前回の授業メモです。
最初に俳句をおさらいしました。
犬の子が 追うてゆくなり 雪つぶて 一茶
続いて、みんなで自由に俳句を作りました。
Uちゃん
白クマは 白いクマだよ およげるよ
Mちゃん
犬の子が へびをおいかけ あそんでる
ドラえもん 未来からくる ロボットだ
Tちゃん
コクワガタ ローリングスマッシュで いちげきだ
サッカーは ボールを足で けるんだよ
ムシキング 強いぞ強い がんばれよ
犬の子が かげを追いかけ つかれたぞ
しんぶんし 船をつくってうかばせる
学校は 遊びがいっぱい たのしいな
グランディス 大きなつので かっこいい
最後に、紙芝居を読みました。冬の定番「かさじぞう」でした。
昨日は、前回の復習をしたあと、次の箇所を読みました。
XX. 72. Senectutis autem nullus est certus terminus, recteque in ea vivitur,
quoad munus offici exsequi et tueri possit mortemque contemnere; ex quo fit,
ut animosior etiam senectus sit quam adulescentia et fortior. Hoc illud est
quod Pisistrato tyranno a Solone responsum est, cum illi quaerenti, qua tandem
re fretus sibi tam audaciter obsisteret, respondisse dicitur: 'Senectute.'
Sed vivendi est finis optimus, cum integra mente certisque sensibus
opus ipsa suum eadem quae coagmentavit, natura dissolvit.
Ut navem, ut aedificium idem destruit facillime, qui construxit,
sic hominem eadem optime quae conglutinavit natura dissolvit.
Iam omnis conglutinatio recens aegre, inveterata facile divellitur.
Ita fit ut illud breve vitae reliquum nec avide
adpetendum senibus nec sine causa deserendum sit; vetatque Pythagoras iniussu
imperatoris, id est dei, de praesidio et statione vitae decedere.
ところで老年には確かな終わりはない。その中で(老年の中で)人は正しく生きることができるだろう。義務の遂行を果たし、それに心を配り、死を軽蔑することが可能である限りは。
そこから次のことが起こる、老年が青年より活気に満ちた、雄々しいものになるということが。これがあのことに相当する、すなわち、僭主ピシストラトゥスに対しソローンによって返答された内容に相当する。このとき、いったい何を頼りとしてそれだけ大胆に自分に逆らうのかと尋ねる王に、ソローンは次のように答えたと言われる、すなわち、「老年を(頼みとして)」と。
だが、生きることの終わりは最良となる、人に汚れなき心と確かな感覚が備わる間に、自然自らが自分の作品、すなわち自分が組み立てた同じものを解体するときに。
ちょうど船も建築物も、それを作った者が最も容易にそれを解体するように、人間も、それを組み立てた自然がもっと上手に解体する。
ところで、新しくできた結合はすべて困難を伴いながら、昔に確立されたそれは容易に引き離される。そこで、次のようになる、その短い人生の残りの時間は、老人によってどん欲に求められるべきでないし、理由なく見捨てられるべきでもない、と。
センター試験の問題を見て、基本的な事柄が問われていることを再認識しました。
受験生の数は60万人とも言われていますが、進学校でない学校に通っている人が大半なのでしょう。
現役生の場合、なんといっても学校にいる時間が長いわけですが、授業をなおざりにしている生徒は少なくないように思います。
以下覚え書き。
生徒は学校の授業の予習復習をまじめにやるべし。
受験勉強の基本はこれにつきる。
学校の勉強を馬鹿にする態度で成功はない。
どの高校の教科書も重要なことは漏らさず書いている。
先生や校風やその他、自分を取り巻く環境は上を見たらきりがないわけだが、それがすべて満たされたとて、勉強しない者はどの道しない。
勉強しているように見えて、いたずらに背伸びした勉強ばかりしても空回りに終わる。
センターでよい成績をとることは確かに重要である。
こつは、学校の授業時間を大事にすること、つまりは、予習、復習を歯磨きのように習慣化すること。
とくに英語と数学は予習、復習を怠っておいて、どこで勉強するというのか?
教科書を馬鹿にすると、教科書に準拠した問題(つまりは基本的な問題)で痛い目に遭う。
周りが変わることを、周りを変えることを期待するのではなく、自分を変えるのが一番大事。
高校生は学年が上がるほど、覚えている単語の数は増える傾向があるが、逆に高校入試の問題を抜き打ちで解かせると、正解率が下がる傾向をもっている。
予習がうまくいかないのは、案外中学時代に原因があるのかもしれない。(実は大半がこれ。)
数学が苦手な者は、教科書の例題が理解できていないことが多い。
そこからやればよい。
虚栄心を捨てる多少の勇気が必要なことであるが。
昨日読んだ範囲のテキストと訳をアップします。
次回は第二歌です。
Meliboeus
At nos hinc alii sitientis ibimus Afros,
pars Scythiam et rapidum cretae veniemus Oaxen 65
et penitus toto divisos orbe Britannos.
en umquam patrios longo post tempore finis
pauperis et tuguri congestum caespite culmen,
post aliquot, mea regna, videns mirabor aristas?
メリボエウス
だが、われわれの中には(nos)この地を去って(hinc)渇きに苦しむ(sitientis)アフリカ人のもとに(Afros)赴く者もいるだろう(ibimus)。中には(pars)スキュティア(Scythiam)や、白亜の(cretae)流れも急な(rapidum)オアクセス川(Oaxen)をめざす者もいるだろう(veniemus)。
あるいは、全世界から(toto...orbe)すっかり(penitus)切り離された(divisos)ブリタンニア人のところへ(Britannos)行く者もいるだろう(veniemus)。
ああ(en)長い年月を経たのちに(longo post tempore)、いつの日か(umquam)この父祖の土地を(patrios...finis)見て (videns)、わたしは驚くことがあるのだろうか (mirabor) 。この貧しい (pauperis) 小屋の (tuguri) 芝草を (caespite) つみ重ねた (congestum) 屋根 (culmen)を見て、また、かつてはわたしの王国であった(mea regna)麦の穂を(aristas)いくつか(aliquot)見つけて(videns)驚くのだろうか(mirabor)。(69)
impius haec tam culta novalia miles habebit, 70
barbarus has segetes. en quo discordia civis
produxit miseros; his nos consevimus agros!
insere nunc, Meliboee, piros, pone ordine vites.
ite meae, felix quondam pecus, ite capellae.
non ego vos posthac viridi proiectus in antro 75
dumosa pendere procul de rupe videbo;
carmina nulla canam; non me pascente, capellae,
florentem cytisum et salices carpetis amaras.
不敬な(impius)軍人が(miles)、こんなにも(tam)よく耕した (culta) 土地を (novalia) 手にいれるのだ(habebit)。
あの野蛮人が(barbarus)この(has) 収穫物を(segetes)だと?見るがいい(en)。内乱は(discordia)惨めな市民たち(civis...miseros)をどこに (quo) 連れていったのかを(produxit)。
彼らのために (his)、わしらは (nos) 畑に (agros) 種をまいたというのに(consevimus)!
メリボエウスよ 、今こそ (nunc) なしを (piros) 植えるがいい (insere)。
葡萄の苗を (vites) 整然と (ordine) 植えるのだ (pone)。
かつては (quondam) 幸福だった (felix) 家畜たちよ (pecus)、行くがいい (ite)。わたしの(meae)山羊たちよ (capellae)、さあ行け (ite)。74
今後 (posthac)、わたしは緑の (viridi) 洞穴の中に (in antro) 寝そべって (proiectus)、おまえたちが(vos)藪の生えた (dumosa) 崖 (rupe) から (de) ぶらさがるのを (pendere)、遠くから(procul) 眺めることもないだろう(non...videbo)。
わたしはもう歌は歌わない (carmina nulla canam)。山羊たちよ(capellae)、わたしが 世話をして (me pascente)、おまえたちが花咲く (florentem) ウマゴヤシや (cytisum) 苦い (amaras) 柳を (salices) 食べることはもうないだろう (non...carpetis)。(78)
Tityrus
Hic tamen hanc mecum poteras requiescere noctem
fronde super viridi. sunt nobis mitia poma, 80
castaneae molles et pressi copia lactis,
et iam summa procul villarum culmina fumant
maioresque cadunt altis de montibus umbrae.
ティーテュルス
だが(tamen)今夜は (hanc...noctem) この (hic) 緑の草の上で (fronde super viridi) わたしと一緒に (mecum) 休むことが(requiescere)できるだろう(poteras)。
我々には(nobis)熟した (mitia) リンゴも (poma) あるし (sunt)、柔らかい (molles) 栗の実も (castaneae)、しぼった (pressi) ミルクも(lactis)たっぷりある (copia)。
そして今 (et iam) 遠くでは(procul)屋敷の(villarum)屋根の (culmina) てっぺんが(culmina)煙を出している(fumant)。高い(altis)山々からは(de montibus)いっそう長い(maiores)陰が (umbrae) おりている(cadunt)。(83)
昨日は絵本の他に、めいめい次のような俳句をつくりました。
クリスマス サンタのおじさん ひげいっぱい
おしょうがつ おもちを食べて おめでとう
おしょうがつ おせちを食べて おいしいな
春休み 桜の花見 きれいだな
夏休み かぶとむしを つかまえよう
犬の子が 追うてゆくなり 雪つぶて
今日は『牧歌』だけを読みました。セネカはお休みです。
読んだ範囲の訳をメモ代わりに記しておきます。
Meliboeus
Fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
non insueta gravis temptabunt pabula fetas
nec mala vicini pecoris contagia laedent. 50
fortunate senex, hic inter flumina nota
et fontis sacros frigus captabis opacum;
hinc tibi, quae semper, vicino ab limite saepes
Hyblaeis apibus florem depasta salicti
saepe levi somnum suadebit inire susurro; 55
hinc alta sub rupe canet frondator ad auras,
nec tamen interea raucae, tua cura, palumbes
nec gemere aeria cessabit turtur ab ulmo.
メリボエウス
幸福な老人よ(Fortunate senex)、だから(ergo)おまえの土地は(tua rura)これからも残るのだな(manebunt)。だが(et)あれはおまえには(tibi)大きすぎる(magna satis)。
裸の石ころや(lapis...nudus)泥だらけの(limosoque)イグサによって(iunco)沼が(palus)すべてを(omnia)覆っている(obducat)にせよ(quamvis)。
慣れない草が(insueta...pabula)重く(gravis)仔をはらんだ母牛たちを(fetas)襲うことはないし(non...temptabunt)、近くの家畜の(vicini pecoris)悪い病気が(mala contagia)害をおよぼすこともない(nec...laedent)。
幸福な老人よ(fortunate senex)、ここでは(hic)愛着のある川(flumina nota)と神聖な泉の(fontis sacros)間に囲まれて(inter)、おまえは木陰の(opacum)涼しさを(frigus)手にするだろう(captabis)。
こちらから(hinc)、すなわち隣家との境界から(vicino ab limite)、垣根は(saepes)いつものように(quae semper)、ヒュブラの蜜蜂に(Hyblaeis apibus)柳の花(の蜜)をすわれ、しばしば(saepe)軽いうなり声で(levi...susurro)眠りを(somnum)始めるよう(inire)誘うだろう(suadebit)。
こちらで(hinc)、すなわち深い崖の下で(alta sub rupe)、葡萄の葉を摘む者は(frondator)そよ風に向かって(ad auras)歌を歌うだろう(canet)。だが(tamen)、その間中(interea)おまえのお気に入りの(tua cura)山鳩は(palumbes)低い声で(raucae)、また、キジバトは(turtur)、高い(aeria)楡の木から(ab ulmo)、悲しい声で鳴くのを(gemere)止めることはないだろう(nec...cessabit)。(58)
Tityrus
Ante leves ergo pascentur in aethere cervi
et freta destituent nudos in litore pisces, 60
ante pererratis amborum finibus exsul
aut Ararim Parthus bibet aut Germania Tigrim,
quam nostro illius labatur pectore vultus.
ティーテュルス
だから (ergo)、足の軽い (leves) 鹿が (cervi) 空中で (in aethere) 草をはみ (pascentur)、海が (freta) 魚を (pisces) 裸のまま (nudos) 浜辺に (in litore) 置き去りにする (destituent) までは (ante)、あるいは、二つの(amborum)国境が(finibus)入れかわり(pererratis)、パルティア人が (Parthus) 追放者として(exsul)アラル川(の水)を(Ararim)、ゲルマニア(人)が(Germania)ティグリス川(の水)を (Tigrim) 飲む (bibet) までは (ante)、あの方の(illius)面影が(vultus) 私の胸から(nostro...pectore)消え去ることは(labatur)ないだろう(※quam 以下よりante 以下のことが先に生じるだろう。なお ante 以下はアデュナタと言われる技法で、この世にあり得ない話が書かれる。quam 以下は、そのあり得ないことが起こってから後に生じるというわけで、まったくもってあり得ない話として紹介されている。)。(63)
福西です。
かず・数学のクラスも順調にスタートしています。
高校生の火曜日クラス
J君:学校で使っている教科書をジュンク堂で買って来て、それをしてもらっています。logの計算を、自分が得意であることを発見してくれたことが嬉しかったです。logaB=Cを、自分の頭の中で翻訳できて、思考回路が作られていくことが、楽しいと感じられることは何よりです。このまま教科書に沿って、自信をつけてもらおうと考えます。
A君:10日に受けてきたJMO(日本数学オリンピック)予選の報告をしてくれました。問題文を見せてもらい、いろいろと面白そうな話をしてくれました。A君が「これは、これを思いついたら解けるんですがね…」と私に説明しているところへ、J君が横に立って神妙に観察。見事A君のやり方が、答を弾き出すと、「おお、すごいやんか!」と、A君にもその問題にも感心しているような素振りを見せました。またJMOの次の日にあった模擬試験で、A君は数学ですこぶる点数がよかったのも見せてくれて、自分が「数学が好きなのが分かった気がする」と言っていたのが印象に残りました。
高校生の水曜日クラス
T君:彼は学校から数検2級を受けることになっていて、その過去問をしています。1年生なので、出題範囲に知らないところ(log、Σ、確率、ベクトル、微積)があるのがハンデです。といっても、知っていることに太鼓判を押してもらうのが検定なので、今知らないことは知らないで正直に受けて、それで受かればいいですし、受からなくても1回早かっただけなので、次は学校で習った後なので余裕で受かると思います。知っている範囲では確実に点が取れています。ついつい私の方が老婆心を起こして「ベクトルっていうのは…」とか、入れ知恵してしまっているところです。が、蛇足にも思えるので、とりあえず過去問を渡しておいて、知りたいという申し出のあったところだけを教えようかと考えています。
かず2~3年生
どの子も宿題を誇らしげに出してくれて、まる付けするのが大変でした。(自分達で順番をじゃんけんで決めていました)。この頃は何にしても純粋だと感じます。また、この前から決めた「日直」(起立、礼を言う係り)が気に入ってもらえています。
かず5~6年生
6年生がお休みで、5年生だけでしたが、こちらも宿題をしてきてくれていました。2学期のおさらいで、三角形の面積、平行四辺形の面積、分母が同じ分数の計算をしましたが、概して「ここは大丈夫」という手ごたえでした。
本日は70節から71節にかけて読みました。
来週は同じ箇所を復習します。
70節の逐語訳は次の通りです。一カ所未解決の箇所があり、メモ程度の訳ですが。
70. Neque enim histrioni, ut placeat, peragenda fabula est, modo, in quocumque fuerit actu, probetur, neque sapientibus usque ad 'Plaudite' veniendum est. Breve enim tempus aetatis satis longum est ad bene honesteque vivendum; sin processerit longius, non magis dolendum est, quam agricolae dolent praeterita verni temporis suavitate aestatem autumnumque venisse. Ver enim tamquam adulescentiam significat ostenditque fructus futuros, reliqua autem tempora demetendis fructibus et percipiendis accommodata sunt.
実際、役者にとって、人を喜ばせるためには、劇の最後まで演じるべきではない、どこであれ、彼の登場する場面において、彼が評価される限りは。同様に、賢者にとっても、「みなさま拍手を」にまで至るべきではない。というのも、人生の短い期間とはいえ、立派に誠実に生きるには十分長いからである。もしそれ以上長く生きても、春の季節の甘美さが過ぎ、夏や秋が訪れたといって農夫が嘆くことがないように、我々も(老年に至ったことを)嘆くべきではない。というのも、春はいわば青春時代を意味し、未来の収穫を表すのに対し、残りの季節は、収穫を刈って取り入れるのにふさわしいからである。
昨日は、冬の宿題を確認しました。
ひとつめは「ちびゴリラのちびちび」を正確に写すことでした。ふたつめは「ふゆのたのしかったおもいで」という題で作文することでした。
ひとつご紹介します。
ふゆのたのしかったおもいで
1月8日、おとうさんとおかあさんといよとぼくで木下大サーカスにいきました。はこの中でおねえさんが男の人にかわりました。ぼくはビックリしました。まるいボールの中をバイク3だいでぐるぐるはしっていました。ほかにもいっぱいありましたが、ライオンのオスとメスとヒョウとトラがでてきたショウがぼくはいちばんたのしかったです。また木下大サーカスにいきたいです。
山の学校も本日よりスタートです。
受験を間近に控えた人も含め、日々の努力が大きな実りをもたらしますよう、心よりお祈り申し上げております。
2006年もどうぞよろしくお願いいたします。
司馬遼太郎氏は次のような言葉を残しています。 案外見逃されているポイントだと思います。
国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。
ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。
言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。
ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。(「何よりも国語」より)
家の中でテレビを見る家庭は多いと思いますが、能動的に言葉を発したり、家族同士で話を交わす時間を奪っているのではないかと感じます
「事をなすには一心不乱でありたい」という言葉を松下幸之助氏の文章で見つけました。賢い人は行動するより考えてしまう。失敗のリスクを計算したり・・・要はやらない理由をあれこれ数え上げてしまう。
しかし、一心不乱でありたい、と。受験勉強も社会の仕事も原理は同じですね。
人が見ればつまらないと思われるような仕事にも<馬鹿の一つ覚え>と言われるぐらいに全身全霊を打ち込む人がいる。この姿は全く尊く、見ていても頭が下がる。仕事に成功するかしないかは、第二のこと。要は、仕事に没入することである。批判はあとでよい、とにかく一心不乱になることだ。こうした努力は必ず実を結ぶのだ。そこからものが生まれずして、いったいどこから生まれよう。
聞かぬは一生の恥という言葉がありますので、ちょっとした疑問もメモ書きしておきます。
ちょっとウェブサイトを読みかじっただけの知識ですが、「神のみに栄光あれ!」という言葉はラテン語の翻訳で、そのラテン語というのが soli deo gloria だと記されているケースが多いので?と思いました。
たとえば、ここなど。
solus, -a, -um は第1・第2変化形容詞なので、私が思うに原文は solo deo gloria なのじゃないかと。
そう思って英語圏のウェブサイトを見ていますと、確かにその綴りでも見つかります。
でも、こんな不統一なことがあるなんて・・・。少し狐につままれたような気がしています。
ちなみに、sola scriptura (御言葉のみ)と sola fide (信仰のみ)という言葉も併せて出てきます。これらは fide から見ていずれも奪格なのでしょう。とすれば厳密には、「御言葉のみによって」、また「信仰のみによって」というのが直訳になります。
以上、ラテン語文法にかんしての疑問点でした。
古代ローマの詩人ウェルギリウスは、その作品の中で「偉大なことを欲したことが偉大である。」と述べています。Magna voluisse magnum. と。
偉大なことをぼんやり思い浮かべるというのではなく、その実現を心の底から願い、強く願望することは、じつに人間的なことだと思います。
生きる力とは夢を持つ力と言い換えて良いように思います。
そんなことくらい誰でもできる、思うだけではだめだ、と反論されることは承知の上での逆説が上の言葉でしょう。しかし、反論も厳密な意味で行動ではありません。
与えられることに慣れ、ないものはないかに見える現代社会において、行動はおろか、夢そのものを見る力さえ薄らいでいるように感じられます。夢は見るものではなく、見せてもらうもの、与えられるものであるかのように。
しょせん、夢は夢でしかなく、それゆえに夢なのであるわけです。ならば「夢中(=夢の中)」で己の信じる道を駆け抜けていきたいと思う2006年の年の初めです。
本年もよろしくお願い申し上げます。