山下です。
N先生の日記にて、ヤスパースが引用されています。
「哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。
ヤスパース、草薙正夫訳『哲学入門』新潮文庫」
真理の探究者のことを、その途上にある人のことを、student と呼ぶわけです。先生も student でなければうそになります。私たちが「知識」の切り売りをするソフィストでない、とするならば。
ここが重要なポイントだと思います。
Posted by at October 12, 2005 10:10 AM補足…ソフィスト:ソクラテス以前の職業的教師、詭弁家
固定化され停滞した思考ではなくて、常に柔軟に新しい考え方や知識を取り入れたり批判したりすることが出来るよう、意識することが求められていると思います。
その意味では、教師も生徒も目線の高さは同じ位置にありますね。
目線の高さが同じ、というのが大事なんだと思います。
「勉強する」というのは子どもたちだけの、また、大学生だけの特権ではないということの認識が、日本の社会にとって、重要であると思います。
今、幼稚園の仕事に従事しているので、どうしても親子関係に目がいくのですが、子どもに勉強してほしい親は多いのです。いわゆる親心というのもあって。
しかし、「勉強しなさい」というのは親にとって損な台詞だと思います。子どもは親の足下をよく見ています。
逆に、子どもの勉強を横で「見守る」と、親にとってもその体験はなかなか興味深いものです。
いっしょに勉強するとき、あるいは勉強を見てあげるとき、親は子に「勉強しなさい」と言う必要はなくなります。
私も親に勉強しろとは言われなかったし、自分の子にも、英語の単語の派生語クイズはしますが、勉強しろとは言いたくないのです。
Posted by: 山下太郎 at October 13, 2005 04:41 PM自分のクラスで今年度から学期末に保護者の方からコメントを戴くようにしているのですが、「家でももっと厳しくしたほうが良いのでしょうか」といった内容のものが多いのです。
これはどうしてそうなるのか疑問だったのですが、やはり、家では厳しくするのではなく(発破はこちらでかけるので)、「一緒に取り組む」ことが出来たら理想的だと思います。
目の前にいる人が楽しそうにそれをやっていたら、自分もしてみたくなるのと同じですね。
幼児教育に携わっていると、厳しくすべきなのは大人が自分に対してである、と思います。
私の母方の祖父は心臓が悪く、あの山道を登るのが一苦労でしたが、初孫の私(当時幼稚園年長くらい)に会いに来るのが楽しみでした。
あるとき、300円のプラモデルを買ってきてくれるという約束があったのですが、久々に訪れた祖父が私に手みやげとしてくれたのは250円のプラモデルでした。
私が約束していた値段との違いを指摘すると、にこやかだった祖父の表情が一変し、ひとこと「悪かった」と言い残すとプラモデル屋をめざしてふたたび山道をおりていきました。時間が流れ、戻ってきた祖父の手には400円のプラモデルが・・・。
おそらく最初の買い物の時には、300円ちょうどのがなく、400円のと迷った上で250円のを選んだかもしれません。
この迷い(?)を孫に指摘され、約束は約束だと自分に厳しく言い聞かせたところが祖父らしいところであり、明治の人間の厳しさであったと思われます。
結局、私は合計650円のプラモデルを手にし、うれしいような悪いような気持ちになったのを覚えています。
祖父は戦後まもないころ滋賀県庁に勤めていましたが、孤児や知的障害の子どもたちの惨状を見て見ぬふりができず、教育の機会を与える場として「近江学園」を創設しました。(http://www.pref.shiga.jp/profile/jinbutsu/itoga.htm)
私が小学校2年生の時になくなりましたが、総じて優しい人柄であっただけに、大人としての厳しさを感じたできごとを、幼児といえ印象深く記憶しているのだと思います。
Posted by: 山下太郎 at October 16, 2005 08:47 AM