私の父で、今年の3月末まで小学校の「ことば」を担当してくださった一郎先生が、8月21日に永眠しました。幼稚園から出す補足のお便りはこちらをごらんください。
Tempus est quaedam pars aeternitatis.
「テンプス・エスト・クウァエダム・パルス・アエテルニターティス」と読みます。
「時間(tempus)は、永遠の(aeternitatis)ある(quaedam)部分(pars)である。」という意味です。
aeternitas の単数・属格が aeternitatis となります。
以下、覚書です。引用文はキケローの言葉です(De Inventione)。
自分の生きている時代は、永遠の時間の流れの中のひとこま。自分の住んでいる地域は、無限の空間の中の一つに過ぎない。
それゆえにはかなく、それゆえにかけがえがない。
De Re Publica の最終場面(スキーピオーの夢)では、地上での fama が芥子粒のようなもの、と教えさとしているが、現実の生活に照らして時間と空間を考えれば、sine fine でなく finis に縛られたこの時、この場所で精一杯生きる(res publica と信じられるものにたいして)のがベストと思われる。
じっさい、DRP の中では、死後の生にいち早くはせ参じたいと願うスキーピオー(孫)にたいし、大スキーピオーいわく、地上の生を勝手に断ち切ることは許されない、と。
『国家について』は、限りある生から永遠の生に至る道筋を描いている作品、と読むこともできる。
キケロー選集 (8)
キケロー ![]()
ラテン語の詩によって、ギリシアの哲学者エピクーロスの考えをローマに広めようとした人、それがルクレーティウスです。ウェルギリウスの少し先輩にあたります。
そのメッセージの核になるのが「死は我々にとって何ものでもない」という主張です。
「未来が我々にいかなる運命をもたらすか、偶然の機会が我々をどのような目に遭わせるか、また、いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。
また、生命を延ばしてみたところで、それによって死の時間を少しも減らすことにもならず、すなわち、我々が死の状態にある間の時を短くすることができるものではない。
であるから、たとえ君の好きなだけ多くの世代を生き抜いて生を全うすることがかりに出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているだろう。
そして、今日一日で生命を終わった人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過ごしたとは言えないだろう。」
そう簡単に割り切れるものでもないだろう、という思いを抱きながら、ウェルギリウスの「農耕詩」を読めば、この先輩詩人の考えを尊重しながら、生と死の問題をより広い観点でとらえなおした詩人の言葉に出会えるでしょう。
昨日、花脊、山村交流の森に下見に行きました。
市内より涼しい場所です。川遊びも楽しく出来そうです。
今回は川遊び用のサンダルと、散策用の運動靴の両方が必要で、どちらかだけだと、どちらかに参加できません。(山の傾斜がけっこうあるので、サンダルだと無理)。
家族で訪れてもよさそうなところです。