけるというわけです。
--
引用した訳は、老年について(キケロー、中務 哲郎訳)より。
水曜日のラテン語クラスでは、キケローの『老年について』を読んでいます。
昨日は、ちょっとしたサビの部分でした(24-25節)。サビーニー地方(あっ、洒落になってしまった)の農夫を引き合いに出し、「この人たちは、自分にはまったく関係のないことが分かっていることにせっせと励んでいる」(idem in eis elaborant quae sciunt nihil ad se omnino pertinere)とキケローはいいます。
「次の世代に役立つようにと木を植える」(Serit arbores, quae alteri saeclo prosint)というスターティウスの詩句を引用し、農夫は「誰のために植えるのか」と問われるなら、「不死なる神々のために。神々は、私がこれを先祖から受け継ぐのみならず、後の世に送り渡すようにとも望まれた」(Dis immortalibus, qui me non accipere modo haec a maioribus voluerunt, sed etiam posteris prodere.)と迷わず答えるだろう、と続けます。
教育もしかり、研究もしかり、と強く感じた次第です。解釈は、それぞれのお立場でご自由にどうぞ。
ラテン語のクラスが12月9日から新たにスタートします。12月2日(木)にガイダンスをしました。
内容は、先月行った「ラテン語の夕べ」のようになりました(笑)。
ポイントをおさらいすると、次のようになります。
ラテン語講座受講生各位9日(木)よりスタートするラテン語講座につき、以下の点をご連絡します。
1)教科書:ラテン語初歩(改訂版)、田中利光、岩波書店 ISBN4-00
-002419-1(定価3400円)2)3月までの進度につきましては、下のように予定しています。
12月
9日 1~4課
16日 5~7課
1月以降、毎回4課。授業の内容としては、各課の練習問題の答え合わせが中心となります。
1課分の練習問題は、5問のラテン語和訳と、5問の和文ラテン語訳から構成さ
れています。3)受講の注意
1回4課分進むのはなかなか大変ですが、しっかり予習して頂きますようお願い
します。どうしてもご多忙等で予習する時間がとれないときは、ラテン語和訳の
み取り組んで下さい。1回欠席されると挽回するのが大変になりますので、くれぐれもご欠席されませ
ぬようお願いします。4)その他
ラテン語に関するご質問は随時お受け致します。予習の段階であれ、復習の段階
であれ、疑問が生じた段階でご遠慮なくご質問下さい。メールは taro@kitashirakawa.jp まで。
ただし、ラテン語のご質問へのお返事は、情報の共有化をはかりたく、受講生全
員にお届けしますので、その点お含み置き下さい。では、楽しく勉強を始めていきたいと思います。9日(木)にお待ち申し上げて
おります。PS
場所は、幼稚園園長室すぐ横の「ちゅーりっぷぐみ」園舎を使用します。
水曜日の8時からはラテン語の講読の時間です。
キケローの「老年について」を読んでいます。
老年とはいうものの、人はいかに老いるべきか、つまり、人生論になっています。
立派な老人の話ばかりが出てきますが、これは exemplum (手本)を示す文学上の伝統に立っている
とみなせます。
今日は、ソポクレース、ホメーロス、ヘーシオドス、シモーニデース、ステーシコロス、イソクラテース、ゴルギアース、ピュータゴラース、デーモクリトス、プラトーン、クセノクラテース、ゼーノーン、クレアンテース、ディオゲネースの名が紹介された箇所を読みました。次回は、有名な言葉――次の世代に役立つようにと木を植える――に出会えるパラグラフを読みますので、楽しみです。
12月から始めるラテン語クラスについて、ガイダンスのご希望を頂きました。初級文法と読解のクラスがございます。それぞれどのようなことをしているのか、12月2日(木)の午後8時よりガイダンスをいたします。ご希望の方がいらっしゃったら、ご遠慮なくお越し下さい。事前にご連絡を頂ければ有り難く存じます(場所のご案内などもさせていただきます)。
他の教科についても、お問い合わせ、ご見学は随時歓迎しています。
金曜日のラテン語のクラスは、マルティアリスを読みました。
"Triginta toto mala sunt epigrammata libro."
si totidem bona sunt, Lause, bonus liber est.
「本全体の中に(toto...libro)30の(triginta)下手くそな(mala)詩(epigrammata)があるぞ(sunt)」
もし(si)同じだけ(totidem)よい詩(bona)があれば(sunt)、ラウススよ(Lause)、よい本(bonus liber)だ(est)。
昨日、「ラテン語の夕べ」を開催し、日頃顔なじみの方も、はじめてお目にかかる方も、学生の方も、たくさんお越しくださいまして、まことにありがとうございました。ご満足いただけたかどうか、定かではありませんが、内容的にあれもこれもと用意しすぎて時間もオーバーしてしまい、申し訳なく思っています。アンケートもたくさんちょうだいしました。ひとつひとつにお返事していきますので、お待ちください。
私のブログにも書いたことですが、ラテン語をキーワードとして、文学、音楽、歴史、など様々な方面に興味が広がっていきますので、今後とも「ラテン語の夕べ」(+何かサブタイトル)の形で、「山の学校」ではいろいろな企画を進めていこうと思っています。
私の今の本業である幼児教育との関わりに付言しますと、ラテン語は一好事家の趣味として私が関わっていることではなく、学問の基本としてみても、「すべての道はローマに通じる」ということを実証していこうとする取り組みであり、それはとりもなおさず、教育の基本は幼児期にある(「三つ子の魂百まで」ともいう)、という私の信念とも響きあうものであることをご理解いただきたいと願っています。
ラテン語のクラスでは、「新ラテン文法」の復習をした後、キケローの『老年について』を読んでいます。昨日は、17節でした。「老人が公の活動に与っているかどうか?」という点について、「与っていない」と言う者は、まともな議論をしていないとキケローは言い放ちます。「それはちょうど、船を動かすにあたり、ある者はマストに登り、ある者は甲板を駆けまわり、ある者は淦(あか)を汲み出しているのに、船尾で舵を握りじっと坐っている舵取りは何もしていない、と言うようなものである。」(岩波文庫、中務訳)と。この表現のうち、「舵取り」にあたる言葉は gubernator (グベルナートル)といいます。元の動詞は guberno (グベルノー=舵取りする)です。gubernator は、今の英語には、ガバナー(governor)という単語で入っています。「政治、政府」をガバメント(government)といいますが、そのルーツにあたる単語も guberno というラテン語になります。
本日のラテン語クイズ<水曜日>
Vivamus mea Lesbia atque amemus.
ともに生きよう、我がレスビアよ、そして愛し合おう。(カトゥッルス)
という有名なフレーズがあるのですが、
印刷ミスで、v が b になってしまいました。
Vivamus が Bibamus に!
さて、どんな訳になるでしょう?
「( )、我がレスビアよ、そして愛し合おう…」
1.ともに笑おう 2.ともに遊ぼう 3.ともに飲もう 4.ともに稼ごう
ラテン語の夕べ

日時 11月12日(Fri)
20:00~21:30
場所 第3園舎(つき組の部屋)
対象 一般・高校生 / 入場無料
日が近付き次第、またアナウンスいたします。
(ちなみに写真はフォロ・ロマーノ。著作権フリー
のところからいただいてきました)
本日のラテン語クイズです。
ウィキはむしろアーカイブという位置づけで、
今taro先生がこしらえて下さっています。
ウェブログでは月・水・金(つまり週3回)の
割合で流していこうと思います。
金曜日の会話
「ご注文は何にいたしましょうか?」
「えーと…とりあえずラテン語を」
「おいくつ、お持ちいたしましょう?」
「じゃあ…4つ」
「生でお持ちいたしましょうか、ビンにいたしましょうか?」
「もちろん、生で!」
「おまちどうさまです」
福西です。
「本日のラテン語」は、頻繁だと「軽み」が消えてしまいますね。
というわけで、次回からは「ラテン語ウィキ」にアップしていこう
と思います。ウェブログには、バランスを考えて、ウィキから
「週1回」、問題をとって来るようにすればよさそうかな、と考え
ています。
ともあれ、本日のクイズです。
第3変化名詞
『老年について』を読んでいます。
16節。印象に残ったのは、作中人物のカトーが引用したエンニウスの詩句です。
Quo vobis mentes, rectae quae stare solebant
Antehac, dementes sese flexere viai?
これまでは真っ直ぐに立っていたお前たちの心、
それが正念をなくして、一体どこへ曲がっていったのか・・・
第2弾。第2変化名詞(若干形容詞)。
次の( )の中の活用を考えてください。
4 Arma ( vir )que cano.
戦争と英雄を私は歌おう。
(vir viri virum viro )
5 Sunt geminae ( Somnus ) portae.
眠りの双子の門がある。
(Somnus Somni Somno Somnum )
6 ( Fortunatus ) ambo!
幸福なる両者よ!
(Fortunati Fortunatorum Fortunatis Fortunatos )
福西です。
4択問題をためしに作ってみました。
( )の変化はどれでしょう?
1. ( sum ) pius Aeneas
我こそは敬虔なるアエネアス。
( sum es est sunt )
2. ( sum ) lacrimae rerum.
歴史に対する涙がある。
( est erat sum sunt )
3. lucus in urbe ( sum ) media_.
聖森が都の中央にあった。
( sum est erit fuit )
ラテン語の授業は今日も密度が濃いものでした。
最初は、「新ラテン文法」のおさらいです。関係代名詞(88ページ)と疑問文(102ページ)の練習問題を確認しました。その中に、「アエネイス」冒頭の Arma virumque cano, Trojae qui primus ab oris Italiam fato venit. があり、言葉の背景についてご説明しました。
この文の訳と簡単な背景については、→こちらをごらんください。
続いて、キケローの『老年について』15節を読みました。老年が惨めだと思われている理由を4つあげ、その一つ一つについて、反論していきます。第一が、公の仕事から老年は人を遠ざける、と。
たしかに体力と若さを必要とする活動には不向きであっても、「肉体は弱っても精神で(animo)果たされるような、老人向きの仕事はない」ということにはならない、といいます。
そして、その例として、クイントゥス・マクシムス、ルーキウス・パウルス、ファブリキウス、クリウス、コルンカーニウスらの名を連ね、彼らが老年になって何もしなかったと言うつもりか?と問いかけます。
いや、とんでもない。彼らこそ、老年を迎えてなお「思慮(consilio)と権威で(auctoritate)国家を守った」面々である、と。
現代日本でも、必ずしも肉体の力を使わずとも、むしろ精神の力によって、生き生きと社会的貢献をされているお年寄りは少なくありません。そんなことを重ねて今日のテキストを読みました。
--
やましたたろう
昨日のラテン語のクラスでは、キケローを読みました。死は不幸(malum)である、というテーゼに対し、それは誰にとってそうなのか、生きている人に取ってか、それとも死んだ人に取ってか、という問いが出され、テーゼを提出した者は、どちらにとってもそうである、と返答します。もしそうなら、今から1万年前に死んだ人は、私たちより遙かに不幸な人たちである、となります。なぜなら死んでから今までずっと不幸に苦しみ続けているからです。とまあ、ある意味で実証不可能な言葉のやりとりが続くのですが、表現の細かなところで含蓄があり、私自身もう一度しっかり復習したいと思いました。以上、感想まで。
山下太郎
宇梶先生とラテン語の勉強会をしています。テキストは「新ラテン文法」ですが、来週いよいよ最後の練習問題を扱います。ラテン語の場合、文法書を一冊仕上げることはとても意味があります。山頂に旗を立てて、いっしょに壮大な景色を満喫しましょう。>宇梶先生
ラテン語の勉強を始めた人にとって、一冊の教科書を最後までやりとげることが一つの大切なゴールになります。昨日の授業で1冊の教科書が無事最後まで終わりました。私も感慨無量です。英語と違い、教科書を1冊終えることの意味は圧倒的に大きく、完走すると視界がぐーんと広くなります。
水曜日夜のラテン語のクラスでは、キケローの『老年について』を読んでいます。昨日は、13節でした。ここで印象に残った表現は、次の2つです。
1)Nec tamen omnes possunt esse Scipiones aut Maximi, ...
2)Est etiam quiete et pure atque eleganter actae aetatis placida ac lenis senectus, ...
1)は、「しかし、誰もが皆(omnes)スキピオーやマクシムスであることは可能ではない」
2)は、「一方、静かに (quiete)、純粋に (pure)、優雅に (eleganter) 過ごした年月からなる静かで (placida) 穏やかな (lenis) 老年も(senex)ある (est)。」
直訳はこのようになります。
スキピオー、マクシムスが複数形になっているのは、英語でも、a Newton が「ニュートンのような人」という意味で使われるのと同様に、可算名詞扱いされているわけです。
1)は軍人、政治家としての名誉が話題になっていて、その栄光を手にする者は限られている、という文脈です。それに対し、2)で示されるような老年は、心がけ次第で誰もが手にすることができるという主張になります。その模範(exemplum)として、プラトン、イソクラテスの名前が挙げられています。
岩波文庫の中務訳をご紹介しましょう。
・・・もっとも、皆が皆スキーピオーのような、あるいはマクシムスのような人物となって、都市を攻め落としたこと、陸に海に戦ったこと、戦争を指揮したこと、凱旋したこと、などの思い出にひたれるわけではない。しかしまた、静謐で穏やかな老年は、静かに清らかに優雅に送った人生からも得られるのだ。聞くところによると、プラトーンの老年がそのようなものであった。彼は八一歳の時、書きながら死んだ。イソクラテースの老年もそうだ。・・・
・・・当方は遠方に住んでいるため、通信講座での学習をしたいのです が、そのための手続き、費用など、教えて頂けると幸いです。
お問い合わせを有り難うございます。
お申し込みにつきましては、メールでその旨ご連絡頂き、1ヶ月分5,000円と入
会金5,000円を下記までお振り込みいただければ、それで完了です。
京都中央信用金庫 錦林(キンリン)支店 普通 2217927
名義:学校法人北白川学園 理事長山下太郎
実際にどのように進めていくかですが、(1)何かお手持ちの教科書をご指定頂
く。(2)その練習問題の解答をメールでお送り頂き、それに対する添削
と解説を私の方でさせていただく・・・という流れが基本になります。
初級文法はすでに終えておられるのでしたら、何かラテン語の作品をお選び頂き、
その訳読をメールで進めていくことも可能です。このあたりはできるだけご希望
に即した形で対応させて頂きますので、ご遠慮なくご相談下さい。
--
606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/wiki/
広大なインターネット上の電子黒板をイメージして頂き、そこに関心を持つめい
めいが気づいたこと、調べたこと、まとめたこと、質問したことなどを書き込み
ながら、共同でラテン語の勉強を支援するページを作っていこう!というコンセ
プトのページです。
コメント、質問も歓迎です。何かあれば藤田先生フォローして下さい(^^)
--
606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp
短期で集中的に実力をつけるにはもってこいのやり方ですが、一方では「敷居が
高い」という印象を初心者の人には与えかねません。
そこで、次のようなタイプの「選択形式の練習問題」を作り、ストックを貯めて
いきたいと考えています。
専用の Wiki のページを用意しましたので、この電子黒板に自由に書き込ん
で下さい。
「次の日本文のラテン語に合うように、それぞれ適語を選び記号で答えなさい。」もし愛されることを望むなら、愛しなさい。
Si_ vi_s ama_ri_, ( ).
1 amo_ 2 amat 3 ama_ 4 ama_re
○基本的に英語の検定試験4級か3級レベルの選択問題を念頭において作問して下さい。
--
606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp
キケローの『老年について』(De Senectute)を読んでいます。昨日は11節を読みました。
ファビウス・マクシムスの武勲と政治的手腕、常に国家の安寧(rei publicae salus)を最優先してきた態度を称えています。文法的に、大変難しい構造になっていますが、キケローらしい明晰な論理展開が印象的な箇所です。一字一句、どの語がどの語にかかっているとか、どこからどこまでが挿入節であるとか、まるで大学受験の英文解釈の授業のように解説しています。
英文法とラテン語とは、一見何の関係もないようですが、ラテン語(ギリシア語)を読む上で、英文法の知識があると、ラテン語を正確に読む上でたいへん役に立ちます。言い換えますと、英文法に照らして英文をじっくり読み進める経験があると、ラテン語を学ぶさいに、違和感なく入っていけると思います。
16日の授業では、キケロー「老年について」10を読みました。
Unus homo nobis cunctando restituit rem,
Noenum rumores ponebat ante salutem:
Ergo plusque magisque viri nunc gloria claret.
話者カトーによって、クイントゥス・ファビウス・マクシムス・クンクタートルへの言及がなされますが、その中で、有名なエンニウスのマクシムス評(上記ラテン語)が引用されています。中務先生の訳をご紹介しましょう。
ただ一人、遷延の策により、われらが祖国を建て直す。
世評より、国の安危を憂えた男、かくして、
今、遅ればせながら、その栄光が世に顕る。
クンクタートル(ぐずぐずする者)というあだ名は、フェビアン協会の名称のルーツになっています。
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山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/wiki/ ラテン語文法の教科書を作ろう!
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山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/wiki/ ラテン語文法の教科書を作ろう!
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
火曜日は「しぜん」のクラスがありました。子どもたちは、山の階段を登りなが
ら、きょろきょろ捜し物をして登ってきます。部屋に着くと、必ず手には昆虫か、
植物が・・・。それが何か、図鑑で調べることからクラスはスタートします。
この日は、山の中へ探検に出かけました。途中で、巨大なナメクジを見つけたり、
アオダイショウを発見したり。特筆することは何もなくても、青空の下、山の緑
に包まれて、あたりをきょろきょろするだけでも、大切な思い出になると思いま
す。(私自身、この山の木登りをして小学生時代過ごしたことを思い出します)。
■ラテン語(水曜日)
キケローの「老年について」を原文で読んでいます。この日の読解は、「自然に
逆らうのは、ギガンテスの如く神々を相手に戦うことに他ならない」という箇所
から始まりました。ここでいう「自然」とは、老いの訪れと言い換えてもよいで
しょう。若い内から、自分の老いをどうすごすかをよく考えないといけないなぁ
(笑)と感じさせられることしきりです。
■かず(木曜日)
低学年の「かず」には二人のお客さんが参加しました。小学校1年のKちゃんは、
課題の本をほとんどすべてこなしてしまいました。あと10分あれば、1冊最後
の問題まで終わったでしょう。2年生のHちゃんも、お連れの友人に刺激されて、
文章題を頑張って解いていました。
■えいご(木曜日)
中二の英語は、仲良し3人組です。中1の復習と中2の予習の二本立て。英文の
音読(タイムも計る)を徹底的に。3人いると、互いに刺激しあうので、スリル
があります。中1の復習プリントは、9割以上できるのですが、やはり間違うと
ころは間違います。同じプリントをコピーし、もう一度一からやり直し。最後に
もう一枚、同じプリントを配ってだめ押し。われながら、しつこいやり方と思い
ますが、英語の勉強はしつこいくらい一つのことを繰り返すのが大事なのです。
前回読んだのは、I,X; I,xxxiii; I,lvii の三つです。二つ目の詩の次の表現が
記憶に残りました。
ille dolet vere qui sine teste dolet.
目撃証人なしに(sine teste )悲しむ(dolet)ところの(qui)者は(ille)
本当に(vere)悲しむ(dolet)。
誰も見ていないところで涙する人は泣いているふりをする人ではない、という意
味になります。
前回読んだのは、I,X; I,xxxiii; I,lvii の三つです。二つ目の詩の次の表現が
記憶に残りました。
ille dolet vere qui sine teste dolet.
目撃証人なしに(sine teste )悲しむ(dolet)ところの(qui)者は(ille)
本当に(vere)悲しむ(dolet)。
誰も見ていないところで涙する人は泣いているふりをする人ではない、という意
味になります。
通信講座を完走された方から、次のような完走を頂戴しました。
私は昨年4月より約1年に渡り、通信講座にて山下先生にラテン語のご指導を頂きました。先日、無事に全課を終了することができ、大変嬉しく思っております。まずは、最後まで丁寧にやさしくご指導下さった山下先生、ありがとうございました。ここにその感謝の気持ちと、これから山下先生のラテン語通信講座にて学ぼうとされている方々に、少しでも参考になる情報を提供できればとの思いから、私の一年の通信学習についての感想や体験のご報告を申し上げたいと思います。
私はちょうど一年程前にこの通信講座を受講し始めました。もともとは通学できる教室を探していたのですがどうしても見つからず、思い余って山下先生に相談させて頂いたのがきっかけです。その時に、ご親切にも山下先生自ら通信でご指導下さるとのご返答を頂きまして、それならば是非ともとチャレンジすることに決めたのです。
さて、こうはいったものの、通信で学んだ経験もなく、ラテン語も全く学習したことのない私です。非常に多くの不安がありました。最も不安だったのは、きちんと正しい内容が身につくだろうかということでした。なにしろ通学とは違い先生の肉声によるご説明を聞けません。細かい内容まで理解できないのではないか、自己流の変なラテン語を覚えてしまわないだろうか、などと色々思いました。また、支え合うクラスメートがいないので、途中でドロップアウトしたくなったらどうしようというのも不安でした。そういった不安を何とか克服しようと思いつつ進めてきた私の学習方法が、つぎにまとめたものです。この方法がよいかどうか自信もなく、正直公表するのが恥ずかしくもあるのですが、良くも悪しくも少しでもご参考になればと思い、公表させて頂くことにしました。
私が特に力を注いだのは、作成する答案でした。単に練習問題の解答とだけにはせず、その課のノートを作成するような感覚で作りました。基本的な私の答案(ノート?)の内容は主に、①内容を簡単にまとめる、②その課で習う活用を新出単語において練習する、③最後の練習問題を解く、という3つでした。なるべく多くのことを書いたのは、もし私のラテン語の理解が間違っていれば先生に都度ご指摘頂けるようにしたかったからです。また、私はこの1年の目標として、基本的な文法と単語の基本的な活用を覚えるようにしたいとの思いがありましたので、②の活用練習を積極的に行いました。そして最後に本題である練習問題を訳しました。この最後の練習問題については、全体を通じてとしてとても難しかったと思います。実際、完全に理解し得なかった所がたくさんありました。しかし、そのような部分に出くわしても、またいずれ復習すればいいと割り切りって前へ前へと進むようにしました。そのようにして気持ちを切り替えるのも、最後までたどり着くには大事なことだったと思います。
答案以外に関してですが、まず提出形式は、ペースを基本的に週1回1課分とし、word形式でつくった答案をメールに添付する形で提出しました。大体はこのペースでちょうど良かったとは思っていますが、余裕があると感じた時はもっと早め早めに次へと進むべきだったかと反省しております。というのも、この教科書は全51課なので週に1課ずつやっていくと一年間のスケジュールが毎週休み無く埋まってしまい、期せずして提出できない時があると、どんどん遅れて課題がたまってしまったからです。次に教材に関してですが、私の使用した「ラテン語初歩(田中利光著)」は各課が非常にコンパクトにまとめられていてよかったのですが、逆にもう少し説明が欲しいと思う部分も数多くありました。そのため、それを補うため「新ラテン文法(松平千秋、国原吉之助共著)」を使用しました。この参考書は使いやすかったと思います。最後に、直接通信講座とは関係のないことになりますが、私は山下先生のラテン語MLにも登録し、ラテン語に関して多くの方々が活発に意見交換されているメールを拝読させて頂いてきました。このことは、ラテン語に関する広い情報を得ることができたというだけでなく、ラテン語を一人で学ぶ孤独感が非常に和らげられることとなりましたので、私にとって一年間気持ちを維持していくのにとても効果的であったことを申し述べておきたいと思います。(MLの皆様に感謝申し上げます。)
私なりに山もあり谷もあり、その時々に色々と考えたことはたくさんありますが、大体において以上のようにして歩んできた1年間でした。そして最後になってはしまいましたが、忘れてはならないのがもちろん先生のお力添えがあってこその完走だったということです。あらためて、山下先生に感謝申し上げます。さて、これからについてですが、私は嬉しくも次回より講読に入らせて頂けることになりました。より難しくなるだろう内容にどきどきしながらもきっとこれからが楽しいところだろうと期待に胸ふくらませていることを申し添え、ご報告を終わりたいと思います。
通信講座を完走された方から、次のような完走を頂戴しました。
私は昨年4月より約1年に渡り、通信講座にて山下先生にラテン語のご指導を頂きました。先日、無事に全課を終了することができ、大変嬉しく思っております。まずは、最後まで丁寧にやさしくご指導下さった山下先生、ありがとうございました。ここにその感謝の気持ちと、これから山下先生のラテン語通信講座にて学ぼうとされている方々に、少しでも参考になる情報を提供できればとの思いから、私の一年の通信学習についての感想や体験のご報告を申し上げたいと思います。
私はちょうど一年程前にこの通信講座を受講し始めました。もともとは通学できる教室を探していたのですがどうしても見つからず、思い余って山下先生に相談させて頂いたのがきっかけです。その時に、ご親切にも山下先生自ら通信でご指導下さるとのご返答を頂きまして、それならば是非ともとチャレンジすることに決めたのです。
さて、こうはいったものの、通信で学んだ経験もなく、ラテン語も全く学習したことのない私です。非常に多くの不安がありました。最も不安だったのは、きちんと正しい内容が身につくだろうかということでした。なにしろ通学とは違い先生の肉声によるご説明を聞けません。細かい内容まで理解できないのではないか、自己流の変なラテン語を覚えてしまわないだろうか、などと色々思いました。また、支え合うクラスメートがいないので、途中でドロップアウトしたくなったらどうしようというのも不安でした。そういった不安を何とか克服しようと思いつつ進めてきた私の学習方法が、つぎにまとめたものです。この方法がよいかどうか自信もなく、正直公表するのが恥ずかしくもあるのですが、良くも悪しくも少しでもご参考になればと思い、公表させて頂くことにしました。
私が特に力を注いだのは、作成する答案でした。単に練習問題の解答とだけにはせず、その課のノートを作成するような感覚で作りました。基本的な私の答案(ノート?)の内容は主に、①内容を簡単にまとめる、②その課で習う活用を新出単語において練習する、③最後の練習問題を解く、という3つでした。なるべく多くのことを書いたのは、もし私のラテン語の理解が間違っていれば先生に都度ご指摘頂けるようにしたかったからです。また、私はこの1年の目標として、基本的な文法と単語の基本的な活用を覚えるようにしたいとの思いがありましたので、②の活用練習を積極的に行いました。そして最後に本題である練習問題を訳しました。この最後の練習問題については、全体を通じてとしてとても難しかったと思います。実際、完全に理解し得なかった所がたくさんありました。しかし、そのような部分に出くわしても、またいずれ復習すればいいと割り切りって前へ前へと進むようにしました。そのようにして気持ちを切り替えるのも、最後までたどり着くには大事なことだったと思います。
答案以外に関してですが、まず提出形式は、ペースを基本的に週1回1課分とし、word形式でつくった答案をメールに添付する形で提出しました。大体はこのペースでちょうど良かったとは思っていますが、余裕があると感じた時はもっと早め早めに次へと進むべきだったかと反省しております。というのも、この教科書は全51課なので週に1課ずつやっていくと一年間のスケジュールが毎週休み無く埋まってしまい、期せずして提出できない時があると、どんどん遅れて課題がたまってしまったからです。次に教材に関してですが、私の使用した「ラテン語初歩(田中利光著)」は各課が非常にコンパクトにまとめられていてよかったのですが、逆にもう少し説明が欲しいと思う部分も数多くありました。そのため、それを補うため「新ラテン文法(松平千秋、国原吉之助共著)」を使用しました。この参考書は使いやすかったと思います。最後に、直接通信講座とは関係のないことになりますが、私は山下先生のラテン語MLにも登録し、ラテン語に関して多くの方々が活発に意見交換されているメールを拝読させて頂いてきました。このことは、ラテン語に関する広い情報を得ることができたというだけでなく、ラテン語を一人で学ぶ孤独感が非常に和らげられることとなりましたので、私にとって一年間気持ちを維持していくのにとても効果的であったことを申し述べておきたいと思います。(MLの皆様に感謝申し上げます。)
私なりに山もあり谷もあり、その時々に色々と考えたことはたくさんありますが、大体において以上のようにして歩んできた1年間でした。そして最後になってはしまいましたが、忘れてはならないのがもちろん先生のお力添えがあってこその完走だったということです。あらためて、山下先生に感謝申し上げます。さて、これからについてですが、私は嬉しくも次回より講読に入らせて頂けることになりました。より難しくなるだろう内容にどきどきしながらもきっとこれからが楽しいところだろうと期待に胸ふくらませていることを申し添え、ご報告を終わりたいと思います。
昨日は「老年について」の第二回目でした。最初に松平・国原著「新ラテン文法」の復習をし、それに続いて演習がスタートします。
2. Hoc enim onere, quod mihi commune tecum est, aut iam urgentis aut certe adventantis senectutis et te et me etiam ipsum levari volo;
というのも、すでに差し迫っているか、あるいは確かに近づきつつある老年というこの重荷――それは私とあなたに共通のものである――からあなたも私も軽くなりたいと欲するから。
etsi te quidem id modice ac sapienter, sicut omnia, et ferre et laturum esse certo scio.
実際あなたがそれを慎み深く、賢明に、(他の)すべての事柄のように、耐えもしこれからも耐えるだろうということを確かに私は存じているけれども。
Sed mihi, cum de senectute vellem aliquid scribere, tu occurrebas dignus eo munere, quo uterque nostrum communiter uteretur.
だが、老年について何か書こうとほっしたとき、私たち二人が共に享受しているその贈り物に相応しい人物として、あなたのことが私には浮かんだのです。
Mihi quidem ita iucunda huius libri confectio fuit, ut non modo omnis absterserit senectutis molestias, sed effecerit mollem etiam et iucundam senectutem.
この書物の執筆はじつに喜ばしいものであったため、老年のすべての煩わしさをぬぐい去っただけでなく(cf.abstergeo)、老年を優しく(mollem)喜ばしい(iucundam)ものにしてくれたのです。
Numquam igitur satis digne laudari philosophia poterit, cui qui pareat, omne tempus aetatis sine molestia possit degere.
それゆえ、哲学に従い、人生のあらゆる時代を煩わしさなしに過ごすことが(de_gere)できる者にとって、哲学はどれだけ称賛してもきりがない。
--
今回私が面白いと思ったことは、最初「老年」を onus (重荷)と呼び、それに「耐える」精神的態度を評価しながらも、後半では同じ「老年」が munus(贈り物)と言い換えられる点です。
老年は人生の贈り物なので、それはもはや我慢し耐える(ferre)ものではなく、喜ばしいもの(iucundam) として積極的に享受すべき価値とみなされています。
この転換がどのようにもたらされるのか?おそらく、その内容がこの作品の主題なのでしょう。そして、そこには今回唐突に現れた philosophia (哲学)が重要な意味を持ち得るのでしょう。
また、キケローとアッティクスの対話という展開が、次節以下ではカトーとスキーピオーの対話に移り変わります。現代から過去へのタイムスリップです。これは、過去を現代の手本(exemplum)とみなす当時の考えを反映しているとも言えます。
以上のことに少し注意しながら、来週以降読んでいきたいと思っています。
PS
ルイス・ショートをひくと、この作品からの引用が多いことに今更ながら驚きます。
昨日は「老年について」の第二回目でした。最初に松平・国原著「新ラテン文法」の復習をし、それに続いて演習がスタートします。
2. Hoc enim onere, quod mihi commune tecum est, aut iam urgentis aut certe adventantis senectutis et te et me etiam ipsum levari volo;
というのも、すでに差し迫っているか、あるいは確かに近づきつつある老年というこの重荷――それは私とあなたに共通のものである――からあなたも私も軽くなりたいと欲するから。
etsi te quidem id modice ac sapienter, sicut omnia, et ferre et laturum esse certo scio.
実際あなたがそれを慎み深く、賢明に、(他の)すべての事柄のように、耐えもしこれからも耐えるだろうということを確かに私は存じているけれども。
Sed mihi, cum de senectute vellem aliquid scribere, tu occurrebas dignus eo munere, quo uterque nostrum communiter uteretur.
だが、老年について何か書こうとほっしたとき、私たち二人が共に享受しているその贈り物に相応しい人物として、あなたのことが私には浮かんだのです。
Mihi quidem ita iucunda huius libri confectio fuit, ut non modo omnis absterserit senectutis molestias, sed effecerit mollem etiam et iucundam senectutem.
この書物の執筆はじつに喜ばしいものであったため、老年のすべての煩わしさをぬぐい去っただけでなく(cf.abstergeo)、老年を優しく(mollem)喜ばしい(iucundam)ものにしてくれたのです。
Numquam igitur satis digne laudari philosophia poterit, cui qui pareat, omne tempus aetatis sine molestia possit degere.
それゆえ、哲学に従い、人生のあらゆる時代を煩わしさなしに過ごすことが(de_gere)できる者にとって、哲学はどれだけ称賛してもきりがない。
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今回私が面白いと思ったことは、最初「老年」を onus (重荷)と呼び、それに「耐える」精神的態度を評価しながらも、後半では同じ「老年」が munus(贈り物)と言い換えられる点です。
老年は人生の贈り物なので、それはもはや我慢し耐える(ferre)ものではなく、喜ばしいもの(iucundam) として積極的に享受すべき価値とみなされています。
この転換がどのようにもたらされるのか?おそらく、その内容がこの作品の主題なのでしょう。そして、そこには今回唐突に現れた philosophia (哲学)が重要な意味を持ち得るのでしょう。
また、キケローとアッティクスの対話という展開が、次節以下ではカトーとスキーピオーの対話に移り変わります。現代から過去へのタイムスリップです。これは、過去を現代の手本(exemplum)とみなす当時の考えを反映しているとも言えます。
以上のことに少し注意しながら、来週以降読んでいきたいと思っています。
PS
ルイス・ショートをひくと、この作品からの引用が多いことに今更ながら驚きます。
金曜日は、昨年来続けてきた文法の勉強の続きです。岩波書店「ラテン語初歩」
の34課を扱いました。
Dimidium facti qui coepit habet.
(事をはじめた人は事の半分をすでに成し遂げたのである)
というホラーティウスの言葉が印象に残りました。
金曜日は、昨年来続けてきた文法の勉強の続きです。岩波書店「ラテン語初歩」
の34課を扱いました。
Dimidium facti qui coepit habet.
(事をはじめた人は事の半分をすでに成し遂げたのである)
というホラーティウスの言葉が印象に残りました。
ちょうど、この3学期の期間だけで最初から最後まで終えられた方から、次のご
感想を頂戴しました。謹んでご紹介させて頂きます。
ラテン語初級クラスを終えて12月から4ヶ月間、山の学校のラテン語クラス(初級)で山下先生にご指導いただいた者です。一学期でなんとか『ラテン語初歩』(田中利光著)を終えることができました。後に続く皆さんのために体験や感想を書くよう求められましたので、僭越ながら、今回の体験を少し述べたいと思います。
私は十数年前に大学院生であったときと、その後教員になってから2回、ラテン語を学ぼうとして、いずれも果たせませんでした。今回、山の学校で山下先生が直接教えてくださるということを知り、しかも、1月半ばで勤務先の授業が終り、1~3月は比較的自由な時間が多く取れるという事情もあって、千載一遇のチャンスとばかり申し込みました。
3度の失敗経験および独・仏語を学んだ際の経験から、たとえ浅くとも、短期間に文法の全体を終えることが何より大切だと思っていました。私の好きなペースで進んでよいとのことなので、やや無謀ながら、1回3課以上の予習をノルマとし、章末の和訳および羅訳の課題を準備していきました。
名詞・動詞・形容詞等の変化など、完全に覚えないと先へ進まないやりかたでは、また挫折するのが目に見えていました。ともかく前へ進み続けること、完全には覚えられなくとも、後ろは余り振り返らないことを方針としました。
およそ文法の全体が見渡せ、文章を読むときに、今文法のどのような事項が問題となっているのかが分かるようになることと、辞書が引けるようになることを、さし当たっての目標としました。そして4ヶ月、かなり忙しく走り続けましたが、何とか目標をぎりぎりの線でクリアーできたのではないかと思っています。
4月からは、キケロの作品をゆっくりと読みながら(1週間に数行読めればいいと思っています)、松平先生の『新ラテン文法』を使って苦手なところを少しづつ克服していこうと思っています。
なお、『ラテン語初歩』は、簡潔でとても学びよかったのですが、解説は余り詳しくないので、大西英文先生の『初めてのラテン語』や松平先生の『新ラテン文法』を適宜参照して補足しました。
以上、山下先生のご指導への感謝をこめて、50の手習いの報告といたします。
H.K.
これからキケローの作品 (De Senectute) に挑むわけですが、是非最後まで読み切りたいと思います。これまたじっくり味わいながら、また山頂を目指しましょう。
水曜日の夜8時10分からですが、我こそは!という同行者もぜひこの機会にご参加下さい。
ちょうど、この3学期の期間だけで最初から最後まで終えられた方から、次のご
感想を頂戴しました。謹んでご紹介させて頂きます。
ラテン語初級クラスを終えて12月から4ヶ月間、山の学校のラテン語クラス(初級)で山下先生にご指導いただいた者です。一学期でなんとか『ラテン語初歩』(田中利光著)を終えることができました。後に続く皆さんのために体験や感想を書くよう求められましたので、僭越ながら、今回の体験を少し述べたいと思います。
私は十数年前に大学院生であったときと、その後教員になってから2回、ラテン語を学ぼうとして、いずれも果たせませんでした。今回、山の学校で山下先生が直接教えてくださるということを知り、しかも、1月半ばで勤務先の授業が終り、1~3月は比較的自由な時間が多く取れるという事情もあって、千載一遇のチャンスとばかり申し込みました。
3度の失敗経験および独・仏語を学んだ際の経験から、たとえ浅くとも、短期間に文法の全体を終えることが何より大切だと思っていました。私の好きなペースで進んでよいとのことなので、やや無謀ながら、1回3課以上の予習をノルマとし、章末の和訳および羅訳の課題を準備していきました。
名詞・動詞・形容詞等の変化など、完全に覚えないと先へ進まないやりかたでは、また挫折するのが目に見えていました。ともかく前へ進み続けること、完全には覚えられなくとも、後ろは余り振り返らないことを方針としました。
およそ文法の全体が見渡せ、文章を読むときに、今文法のどのような事項が問題となっているのかが分かるようになることと、辞書が引けるようになることを、さし当たっての目標としました。そして4ヶ月、かなり忙しく走り続けましたが、何とか目標をぎりぎりの線でクリアーできたのではないかと思っています。
4月からは、キケロの作品をゆっくりと読みながら(1週間に数行読めればいいと思っています)、松平先生の『新ラテン文法』を使って苦手なところを少しづつ克服していこうと思っています。
なお、『ラテン語初歩』は、簡潔でとても学びよかったのですが、解説は余り詳しくないので、大西英文先生の『初めてのラテン語』や松平先生の『新ラテン文法』を適宜参照して補足しました。
以上、山下先生のご指導への感謝をこめて、50の手習いの報告といたします。
H.K.
これからキケローの作品 (De Senectute) に挑むわけですが、是非最後まで読み切りたいと思います。これまたじっくり味わいながら、また山頂を目指しましょう。
水曜日の夜8時10分からですが、我こそは!という同行者もぜひこの機会にご参加下さい。
3学期最終日なので、 surprise party に。教育、文化、芸術全般に話題が及ぶ形となりました。
新学期からも、ゆっくりとラテン語の勉強を味わっていきましょう、ということで意見が一致しました。
3学期最終日なので、 surprise party に。教育、文化、芸術全般に話題が及ぶ形となりました。
新学期からも、ゆっくりとラテン語の勉強を味わっていきましょう、ということで意見が一致しました。
先ほど、ラテン語通信講座第一期生の方に、48課の答案を返却しました。
あと1回でゴールですね。この方をはじめ、参加者の集中力と熱意、根気には脱帽です。
なお、ラテン語コースでは、教科書を終えたあとは、お好きな作家のラテン文(韻文、散文を問わず)
を講読します(料金はそのまま)。
今、水曜日クラスの参加者から出ているご希望では、キケローの『老年について』をとりあげて
ほしいとのことです。
先ほど、ラテン語通信講座第一期生の方に、48課の答案を返却しました。
あと1回でゴールですね。この方をはじめ、参加者の集中力と熱意、根気には脱帽です。
なお、ラテン語コースでは、教科書を終えたあとは、お好きな作家のラテン文(韻文、散文を問わず)
を講読します(料金はそのまま)。
今、水曜日クラスの参加者から出ているご希望では、キケローの『老年について』をとりあげて
ほしいとのことです。
最後の例文、Dixitque Deus: Fiat lux. Et facta est lux. (そして神は言っ
た。光あれ。すると光が生まれた。)は「聖書」の言葉ですね。
Fiat (フィーアト)はイタリアの車のメーカー名ですが、「・・・になる」と
いう意味の動詞 fio (フィーオー)の接続法・現在・三人称・単数の形です。
夢、願望、希望がかないますように、というニュアンスが込められた社名になっ
ています。実際には、何かイタリア語の頭文字をとった名称なのだそうですが、
同時にラテン語になっているところが憎いです。
--
山下太郎
最後の例文、Dixitque Deus: Fiat lux. Et facta est lux. (そして神は言っ
た。光あれ。すると光が生まれた。)は「聖書」の言葉ですね。
Fiat (フィーアト)はイタリアの車のメーカー名ですが、「・・・になる」と
いう意味の動詞 fio (フィーオー)の接続法・現在・三人称・単数の形です。
夢、願望、希望がかないますように、というニュアンスが込められた社名になっ
ています。実際には、何かイタリア語の頭文字をとった名称なのだそうですが、
同時にラテン語になっているところが憎いです。
--
山下太郎
ipsum (中性・単数・主格)の形を見て、車のイプサムと同じですか?と質問さ
れましたが、ご名答です。車の名前にラテン語は多く使われていますね。みなさ
ん、どれだけご存じでしょうか?
練習問題の文章からは、tribuo (分配する)から contribute (貢献する)、
debeo (・・・すべきである)から、debt (借金)といった英単語との関連を
話題にしました。
ipsum (中性・単数・主格)の形を見て、車のイプサムと同じですか?と質問さ
れましたが、ご名答です。車の名前にラテン語は多く使われていますね。みなさ
ん、どれだけご存じでしょうか?
練習問題の文章からは、tribuo (分配する)から contribute (貢献する)、
debeo (・・・すべきである)から、debt (借金)といった英単語との関連を
話題にしました。
一般の方がラテン語を学習する環境をいかに整備していくか。下記の提案を京大の Nishii 君から
ちょうだいしました。私も常にこのような工夫の気持ちを大事にしていきたい、と思います。
以下引用です。
一般の方がラテン語を学習する環境をいかに整備していくか。下記の提案を京大の Nishii 君から
ちょうだいしました。私も常にこのような工夫の気持ちを大事にしていきたい、と思います。
以下引用です。
下記の質問を受けました。
1. 講座の期間の設定はあるのですか? 例えば受講し始めて途中でやめる場合は受講した月までの受講料振込みでいいのですか?
2. 実際の文章の音読も聞きたいのですが、テープ等で対応して頂けるのでしょうか?
3. ご推薦の“ラテン語初歩”を早速 ネット通販で申し込みましたが、 辞書のお奨めのものはあるでしょうか?
お問い合わせを有り難うございます。
1~3のご質問にお答えします。
1:通信講座につきましては、受講した月分の受講料振込で結構です。たとえば、4月からの受講をご希望の場合、3月末までに4月分5000円と入会金5000円を下記までお振り込み下さい。5月以降につきましても、前月末までにお振り込み下さい。
京都中央信用金庫 錦林(キンリン)支店 普通 2217927
名義:学校法人北白川学園 理事長山下太郎
原則として、1週間に1回の割合で答案をお送り頂き、それについて添削とコメントを添えて返信する、というスタイルを基本としますが、積極的にラテン語を学ぼうという姿勢から、ペースアップしていただく分には、料金内で対応させて頂きます(月4回のお返事と決めているわけではないということです)。ちなみに、「ラテン語初歩」は全部で50課ありますので、1週間に1課のペースですと、ほぼ一年かかります。
2:テープの対応について。これは今のところ考えていません。一つには、ラテン語の発音は、カナ表記でも伝達可能だと思われるからです。ラテン語は古代ローマの時代の言語であり、日本でおなじみの「ローマ字」式の発音どおりでよい、というのが事実です。
現代語をきちんと学んだご経験をお持ちの方にとって、このような私の言い方は物足りなく感じられるケースがほとんどなのですが、古典ラテン語を現代社会で発音するチャンスはまずないということと、当時の文献を辞書を使いながら読んで理解できればよい、という大半のニーズにとっては、カナ表記で我流(といっても、欧米人の発音より日本人のローマ字発音は、はるかに当時の発音に近い)で読まれても十分だ、と自信を持って頂ければと思います。
3:辞書につきましては、本当にたくさんの種類がございます。それぞれに個性があり、また、お値段も様々ですが、最初の内は研究社の「羅和辞典」があれば十分だと思います。これは例文が載っていませんが、初心者が知りたい情報がわかりやすく載っています。
教科書の勉強もある程度進み、羅和辞典もある程度使い込んできたら、何かラテン語-英語の辞書が欲しくなってくると思います。もし、英語以外にフランス語やドイツ語をご存じであれば、その選択肢はもっと広がりますし、ラテン語の意味を知ろうとして英語やフランス語、ドイツ語の意味で原文を理解しようと努力する中で、逆に英語等の現代語の語彙力も鍛えられるという副次的効果もございます。このあたりの情報は、インターネットで検索して頂いてもよろしいかと存じます。
ちなみに、私のまとめた情報としましては、
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/latin0.html をご覧下さい。
お気づきかと思いますが、私自身のホームページに加え、http://www.kitashirakawa.jp/~taro/mt/ において、ラテン語に関する私自身の発見や言葉のエッセイを日々公開しています。よろしければ、そちらもご覧頂きながら、ラテン語への思いをかきたてていただければ、有り難く存じます。
では、また何か追加のご質問等ございましたら、ご遠慮なくお寄せ下さい。ご入会の件、宜しくご検討頂ければ幸いです。
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Yamashita Taro
下記の質問を受けました。
1. 講座の期間の設定はあるのですか? 例えば受講し始めて途中でやめる場合は受講した月までの受講料振込みでいいのですか?
2. 実際の文章の音読も聞きたいのですが、テープ等で対応して頂けるのでしょうか?
3. ご推薦の“ラテン語初歩”を早速 ネット通販で申し込みましたが、 辞書のお奨めのものはあるでしょうか?
お問い合わせを有り難うございます。
1~3のご質問にお答えします。
1:通信講座につきましては、受講した月分の受講料振込で結構です。たとえば、4月からの受講をご希望の場合、3月末までに4月分5000円と入会金5000円を下記までお振り込み下さい。5月以降につきましても、前月末までにお振り込み下さい。
京都中央信用金庫 錦林(キンリン)支店 普通 2217927
名義:学校法人北白川学園 理事長山下太郎
原則として、1週間に1回の割合で答案をお送り頂き、それについて添削とコメントを添えて返信する、というスタイルを基本としますが、積極的にラテン語を学ぼうという姿勢から、ペースアップしていただく分には、料金内で対応させて頂きます(月4回のお返事と決めているわけではないということです)。ちなみに、「ラテン語初歩」は全部で50課ありますので、1週間に1課のペースですと、ほぼ一年かかります。
2:テープの対応について。これは今のところ考えていません。一つには、ラテン語の発音は、カナ表記でも伝達可能だと思われるからです。ラテン語は古代ローマの時代の言語であり、日本でおなじみの「ローマ字」式の発音どおりでよい、というのが事実です。
現代語をきちんと学んだご経験をお持ちの方にとって、このような私の言い方は物足りなく感じられるケースがほとんどなのですが、古典ラテン語を現代社会で発音するチャンスはまずないということと、当時の文献を辞書を使いながら読んで理解できればよい、という大半のニーズにとっては、カナ表記で我流(といっても、欧米人の発音より日本人のローマ字発音は、はるかに当時の発音に近い)で読まれても十分だ、と自信を持って頂ければと思います。
3:辞書につきましては、本当にたくさんの種類がございます。それぞれに個性があり、また、お値段も様々ですが、最初の内は研究社の「羅和辞典」があれば十分だと思います。これは例文が載っていませんが、初心者が知りたい情報がわかりやすく載っています。
教科書の勉強もある程度進み、羅和辞典もある程度使い込んできたら、何かラテン語-英語の辞書が欲しくなってくると思います。もし、英語以外にフランス語やドイツ語をご存じであれば、その選択肢はもっと広がりますし、ラテン語の意味を知ろうとして英語やフランス語、ドイツ語の意味で原文を理解しようと努力する中で、逆に英語等の現代語の語彙力も鍛えられるという副次的効果もございます。このあたりの情報は、インターネットで検索して頂いてもよろしいかと存じます。
ちなみに、私のまとめた情報としましては、
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/latin0.html をご覧下さい。
お気づきかと思いますが、私自身のホームページに加え、http://www.kitashirakawa.jp/~taro/mt/ において、ラテン語に関する私自身の発見や言葉のエッセイを日々公開しています。よろしければ、そちらもご覧頂きながら、ラテン語への思いをかきたてていただければ、有り難く存じます。
では、また何か追加のご質問等ございましたら、ご遠慮なくお寄せ下さい。ご入会の件、宜しくご検討頂ければ幸いです。
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Yamashita Taro