福西です。柳田国男ついで、です。
「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
この書のごときは陳勝呉広のみ。」
(遠野物語・序文)
山深い場所の伝説を、世に紹介する試みへの、
作者の意気込みが現れています。
(小林英雄の文章の中で初めて知りました)
「平地人を戦慄せしめよ」というフレーズは、
山の学校にも当てはまるのだろうと思います。

(K君がかたつむりを守る家を作っているところ)
先週の「やまびこクラブ」では、
チラシとダンボールという素材で遊びました。雨の中、家の中で、
「ターザンごっこ」に近いことをしていたように感じます。
私自身過去を思い出しました。子どもの本分に徹するような、
こういう遊びが次もできたらと思います(福西)。
福西です。次回『青春ライブ授業!』 のお知らせです。
題名 「『考える』ということについて」
とき 7月9日 7:00-8:30(シンポジウム~10:00)
講師 廣瀬一隆 滋賀医科大学2回生
廣瀬先生から、次回参加する中高生に、宿題があります。
(以下をご覧下さい)

お話を伺って感心したことは、高校時代に柳田国男の全集を読破されるなど、大学の勉強の先取りをしておられたこととです。それをせずに受験勉強一辺倒だと、それこそ student apathy に陥るのではないでしょうか。
また、小学校時代に自然の中で思う存分遊び抜いた(ターザンごっこなど)というお話も、その後の勉強の集中力の基礎になったに違いありません。私見ですが、小学校時代には、もっと幼稚園児のように無心になって遊んでいいと思いますし、中学以上は(とくに高校時代は)損得抜きに大学の勉強を先取りし、たとえばプラトン全集を読みあさるなどしてほしい、と思います。
また、自分で文章をかくことの大切さを強調しておられた点にはまったく同感で、ディベートの重要さのご指摘も含め、本当はこういった勉強こそ国語の時間の中心に据えてほしい学習内容ですね。
--
山下太郎
山びこ通信7月号ができました。今回は、「ことば」特集です。内容的には、このウェブログですでに公開している記事が中心です。
青春ライブ授業
3回目は「がんってなんだろう?」でした。
講師は下村昭彦先生。
ちなみに、「山の学校」でも『数の基本』と『数と自然』を
担当されている先生です。

さっそく、いただいた感想から。
Q.がんの話で「もっと聞きたい!」ことは?
『数の基本(中2) / 数と自然(高校生)』
(木曜日8:10~9 :30 / 6:40~8:00)
_
/5 + 1
x =
16日の授業では、キケロー「老年について」10を読みました。
Unus homo nobis cunctando restituit rem,
Noenum rumores ponebat ante salutem:
Ergo plusque magisque viri nunc gloria claret.
話者カトーによって、クイントゥス・ファビウス・マクシムス・クンクタートルへの言及がなされますが、その中で、有名なエンニウスのマクシムス評(上記ラテン語)が引用されています。中務先生の訳をご紹介しましょう。
ただ一人、遷延の策により、われらが祖国を建て直す。
世評より、国の安危を憂えた男、かくして、
今、遅ればせながら、その栄光が世に顕る。
クンクタートル(ぐずぐずする者)というあだ名は、フェビアン協会の名称のルーツになっています。
中学生・高校生向け「ことば」のクラスに期するもの
山下太郎
前回の山びこ通信では、言葉の教育の大切さについて、(1)言葉を使って自分の絵を描く経験(塗り絵ではなく)が大切であるということ、しかし、(2)現実の教育の現場ではその機会がほとんどなおざりにされている、ということを指摘しました。
もちろん、言葉にならぬ感動をできるだけ多方面に渡って蓄積しておくことが、言葉の表現に親しむ大前提になります。その意味で、幼稚園、小学校時代の「生(なま)の経験」の大切さについては、いくら強調してもしすぎることはありません。園児は――たとえば自分が鉄棒や竹馬に一生懸命取り組んでいる姿を見てもらおうとして――「ねえ見て見て!」と自分の経験を力一杯大人に訴えます。小学生も同じです。自然にふれ、目にするものは何でも口に出して教えあう――「ワっ!ダンゴムシ見つけたゾ!」――などなど(「山の学校」の小学生を見ていると、特にその感を強くします)。
さて、教育に話を戻しますと、・・・
さて、教育に話を戻しますと、子どもたち(とくに幼稚園児)は、まだ自分で本がうまく読めません(黙読・音読ともに)。それで、当初は親や先生にたいして「ねえ読んで!」とお願いすることで、子どもたちの読書経験はスタートします。子どもは本を読んでもらうことが大好きです。同じ本を飽きもせずに「もういっぺん(読んで)」とお願いします。「じゃあまた明日」というと、その約束を心待ちにしています。
こうして、じゅうぶんに本を「読んで」もらった子どもたちは、やがて自分自身の力で片端から本を読むようになります。言い換えますと、本を開くことで、未知の言葉の世界、ひいては人文学や自然科学等、大学の学問につながる抽象的な言葉の世界に向かって探検を始めます。最初は受動的に始まった子どもたちの「読書経験」ですが、やがてはそれが能動的な「読書経験」に変わっていくのです。そしてさらには、本を読んで得た感動や発見を、今度は「ねえ、聞いて!」と他者に伝えたくなってくる、ここがポイントです。では、こうした子どもたちの言葉を、どれだけの大人が丁寧に引き出し、かつそれを真剣に「聞こう」としているでしょうか。
冒頭で書きましたとおり、自分の考えや感動を文章によって表現する修練は、多感な中学、高校生にうってつけの学びの機会を与えます。幸い「山の学校」では、「青春ライブ授業!」でおなじみの若き情熱溢れる先生達が、子どもたちの知的好奇心を守り育てたいと――つまり、本物の「ことば」の勉強を共にしようと――手ぐすねをひいて待っています。ぜひ、一人でも多くの中学生、高校生が「ことば」のクラスに参加され、言葉の表現に磨きをかけるとともに、みなの前でそれを発表する喜びを分かち合っていただきたいと願っています。
--
Yamashita Taro
『ことば』中学年クラス
(水曜日4 :10~5 :10)
──遊んでいる子どもというものはみな、一つの独特な世界の事物を、
自分の気に入った、ある新しい秩序の中へと置き換えることによっ
て詩人と同じように振舞っているといっても差し支えないだろう。
実際、子どもというのは遊びの名人です。
自分たちでルールを決め、それに則って積極的に活動する。子どもの自主性の根幹はここにあるのだと思います。フロイトはこの「遊び」を想像力の源泉であると論じました。そこに詩人の世界を見出したのです。
この授業では、名作の物語を読み合わせたり、俳句を作ったりしています。俳句を作る際は、こちらから作り方を強制することはなく、子どもたちの自主性に任せるようにしています。
最初の授業の際に、こんな俳句が詠まれました。
・はっぱわね さいしょわきれいで いつかちる
有終の美を感じさせる、季節感に溢れた作品です。この美しい句を前にしては、「〈わ〉は〈は〉の間違いだよ」という批判はたいした意味をなさないでしょう。また、このような句も詠まれました。
・はっぱはね いろいろいろが あるんだよ
韻を踏んだ、おもしろみを感じさせる作品です。子どもは一般にリズムに愛着を覚えますが、この句はそれを踏まえた「遊び心」のようなものを感じさせてくれます。
勉強というのは本来、禁欲的なもので、遊びとは相容れないという通念が存在します。真面目な「お勉強」と不真面目な「お遊び」というのは本性上対立するものであると。
間違うことはいけないこととされ、「正しい」答えを押しつけられることで、子どもはやがて間違うことを恐れ、自分の意見を言えなくなってしまうでしょう。日本特有の文化神経症と言われる「対人恐怖」もこれと大きく結びついていると言えます。間違いを恐れ、恥じるあまり、何も言えなくなってしまうのです。
しかし、間違いを恐れること、それ自体がそもそもの間違いなのではないでしょうか。むしろ遊びの中で培ってきた「遊び心」を、そしてそれを基盤とした自主性を勉強の中にも根づかせる必要があるのだと思います。フロイトは先の文章に続いて、こう述べています。
──遊ぶ子どもはこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、
それは誤りである。どうしてどうして子どもは自分の遊びを非常に真
剣に考えている。…真剣さは遊びの反対物ではないのである。
確かに子どもは遊んでいるときは、きわめて真剣です。真剣に遊んでいるのです。このような真剣さを勉強の際にも生かせれば、というのがこの授業のモットーとなっています。実際にこの授業の中では、子どもたちは無心になって俳句を作って詠んだり、恥ずかしがることなく自分の意見を述べています。
例として、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を読んだ際の出来事を挙げたいと思います。熊を殺すことに業を感じていた兵十郎という猟師は、最後には熊自身によって殺されてしまいます。この物語を読み終えた後、私は「兵十郎は死んだ後にどうなったんだろう?」と生徒に尋ねてみました。すると、次のような答えが。
「熊たちは小十郎を神様にしたの」
「だって、熊たちはもともと小十郎のこと好きだったんだもん」
これはとても美しい「解釈」です。私はこのような「解釈」が現れるとは、思いもよりませんでした。なるほど、フロイトの述べる通り、子どもは「詩人と同じように振舞っているといっても差し支えない」のです。
今後は子どもたちと一緒にお話を創作する予定です。子どもはその「遊び心」のためか、替え歌やお話の創作を好むようです。この傾向を伸ばしていけたらなと考えています。きっと一生物の財産となることでしょう。
(文章 宇梶卓)
『英語の基本(中1) / 英語の読み書き(高校生)』
(木曜日6:40~8 :00 / 8:10~9:30)
英語の授業では中学生、高校生とも各一クラスずつ担当させていただいております。
現在、中学校のクラスでは基礎をしっかり身に付けてもらうことを考えて授業を行っています。
英語や数学といった勉強は基礎の上に基礎を重ねて積み上げていかなければならないという難儀な性質を持っています。つまり家を建てる場合と同じで、どこか一箇所の組立を間違えてしまえば、その上に積み上げることができなくなってしまうのです。
例えば、一般動詞を使った文を組み立てることができなければ、関係代名詞の用法を理解することができるはずはありません。また、分詞構文というややこしい文法事項がありますが、そのことを理解せずに独立分詞構文というより複雑な事項を理解することはできません。
過去の日本の英語教育は文法偏重型と呼ばれ、「読み書きはできるけど会話ができない」と批判されてきました。しかし、一度会話を偏重し始めて、会話はちょろっとできるけど書いてあるものはまったく読めない、英語で文章を書くなんてもっての外という状態になっては意味がありません。
英語を話すということは従来の英作文のスピードを速めた状態と言えます。だからこそ、基礎的文法を大切にしてじっくりと積み重ねていく練習を重視した授業を行っています。
文法的なことと並行して、授業中は細かい発音指導も行っています。日本語を母語として育って、ある程度の年齢に達してしまうと、耳でいくら聞いても英語の発音はうまくなりません。
母語の音声は人間の耳に大きく影響し、ある音とある音とを融合して一つの音のように聞かせてしまうことがあります。よくある例えですが、日本人はLとRの音の区別がつかないと言われます。これは「ラッパ」ということばを「LAPPA」と発音しても「RAPPA」と発音してもまったく意味上の違いがないため脳が同じ音のように聞かせてしまいます。
そこで、まったく同じに聞こえる単語を見様見まねならぬ、聞き様聞きまねで発音したとしても同じように聞こえるはずがありません。そこで、英語を母語とする人の口の動きを専門的に分析した結果を利用して、いかにして同じ音を再現するかにこだわって指導しています。日本語では意味の違いをなさない音の違いでも、英語では重要な違いになりえます。口の形の図解や実演を利用してわかりやすい発音指導に取り組むようにしています。
一通りの基礎的な文法を学習し終えた高校生のクラスでは、読むことを中心に授業を進めています。
現在は生徒の希望で、夏目漱石の『こころ』の英訳版を精読しています。
現在の日本の教科書の大部分は、日本人の著者が書いたものをネイティブスピーカーが手直しするという方式で作られています。つまり、英語を書いているのが日本人ということになります。母語でない言語で書かれた文章は一般に読みやすいとされており、英語の教科書も例外ではありません。
しかし、実際に英語を読む場面では、英語を母語とする人によって書かれた文章が多いはずです。Kokoroの著者は日本人ですが、実際に英語を書いている訳者はアメリカ人ですので生の英語に触れることができます。また、英米文学に直接触れようとすると、どうしても英米の文化の理解を欠かすことができず、初期段階では英語力向上の妨げとなってしまいます。
そういう点でも、日本文学ならば障害を最小限に抑えて、英語力のみをネイティブの英語を使って効率的に磨くことができると考えられます。
(文章 藤田先生)
しぜんクラス 小学生 6月15日(火) (山下育子)
テーマ “アメンボ” (水の上のスケーター)
--梅雨の間の爽やかな晴れとなりました。
今日のしぜんクラスは、春から秋にかけて、公園の池,田んぼ,学校のプール,
水たまりにいるアメンボについてまず考えてみました。
この近くで見られるアメンボは、 “アメンボ” “大アメンボ” “シマアメンボ”
などです。
では、ここでクイズです。
① どうして、アメンボは沈まないのだろう?
② 日本で一番大きなアメンボは?
大きさはどれくらいかな?
*アメンボは、体が水をはじく毛でおおわれており、水面も歩けるのです。
肉食性で虫が水の上に落ちると丸い波の輪が広がることによってアメ
ンボはそれを足で感じ虫に近づきます。ストローのような口で虫の体液
を吸います。
◎アメンボを真似て、バットに水を張り、クリッブ,1円玉,画鋲,クギ
などを水に浮かべてみましょう。上手く浮くまで何度もやってみました。
・まず、ゆびでこする → 油をつける → 水の上にそっとおいてみる
すると、クリップ,1円玉は簡単に水に浮きましたが、クギや画鋲などはすぐに
沈みます。
上手く浮いたものを観察すると、まわりの水面がへこんでいる様子に気がつきます。

ひみつの森へ Let's go!
--後半は、お山の奥のひみつの森にある水たまりへ、実際にアメンボを探しに
でかけました。
案の定、大小、たくさんのアメンボが所狭しと密集して水面をスイスイと泳いで
いました。

用意した紙コツプに上手くつかまえ、本当に“アメ”のように甘いにおいがする
のかどうか、確かめました。 『みんな、どんなにおいがしたっけ?』
*アメンボという名前は、あめのようなあまいにおいを出すことから名付けられた
そうです。
では最後に、今日のクラスにやってきた、生き物のお客さんをご紹介しましょう!
たくさんの観察ができ、図鑑で調べてみましたね。
1 モモスズメ(蛾)の幼虫 (Sくんのお家のブドウの葉っぱで育っていたそうです)

2 コスズメ(蛾)の幼虫 (同上)

3 エゾスズメ(蛾)の成虫 (幼稚園の草むらのカラタチの木の辺りで、オス,メスが
交尾していて、まるで大きな枯れ葉のように見えたもの)

4 ノコギリカミキリの成虫(幼稚園のお庭で急ぎ足に歩いていたもの)
5 サナギからかえったスズムシのこども(昨年の夏の卵がかえったもの)
* しぜんクラス終了後、飼育ケースに入ったノコギリカミキリを観察している時、産卵管を
おしりから出して、卵を25個ほど次々と産んでしまいました。
貴重でとても印象的なシーンに遭遇できて感激でした。
で、メスのノコギリカミキリだったという訳です!

福西です。
6/10のかずの授業でした、他の2つの議題についても、
どういう議論があったか、記録しておきます。
福西です。
6/10のかずの授業でした、他の2つの議題についても、
どういう議論があったか、記録しておきます。
福西です。今日は高学年の「かず」担当でした。
今日は、生徒3人にマーカーを握ってもらい、
ホワイトボードを回しながら、先生役をしてもら
いました。
議題は、
一、 なぜ、3/8÷3/4=3/8×4/3 になるの?
二、 0/5=0 でも、5/0=?
三、 1-2+3-4+5-6+7-8+9-… は、どんな数?
です。
しかしこの試みは、いきなり脱線。
まず最初の、
分数の割り算は、どうして「ひっくりかえす」の?
という議題ですが、「まだ割り算は習ってへん」
ということでした。すみません…。
ところがそのことが判明するまでに、これを自分
の知識で解こうとした生徒がいます。
分数の割り算は習っていないけれど…
3/8=3÷8 3/4=3÷4
3/8÷3/4
=0.375÷0.75 ←「小数の割り算」(習った)
=0.5 ←小数の答
=1/2 ←分数の答に変換
「できた!」
これはこれで、すごいですね。なぜなら知っていること
を駆使してくれたからです。
他の2つの議題については、何とか議論の恰好が
付きましたが、その後で、私は大事なことを学びました。
それは、「知っていることを絞り出した後は、知らない
ことを聞きやすいムードになっている」
ということです。
「学校で分からへん所ない?」と私が聞いたのは、授業が
残り5分になってからですが、生徒たちが、こちらが思うよ
りも意外とすんなりと、それぞれ不明に思っている所を言っ
てくれたことが、印象的でした。
「あんな先生、教えてほしいことがあるの。約分と通分って、
どう違うの?」
「約分は、どうして最小公倍数でやらないと、いけないんで
すか?」
「それ、私も知りたーい」
2つ目の疑問の意味は、
1 1
--- + --- = が、
4 6
6 3
なぜ --- としてはいけないのか? なぜ---- なのか?
24 12←最小公倍数
ということですが、しかしそれは「約分」ではなくて、「通分」
なのです。このことを質問した生徒は、自分の言おうとして
いることを
3 1 18 4 9 2
--- × --- = --- × --- ? --- × --- ?
4 6 24 24 12 12
と説明してくれましたが、ここで約分と通分が混ざっていることが
私にも分かりました。
このかけ算では「 /24? /12?」と、通分、つまり分母を
揃えることではなく、しなければならないのは、分子分母を消す、
つまり約分の方です。
上のように通分(もどき)のことをすると、答が遠くなってしまい
ますね。
「約分は ×のとき、通分は+のとき」
のものです。
こうしたあやふやな点を、ぎりぎり発見でき、また説明できたのが、
今回の大きな喜びです。この10分間のオーバータイムが最初から
実は「なくてはならない」のだと感じました。
そして、知識伝達型を反省して、議論型の授業を試みたのですが、
結局、知識を全く伝えることをしない授業では、同様に片手落ちだと
いうことに気付いたのでした。
むしろ議論と知識伝達との両方が、両方ともに意義を与えるのです。
議論において、既知の知識を他人に説明することで、より確実にした
生徒は、不確実な知識を内に感じた時、そのままにしておこうとはしな
いものです。それが今回、いつもだったら恥ずかしくて聞こうとしなかった
質問の形となったのだと感じます。
基礎があいまいな議論だけでは、未知の問題に対して頭から湯気が
出た状態のまま終わってしまいます。しかし、その後にさりげなく知識
の吸収というカタルシスがあることで、先の議論は、普通なら受動で
あるところの知識の吸収を、能動にする役割を果たしてくれるのだと
思います。
私にとって6/10の授業は、「知識の伝達」か「議論」かのペラペラの
裏返しではなく、両方を組み合わせたボリュームのある授業が作れ
ないかということを考えていた、大事な出発点のように思われるので、
ここに記しておきます。
福西です。今日は高学年の「かず」担当でした。
今日は、生徒3人にマーカーを握ってもらい、
ホワイトボードを回しながら、先生役をしてもら
いました。
議題は、
一、 なぜ、3/8÷3/4=3/8×4/3 になるの?
二、 0/5=0 でも、5/0=?
三、 1-2+3-4+5-6+7-8+9-… は、どんな数?
です。
しかしこの試みは、いきなり脱線。
まず最初の、
分数の割り算は、どうして「ひっくりかえす」の?
という議題ですが、「まだ割り算は習ってへん」
ということでした。すみません…。
ところがそのことが判明するまでに、これを自分
の知識で解こうとした生徒がいます。
分数の割り算は習っていないけれど…
3/8=3÷8 3/4=3÷4
3/8÷3/4
=0.375÷0.75 ←「小数の割り算」(習った)
=0.5 ←小数の答
=1/2 ←分数の答に変換
「できた!」
これはこれで、すごいですね。なぜなら知っていること
を駆使してくれたからです。
他の2つの議題については、何とか議論の恰好が
付きましたが、その後で、私は大事なことを学びました。
それは、「知っていることを絞り出した後は、知らない
ことを聞きやすいムードになっている」
ということです。
「学校で分からへん所ない?」と私が聞いたのは、授業が
残り5分になってからですが、生徒たちが、こちらが思うよ
りも意外とすんなりと、それぞれ不明に思っている所を言っ
てくれたことが、印象的でした。
「あんな先生、教えてほしいことがあるの。約分と通分って、
どう違うの?」
「約分は、どうして最小公倍数でやらないと、いけないんで
すか?」
「それ、私も知りたーい」
2つ目の疑問の意味は、
1 1
--- + --- = が、
4 6
6 3
なぜ --- としてはいけないのか? なぜ---- なのか?
24 12←最小公倍数
ということですが、しかしそれは「約分」ではなくて、「通分」
なのです。このことを質問した生徒は、自分の言おうとして
いることを
3 1 18 4 9 2
--- × --- = --- × --- ? --- × --- ?
4 6 24 24 12 12
と説明してくれましたが、ここで約分と通分が混ざっていることが
私にも分かりました。
このかけ算では「 /24? /12?」と、通分、つまり分母を
揃えることではなく、しなければならないのは、分子分母を消す、
つまり約分の方です。
上のように通分(もどき)のことをすると、答が遠くなってしまい
ますね。
「約分は ×のとき、通分は+のとき」
のものです。
こうしたあやふやな点を、ぎりぎり発見でき、また説明できたのが、
今回の大きな喜びです。この10分間のオーバータイムが最初から
実は「なくてはならない」のだと感じました。
そして、知識伝達型を反省して、議論型の授業を試みたのですが、
結局、知識を全く伝えることをしない授業では、同様に片手落ちだと
いうことに気付いたのでした。
むしろ議論と知識伝達との両方が、両方ともに意義を与えるのです。
議論において、既知の知識を他人に説明することで、より確実にした
生徒は、不確実な知識を内に感じた時、そのままにしておこうとはしな
いものです。それが今回、いつもだったら恥ずかしくて聞こうとしなかった
質問の形となったのだと感じます。
基礎があいまいな議論だけでは、未知の問題に対して頭から湯気が
出た状態のまま終わってしまいます。しかし、その後にさりげなく知識
の吸収というカタルシスがあることで、先の議論は、普通なら受動で
あるところの知識の吸収を、能動にする役割を果たしてくれるのだと
思います。
私にとって6/10の授業は、「知識の伝達」か「議論」かのペラペラの
裏返しではなく、両方を組み合わせたボリュームのある授業が作れ
ないかということを考えていた、大事な出発点のように思われるので、
ここに記しておきます。
5月18日/5月25日 (山下育子)
お山では、この春出た若竹がグングンと成長して立派な竹になっています。
2週間続きの作業として、竹の節に注目しながら“のこぎり”で竹を切っ
てみる、そして、一人一人がお手製の花器を作ったら、その中に春の花を
植えインテリア飾りが出来上がりました。

5月18日/5月25日 (山下育子)
お山では、この春出た若竹がグングンと成長して立派な竹になっています。
2週間続きの作業として、竹の節に注目しながら“のこぎり”で竹を切っ
てみる、そして、一人一人がお手製の花器を作ったら、その中に春の花を
植えインテリア飾りが出来上がりました。

--
606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/wiki/ ラテン語文法の教科書を作ろう!
--
606-8273
京都市左京区北白川山ノ元町41
北白川幼稚園 / 山の学校
TEL 075-781-3200 / FAX 075-781-6073
山下太郎
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/wiki/ ラテン語文法の教科書を作ろう!
** * SENSE OF WONDER !
「しぜん」だより 山下育子(山の学校 しぜんクラス担当)
4月6日に“お山の春めぐり”というテーマでスタートした<しぜんクラス>では、ただ今~自然からの恵みの春~を毎回楽しんでいるところです。メンバーの小学生たちは、勿論、皆自然が大好きで自然のメガネ!を持っているようです。学校の帰り道で、家の周辺で、また、お山を登る階段で、何か面白そうものを見つけては、持ってきて机に並べて話をしてくれます。ヨモギだったり、カラスノエンドウだったり、校庭のカモジグサだったり・・。
この、ごく「身近な生き物(身近な自然)に気づく」ことこそ、自然の美しさ,大きさを感じ取る感覚の原点ではないかと思います。
道端にタンポポが咲いているのに気づく
ツバメが飛び回っているのに気づく
小さなオオイヌノフグリの青い花に気づく
生き物に『気づく』目と心を持って、自然から生き生きとした美しさ,不思議を感じ取れる心を子どものうちにしっかり宿らせておきたいものです。将来、家庭生活や仕事に於いても、生きる喜び、希望を失うことなく、幼い頃に自分とともにあった自然に、きっと支えられ勇気づけられることがあるでしょう。
週一度の<自然クラス>では、心の柔らかな子どもたちが、仲間と自然に触れるひと時を大切にしています。
一方、私たち大人においても、お買い物の途中で、または親子でお散歩をしながら、このよい季節をささやかな~道草の自然観察~をして楽しみたいものです。

“竹の子を掘ろう!”――ある4月のクラス
お山の竹やぶは、今年もたくさんの“竹の子”が顔をのぞかせました。
竹の種類は、孟宗竹(モウソウチク)<イネ科>中国原産。幹は太く直径は8~20㎝、高さ10~12m。
はじめにクイズをしました
クイズその1 竹は木かな? 草かな?
クイズその2 竹の高さはどのくらいかな?
クイズその3 ササの高さはどのくらいかな?
① 道具・・・・・・・ *スコップ,シャベル,ぐんて,たけのこ袋
② 掘り方のコツ・・・ *足のうらの、感覚で竹の子をみつける。
*足でふんで、ふくらみのあるところや、地面がもこっと膨らんでいるところに竹の子がある。
「うわぁ、いっぱい竹の子出てるー」 「どれにしようかなぁー」
「かたーい!」 「幼虫(カブト虫)が出てきたー!」
―――竹やぶに賑やかな声が響きます。あちらこちらに、頭を出した竹の子がいっぱい見えています。
ご近所の方も出てこられ、竹の子相手に奮闘している小学生たちに、「しっかり、しっかり!」とエールを送ってくださいました。
皆の目は輝き、ただちに自分のスコップを土にさし込み、グイッと掘り上げる感覚、音、匂いを何回も体感しました。
この日は、子どもたちの土の割れ目と竹の子の頭を発見するするどい眼差し、気迫、沸き上がるエネルギーが沢山の収穫と結びつき、大きくふくらんだ袋を手にお山を下りていく姿も勇ましく、子どもたちの逞しさが嬉しい一日となりました。自ら掘り上げたお土産の竹の子のお味はきっと美味しかったことでしょう!
** * SENSE OF WONDER !
「しぜん」だより 山下育子(山の学校 しぜんクラス担当)
4月6日に“お山の春めぐり”というテーマでスタートした<しぜんクラス>では、ただ今~自然からの恵みの春~を毎回楽しんでいるところです。メンバーの小学生たちは、勿論、皆自然が大好きで自然のメガネ!を持っているようです。学校の帰り道で、家の周辺で、また、お山を登る階段で、何か面白そうものを見つけては、持ってきて机に並べて話をしてくれます。ヨモギだったり、カラスノエンドウだったり、校庭のカモジグサだったり・・。
この、ごく「身近な生き物(身近な自然)に気づく」ことこそ、自然の美しさ,大きさを感じ取る感覚の原点ではないかと思います。
道端にタンポポが咲いているのに気づく
ツバメが飛び回っているのに気づく
小さなオオイヌノフグリの青い花に気づく
生き物に『気づく』目と心を持って、自然から生き生きとした美しさ,不思議を感じ取れる心を子どものうちにしっかり宿らせておきたいものです。将来、家庭生活や仕事に於いても、生きる喜び、希望を失うことなく、幼い頃に自分とともにあった自然に、きっと支えられ勇気づけられることがあるでしょう。
週一度の<自然クラス>では、心の柔らかな子どもたちが、仲間と自然に触れるひと時を大切にしています。
一方、私たち大人においても、お買い物の途中で、または親子でお散歩をしながら、このよい季節をささやかな~道草の自然観察~をして楽しみたいものです。

“竹の子を掘ろう!”――ある4月のクラス
お山の竹やぶは、今年もたくさんの“竹の子”が顔をのぞかせました。
竹の種類は、孟宗竹(モウソウチク)<イネ科>中国原産。幹は太く直径は8~20㎝、高さ10~12m。
はじめにクイズをしました
クイズその1 竹は木かな? 草かな?
クイズその2 竹の高さはどのくらいかな?
クイズその3 ササの高さはどのくらいかな?
① 道具・・・・・・・ *スコップ,シャベル,ぐんて,たけのこ袋
② 掘り方のコツ・・・ *足のうらの、感覚で竹の子をみつける。
*足でふんで、ふくらみのあるところや、地面がもこっと膨らんでいるところに竹の子がある。
「うわぁ、いっぱい竹の子出てるー」 「どれにしようかなぁー」
「かたーい!」 「幼虫(カブト虫)が出てきたー!」
―――竹やぶに賑やかな声が響きます。あちらこちらに、頭を出した竹の子がいっぱい見えています。
ご近所の方も出てこられ、竹の子相手に奮闘している小学生たちに、「しっかり、しっかり!」とエールを送ってくださいました。
皆の目は輝き、ただちに自分のスコップを土にさし込み、グイッと掘り上げる感覚、音、匂いを何回も体感しました。
この日は、子どもたちの土の割れ目と竹の子の頭を発見するするどい眼差し、気迫、沸き上がるエネルギーが沢山の収穫と結びつき、大きくふくらんだ袋を手にお山を下りていく姿も勇ましく、子どもたちの逞しさが嬉しい一日となりました。自ら掘り上げたお土産の竹の子のお味はきっと美味しかったことでしょう!
『ことば』低学年クラス
(水曜日 4 :10~5 :10 )
『レアの星』 子どもの死生観
──担当 山下一郎
だれしも、死の問題にはあまり触れたがりません。まして、未成熟な子どもに生死の問題と真正面から向き合わせるのは、好ましいことと思われないようです。
しかし、幼い子どもといえども、いや、幼少の時期だからこそ、死のもつ厳粛な意味を知ることによって、生を尊重する意識が芽生え、その後の成長にも大きく影響を与えるものと思われます。
そこでわたしは、ある日の“ことばの教室(小1,2年生)”の読み聞かせで、子どもの死をテーマにした、『レアの星』の絵本を取り上げることにしましたが、じつは、この絵本を選ぶに当たっては、かつて、感銘を深くしたある出来事との出会いがありました。先ずそのことについて、触れておきたいと思います。
*
それは、今から30年以上も前の、ある年の秋のお彼岸の頃、お墓参りの帰り道に、母親の身体に子ども二人をロープでしっかり括りつけて、母子三人で奈良の池へ入水心中した事件がありました。この報道を、当時、年長児だったYちゃんが、母親といっしょにテレビで視ていたときのことです。
「あのお母さん、なんで死なはったんや?」
「何かつらいことがあって、生きていくのが苦しくなったのと違う?」
「そんなら、二人の子どもは、なんで死んだんや?」
「そりゃ、お母さんが死ぬから、いっしょに死んだんでしょ。」
「子どもも、いっしょに死にたかったんか?」
「子どもは死にたくなかったけれど、お母さんが死ぬから子どもを置いておけないし、仕方なかったのね。」
「それやったら、そのお母さんおかしいわ。自分が死にたいんやったら、一人で、だまって死ななあかん。子どものこと心配なんやったら、お母さんかて死んだらあかんわ。」
「……。それじゃあ、もしも、うちが貧乏に貧乏になってどうしても生きていかれへんし、お母さん死ぬいうたら、Yちゃんどうする?」
「ぼくやったら、やめといていうて、お母さんの足もって離さんように、一生懸命引っぱるわ。」
「それでも、死ぬいうたら?」
「それはハクジョウや。ぼく、警察の人にきてもろて、お母さん死なさんように守ってもらうわ。ぼくらな、貧乏になったかて、家の人がみんな一緒やったら、なんともあらへん。絶対に死んだらあかん、絶対にやで。いのち、粗末にしたら、バチ当たるわ!」
まさに、5才の幼児のすさまじいばかりの情念であり、死生観であります。いのちの尊厳を切々と訴えるYちゃんの、上滑りでない、魂をゆさぶる言葉のひと言ひと言は、30年以上経った今もなお、わたしの脳裏に焼きついて離れないでいました。
そうしたとき、たまたま店頭でであったのが、パトリック・ジルソンの手になる『レアの星』の絵本でした。ふつう、動物や植物に姿を借りて、子どもたちに生と死の問題を象徴的に語りかける絵本は多く見られます。中でも『わすれられないおくりもの』や『葉っぱのフレディ』などは、名作として知られています。だがこの『レアの星』は、視点をごく身近な人間間の“友だちの死”に置いているところに、それらとは一線を画しています。
──小児がんにかかった女の子レアと、同級生の男の子ロビンの二人は、残されたわずかな時間の中で、あたたかな友情を育んでいきます。
ある夜のことでした。シーンとした寒い空には、無数の星が光っています。
「ずっと、星を見てるとね、星はひとつずつみんな違うの。大きさも、色も。わたしはあの青くて小さい星が好き。なんて名前かしら?」
「あの星はね、だれかが名前をつけてくれるのを、待ってるんだ。レアみたいに、どんな星よりかわいいあの星は、誰の星でもない、“レアの星”だよ。」
ロビンはそういって、確実に近づく死を自覚しているレアに、希望を与えながら励ますのです。やがて、夜空にかがやく星となったレアの死を通してこの絵本は、死とはなにか、生きるとはなにか、真の幸せとはなにかを、子どもたちに語りかけてくれるのです……。
もしも、大好きな友だちが重い病気にかかったら、そしてそれが元で永遠に別れなければならなくなったら。そればかりか、もっと身近な自分の家族のだれかに、もしものことが起こったら……?
そんなことにまで、思いを巡らせたのか、『レアの星』の読み聞かせが終わったあと、いつになく神妙に、しばらくは子どもたちの間を静かな時間が流れていました。
やがて、ぽつりぽつり、子どもたちは語りはじめました。
「レアは、かわいそうやけど、ほんまは、幸せなんや。」
「そうや、お星さまになって、天国いけたんやもん。」
「ロビンちゃんと、さいごまで仲良しでいられて、よかったね。」
「ぼくのおばあちゃん、92才で死なはったけど、お星さんになってはるやろか?」
「そら、生きている間にええことしてたら天国いけるんやし、お星さんにかてなれるんとちがう?」
「お星さんになれたかて、ぼく、やっぱり早う死ぬのはいやや。長生きしたいわ。」
「そういうたかて、神さんが決めはることやし、どうにもならんわ。」
ざっと、こんな会話が交わされていました。そこでわたしは、
「そうだね、100才まで生きれるお年寄りもいるし、たった10才で死ぬ子どももいる。人のいのちはだれも自分で決めることはできないね。でも、どんな人にでもできることは、生きている間、いのちの長い人は長い間、短い間は短い間、その一日一日のいのちを大事に、一生懸命生きていくことね。お勉強だって、大人になってからのお仕事だって、何でも、しぶしぶ、いやいや、だらだらしながら生きていても、死ぬときにはきっと悔いが残って、お星さまにはなれないよね。それから、お父さん、お母さん、兄弟、お友達、そういう回りにいる人たちと、こころを込めて、ありがとうの気持ちで、一人一人と大切に過ごしていく。これも大事なことだね。そうしたことが、さっき、お友だちの言った『ええことしてたら、天国いけるし、お星さまにもなれる』ということになるんだろうね。」
子どもたちは、先ほどからの神妙な顔つきを崩さないまま聞いていましたが、教室が終わって園庭へ出るなり、さっそくジャングルジムのてっぺんへ駆けのぼり、街へ向ってヤッホーと呼びかけたり、“泥巡ごっこ”で庭を駆け回ったりして元気いっぱい、ふだんの表情に戻っているのでした。
*
Yちゃんは、必死になって死を否定しました。ロビンは、静かに死を肯定し、励ましを与えています。まるで正反対のようですが、いずれも、子どもの感性に基づく純粋な死生観です。そして、死の問題と真剣に向かい合った子どもにとっては、それは生涯忘れ得ぬ感動だったのです。
このような、幼少期に受けた感動が、いついつまでも心のどこかに残っていたり、何かのはずみに思い起こされたりして、これからの人生の折々に生きる支えとなったり、判断の道しるべとなってくれるような、そのような絵本や紙芝居の選択に、今後も努めたいと思っています。
と同時に、福音館の松居氏も、
「絵本の読み聞かせは、絵本の力を生かす方法である」
と強調されるように、充分、読みの練習に時間をかけて、作者の意図が子どもたちの胸の中に浸透するような、そんな、効果ある読み聞かせを目指して、これからも努力したいと思っております。
(文章 山下一郎)
『ことば』低学年クラス
(水曜日 4 :10~5 :10 )
『レアの星』 子どもの死生観
──担当 山下一郎
だれしも、死の問題にはあまり触れたがりません。まして、未成熟な子どもに生死の問題と真正面から向き合わせるのは、好ましいことと思われないようです。
しかし、幼い子どもといえども、いや、幼少の時期だからこそ、死のもつ厳粛な意味を知ることによって、生を尊重する意識が芽生え、その後の成長にも大きく影響を与えるものと思われます。
そこでわたしは、ある日の“ことばの教室(小1,2年生)”の読み聞かせで、子どもの死をテーマにした、『レアの星』の絵本を取り上げることにしましたが、じつは、この絵本を選ぶに当たっては、かつて、感銘を深くしたある出来事との出会いがありました。先ずそのことについて、触れておきたいと思います。
*
それは、今から30年以上も前の、ある年の秋のお彼岸の頃、お墓参りの帰り道に、母親の身体に子ども二人をロープでしっかり括りつけて、母子三人で奈良の池へ入水心中した事件がありました。この報道を、当時、年長児だったYちゃんが、母親といっしょにテレビで視ていたときのことです。
「あのお母さん、なんで死なはったんや?」
「何かつらいことがあって、生きていくのが苦しくなったのと違う?」
「そんなら、二人の子どもは、なんで死んだんや?」
「そりゃ、お母さんが死ぬから、いっしょに死んだんでしょ。」
「子どもも、いっしょに死にたかったんか?」
「子どもは死にたくなかったけれど、お母さんが死ぬから子どもを置いておけないし、仕方なかったのね。」
「それやったら、そのお母さんおかしいわ。自分が死にたいんやったら、一人で、だまって死ななあかん。子どものこと心配なんやったら、お母さんかて死んだらあかんわ。」
「……。それじゃあ、もしも、うちが貧乏に貧乏になってどうしても生きていかれへんし、お母さん死ぬいうたら、Yちゃんどうする?」
「ぼくやったら、やめといていうて、お母さんの足もって離さんように、一生懸命引っぱるわ。」
「それでも、死ぬいうたら?」
「それはハクジョウや。ぼく、警察の人にきてもろて、お母さん死なさんように守ってもらうわ。ぼくらな、貧乏になったかて、家の人がみんな一緒やったら、なんともあらへん。絶対に死んだらあかん、絶対にやで。いのち、粗末にしたら、バチ当たるわ!」
まさに、5才の幼児のすさまじいばかりの情念であり、死生観であります。いのちの尊厳を切々と訴えるYちゃんの、上滑りでない、魂をゆさぶる言葉のひと言ひと言は、30年以上経った今もなお、わたしの脳裏に焼きついて離れないでいました。
そうしたとき、たまたま店頭でであったのが、パトリック・ジルソンの手になる『レアの星』の絵本でした。ふつう、動物や植物に姿を借りて、子どもたちに生と死の問題を象徴的に語りかける絵本は多く見られます。中でも『わすれられないおくりもの』や『葉っぱのフレディ』などは、名作として知られています。だがこの『レアの星』は、視点をごく身近な人間間の“友だちの死”に置いているところに、それらとは一線を画しています。
──小児がんにかかった女の子レアと、同級生の男の子ロビンの二人は、残されたわずかな時間の中で、あたたかな友情を育んでいきます。
ある夜のことでした。シーンとした寒い空には、無数の星が光っています。
「ずっと、星を見てるとね、星はひとつずつみんな違うの。大きさも、色も。わたしはあの青くて小さい星が好き。なんて名前かしら?」
「あの星はね、だれかが名前をつけてくれるのを、待ってるんだ。レアみたいに、どんな星よりかわいいあの星は、誰の星でもない、“レアの星”だよ。」
ロビンはそういって、確実に近づく死を自覚しているレアに、希望を与えながら励ますのです。やがて、夜空にかがやく星となったレアの死を通してこの絵本は、死とはなにか、生きるとはなにか、真の幸せとはなにかを、子どもたちに語りかけてくれるのです……。
もしも、大好きな友だちが重い病気にかかったら、そしてそれが元で永遠に別れなければならなくなったら。そればかりか、もっと身近な自分の家族のだれかに、もしものことが起こったら……?
そんなことにまで、思いを巡らせたのか、『レアの星』の読み聞かせが終わったあと、いつになく神妙に、しばらくは子どもたちの間を静かな時間が流れていました。
やがて、ぽつりぽつり、子どもたちは語りはじめました。
「レアは、かわいそうやけど、ほんまは、幸せなんや。」
「そうや、お星さまになって、天国いけたんやもん。」
「ロビンちゃんと、さいごまで仲良しでいられて、よかったね。」
「ぼくのおばあちゃん、92才で死なはったけど、お星さんになってはるやろか?」
「そら、生きている間にええことしてたら天国いけるんやし、お星さんにかてなれるんとちがう?」
「お星さんになれたかて、ぼく、やっぱり早う死ぬのはいやや。長生きしたいわ。」
「そういうたかて、神さんが決めはることやし、どうにもならんわ。」
ざっと、こんな会話が交わされていました。そこでわたしは、
「そうだね、100才まで生きれるお年寄りもいるし、たった10才で死ぬ子どももいる。人のいのちはだれも自分で決めることはできないね。でも、どんな人にでもできることは、生きている間、いのちの長い人は長い間、短い間は短い間、その一日一日のいのちを大事に、一生懸命生きていくことね。お勉強だって、大人になってからのお仕事だって、何でも、しぶしぶ、いやいや、だらだらしながら生きていても、死ぬときにはきっと悔いが残って、お星さまにはなれないよね。それから、お父さん、お母さん、兄弟、お友達、そういう回りにいる人たちと、こころを込めて、ありがとうの気持ちで、一人一人と大切に過ごしていく。これも大事なことだね。そうしたことが、さっき、お友だちの言った『ええことしてたら、天国いけるし、お星さまにもなれる』ということになるんだろうね。」
子どもたちは、先ほどからの神妙な顔つきを崩さないまま聞いていましたが、教室が終わって園庭へ出るなり、さっそくジャングルジムのてっぺんへ駆けのぼり、街へ向ってヤッホーと呼びかけたり、“泥巡ごっこ”で庭を駆け回ったりして元気いっぱい、ふだんの表情に戻っているのでした。
*
Yちゃんは、必死になって死を否定しました。ロビンは、静かに死を肯定し、励ましを与えています。まるで正反対のようですが、いずれも、子どもの感性に基づく純粋な死生観です。そして、死の問題と真剣に向かい合った子どもにとっては、それは生涯忘れ得ぬ感動だったのです。
このような、幼少期に受けた感動が、いついつまでも心のどこかに残っていたり、何かのはずみに思い起こされたりして、これからの人生の折々に生きる支えとなったり、判断の道しるべとなってくれるような、そのような絵本や紙芝居の選択に、今後も努めたいと思っています。
と同時に、福音館の松居氏も、
「絵本の読み聞かせは、絵本の力を生かす方法である」
と強調されるように、充分、読みの練習に時間をかけて、作者の意図が子どもたちの胸の中に浸透するような、そんな、効果ある読み聞かせを目指して、これからも努力したいと思っております。
(文章 山下一郎)
『ことば』高学年クラス
(火曜日A 4 :10~5 :10 / B 5 :30~6 :30)
『ほったんかけたか』
──担当 Nagumo Taisuke
タイトルを見て何のことやらと思われた方が多いかと思いますが、これ、現在火曜日の「ことば」のクラスで読んでいる若山牧水の『みなかみ紀行』所収、「山上湖へ」という一章にでてきますひとことです。
ひとこと、といいますか、要は牧水が憩う木立の中で耳を澄ませた郭公(カッコウ)の鳴き声の音写であります。
私なぞは日本海側の生まれであるせいか、この「ほったんかけたか(ほっけんかけたか)」を読むと反射的に親不知子不知(おやしらずこしらず)、安寿と厨子王の昔話を思い出してしまうのですが、そういえばこれも森鷗外がたいへん優れた文章に書いております(『山椒大夫』)ので、そのうち授業で取り上げるかも知れませんし、また「何でほったんかけたかと鷗外が関係あるの」と思われた向きには繙読されると面白いかも知れません。
さて、私の担当している「ことば」のクラスでは、まず音読。そして漢字の読み書き。辞書を引く。という三本柱を建てています。
まだ屋根が載っかっておりませんけれど、屋根というのは文章を読んで感じ味わい、そしてそこから受けたこころの動き(ジーンとしたとか面白くなかったとか、何にも感じなかったとか、快不快ひっくるめてぜんぶ)を「自分が使える日本語で表現する=書く」ということであるのですが、そこまではまだ達成できておりません。
「何にも感じない」ことを表現する、というのはどうも一見矛盾しているようですが、感じないからにはその理由があって、どうしてそうなのという根本まで突き詰めて考える、そういうことが出来れば良い訳です。不可能なことではありません。
そしてその基礎となるのはやはり読み書きであり、土台もしっかりしてないのに屋根は載っかりませんし、また「音読」というのもポイントで、牧水は歌人でありますから、ことばの持つリズムとか舌の上に転がる感覚とか、そういったものを非常に大切にしています。それは実際に声に出して読んでみないとなかなか調子がわかりません。
文章を読む楽しみというもの、そのひとつには「自分のお気に入りのことばや文章を見つける」というのがあるかと思いますが、タイトルの「ほったんかけたか」は最近の授業でちょっとブレイク(まさに文字通り爆笑が割れて出る感じ)したことばであります。意外な面白さを湛えた日本語の発見、それはやはり他人から受ける感化の力が大きい。
自分は授業前に通読したときは、その前後の心情描写が非常に美しいことばかりに気を取られて、「ほったんかけたか」には特別注意を払うというようなことはしませんでしたけれども、この音写の絶妙なこと、それは柔らかな感受性に教えられたことであります。寂しさばっかりを感じてしみじみするのみならず、頭蓋骨に響いてくる朗らかさがあります。
本というのはいっぺん買ったら捨てるか売るか無くすまで、ずっと手元にあることになりますから、何年かまた何十年かあと、ふっと読み返してみるような偶然があるかも知れません。そんなすてきな偶然が、今は小さな雛鳥たちに、きっと訪れますように。
『ことば』高学年クラス
(火曜日A 4 :10~5 :10 / B 5 :30~6 :30)
『ほったんかけたか』
──担当 Nagumo Taisuke
タイトルを見て何のことやらと思われた方が多いかと思いますが、これ、現在火曜日の「ことば」のクラスで読んでいる若山牧水の『みなかみ紀行』所収、「山上湖へ」という一章にでてきますひとことです。
ひとこと、といいますか、要は牧水が憩う木立の中で耳を澄ませた郭公(カッコウ)の鳴き声の音写であります。
私なぞは日本海側の生まれであるせいか、この「ほったんかけたか(ほっけんかけたか)」を読むと反射的に親不知子不知(おやしらずこしらず)、安寿と厨子王の昔話を思い出してしまうのですが、そういえばこれも森鷗外がたいへん優れた文章に書いております(『山椒大夫』)ので、そのうち授業で取り上げるかも知れませんし、また「何でほったんかけたかと鷗外が関係あるの」と思われた向きには繙読されると面白いかも知れません。
さて、私の担当している「ことば」のクラスでは、まず音読。そして漢字の読み書き。辞書を引く。という三本柱を建てています。
まだ屋根が載っかっておりませんけれど、屋根というのは文章を読んで感じ味わい、そしてそこから受けたこころの動き(ジーンとしたとか面白くなかったとか、何にも感じなかったとか、快不快ひっくるめてぜんぶ)を「自分が使える日本語で表現する=書く」ということであるのですが、そこまではまだ達成できておりません。
「何にも感じない」ことを表現する、というのはどうも一見矛盾しているようですが、感じないからにはその理由があって、どうしてそうなのという根本まで突き詰めて考える、そういうことが出来れば良い訳です。不可能なことではありません。
そしてその基礎となるのはやはり読み書きであり、土台もしっかりしてないのに屋根は載っかりませんし、また「音読」というのもポイントで、牧水は歌人でありますから、ことばの持つリズムとか舌の上に転がる感覚とか、そういったものを非常に大切にしています。それは実際に声に出して読んでみないとなかなか調子がわかりません。
文章を読む楽しみというもの、そのひとつには「自分のお気に入りのことばや文章を見つける」というのがあるかと思いますが、タイトルの「ほったんかけたか」は最近の授業でちょっとブレイク(まさに文字通り爆笑が割れて出る感じ)したことばであります。意外な面白さを湛えた日本語の発見、それはやはり他人から受ける感化の力が大きい。
自分は授業前に通読したときは、その前後の心情描写が非常に美しいことばかりに気を取られて、「ほったんかけたか」には特別注意を払うというようなことはしませんでしたけれども、この音写の絶妙なこと、それは柔らかな感受性に教えられたことであります。寂しさばっかりを感じてしみじみするのみならず、頭蓋骨に響いてくる朗らかさがあります。
本というのはいっぺん買ったら捨てるか売るか無くすまで、ずっと手元にあることになりますから、何年かまた何十年かあと、ふっと読み返してみるような偶然があるかも知れません。そんなすてきな偶然が、今は小さな雛鳥たちに、きっと訪れますように。
『青春ライブ授業!』
――今、中・高生に語りたいこと――
5月28日 細水康平 京都大学大学院M2
「化学と生物学のハーモニー」(終了)
6月18日 下村昭彦 滋賀医科大学4回生
「がんってなんだろう?」
25日 宇梶 卓 京都大学大学院D2
「大学進学の先にあるもの」
7月 9日 廣瀬一隆 滋賀医科大学2回生
「『考える』ということについて」
とき pm7:00~8:30(シンポジウム~10:00)
場所 北白川幼稚園・第3園舎(つき組)
対象 中学生・高校生・保護者
*前半90分が授業内容、後半90分がシンポジウム(講師と
のフリートーク)となっております。(後半は、お時間の許す
範囲でご参加いただいて結構です)
*なお、前回のお知らせの時間帯では8:00-9:30となっており
ましたが、第2回目以降は、シンポジウムを設ける都合、開
始時間を繰り上げさせて頂いております。ご了承ください。
『青春ライブ授業!』
――今、中・高生に語りたいこと――
5月28日 細水康平 京都大学大学院M2
「化学と生物学のハーモニー」(終了)
6月18日 下村昭彦 滋賀医科大学4回生
「がんってなんだろう?」
25日 宇梶 卓 京都大学大学院D2
「大学進学の先にあるもの」
7月 9日 廣瀬一隆 滋賀医科大学2回生
「『考える』ということについて」
とき pm7:00~8:30(シンポジウム~10:00)
場所 北白川幼稚園・第3園舎(つき組)
対象 中学生・高校生・保護者
*前半90分が授業内容、後半90分がシンポジウム(講師と
のフリートーク)となっております。(後半は、お時間の許す
範囲でご参加いただいて結構です)
*なお、前回のお知らせの時間帯では8:00-9:30となっており
ましたが、第2回目以降は、シンポジウムを設ける都合、開
始時間を繰り上げさせて頂いております。ご了承ください。
福西@かずです。
今回は、九九の表で対角に並ぶ
1
4
9
16
…
という数がテーマでした。
用意するものは、厚紙。それに方眼をいれて、
「1×1」~「16×16」のトウフを作ります。
さあ、これでどんなふうに遊んでくれるかな?
T君が最初にやり出したのは、足し算でした。
1+4+9+16+…
を、1+4+9+16+25=55、36+64=100と、途中スタック
しながら、和が1000を超えるのがいつか確かめていました。
11×11=121
12×12=144
を計算した時、T君は144と121の間にも計算を入れて、
144-121=23
と、引き算を始めました。
足し算から脱線したように見えますが、T君はこの計算に
新しい興味を持って、それを自力で進めているうちに、
「2ずつ増えてる~」
と言い出しました。それは…
11×11=121
+23
12×12=144
+25
13×13=169
+27
14×14=196
という関係が(…23→25→27…)あることに気付いたのです!
途中がそうなら、その前後もそうに違いない!
「じゃあ、121の前からは、なんぼ増えて来たんかいな?」
T君の頭の中では、サッと
23-2=21
「21のはずだ!」
とひらめいて、
121-100
を計算すると、鮮やかに脳裏の数と一致。
すごいなあ。
「かけ算から面積へ」の橋渡しをするつもりだったのですが、
彼はその先へ行って、「数列の世界」にまでアプローチして
いた、というエピソードでした。
福西@かずです。
今回は、九九の表で対角に並ぶ
1
4
9
16
…
という数がテーマでした。
用意するものは、厚紙。それに方眼をいれて、
「1×1」~「16×16」のトウフを作ります。
さあ、これでどんなふうに遊んでくれるかな?
T君が最初にやり出したのは、足し算でした。
1+4+9+16+…
を、1+4+9+16+25=55、36+64=100と、途中スタック
しながら、和が1000を超えるのがいつか確かめていました。
11×11=121
12×12=144
を計算した時、T君は144と121の間にも計算を入れて、
144-121=23
と、引き算を始めました。
足し算から脱線したように見えますが、T君はこの計算に
新しい興味を持って、それを自力で進めているうちに、
「2ずつ増えてる~」
と言い出しました。それは…
11×11=121
+23
12×12=144
+25
13×13=169
+27
14×14=196
という関係が(…23→25→27…)あることに気付いたのです!
途中がそうなら、その前後もそうに違いない!
「じゃあ、121の前からは、なんぼ増えて来たんかいな?」
T君の頭の中では、サッと
23-2=21
「21のはずだ!」
とひらめいて、
121-100
を計算すると、鮮やかに脳裏の数と一致。
すごいなあ。
「かけ算から面積へ」の橋渡しをするつもりだったのですが、
彼はその先へ行って、「数列の世界」にまでアプローチして
いた、というエピソードでした。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の「やまなし」を読みました。
「やまなし」は私自身、小学生の頃に教科書で読んだ記憶があります。
高学年ぐらいだったでしょうか。
最近、「青空文庫」でこの文章を見てその頃を思い出し、ふと懐かしい思いに駆られることがありました。
もしかしたら、この後生徒は学校の教科書でまた読むことになるかもしれません。そのときにせよ、あるいは他のときにせよ、この文章を思い出してくれればと思い、テクストに選びました。
でも、生徒のSくんは最初からこちらの予想をいい意味で裏切りました。
二匹の蟹が会話をしているのを見て、Sくんは、
「(この話は、)実はやまなしが弟の蟹に当たっているのをお兄さんの蟹が助ける話だよ」
と言いました。
最近気づいたことなのですが、Sくんは自分の中でいろんなお話を作るのが得意なようです。
もともと子どもはすぐに替え歌を作ったりするのが好きなようですが、Sくんは自分から新たなお話を作るのが好きなようです。
物語を改作してしまったり、新たな物語を作ったりするこのような傾向に私は注目しています。
もしこの流れをうまく引き出すことができれば、Sくんは「小さな作家」になれるかもしれませんから。
もしSくんがお話を紡ぎだすことができれば、これは山の学校の、そしてSくん自身の財産になるのではないでしょうか。
などということをちょっと期待しています。
もっとも、過剰な期待でSくんを押し潰してもいけないので、彼の気持ちを一つ一つ受けとめながら、やりとりしていきたいと思います。
今日はここまでということで失礼します。
Appendix.
以下はちょっとした夢想です。
例えば「小さな作家」となったSくんがつくったお話が、その後山の学校の生徒たちの前で読まれ、それに刺激されて新しい「小さな作家」たちが生まれたら、などということを考えてしまいます。
日本民俗学の祖である柳田國男は、物語の改作や新作のメカニズムをきわめて重視しました。
それはここでの話にも一致すると思います。
子どもたちの創作意欲によって生まれた物語が、後輩たちに受け継がれ、そしてその後輩たちがまた新たな物語を生み出し、それもまた受け継がれていく。
これは実現できればすごい話だと思います。
以上、ちょっとした夢でした。
水曜日「ことば」担当の宇梶です。
今日は宮沢賢治の「やまなし」を読みました。
「やまなし」は私自身、小学生の頃に教科書で読んだ記憶があります。
高学年ぐらいだったでしょうか。
最近、「青空文庫」でこの文章を見てその頃を思い出し、ふと懐かしい思いに駆られることがありました。
もしかしたら、この後生徒は学校の教科書でまた読むことになるかもしれません。そのときにせよ、あるいは他のときにせよ、この文章を思い出してくれればと思い、テクストに選びました。
でも、生徒のSくんは最初からこちらの予想をいい意味で裏切りました。
二匹の蟹が会話をしているのを見て、Sくんは、
「(この話は、)実はやまなしが弟の蟹に当たっているのをお兄さんの蟹が助ける話だよ」
と言いました。
最近気づいたことなのですが、Sくんは自分の中でいろんなお話を作るのが得意なようです。
もともと子どもはすぐに替え歌を作ったりするのが好きなようですが、Sくんは自分から新たなお話を作るのが好きなようです。
物語を改作してしまったり、新たな物語を作ったりするこのような傾向に私は注目しています。
もしこの流れをうまく引き出すことができれば、Sくんは「小さな作家」になれるかもしれませんから。
もしSくんがお話を紡ぎだすことができれば、これは山の学校の、そしてSくん自身の財産になるのではないでしょうか。
などということをちょっと期待しています。
もっとも、過剰な期待でSくんを押し潰してもいけないので、彼の気持ちを一つ一つ受けとめながら、やりとりしていきたいと思います。
今日はここまでということで失礼します。
Appendix.
以下はちょっとした夢想です。
例えば「小さな作家」となったSくんがつくったお話が、その後山の学校の生徒たちの前で読まれ、それに刺激されて新しい「小さな作家」たちが生まれたら、などということを考えてしまいます。
日本民俗学の祖である柳田國男は、物語の改作や新作のメカニズムをきわめて重視しました。
それはここでの話にも一致すると思います。
子どもたちの創作意欲によって生まれた物語が、後輩たちに受け継がれ、そしてその後輩たちがまた新たな物語を生み出し、それもまた受け継がれていく。
これは実現できればすごい話だと思います。
以上、ちょっとした夢でした。