知人からこんな話を聞きました:
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剣道(に限らないかもしれませんが)において「守・破・離」 という言葉があります。
「守」は「師の教えを守り、忠実に基本を体に染み込ませること」
「破」は「基本を踏まえたうえで、自分なりのものを見つけてゆくこと」
「離」は「師、仲間から教えられる立場から離れ、誰かに教えられるようになっていくこと」
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勉強も同じではないかと思います。小・中・高校の勉強は、「守」でしょう。
大学で「破」となり、大学院以上で「離」となるように思います。
まずは「守」をきっちり行うことが、「破」「離」の基礎になることは
間違いありません。
守・破・離、は世阿弥の言葉みたいですね。
Posted by: 前川 裕 at November 23, 2005 02:35 PMなるほど。私自身スポーツをしていたので、
ご紹介いただいたお話はとてもよくわかります。
山の学校も3年目にして、今回お書きのスタイルを
指導の基本方針として掲げたいと思えるように
なってまいりました。
一つのことについて、実感を持って受け入れたり、
理解したりするのに、経験と時間が必要だと
感じるこのごろです。
細かい話ですが、守・破・離は江戸時代の茶人、川上不白の提起したものだとか。世阿弥は同じ精神だけれども「序・破・急」という言葉を使っているといいます。後者なら私も聞いたことがあります。
後日に「風姿花伝」を読んでチェックしておきます。
Posted by: 前川 裕 at November 23, 2005 05:47 PM山の学校の中学生はみんな学校でクラブ(体育系)をしています。
その体験と結びつけるように、私はしょっちゅう
「素振りとおんなじだ!」と言ったこともありましたが、
頭でたとえ話しがいくらわかっても、心と体がついてこない、
ということがしばしばあるので、最近私も理屈をいわずに、
英語の時間はただ白い紙を渡し、ひたすら目の前で書き写させます。
こうして指を動かし続ける時間をどうやって演出できるか。
その演出方法にどれだけパターンをもっているか?教師はそこに
力量を問われるように思います。
一般に、勉強は頭でするものと思う節があるようで、それも一理
あるのですが、かりにそういうタイプの勉強ばかりだと、
どうしても頭には雑念が入ってきますので、結局の所勉強に身が入
らなかったりします。
一方、スポーツの場合だと、目の前にボールが飛んできたら、
「腹が減った」とか「今晩は面白いテレビがあるぞ」なんて思わず、
ひたすらボールに向かって体は対処しようと反応します。
勉強も、手や指を動かしたり、口を動かしたり、耳をよく開いて
聞き取りをしたり・・・体を使う要素も効果的に取り入れると、
同じ一時間でもトータルでよく集中して勉強できた、という結果を
手にすることができるように思います。
語学だと、辞書を引いてみる、というのも頭と体が連動した経験に
なる点で大事な切り口だと思います。