山下です。
本日のラテン語クラスでは66節を読みました。
原文(ラテンライブラリーから引用)と逐語訳をメモ代わりに記しておきます。
66. Avaritia vero senilis quid sibi velit, non intellego;
老人の貪欲さが何を自らに求めているか、私は理解できない。
potest enim quicquam esse absurdius quam, quo viae minus restet, eo plus viatici quaerere?
というのも、人生行路の残りが僅かになるほど、路費をいっそう多く求めること以上に愚かなことは、何がありえようか。
XIX. Quarta restat causa, quae maxime angere atque sollicitam habere nostram aetatem videtur, adpropinquatio mortis, quae certe a senectute non potest esse longe.
我々の年齢をもっとも苦しめ、不安なものにしているように見える第四の原因が残っている。死の接近である。死は確かに老年から遠いものではありえない。
O miserum senem qui mortem contemnendam esse in tam longa aetate non viderit!
おお、みじめな老人よ、これほど長い年齢の中で死が軽視すべきものと悟れなかったとは。
quae aut plane neglegenda est, si omnino exstinguit animum, aut etiam optanda, si aliquo eum deducit, ubi sit futurus aeternus; atqui tertium certe nihil inveniri potest.
死はあるいは明らかに無視すべきものである、もしも魂を完全に消滅させるものであれば。(死は)あるいは望ましいものでさえある、もし魂が永遠に存在するような別の場所に魂を導くのであれば。そして第三(の可能性)は確かに見出しえない。
山下です。
中学1年生の数学はとても大事だと思います。ここでがんばるか、手を抜くかでその後6年間の学校生活の印象ががらっとかわるでしょう。数学はブロックを積み上げるようなものなので、基礎がぐらつくとその後の展開は推して知るべしです。具体的にどう勉強すればよいか、私の見解を以下にまとめます。
中学1年生の数学に、文字を式に直す問題がありますが、小学校の算数の知識が大きくものを言います。
たとえば、時速x と距離 y と時間が与えられている問題で、その時間のデータが分(40分)と示されている場合、単位の変換がわかっていないと正解は導けません。
速度、距離、時間の関係も小学校で既習事項です。中学では、これらの知識を組み合わせて新しい考え方に導く場となっています。
おそらく一人で勉強していて「40分は3分の2時間と変換しないといけない」ということに「はっ」と気づくのは難しいでしょう。
間違って、指摘されて「はっ」と気づく仕組みです。間違うためには、しっかり予習しておかないと「はっ」とする経験は味わえません。
一方、このように「はっ」と気づくもう一つの(より根本的な)前提として、単位の変換について反射的に計算ができる状態をつくっておかないといけません。
このような知識がしっかり定着している段階で、中学で学ぶ勉強が「理解」できるスタートラインにたったことになります。
この段階で必要なことは、「考える」より「覚える」ことです。上であげた中学校の練習問題についても、日頃から典型的な解法の手順を「暗記」できるまで繰り返し問題(教科書で十分)に当たらないとダメです。
この段階に達した生徒にとって、日頃の勉強を次のように工夫する必要があります。
1 学校で学ぶ教科書の問題を必ず予習する。
2 その際、できた問題とできなかった問題を区別しておく(問題に印を付ける)。
3 授業をしっかり聞く。ノートをきちんと取る。
4 家に帰り、2の段階でできなかった問題をもう一度やり直す。
5 それでもできなかった問題には、特別の印を問題番号につけ(◎など)、ノートを参照し、解法を暗記する。
4に絞ってできるまで時間をあけて問題をやり直す。
以上の手順は、日頃学校から家に帰ったら必ず行う習慣にする。
これを習慣にすれば試験前の勉強であわてることは何もないはずです。現実と理想は違うとはいえ、本来どう勉強を進めればよいかが、生徒たち、その親にとってあまりにばくぜんとしているように思われたので、思うところを書いてみました。
また、このことを子どもたちに実践させ、本当の習慣になるまで応援し続けることが山の学校の基本スタンスだと我々スタッフは認識しています。(ですね?>ALL)
漢文は、学校教育ではもう廃れつつある存在のようです。
漢文の時間が英語に振り分けられているような勢いでしょうか…。
まあそれも時代の流れといえばそうなのでしょうけれども、
日本文化のまちがいない一部分である漢文(古典中国語とは
また違いますので)を、教養という形ででも学ぶことは
大切だと思います。
さすがに今でも、漢文を学ぶ機会は比較的市井にあるようですね。
秋学期をふりかえって
ことばの1年生クラスも秋学期の全日程を終えました。(火曜日はお休みとなりますのでご注意下さい。)
また12月から心機一転楽しく取り組んでいきたいと思っています。
9月以降、色々定番のスタイルを模索してきましたが、最近は次のようなスタイルで進めています。
以下、簡単にご報告をさせていただきます。
1 お話タイム
この1週間のできごとについて、5分間のお話タイムを設け、順番に発表します。
バラバラに思いついたことを口にするのではなく、手を挙げて順番に発表する時間を設けることで、適度の緊張の中、自分の言いたいことをまとめて発表する自信と、友達の発表に耳を傾ける習慣を身につけることをねらいとしています。
このお話タイムの発展形として、いずれは5分間でみんなに話したい内容を紙に書く(つまり作文)形式も取り入れようとタイミングを見計らっているところです。
2 俳句の書き取りと音読。
俳句は、毎回一句ずつ覚えています。
内容を暗唱した上、俳句の17文字をノートに5回書き写すことを課題としています。
早くできた人は、ホワイトボードに書いてもらいます。
前回は、すでに扱った複数の俳句を全部ホワイトボードに書き出し、一人ずつそれを見て音読してもらいました。
暗唱ではなく、見ながら発声するという点が今までとは違う点です。
今考えていますことは、教科書の音読に自信をもっていただきたい、ということなので、その前段階として、すでに覚えている内容(今の例では俳句の言葉)を文字で見てそれを発声するという形であれば、無理のない導入ができるのではないか、と考えているところです。
ちなみに、秋学期に扱った俳句は次の通りです。
雲おりおり 人を休むる 月見かな 芭蕉
今日からは 日本の雁ぞ 楽に寝よ 一茶
山はみな みかんの色の 黄になりて 芭蕉
猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶
行く秋や 手を広げたる 栗の毬 芭蕉
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺 子規
3 絵本の時間
最近、こどもたちが家から絵本を持ってきてくれることを嬉しく思います。
多少多くても、持ってきてくれた絵本を優先して読んでいます。
子どもたちは、この絵本タイムが大好きで、ものすごく集中して聞いてくれます。
読み終わってから内容について尋ねるのですが、本当に細かなところまでよく覚えているので驚かされます。
<全体をふりかえって>
あっという間に予定の時間が過ぎてしまうので、いつも時間配分に一番気を遣います。
同時に、内容に関してもあれをすればよかったとか、これもしてみたい、とか悩みはつきません。
今気になる点としては、子どもたちの書く文字のことです。筆順にも気をつけて、マス目の上で正確に書き写す練習を丁寧にしたいと思いながら、中々細かなところまで指導が行き届かないことを反省しています。
また、本を声に出して読む練習が不足している点も気になると言えばなるのですが、私自身の経験に照らしたとき、何かを上手に表現する練習の前に、何かを深く大きく感じ取る経験をたくさん積むことが大切なのだろうと思いますので、今は子どもたちが「ことば」をめぐる各自のイメージを楽しく豊かに大きくふくらませてもらえたら、と願っています。
「中学英語プレ授業」のご案内
中学に入ってつまずきやすいのが英語の勉強です。
「山の学校」では昨年に続き「中学英語プレ授業」を企画しました。
4月から積極的に英語の勉強に取り組めるための準備をしたいと思います。
辞書の選び方、引き方についても丁寧にご指導致します。
ふるってご参加頂きますようご案内させて頂きます。
記
○ 対象:平成18年度中学一年生
○ 日程:全5回、水曜日、午後6時40分~8時
1月 11,25(水)
2月 8,22(水)
3月 8(水)
○ 講師:山下太郎
○ 場所:山の学校教室
○ 費用:7,500円
○ 申し込み締め切り:
12月20日まで、費用を添えてお申し込み下さい。
○ 申し込み場所・問い合わせ先:
606-8273 北白川山ノ元町41
山の学校 TEL 781-3215 / FAX 781-6073
公立高校受験「数学冬期講習」のご案内
各位
「山の学校」では下記の要領で数学の実力アップを目指す冬期講習を開催します。
内容は、前半40分で京都府公立高校入試の数学の問題を解き、後半40分でその解説を行います。
最終日には、予想問題を解いてもらって解説することにします。
数学が苦手な人も得意な人も、最後に鍵を握るのは自力で問題に取り組む姿勢です。
この講習では勉強のこつを丁寧に教えながら、最終的に自分の力でしっかり勉強に取り組む姿勢を持っていただけるようにご指導いたします。
○ 対象:中学3年生(京都の公立高校進学希望者)
○ 期間:12月25日(日)~27日(火)
○ 時間: 午前9:00~10:20、10:40~12:00
○ 講師:下村昭彦(山の学校数学講師)
○ 場所:山の学校教室
○ 費用:15,000円
○ 申し込み締め切り:
12月20日まで、費用を添えてお申し込み下さい。
○ 申し込み場所・問い合わせ先:
606-8273 北白川山ノ元町41
山の学校 TEL 781-3215 / FAX 781-6073
山下です。
本日、中1の補習を行います。試験直前なので、英語と数学の仕上がりをチェックします。
試験では、なんとか納得のゆく点数をとってほしいと願っています。
山下です。
私のHPではラテン語の情報を載せていますが、そこではラテン語文法の解説を行っています。
その内容に準拠した「ラテン語アクセント問題」があり、昨日満点の方が現れました。
匿名で参加できますので、腕試しにどうぞ。
前回の続きです。自分用のメモでもあります。いずれHPにアップします。
Tityrus
Urbem quam dicunt Romam, Meliboee, putavi
stultus ego huic nostrae similem, cui saepe solemus 20
pastores ovium teneros depellere fetus.
sic canibus catulos similes, sic matribus haedos
noram, sic parvis componere magna solebam.
verum haec tantum alias inter caput extulit urbes
quantum lenta solent inter viburna cupressi. 25
ティーテュルス
メリボエウスよ(Meliboee)、愚かなわたしは(stultus ego)、人がローマと呼ぶその町を(urbem quam dicunt Romam)、このあたりの町と同じようなもの (huic nostrae similem) と勘違いしていた (putavi: 考えた)。
われわれ(動詞 solemus から主語は nos となる)牧人が(pastores)しばしば (saepe) 幼い (teneros) 羊の(ovium)子どもたちを(fetus)追い立てていく(depellere)のを常とする(solemus)ような町と。
#cui (20)について。先行詞は huic nostrae urbi で「我々牧人が羊の子どもたちを(そのために)追い立てる(ところの)町」
別の読みでは quo となっている。
そのように(sic)、子犬は (catulos: 対格不定法の意味上の主語) 犬と (canibus) 似ており(similes)、子山羊(haedos)は母山羊と(matribus)(似ている)と思っていたし(noram: nosco の過去完了・1人称・単数)、私は、大きなものを(magna)小さいものから(parvis)作り上げるのを(componere:構成する)常としていた(solebam)。
#最終行の解釈:「大きなものが小さいものからできていると想像する」=「ローマという大きなものも、小さいもの(=田園世界)を拡大したものと想像すること。大きなものと小さいものとの間には、類似性があると信じること。
だが(verum)、この都市(haec: ローマ)は他の(alias)都市の間でも(inter...urbes)quantum 以下ほど、それほど(tantum)頭を(caput)高く掲げていた(extulit:くらべものにならないくらい抜きん出ていた)、すなわち、しなやかな(lenta)柳の間で(inter viburna)糸杉が(cupuressi)(頭を高く掲げるのが)常であるほどに(quantum...solent)。(25)
Meliboeus
Et quae tanta fuit Romam tibi causa videndi?
メリボエウス
では(Et)おまえにとって(tibi)ローマを(Romam)見にいく(videndi: 動名詞・単数・属格)それほどの(tanta)理由は(causa)何(quae)であったのか(fuit)?(26)
Tityrus
Libertas, quae sera tamen respexit inertem,
candidior postquam tondenti barba cadebat,
respexit tamen et longo post tempore venit,
postquam nos Amaryllis habet, Galatea reliquit. 30
namque - fatebor enim - dum me Galatea tenebat,
nec spes libertatis erat nec cura peculi.
quamvis multa meis exiret victima saeptis
pinguis et ingratae premeretur caseus urbi,
non umquam gravis aere domum mihi dextra redibat. 35
ティーテュルス
「自由」だ(Libertas)。「自由」は(quae)しかし(tamen)遅まきながら(sera)、ぐず(のわたし)に(inertam)振り向いたのだ(respexit)。
(髭を)切り落とす者に(tondenti:barber のこと)髭が(barba)より白くなって(candidior)落ちるようになってからのこと(postquam: ~の後に)。
#postquam 以下の内容を説明すると、「散髪屋が髭を切り落とすと、その髭に白いものが混じって散髪屋の足下に落ちるようになってから(=年老いてから)」という意味。
しかし(tamen)(「 自由」は)(わたしに)振り向いたのだ(respexit)。つまり(et)長い年月の後(longo post tempore)訪れたのだ(venit)。
(それは)アマリュリスが(Amaryllis)わたし(の心)を(nos: 一人称単数の代用)とりこにし(habet:原義は「持つ」)、ガラテアが(Galatea)去って(reliquit)からのこと(postquam)。(30)
というのも(namque)、実際(enim)白状するが(fatebor)、ガラテアがわたしを(me)とらえて放さぬあいだ(dum...tenebat)、(わたしには)自由の(libertatis)希望も(spes)、金銭への(peculi)執着も(cura)まるでなかったのだ(nec...nec...erat)。(32)
たとえどんなに(quamvis)多くの(multa)犠牲獣が(victima)わたしの(meis)家畜小屋から(saeptis)出ていこうと(exiret)、恩知らずの都会のために(ingratae...urbi)たっぷり(pinguis)チーズが(caseus)圧搾されようと(premeretur)、わたしの(mihi: 私にとっての=私の)右手が(dextra)銅貨で(aere)重くなって(gravis)家に(domum)戻ることは(redibat)ついぞ(umquam)なかったのだ(non)。(35)
Meliboeus
Mirabar quid maesta deos, Amarylli, vocares,
cui pendere sua patereris in arbore poma.
Tityrus hinc aberat. ipsae te, Tityre, pinus,
ipsi te fontes, ipsa haec arbusta vocabant.
メリボエウス
わたしはよく驚いたものだ(Mirabar)、アマリュリスよ、どうして(quid)悲しげな顔で(maesta)、おまえが神々に(deos)祈りをささげているのかと(vocares)。
誰のために(cui)木に(in arbore)その果実(リンゴ)が(sua...poma)垂れ下がるのを(pendere)あなたは許しておくのか(patereris)と。
ティーテュルスがここ(家)から出たからなのだ(aberat)。ティーテュルスよ、松の 木自身も(ipsae...pinus)、泉自身も(ipsi...fontes)、この(haec)果樹園自身も(ipsa...arbusta)おまえを(te)何度も呼んでいたというのに(vocabant:未完了過去ゆえ過去の反復的行為を表現している)。(39)
英語を聞く力の習得ですが、やっぱり「耳慣れ」と「継続」が必要です。
一番良いのは、NHKのラジオ講座です!
私は耳の訓練については、高校3年間(毎日ではないけれども)聞いていた
NHKのラジオ講座のみですが、大学入試や英検などで困ったことは一度も
ありませんでした。初めての海外旅行も28歳でしたが、これも聞き取りで
困ったことはありません。
やはり、若い時期に耳を慣らすことは重要だと思います。
実は、比較的規則的な生活を送っている中学・高校時代のほうが
こういう定期的な放送は聞きやすいんですよね。
だまされたと思って、続けて半年聞いてみませんか。
何かが、きっと変わります。
英語でもの足らない人は、他の言語に挑戦するとか。
私は高校生の時、やはりNHKのフランス語講座を聴いてました。
秋学期はいろいろありましたが、11月分も終了しました。
11月については、すでにある程度文法を履修済みということで、
テキストを10課ずつ程度進めて文法の要点をチェックしていきました。
講義の後半は、実際のテキストを文法的に丁寧に解析しながら
読んでみる、という方法でした。
この講義は、「ラテン語講読C」に続く予定です。
"AE"という綴りは、ちょっと古い英語の本などを見るとくっついた文字で表記されていることがあります。
例: encyclopaediaとか
もともとのラテン語では「あえ」と両方発音していたと思われますが、
現代語では単純に「え」とか「いー」と発音します。
例: aegis→「イージス」
では、「ドラエもん」はどうなるでしょうか?
Doraemon →「どれもん」or「どりーもん」(笑)
となります。ちなみに私の名前「前川」は…
Maekawa →「めかわ」or「みーかわ」(^^ ;)
となります。実際には「めかわ」と呼ばれたことが何度もあります。
山下です。
秋学期は今週がラストです。(火曜日のクラスは29日が一回お休みになります。)
12月から冬学期です。日程表を差し替えておきました。
山の学校のことばクラス、昨日が秋学期の最終日でした。
早いなあ、という気持ちでいっぱいです。
講師の側としても不完全燃焼の感がありますが、秋学期のまとめです。
まず春学期から実施している学習記録表ですが、少人数クラスの利点と思いますが、提出率はかなり良いです。
(一週間分まとめ書き?と思うようなのもちらほら…筆跡でばれます^^;)
毎日どんなことがあったか、何をしたか、記録しなければ忘れられていくものばかりです。
小学生クラスの記録表の日記欄は、ほぼ「毎日の記録」で、学校で勉強したこと、友達と遊んだこと、家族でお出かけしたこと、ひとことづつですが、大切な思い出の痕跡となって記されています。
中学生クラスになると、そこには、一週間を振り返って「勉強時間が少なかった」「部活を頑張りたい」また「来週○○があるから、頑張りたい」といった、記録だけではなく、青春を満喫していることがビシビシと伝わってくる、エネルギッシュな内容が多くなり、また反省や目標が書かれるようになります。自分が頑張ったことは何か、足りないことは何か、単なる一日の記録からは離れて考えるようになっているみたいです。過去の記録の振り返りもするようになります。「最初のころはこんなこと書いてたんや」と。一週間ごとにだんだん省略記号が多くなっていくことが明らかとなりました。
高校生クラスでは、一日一日の記録はほとんどなくなり(メモ程度)、今考えていることや、その一週間に何があったか、また将来についても、より大きな時間の捉え方で感想や意見を書くようになります。
幅広い年齢(小学6年生から高校2年生まで)を担当しているからでしょうか、こうした変化がとても興味深く思えます。本人達は意識していないでしょうが、時間の捉え方の変化というか。
それから、保護者通信欄が、学習記録表と秋学期まとめおたよりのファイルに綴じこんであります。ここにコメントや講師への要望など、率直にお書きになって、冬学期初日にファイルごとお持ち下さい。
授業ですが、秋学期は小中学校のクラスでは漢字の習得に力を入れ、毎回漢字検定4級の問題を、本来の制限時間の半分の時間(30分)で解答をしてもらいました。
最終日までで全10回の問題を解き終えたことになります。冬学期初日まで一週間空きますので、第11回分を宿題として持たせてあります。辞書を使って調べて解答してかまいませんので、満点とれるくらいしっかりやってきてください。
練習問題を4回終えるごとに復習として確認テストを行い、解きっ放しにならないように配慮をしました。
また問題集はまだあと数回分残っていますので、冬学期も引き続き漢字練習を行います。問題集が終った後は、復習の確認テストを何回かに分けて行う予定です。確認テストは復習した成果が出るように各回からまんべんなく同じ問題を抽出していますが、復習ができているところに関しては、順調に成果が出てきていると思います。
取り組んでいる問題のレベルは、少し前の学習指導要領の改訂のため、小中学校の現状と比較するとやや高めのようですが、初見で全問正解することではなく、復習して出来るようになることが大切ですので、確認テストで学習のあゆみを振り返りながら、さらに学習を進めてください。
テキストについては、漢字検定の問題を解いた後の残り時間すべてを使って、まず音読を行い、その内容について対話を行っています。春学期は小中両クラスとも要約練習を中心に学習していましたが、秋学期は小学生クラスは引き続き要約・まとめの練習、中学生クラスはテキストの内容そのものに関して、記述するよりはもっと気楽に自由に意見できるような授業にしました。
もちろんそれだけではなく、中学生クラスでは、記述の問題を行うときには、生徒同士で答案を交換し、その内容について互いに意見する、それらに対して講師からコメントとアドヴァイスをする、というパターンで行っています。高校生クラスで生徒と講師とで同じことをしていますが、中学生クラスでは、生徒同士の意見交流が人数の関係上可能なので、出来るだけとり入れるようにしています。
高校生クラスは、一年後の入試を控えて、進路相談も多くなってきました。僕の持っている情報は4年も昔のものなので、どれだけ適切なアドバイスになっているか不安なところもあり、いまさら大学入試センターや各種予備校のHPなどを見たりしていますが、学習内容の根本的なところは変更なさそうですので、少しずつ対策していきます。
野村克也監督の言葉ですが、努力に即効性はありません。いますぐに努力の結果がでなくても諦めずに地道に頑張ってください。
ではまた、冬学期に。頑張りましょう。
知人からこんな話を聞きました:
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剣道(に限らないかもしれませんが)において「守・破・離」 という言葉があります。
「守」は「師の教えを守り、忠実に基本を体に染み込ませること」
「破」は「基本を踏まえたうえで、自分なりのものを見つけてゆくこと」
「離」は「師、仲間から教えられる立場から離れ、誰かに教えられるようになっていくこと」
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勉強も同じではないかと思います。小・中・高校の勉強は、「守」でしょう。
大学で「破」となり、大学院以上で「離」となるように思います。
まずは「守」をきっちり行うことが、「破」「離」の基礎になることは
間違いありません。
「ラテン語入門」の講義において、「辞書での形容詞の見出しの見方がよくわからない」との
意見がありましたので、形容詞の基本3パターンを整理しました。
1)第一・第二活用型 -us, -a, -um
2)第三活用i幹(omnis型)-is, -e ←二つ目は中性単数主格の形
3)第三活用混合幹(felix型) --, -is ←二つ目は単数属格の形
2)と3)に違いがあるということに気づかずに悩んでいた、
とのことでした。私もぜんぜん考えたことがないポイントでした。
見た限り、『羅和辞典』の凡例にもこのような記載はないようです。
山下です。
今日は、「ちびゴリラのちびちび」の前半の書き取りをしました。
絵本は1ページにつき2,3行の文章しか載っていません。
10ページ集めると、ちょうど2,30行になります。
私が手書きで筆写したもののコピーを子どもたちに渡し、それを手でノートに書き写してもらいました。
速くできた子どもには、ホワイトボードで同じ事を繰り返してかいてもらいました。
そのあとで、子どもたちに音読してもらおうという作戦だったのですが、時間がなくなってしまいました。
一人の子どもが家から絵本を持参してきてくれました。「ちいさいおうち」という本です。
結構長い作品です。これをぜひ読みたかったので、どうしても時間が足りなく感じていました。
最初から最後まで読み通しました。
前半はちょっと子どもたちにはたいくつかなと思いながら読みましたが、後半に入り、どんどん内容が具体的でわかりやすくなり、自然と都会生活という対立が子どもたちにもリアリティをもって感じられるテーマのようで、「わぁーかわいそう!」とか合いの手もはいり、読みながらうれしく感じました。
よい本はよいです。
#ウェルギリウスの『農耕詩』に出てくる「農耕賛歌」のようなテーマの本だと思います。
ちいさいおうち
ばーじにあ・りー・ばーとん いしい ももこ 
山下です。
今日は夕焼けがきれいでした。夕日の沈む位置がだいぶ南になりました。
明日もよい一日でありますように。

unit 5 も unit4 のように何度も書いて、発音して丸ごと覚えてください。>参加者
どんな紙でもよいから最初はあまり覚えようと短気を起こさず、何枚も紙を使う必要があります。
ミスコピーなどの用紙があると精神的にのびのび書けます(私はそうでした)。あと、広告の裏面もつかえますね。
部分事にわけて覚えてもよし。ただし、ある段階で最初から通して書けるか、練習してみる。
あるいは、最初から最後まで通してできるか、暗唱の確認をしてみる。
今の教科書は昔に比べて文字の量が圧倒的に少ないのです。
だったら、全部丸ごと頭に入れておきましょう。
試験は不安ですが、試験中に教科書を開くことは許されません。
しかし、事前に教科書を頭に入れておけば、こわいものなしです。
自分で自分に負荷をかけ、達成できる喜びをぜひ味わってください。
以上、激励にかえて。
山下です。
ラテン語ネタが続きます。
水曜日の授業で、たまたまテレンティウス『兄弟』の内容が話題に上りました。
その際、簡単に作品の内容を解説しましたが、十分とは言えず、いい足らない面が多々ありました。
私が翻訳したさい、作品につけた解説があります。
参考にしてください。今読み返したのですが、内容的に、中々オリジナルな解説になっていると思います(笑)。
解釈としては、英語の論文もかきました。
これは10年前にシエナ大学で発表したときのものです。
ほんとに、この作品はどこかで上演してもらいたいものです。
しみじみとした人情味あふれる作品です。
--
ローマ喜劇集〈5〉
テレンティウス 木村 健治 谷 栄一郎 
山下です。
昨日の読書メモをかねて。いずれ化粧直しをしてHPにアップすると思います。
『牧歌』第1歌(訳)
「土地没収」
Meliboeus
Tityre, tu patulae recubans sub tegmine fagi
silvestrem tenui Musam meditaris avena;
nos patriae finis et dulcia linquimus arva.
nos patriam fugimus; tu, Tityre, lentus in umbra
formosam resonare doces Amaryllida silvas. 5
メリボエウス
ティーテュルスよ(Tityre)、おまえは(tu)枝を広げた (patulae) ぶなの木の (fagi) 覆い (tegmine) の下に (sub) 横たわりながら (recubans) 、ほっそりした (tenui) 葦笛で (avena) 森の調べを (silvestrem...Musam) 吹こうとしている(meditaris)。
このわしは (nos) 愛する (dulcia) 土地を (arva) 離れ、祖国の (patriae) 国境を (finis) 去ろうというのに (linquimus)。(※ nos は ego の代用。「私は祖国の国境と愛する土地を離れる。」が直訳。)
それもこれも祖国から逃れるためだ (nos patriam fugimus)。だが汝(tu)、ティーテュルスよ (Tityre)、おまえはのんびりと (lentus) 木陰で (in umbra) 美しい (formosam) アマリュリス (Amaryllida) (の名)を響かせるように (resonare) と森に(silvas)教えている (doces)。(5)
Tityrus
O Meliboee, deus nobis haec otia fecit.
namque erit ille mihi semper deus, illius aram
saepe tener nostris ab ovilibus imbuet agnus.
ille meas errare boves, ut cernis, et ipsum
ludere quae vellem calamo permisit agresti. 10
ティーテュルス
おお、メリボエウスよ(O Meliboee)、この閑暇は (haec otia) 神(=オクタウィアーヌスを暗示)のたまものにほかならない (deus nobis fecit)。
(※「神が(deus)私たちに(nobis)これらの(haec)閑暇を(otia)作った(fecit)」が直訳。)
実際(namque)かの人は (ille)、いつまでも (semper) わたしの (mihi) 神 (deus) であるだろう (erit)。
かの人の (illius) 祭壇を (aram) 我々の囲いの中から (nostris ab ovilibus) (選んだ)幼い(tener) 羊が(agnus)何度も(saepe)血で濡らすだろう (imbuet)。
かの人は(ille)、わたしの牛たちが (meas...boves) さまよい歩き(errare)、おまえも見ているように (ut cernis)、わたしが田園の (agresti) 葦笛で (calamo) 欲するとおり(quae vellem; (直)私の欲すること) 歌にするのを (ludere: 原義は「遊ぶ」、転じて「歌を作る」) 許されたのだ(permisit)。(10)
Meliboeus
Non equidem invideo, miror magis; undique totis
usque adeo turbatur agris. en ipse capellas
protenus aeger ago; hanc etiam vix, Tityre, duco.
hic inter densas corylos modo namque gemellos,
spem gregis, a, silice in nuda conixa reliquit. 15
saepe malum hoc nobis, si mens non laeva fuisset,
de caelo tactas memini praedicere quercus.
sed tamen iste deus qui sit da, Tityre,nobis.
メリボエウス
実は(equidem)わたしは妬(ねた)んでいるのではなく(non...invideo)、不思議でならないのだ (miror magis)。
いまや四方八方 (undique) すべての(totis)農地で(agris)大変な(usque adeo)騒乱があいついでいる(turbatur)。
見てくれ (en)、わしは(ipse)悲しみに暮れて (aeger) 山羊を (capellas) 追い立てていく (protenus...ago) 。
ティーテュルスよ(Tityre)、これなんかは(hanc: capellam が省略)断腸の思 いで(vix)連れていくところなのだ (duco)。
(※vix は英語の hardly 同様「ほとんど・・・ない」を意味する。「ほとんど連れて行くことができない。」というのが直訳。)
この(hic)ハシバミの茂みで (inter densas corylos: (直)「ここ(すなわち)濃いハシバミの中で」) たった今(modo)(母山羊は)ふたご(の仔山羊)を(gemellos)、この群れの希望を(spem gregis)産み落としたのに(conixa)、ああ (a)、はだかの岩の上で(silice in nuda) 捨ててきたのだ (reliquit)。
わしの頭さえおかしくなければ (si mens non laeva fuisset)、しばしば (saepe) この災いについては (malum hoc)、 天から(雷に)打たれた樫の木が (de caelo tactas...quercus) われわれに(nobis)予言していたと(praedicere)思い出す (memini)。
だが(sed)、おまえのいう (iste) 神とは (deus) いったいだれなのか (qui sit)。ティーテュルスよ (Tityre)、われわれに(nobis)教えてくれないか (da)。(18)
昨晩は65節を読みました。
以下覚え書きの試訳です。
65. At sunt morosi et anxii et iracundi et difficiles senes.
だが老人は(senes)頑固で心配性、怒りっぽく気むずかしい。(と反論するだろう。)
Si quaerimus, etiam avari; sed haec morum vitia sunt, non senectutis.
もし求めるなら、どん欲で(avari)さえある。だが、これらは(haec)
(個々人の)性格の欠点であり、老年(に共通)の欠点ではない。
Ac morositas tamen et ea vitia, quae dixi, habent aliquid excusationis non
illius quidem iustae, sed quae probari posse videatur; contemni se putant,
despici, inludi; praeterea in fragili corpore odiosa omnis offensio est.
しかし(tamen)頑固さや今私の述べた(dixi)欠点(vitia)はある種の弁解の余地を有している(直訳は「言い訳の幾分かを持つ」)。かの正当な(justae)弁解でなく、是認されうると(probari posse)見なせるような弁解であるが。すなわち、老人は自分が(se)馬鹿にされ、軽蔑され、笑いものにされていると思っているし、さらに(praeterea)脆弱な肉体においては(in fragili corpore)すべての攻撃が(omnis offensio)憎むべきもの(odiosa)となる。
Quae tamen omnia dulciora fiunt et moribus bonis et artibus; idque cum in vita, tum in scaena intellegi potest ex eis fratribus, qui in Adelphis sunt.
だがこれら(quae)すべて(の欠点)は(omnia)立派な生活態度や(moribus bonis)生きる工夫によって(bonis...artibus)(周囲にとって)受け入れやすくなる(dulciora fiunt)。そしてこのことは(idque)、実人生においてだけでなく(cum in vita)舞台においても(tum in scaena)『アデルポエ(兄弟)』に出てくるあの兄弟の例から(ex eis fratribus)理解されうるだろう(intellegi potest)。
今日のラテン語にはいろいろな格言が出てきます。
Non scholae sed vitae discimus. (学びは、学派のためでなくおのが人生のために。)
私はこれをひきあてました。
先日の「ラテン語の夕べ」でもこれが一番という方がいらっしゃいました。
そのときは、schola は「学校」と説明しましたが、元来は「学派」の意味で使われています。
なんらかの主義主張を正当化するための手段となる学びではなく、主役は自分なのだ、と確認することは、大切だと思います。
山下です。
タイトルの本がミネルヴァ書房から発売されました。
中学、高校生にぜひ読んでいただきたい内容だと思いました。
漢字だらけの概説書のイメージはふっとぶと思います。
中学・高校生が質問しそうな人生や世界についての質問がQとなり、そのAに当たる部分を紹介している哲学者の文献から引用してあり、さらに執筆者がその引用文の補足を行っています。
キケローの紹介もあるのが◎です(笑)。
「生涯と思想」の冒頭には、
「・・・しかし欧米においてはそうではなくて、キケローは「知ってて当然」にランクされるビッグネームなのだということをまず知っていてほしい。」とあり、思わず快哉を叫びたくなります。
思えば・・・。「神々の本性について」を訳したころ、大学の新年会で「キケロー?キロロなら知ってますがなぁ(あはは・・)」と一笑に付した先生もいらっしゃいましたが。(当時キロロの曲が流行っていた)
フランス人の先生とジョイントで授業することが当時あり、200人くらいの学生を前に「キケローを知っている人?」と聞くとゼロ。その結果に、その先生は目を丸くして驚いていたのが忘れられません。
私はお返しに?「ファーブルを知っている人?」と聞くとほぼ全員が手を挙げたのに二度びっくり。
フランスでは、小学生でもキケロー(シセロン)の名は有名。大学生なら知らない者はいない、とのこと。一方、ファーブルは自分も知らなかったそうです。
はじめて学ぶ西洋思想―思想家たちとの対話
村松 茂美 長友 敬一 小泉 尚樹 
山下です。
本日の授業メモです。
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1 お話タイム
この1週間のできごとについて、5分間のお話タイムをもうけ、順番に発表する。
私も手を挙げて、日曜日に小学校に参観に行ったこと、そこでみんなにあえてうれしかったことをお話しする。
2 俳句の書き取りと音読。
ホワイトボードに秋に習った俳句を4句順番に板書。
子どもたちはノートに筆写する。
順番に立って、ホワイトボードの文字を見ながら音読する。(今までは暗唱。今日は音読。)
1句ずつ言えることを確認した後、ホワイトボード上のすべての句を上から下まで通して音読してもらう。(負荷が高くなる。)
ねらいは、教科書の音読につなげること。
3 絵本の時間
「ちびゴリラのちびちび」を読む予定。
生徒の持参した絵本2冊を読む形に。「ちびゴリラ」は来週回し。
以上。
山下です。
先日のアンケートを読ませていただきました。また次回の参考にさせていただきます。
ご紹介します。
(順不同)
・非常に有意義に聞かせていただきました。
・学生時代には「ラテン語入門」をほとんど一通り終えたのですが。時間がありさえすれば『ガリア戦記』などを自由に読みこなせる位にはなりたいと思っています。
・Mors certa, hora incerta. 生涯青春中!
・「日本人は外国語というと英語という人が多すぎる」という話を授業でなさっていたことを思い出しました。英語から離れられるといいなと思うのですが。
・色々文法事項を思い出しては、まったく身に付いていないことがわかりました。何とか継続し勉強できればと思います。
・ラテン語・ギリシア語がどのように現代に受け継がれているのか。言語の歴史がわかるかなと思って参加しました。なぜラテン語があるのか不思議でした。ラテン人はいない、ラテンという国はないと思っていました。それが最初のお話で少しわかりました。
・温故知新の心境です。
・難しいけれど、楽しかったです。
・なぜ古代ラテン人は詩人や哲学者が多いのでしょうか?ヨーロッパ人以外では、あまり哲学思想家とか聞かないですね。
・参加させていただき感謝します。先生なのにいばらなくて偉いと思いました。ゆっくり学んでいきたいと思いました。
・NHKでお世話になりました。これからも勉強します。
・ラテン語の有機的なつながりが少しわかった気がする。早くわかりそうな気がする。
山下です。
アクセントの確認テストをバージョンアップしました。
アクセントの解説の内容とぴったりあわせてありますので、復習になると思います。
山下です。
ラテン語のアクセントについて、以前書いたものを手直ししました。
内容はとてもくどいです(笑)。これでわからないことはないだろう、と思っています。
でも、わからない!という方は、ふるってメールでお問い合わせ下さい。
山下です。
おそまきながらキケローのページを少し手直ししています。
これはやり出したらきりがないので、今は文献案内と、有名な言葉のご紹介にとどめたいと思います。
あと、ウェルギリウスも同様に手直ししたいと思っています。
山下です。
雨の降る中を20名以上の方がお越し下さり、本当にありがとうございました。
次回は二月下旬か、三月上旬に開催を予定しています。
私自身、ラテン語に関心をお持ちの方々とお会いし、さまざまな質問をしていただけることが楽しく、次回もたくさんの人とtお会いできることを楽しみにしています。
山下です。
今日はPCなどを使わずにプレゼンします。サイトの紹介などは、いずれまた。(>前川先生)
ホラーティウスの詩の紹介まで踏み込めたらと思っているのですが、たぶん時間切れになるかも。
山下です。
本日午後八時からラテン語の夕べを開きます。
何人こられるのか、ラテン語をどのくらい学ばれた方々なのか、あるいは、今日初めてラテン語と出会われるのか?まったく未知数なのですが、できるだけ皆さんのご関心にこたえることができるようにと思って準備を進めているところです。
ご参加になれない方でも、何かご質問とかありましたら、これを機にコメントをどうぞ。
山下です。
「1年間のラテン語通信講座を振り返って」と題する受講生の声を「クラス紹介」にアップしました。
山びこ通信11月号(pdfバージョン)ができました。今回は盛りだくさんのクラス紹介を載せた増刊号です。ぜひご一読ください。
1 おしらせ
2 クラス紹介
・小学生
・中学生
・高校生・一般
3 連載・「ラテン語をなぜ学ぶか」
4 読書案内「私の一冊」
5 青春ライブ授業!レビュー(前川先生の回)
6(別紙) 入会・継続用紙
山下です。
水曜日はキケローの『老年について』を読んでいます。
今日は予定通り、64節の最後まで進みました。
内容と表現の両面で「濃い」一節でした。
前節でスパルタでは老人が重んじられている例が紹介されていたのですが、その老人は決して auctoritas の備わった人間としての exemplum ではなかった、と今日気づきました。
単に、quidam...grandis natu (ある老人)と呼ばれ、精神的な卓越性に関しては何も語られていないのが、今日読む箇所の伏線であったと思いました。
そこではむしろ、老人を重んじる態度を示したスパルタ人の立派さが強調されています。
64節では、ローマの例が紹介されます。ここでは名もない老人ではなく、auctoritas (権威)を備えた老人が周りから尊敬される例があげられています。
つまり、先に見たスパルタの例のバージョンアップです。(敬う側の態度も立派である――少なくとも前節で見たように、理屈しかこねないアテーナエの人間よりも――が、尊敬される側にも相応の人間的卓越性が備わっている例となる。)
自然に年を取るだけでも尊敬される例(スパルタ)もあるが、ローマではそれに加えて、精神的な立派さを備えた老人が周囲に尊敬される例には事欠かない、と話が発展していくのです。前節の例は話の前振りだったわけです。
ちなみに今日読んだ箇所の締めくくりはこうです。
Quae sunt igitur voluptates corporis cum auctoritatis praemiis comparandae?
それゆえ(igitur)いかなる(quae)肉体の(corporis)欲望が(voluptates)権威の(auctoritatis)褒美(praemiis)と(cum)比較されえようか?
※auctoritatis の属格は「同格の属格」とみて、「権威という褒美」と訳すこともできます。
Quibus qui splendide usi sunt, ei mihi videntur fabulam aetatis peregisse nec tamquam inexercitati histriones in extremo actu corruisse.
これらを(quibus: i.e. praemiis)見事に(splendide)享受した(usi sunt)者たちは、私には(mihi)思われる(videntur)、人生の(aetatis)物語を(fabulam)最後まで演じきった(peregisse)のであり、あたかも(tamquam)下手な(inexercitati)役者のように(histriones)最後の場面で(in extremo actu)しくじるのでは(corruisse)なかった(nec)、と。
山下です。
次の中からピックアップしてラテン語格言集に追加していきたいと思います。
Numquam et ille miser, cui facile est mori. Seneca
Vulgare amici nomen, sed rara est fides. Phaedorus
Amicus certus in re incerta cernitur. Ennius
Ut ameris amabilis esto. Ovid
Legum omnes servi sumus ut liberi esse possimus. Cicero
Orandum est ut sit mens sana in corpore sano. Juvenalis
Tacere qui nescit, nescit loqui. P.Syrus
Breve tempus aetatis, satis longum est ad bene honesteque vivendum. Cicero De Senectute
Aspiciunt oculis superi mortalia iustis. Ovid
Discite iustitiam moniti, et non temnere divos.
Pauperis est numerare pecus. Ovid
Aurea sunt vere nunc saecla: plurimus auro ??? honos.
Pecuniam in loco neglegere maximum interdum est lucrum. Terentius
Quaaerenda pecunia primus est, virtus post nummos. Hor.
Fortuna opes auferre potest, non animum. Seneca
Passibus ambiguis Fortuna volubilis errat. Ovid.
Fortuna vitrea est; tum cum splendet frangitur. P.Syrus
Nihil aliud est ebrietas quam volutaria insania. Seneca
Natura semina nobis scientiae dedit, scientiam non dedit.
Nemo enim potest omnia scire. Varro
Tacitum vivit sub pectore vulnus. Vergil
Etiam iucunda memoria est praeteritorum malorum. Cicero
山下です。
今日のことばのクラスでは、いつものように俳句の書き取りと絵本の時間の二部構成でした。
部屋に入ったとき、皆ノートを広げて絵を描いているのだとばかり思っていました。
ところが、Mちゃんは、カブトムシでなく漢字の”模写”をやっていました!
今日の俳句は、「猫の子の ちょっと押さえる 木の葉かな 一茶」でした。
「猫」のつくりが手偏になったりしましたが、相変わらず「ひらがなより漢字が書きたい」症候群です。
絵本は、「おこりんぼママ」を読みました。
この作品のことは、お山の絵本通信で Ryoma 先生が素敵なエッセイを書いてくださっています。
今日はじめて試みたことがあります。
ようやく今頃?と思われるかもしれませんが、今日初めて子どもたちに絵本を見せて、順番に声に出して読んでもらったのでした。
こうして少しずつ変化をつけながら、子どもたちのリアクションも確かめながら、無理なく興味を引き出していきたいと思っています。
おこりんぼママ
ユッタ バウアー Jutta Bauer 小森 香折 
山下です。
明日「山の学校」の子どもたちに持って帰っていただけるよう、今がんばって原稿を書いています。
言いたいことがありすぎて、言葉がまとまらず、時間だけ飛んでいく、という感じです。
学生時代から何度この気持ちを味わったことでしょうか(笑
担当している「ことば」、「英語」のクラスは書いたのですが、肝心のラテン語がまだでした。
どうも長くなりすぎるので、二回か三回の連載にしたいと思い始めています。
山下です。
FF7ACのサイトにて、そこで使われているラテン語についてファンの方々が意味や歌い方を徹底的に解明しておられます。
山下です。
金曜日のクラスではセネカを読んでいます。
作品は、『幸福な人生について』です。
今回は、8.1を読みました。大学書林のテキストには誤植があります。
hanc ratio observant, hanc consulit. (誤)
→ ...observat,... (正)
ちなみに、hanc は直前の natura をさしています。
どちらの動詞も主語は ratio (女性・単数・主格)ですから、ともに単数になります。
内容的には
...praeceperunt veteres optimam sequi vitam, non jucundissimam,...
昔の人たちはこう教えている、最も楽しい生活を送るのではなく、
最も善い生活を送るように、と。
この表現が個人的に印象に残りました。
どの時代も同じなのでしょうか、
楽しければいい、それが bonus であろうとなかろうと考えるのは。
セネカは voluptas (快楽)と virtus (美徳)を峻別します。
virtus は勇気という意味も持ちます。
つらくてもやらなくてはならないことがあります。
それを立派にやり通すとき virtus が発揮されたということになります。
神話に例をとると、ヘラクレスは voluptas と virtus とどちらの道を選ぶか?
岐路に立ったときに、迷わず virtus を試す道を選んだことが知られています。
ヘラの与える艱難辛苦をことごとく克服してつかんだ名誉(クレス)が彼の名には刻印されています。(ヘラ+クレス)
昨日のニュースで、ヤンキースの松井選手は「迷ったらいつも困難な道を選んだ」と
インタビューでそう答えたそうです。彼もまた現代における"virtus の人"ですね。
山下です。
最近少しずつラテン語に関するページが増えてきたように思います。
Ishigaki さんのページは、塩野さんに触発されてガリア戦記を読みたいと思われた方には、Est est est (ここに求めていたものがある!!)と叫びたくなるページです。
山下です。
今必要あって、ギリシア・ローマ文学の概説書を読んでいます。
この手の文学史について、ウェッブでは京大出版会の説明が詳しいです。
ほかによいサイトがあれば、教えてください。
中学三年生の秋と言えば、誰もが入試のことで焦り出す頃ではないかと思います。
英語の場合、入試で問われる内容はどう見ても基礎的な事柄が中心です。
ですから集中すれば今からでも十分間に合います。英語に限らず語学の勉強では何より基礎を大事にしてください。
基礎を大切にするとは、教科書に書いてある英文を一字一句正確に覚えるということです。
ちょうどかけ算の九九を暗記したように、英語を学ぶ上で暗記は避けて通れません。
逆に言えば、それができない度合いに応じて入試問題で失点を重ねることになります。
このような考えから、中学3年生のクラスでは秋学期に既習事項の復習を徹底的に行いました。
春学期に中1、中2の復習を完了したことが効いていて、残すところは関係代名詞のみとなりました。
ここを攻略したら、あとは入試まで長文読解を繰り返すのみです。
もちろん、すでにボロボロにした中1から中3までの問題集は、最初から最後まであと何回も繰り返して復習する予定です。
進学塾や私立中学ですと、中2の段階で中3の範囲を終えることもありますが、その分定着しない知識が増えるおそれがあります。
それを避けるには、いっそう丁寧に基礎を復習する心がけが大切です。
既習範囲は、目をつぶっても教科書の内容が音としてよみがえる、または、白い紙の上に教科書通りの内容を再現できる、または、問題集を解く上で、問題の答えが瞬時に浮かぶまで繰り返す、等。
私のクラスの場合、最近は目先を変える意味で英検3級(中3までのレベル)の問題(一次試験)を解いてもらっています。
誰であれ、最初に問題に手をつけたときには凡ミスを犯すものですが、説明をしてもう一度はじめからチャレンジしてもらうと、電光石火の早業で全問正解できるものです。
当然といえば当然のようですが、この「100パーセント正解する」という爽快な気分を味わうことで、生徒は焦らずに基本的なトレーニングを重ねる大切さを学び、自信を深めていきます。
日本語では「急がば回れ」、英語ではSlow and steady wins the race. と言います。
受験勉強を通じて、「急がば回れ」の真意を生徒が実感してくれたらと心から願っています。
山下です。
今のお子さんはクワガタやカブトムシが大好きです。
授業前には、みな競うようにノートに虫の絵を描いています。描いても描いても飽きることなく描き続けます。
「ああ、無心になるってこういうことだなあ。」としみじみ感じる瞬間です。
先日、少し早めに教室に行くと、一年生の男の子が、二年生の男の子にクワガタムシの絵をノートに描いてもらっていました。
大人の目から見ても精緻なクワガタムシの絵ができあがりました。「おおすごい!」思わず私も見とれました。
描いた子どもも、描いてもらった子どもも、どちらも満足そうでした。
いい場面に出会えたなと思いました。
さて、絵の話をしたのには理由があります。
10月に入ってからギアチェンジをし、授業で覚えた俳句をノートに書き取る練習を始めましたが――それまでは幼稚園時代と同様、耳で聞いて復唱していました――、子どもたちはまるで「絵を描くように」正確に筆写しようとがんばるのです。
実際、文字への好奇心はたいへん強いものがあり、私はひらがなばかりの手本を示すのですが、子どもたちは漢字交じりの俳句を手本として見せろと言います。
私はまさか「毬」や「芭蕉」の文字を子どもたちが漢字で正確に書くとは思いませんでした(筆順は後で補足指導)。
ちなみにこの日扱った俳句は、「行く秋や 手を広げたる 栗の毬(いが) 芭蕉」でした。
むろん、このような純粋な意味での「遊び」は、それが日常化してしまうと「遊び」の意味を失うでしょう。
小学校とご家庭で、きちんと漢字の「山」や「川」といった基礎的な練習を繰り返しているからこそ、ここぞというときに「芭蕉」といった難易度の高い漢字にチャレンジしたくなる気持ちも芽生えるのだと思います。
裏を返せば、子どもたちの生き生きとしたチャレンジ精神に接するたび、私は日頃の生活の中でしっかりと基礎のトレーニングを繰り返している子どもたちの姿を思い浮かべることができるのです。
そして、このチャレンジ精神は、冒頭でふれた昆虫を模写し続ける気持ちとどこか通じるのではないかと直感する今日この頃です。
ーー
山下太郎
山下です。
私のHPにてラテン語の格言を紹介しています。その中に次の表現があります。
Cultura animi philosophia est.
これは、「クルトゥーラ・アニミー・ピロソピア・エスト。」と読みます。
culturaは、「耕すこと」の意で、カルチャー(文化)の語源です。
animi は「精神」を意味する第二変化名詞 animus の単数・属格です。 「精神の」と訳せます。
「精神の耕作が哲学である」となり、いわんとすることは「精神を耕すことが哲学である。」という意味です。
キケローの『トゥスクルム談義』2.13 に見られる言葉です。
山下です。
昨晩は、少しだけ進みました。63節の途中から、64節の始めの一行までです。
スパルタのリューサンドロスの言葉:「スパルタは老人が最も立派に住める国だ」という言葉について、カトーは次のようなエピソードを紹介します。
アテーナイの演劇祭において、ある老人が満員の劇場の中、同国人はまったく席を譲ってくれなかったのに対し、国家使節としてこの場所を訪れていたスパルタ人の一行は、この老人が近づいたとき、いっせいに起立して席を譲った。
このスパルタ人の一人がこう言ったそうです。(64節の最初の一行)
...dixisse ex eis quendam Athenienses scire, quae recta essent, sed facere nolle.
彼ら(スパルタの国家使節)のある者が言った、アテーナイ人は何が正しいかは知っているが、それを行おうとは欲しない、と。
アテーナイといえば、哲学のメッカですが、議論好きが多かったのでしょうか。そのわりに実行力が乏しかった、対してスパルタ人は「不言実行」というイメージが当時のローマにはあったのかな、と想像します。
最後のセンテンスはちょっとした格言的な言い回しになっています。日本語でも、「言うは易く行うは難し」と言いますね。