キケローは人生を劇に例え、ある場面の役者は自分の役を演じきったら、劇の最後まで残っていてはいけないといいます。
自分の役がなになのか?何を演じきることが自分の役なのか。ひごろ立ち止まって考える余裕はありませんが、折を見て考えてみたいものです。
70. Neque enim histrioni, ut placeat, peragenda fabula est, modo, in quocumque fuerit actu, probetur, neque sapientibus usque ad 'Plaudite' veniendum est. Breve enim tempus aetatis satis longum est ad bene honesteque vivendum; sin processerit longius, non magis dolendum est, quam agricolae dolent praeterita verni temporis suavitate aestatem autumnumque venisse. Ver enim tamquam adulescentiam significat ostenditque fructus futuros, reliqua autem tempora demetendis fructibus et percipiendis accommodata sunt.
70 実際、役者にとって、人を喜ばせるためには、劇の最後まで演じるべきでない、どこであれ、彼の登場する場面において、彼が評価される限りは。また賢者にとっても(sapientibus)、「みなさま拍手を (Plaudite)」にまで至らなくてもよい。というのも(enim)、人生の(aetatis)短い(breve) 期間は(tempus)、立派に(bene) 誠実に(honesteque) 生きるには (ad...vivendum) 十分(satis) 長いからである(longum...est)。もしそれ以上長く生きても、春の(verni) 季節の(temporis) 甘美さが(suavitate) 過ぎ(praeterita)、夏や秋が訪れたといって農夫が嘆くように嘆くべきではない。実際、春はいわば青春時代を意味し、未来の収穫を約束するのに対し、残りの季節は、収穫を刈って取り入れるのにふさわしい。
「ラテン語格言集」に次の言葉を追加しました。
Legum omnes servi sumus ut liberi esse possimus.
「レーグム・オムネース・セルウィー・スムス・ウト・リーベリー・エッセ・ポッシムス」と読みます。
legum は「法律」を意味する第3変化名詞 lex の複数・属格です。servi にかかります。
「すべて」を意味する第3変化形容詞 omnes はこの文の主語である nos (一人称複数・主格)と同格で、男性・複数・主格です。なお nos は省略されています。
servi は「奴隷」を意味する第2変化男性名詞 servus の複数・主格です。
sumus は「・・・である」を意味する不規則変化動詞 sum の直説法・能動相・現在・1人称・複数です。
ここまでをまとめると、「我々は皆法律の奴隷となる。」
ut は目的文を導きます。続く従属文の動詞は接続法になります。
liberi は「自由な」を意味する第1・第2変化形容詞 liber の男性・複数・主格です。
esse は sum の不定法・能動相です。
possimus は不規則変化動詞 possum の接続法・現在・一人称・複数です。
ut 以下は「我々が自由でありうるために」となります。
「我々は皆、自由であり得るために法律の奴隷となる。」と訳せます。
キケローの言葉です。
Vox populi vox dei. なんと発音するのでしょうか?
「ウォークス・ポプリー・ウォークス・デイー」と読みます。
voxは単数属格がvocisとなる第三変化名詞で意味は「声」。
populi は第2変化名詞 populus の単数属格で、意味は「人間」、ここでは「人民」の意味です。
dei とはdeus(神)の単数属格です。
動詞がありませんが、est(→不規則動詞sumの3人称単数)を補うといいでしょう。
直訳は「民衆の声は神の声(である)」
朝日新聞の「天声人語」はこのラテン語を元にしているようですね。
Dum spiro, spero. という言葉を紹介します。どう発音するのでしょうか?
「ドゥム・スピーロー・スペーロー」と読みます。 ローマ字そのままですね。ではどんな意味でしょう?
dumは「~の間」という意味の接続詞。spiro, spero はそれぞれ第一変化動詞単数1人称(要するに主語は「私」ということ)で、「息をする」、「希望を持つ」の意味です。
直訳は「息をする間、私は希望を持つ。」すなわち、「生きる限り、希望をもつことができる。」(=死んだら希望などもてない。) となります。
アメリカ南カロライナ州の標語だそうです。 質問があればコメントに書き込んでください。ちょっとずつ紹介していきたいと思います。
小学校のCちゃんが漢字検定4級に合格されました。おめでとうございます。漢字は大事ですね。小学校時代の勉強は、漢字と算数の計算に明け暮れたらそれでよいようにも思います。
以前予告していたとおり、スタイルシートを変えました。ブラウザによっては以前のフォントが小さすぎたこと、3段組は解像度の異なるマシンで見え方に大きくばらつきがあるので、無難な2段組に戻しました。
山下です。
下記の要領で「ラテン語短期集中講座」を開設します。
・2006年1月12日スタート。3月16日まで全10回
・毎週木曜日 8時10分~9時30分
・教科書:「ラテン語初歩」(岩波書店)
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山下です。
前回読んだ箇所(69節)の最後を締めくくる表現:
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
時間の中で、生きるためにめいめいに与えられた部分に、人は満足しなければならない。
これについて、補足します。temporis は属格です。部分の属格になります。永遠の時の流れという意味になります。
その中で、(神によって)めいめいに与えられた時間というのが寿命と言うことになります。
ここの文脈の趣旨は、各自は己の寿命に満足しなければならないということです。
つづく70節はたいへん印象的な比喩が使われます。
人生を舞台にたとえます。
各自に配役がある。
それを立派に演じて拍手をもらったら、その舞台から速やかに退くべし。
次の舞台までぐずぐず残っていたら喜劇になってしまいます。
今の世の中は、配役の台詞の数を数えてみたり、登場時間の長短を気にしてみたり、劇を演じる本質と無関係な観点から人生をとらえているにすぎないように感じます。
堂々と演じきった者の臨終の言葉には、次の台詞があります。
Plaudite, acta est fabula.
読み方は、「プラウディテ・アクタ・エスト・ファーブラ」となります。
plauditeは第三変化動詞plaudo(拍手する)の命令法・能動相で、「拍手せよ」となります。
actaは「行う、なす」を意味する第三変化動詞agoの完了分詞で、estと組み合わされて、完了の受動相を表します。
主語はfabula(第一変化名詞)で「芝居」を意味します。
「拍手を。お芝居はおしまいだ。」という意味です。
アウグストゥスの臨終の言葉と伝えられます。
昨日で今年の授業は終了しました。
授業記録をかねて扱った範囲の逐語訳を記しておきます。
69. Quamquam, O di boni!
とはいえ、おお、立派な神々よ、
quid est in hominis natura diu?
人間の本性の中において何が長くあるだろうか。
Da enim summum tempus, exspectemus Tartessiorum regis aetatem (fuit enim, ut scriptum video, Arganthonius quidam Gadibus, qui octoginta regnavit annos, centum viginti vixit)--sed mihi ne diuturnum quidem quicquam videtur in quo est aliquid extremum.
というのも、最高の時(最高齢)を(われわれに)与えてみよ。(つまり)われわれは、タルテッススの王の寿命を望んでみよう――というのも、書かれたものを見ると、ガーデースにアルガントーニウスという者がいて、80年間王として君臨し、120歳まで生きたからであるが――だが、実際終わりあるものの存するいかなるものも、私には永続的であるとは見なされない。
Cum enim id advenit, tum illud, quod praeteriit, effluxit;
というのも、それ(終わり)が訪れたとき、過ぎたものは消えてなくなってしまうのだから。
tantum remanet, quod virtute et recte factis consecutus sis;
ただ次のものだけが残る。美徳とよくなされた行いによってあなたが達成したものだけが。
horae quidem cedunt et dies et menses et anni, nec praeteritum tempus umquam revertitur, nec quid sequatur sciri potest;
実際、時間も日も月も年も去っていく。過ぎ去った時は決してよみがえらず、何が未来に起こるのか、知ることはできない。
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
時間(永遠の時の流れ)のうち、生きるためにめいめいに与えられた部分に、人は満足しなければならない。
山下です。
授業で用意したプリント(A4)が散逸してはいけないので、簡単なファイルを用意しました。
学期期間中はこちらでまとめておき、適宜コメントを書いたりします。学期の終わりに家に持ち帰ってもらい、子どもたちの日々の取り組みをご家庭でもごらん頂けるようにします。
今日は、一人ずつ真新しい紙製ファイルをもらい、その表紙に自分でタイトルをかき、1つだけ好きな絵を書き添えることにしました。
サインペンも駆使して、みんな満足のゆくファイルができあがりました。
冬学期の課題は、「ちびゴリラのちびちび」の文章を全部紙に書き写すこと。冬の楽しかった思い出を紙に書いて提出することです。
山下です。
金曜日は亮馬先生の「青春ライブ授業」でした。
オイラー、ガウス、リーマンといった、数学の歴史をつくった人たちの感動的なドラマをたっぷりお聞かせいただきました。
しかし、数学はこれらの天才の専有物ではなく、数学の歴史をつくってきた、またこれからもつくっていく主役として、数学を愛する無数のファンの存在を最後に指摘された点が心に残りました。
それは、私自身が日頃、ギリシア・ローマ文化について感じていることと重なり合いますので。
役に立つかどうかという観点から見れば、最先端の研究は専門家に任せればよいようですが、その結果、数学も古典も文化としてやせ細ります。
役に立つこと――それが何かの定義もあやふやですが――ばかり追求すると、それしか目に入らない人間ばかりが世の中に増える気がします。
お話を伺っていて、学校教育の大事な使命の一つとして、学問や芸術を支えるファンの確かな育成が挙げられると感じました。
結局の所、山の学校で「試験の点数だけではない」と日頃私が申しあげていることの意味は、今回のお話と重なり合うところが多かったと思いました。
山下です。
前回の覚え書きです。
1)フリートーク
手を挙げて発言するルール。他人が発言するときは静かに聞く。この日は雪が降ったので、話は自然と盛り上がる。
2)作文
1)で話した内容をもとに、原稿用紙に文章をかく。思案しているときに、ほどよく話の展開の仕方を補助する。
3)本を読む
「虫歯くんとともだち」(タイトルは記憶による)
この本は、子どもが持参。
話の展開を予想させ、次のページに書かれている内容、挿絵を想像させる。
※この日は俳句はお休み。
以上メモの代わりとして。
冬学期からのラテン語講読Cは、前半は前期に引き続いてテキストを進め、後半は読解をしています。テキストは43課まで進み、あと一回で終了予定です。読解については、参加者の希望する中世のテキストを文法を確認しながら解釈していく作業を進めています。だいぶいい感じで解釈ができるようになってきました。
やはり文法だけでなく、実際の文章を読んでなんぼ、ですね(笑)
山下です。
「老年について」を読んでいます。次回の予習になりますが・・・。
以下69節の逐語訳で、自分用のメモです。
思わぬ見落としや勘違いが含まれているかもしれません。
69. Quamquam, O di boni!
とはいえ、おお、立派な神々よ、
quid est in hominis natura diu?
人間の本性の中において何が長くあるだろうか。
Da enim summum tempus, exspectemus Tartessiorum regis aetatem (fuit enim, ut scriptum video, Arganthonius quidam Gadibus, qui octoginta regnavit annos, centum viginti vixit)--sed mihi ne diuturnum quidem quicquam videtur in quo est aliquid extremum.
というのも、限度いっぱいの時を与えてみよ。(つまり)タルテッススの王の寿命を希望してみよう――というのも、書かれたものを見ると、ガーデースにアルガントーニウスという者がいて、80年間王として支配し、120歳まで生きたから――。だが、実際終わりあるものの存在する者は、私には長命であるとは見なされない。
Cum enim id advenit, tum illud, quod praeteriit, effluxit;
というのも、それ(終わり)が訪れたとき、過ぎたものは消えてなくなってしまうからだ。
tantum remanet, quod virtute et recte factis consecutus sis;
ただ次のものだけが残る、美徳とよくなされた行いによってあなたが達成したものだけが。
horae quidem cedunt et dies et menses et anni, nec praeteritum tempus umquam revertitur, nec quid sequatur sciri potest;
時間も日も月も年も過ぎていく。過ぎ去った時は決してよみがえらず、何が後に続くのか知ることはできない。
quod cuique temporis ad vivendum datur, eo debet esse contentus.
人は、めいめいに生きるべく与えられた時間の一部に、満足しなければならない。
山下です。
前々回から使用している新しい問題集の3分の2まで終えました。
よく出る熟語は理屈抜きに覚えること
長文はできるだけたくさん読むこと
今は上記に留意してガンガン先を急ぐようにわざとしています。
山下です。
今日の授業ではキケロー『老年について』の67節から読み始めます。
67. Quid igitur timeam, si aut non miser post mortem aut beatus etiam futurus sum?
それゆえ何を私は恐れよう、もしも、死後に私は惨めでないのなら、または幸福でさえあるのならば。
Quamquam quis est tam stultus, quamvis sit adulescens, cui sit exploratum se ad vesperum esse victurum?
だが、いかに若かろうと、自分が夕方まで生きるだろうと確信できるほど愚かな者はいるだろうか。
Quin etiam aetas illa multo pluris quam nostra casus mortis habet;
さらに、かの年齢(若年)は私たちのそれ(年齢)以上に死の危険を持っている。
facilius in morbos incidunt adulescentes, gravius aegrotant, tristius curantur. 若者はより容易に病気になり、病状は悪化しやすく、より悲劇的な治療を施される。
Itaque pauci veniunt ad senectutem;
それゆえ老年まで到達する者はわずかである。
quod ni ita accideret, melius et prudentius viveretur.
それがそのように起こるのでなければ、よりよく、より賢明に(生が)生きられるはずであろう。
Mens enim et ratio et consilium in senibus est;
というのも、老人にこそ精神と理性と判断力が備わっている。
qui si nulli fuissent, nullae omnino civitates fuissent.
もし彼ら(老人)が一人もいなければ、都市国家は一つとして存在しなかっただろう。
Sed redeo ad mortem impendentem.
だが押し寄せる死(の問題)に戻ろう。
Quod est istud crimen senectutis, cum id ei videatis cum adulescentia esse commune?
何があなたの言う老年の罪なのだろうか、それがそれ(老年)にとってと、青春時代とに共通しているとあなた方がみなすときに。
68. Sensi ego in optimo filio, tu in exspectatis ad amplissimam dignitatem fratribus, Scipio, mortem omni aetati esse communem.
私は感じた、自分の最もよき息子に関して、おまえはもっとも大きな権威へと期待された弟たちに関して、スキーピオーよ、死がすべての年代に共通であることを。
At sperat adulescens diu se victurum, quod sperare idem senex non potest.
だが、若者は自分が長生きすることを期待するが、この同じことを老人は期待できない(と反論するだろう)。
Insipienter sperat.
愚かな仕方で彼は期待している。
Quid enim stultius quam incerta pro certis habere, falsa pro veris?
というのも、何がより愚かなことがあろう、不確実なことを確実であるとみなし、偽りを真理とみなすことほどに。
At senex ne quod speret quidem habet.
だが老年はそれが望むものを実際にはもたない(と反論するだろう)。
At est eo meliore condicione quam adulescens, quoniam id, quod ille sperat, hic consecutus est;
だが、若者よりよい条件の中にいる。なぜなら、かの者(若者)が望むものをこちらの者(老人)は手に入れているからだ。
ille vult diu vivere, hic diu vixit.
かの者(若者)は長く生きたいと望むが、こちらの者(若者)は長く生きたのである。
山下です。
昨日のしぜんクラスでは、しぜんにっきのファイルを持って帰ってもらいました。次の要領で観察をつづけてもらおうと思います。
生徒のみなさんへ
1 学年(がくねん)、なまえをかきましょう。
2 ひづけ、てんきをかきましょう。
3 しぜんのことで、つたえたいことをはこの中にかきましょう。
例1)いえの人といっしょに公園で虫探しをしました。
例2)たくさん雪がふって雪だるまをつくりました。手がかじかんで痛くなりました。
4)ことばだけでなく、絵をかいてもよいです。
5)ヒヤシンスの成長(せいちょう)をきろくしましょう。
・自分の目で見たとおりのことをかきましょう。
・根のでるようす、芽(め)のでるようす、花のさくようすをプリントの絵の上にかきそえます。
おうちの方へ
・冬学期は外での活動と部屋の中での作業とを組み合わせていきます。「しぜんにっき」を通じて、自分が目で見たこと、体験したことを言葉や絵によって記録し、皆の前で発表できるように促したいと考えています。
・毎日少しずつ記録しても、1週間に一度記録してもかまいません。日常の中で「しぜん」を意識し、五感を発揮させ、その経験を記録するきっかけになればと願っています。
・毎日少しずつ記録する場合、日付の書き方は枠の中で自由に決めていただいて結構です。
・しぜんクラスには、本日お渡ししたファイル(水色)と緑のバインダーは必ず持ってきていただくように宜しくお願いします。
山下です。
金曜日のクラスではセネカの『幸福な生活について』を読んでいます。
前回は8-3を読みました。
3. Incorruptus uir sit externis et insuperabilis miratorque tantum sui,
fidens animo atque in utrumque paratus,
artifex uitae; fiducia eius non sine scientia sit, scientia non sine constantia; maneant illi semel placita nec ulla in decretis eius litura sit. Intellegitur, etiam si non adiecero, compositum ordinatumque fore talem uirum et in iis quae aget cum comitate magnificum.
人は(vir)外的なものによって(externis)損なわれず(incorruptus)、征服されず(insuperabilis)、自己のみの賛美者(miratorque tantum sui)であるべきだ(sit: 接続法)。精神を恃みとし(fidens animo)、(禍福)いずれに対しても(in utrumque)準備ができており(paratus)、人生の創造者(artifex uitae)であるべきだ。
彼の自信は(ficucia eius)知識を伴い(non sine scientia)、その知識は(scientia)恒心を伴う(non sine constantia)べきである(sit)。
ひとたび(semel)彼にとって(illi)決定されたことは(placita)不動であるべきだ(maneant)。また、彼の(eius)決断には(in decretis)いかなる修正もあってはならない(nec illa...litura sit)。
Intellegitur, etiam si non adiecero, compositum ordinatumque fore talem uirum et in iis quae aget cum comitate magnificum. ~erat uera.
次のことが理解される(intellegitur)、たとえ私が(言葉を)付け加えないとしても(etiam si non adiecero)、そのような男が(talem uirum)泰然自若とした(compositum)冷静沈着な人間であり(ordinatumque fore)、彼が親愛の情をもって(cum comitate)行動する事柄において(in iis quae aget)偉大である、ということが(magnificum)。
山下です。
金曜日のクラスでは、はじめにウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
Meliboeus
Fortunate senex, ergo tua rura manebunt
et tibi magna satis, quamvis lapis omnia nudus
limosoque palus obducat pascua iunco.
non insueta gravis temptabunt pabula fetas
nec mala vicini pecoris contagia laedent. 50
fortunate senex, hic inter flumina nota
et fontis sacros frigus captabis opacum;
hinc tibi, quae semper, vicino ab limite saepes
Hyblaeis apibus florem depasta salicti
saepe levi somnum suadebit inire susurro; 55
hinc alta sub rupe canet frondator ad auras,
nec tamen interea raucae, tua cura, palumbes
nec gemere aeria cessabit turtur ab ulmo.
以下、メモ書きです。
--
メリボエウス
幸福な老人よ(Fortunate senex)、だから(ergo)おまえの土地は(tua rura)これからも残るのだな(manebunt)。だが(et)あれはおまえには(tibi)大きすぎる(magna satis)。
裸の石ころや(lapis...nudus)泥だらけの(limosoque)イグサによって(iunco)沼が(palus)すべてを(omnia)覆っている(obducat)にせよ(quamvis)。
慣れない草が(insueta...pabula)重く(gravis)仔をはらんだ母牛たちを(fetas)襲うことはないし(non...temptabunt)、近くの家畜の(vicini pecoris)悪い病気が(mala contagia)害をおよぼすこともない(nec...laedent)。
幸福な老人よ(fortunate senex)、ここでは(hic)愛着のある川(flumina nota)と神聖な泉の(fontis sacros)間に囲まれて(inter)、おまえは木陰の(opacum)涼しさを(frigus)手にするだろう(captabis)。
こちらから(hinc)、すなわち隣家との境界から(vicino ab limite)、垣根は(saepes)いつものように(quae semper)、ヒュブラの蜜蜂に(Hyblaeis apibus)柳の花(の蜜)をすわれ、しばしば(saepe)軽いうなり声で(levi...susurro)眠りを(somnum)始めるよう(inire)誘うだろう(suadebit)。
こちらで(hinc)、すなわち深い崖の下で(alta sub rupe)、葡萄の葉を摘む者は(frondator)そよ風に向かって(ad auras)歌を歌うだろう(canet)。だが(tamen)、その間中(interea)おまえのお気に入りの(tua cura)山鳩は(palumbes)低い声で(raucae)、また、キジバトは(turtur)、高い(aeria)楡の木から(ab ulmo)、悲しい声で鳴くのを(gemere)止めることはないだろう(cessabit)。(58)
山下です。
先週の続きをアップします。
Tityrus
Quid facerem? neque servitio me exire licebat 40
nec tam praesentis alibi cognoscere divos.
hic illum vidi iuvenem, Meliboee, quot annis
bis senos cui nostra dies altaria fumant,
hic mihi responsum primus dedit ille petenti:
'pascite ut ante boves, pueri, submittite tauros.' 45
ティーテュルス
このわたしに何ができたというのか(Quid facerem)。奴隷の状態から(servitio)私が(me)外に出ることも(exire)、 これほど(tam)頼りになる(praesentis)神々を(divos)見付けることも(cognoscere)、(ローマ以外の)他の場所では(alibi)できなかったのだ(neque...licebat)。
メリボエウスよ、ここで(hic: ローマ)わたしはあの若者(illum...iuvenem: オクタウィアーヌス)を目にしたのだ(vidi)。
この人のために(cui)、わたしの祭壇は(nostra...altaria)毎年(quot annis)12日(bis senos...dies)煙を出すのだ(fumant)。
ここで(hic)かの人が(ille)初めて(primus)、嘆願するわたしに(mihi...petenti)答えてくれたのだ(responsum...dedit)。
「少年たちよ(pueri: 牧人を指す)おまえたちは、以前のように(ut ante)、牛を養うがよい(pascite...boves)。雄牛を飼うがいい(submittite tauros)。」と。(45)
山下です。
ラテン語格言集に新しい言葉を追加しました。
Numquam et ille miser, cui facile est mori.
セネカの言葉です。