February 10, 2005

最近のつれづれ

福西@かずです。
山びこ通信の原稿とは別に、今何気に思っていることを書いてみた文章です。

「ひらめき=天才」という命題

 昨年、日本の新体操陣営がアテネ・オリンピックで活躍しましたが、その影響で、体操クラブへの習いごと熱が高まっているというニュースを見たことがあります。
 取材に応じたあるコーチが、淡々と言うには、近所から通う子どもも、選手育成コースの人も、練習内容はひたすら基本となる動作の繰り返しで、特別なプログラムをこなしているわけではありません、ということでした。
 ああ、そうか。これがあの9.875という数字となるのだ。と、吊り輪で回っている体操選手の映像が、何か立体的に見える思いがしたのでした。
 審査員が見ている技の美しさとは、つまり膨大な基本の蓄積であり、過去であり、いわば結晶なのです。演技の華やかさに目を奪われがちですが、それを作り出す原理は、蓄積された基本にあるのだと。蓄積されているものを見ることは稀だからこそ、驚きとなる、それが新体操なのだと、その時には思えたのでした。

 数学にも、『数学オリンピック』 (1)というものがあります。そこには、何時間もかけて、ひらめいて問題を解く楽しみがあります。しかしこの「ひらめき」という言葉はなかなか曲者で、人によっては、特別視すると同時に敬遠してしまうでしょう。『ひらめきは天才のものだ。私は天才ではない。だから天才のことは、私にはできない』という結論を導いてしまうのです。(2)しかし前提を誤っていることには、あえて気付こうとはしません。
 ひらめきとは、基本を思い出すことです。たとえば、解けると思っていたのに、なかなか解けない問題があるとします。うんうんうなっているうちに、ふと、基本にある定理や定義に立ち返って、再出発すると、なるほど、解けた、ということがよくあります。この「なるほど」が、ひらめきのことなのです。幾何学で必要な1本の補助線は、定理1つと等価です。それはすでにどこかに「書かれているもの」なのですが、最初に習った1回で、それを使えるようになったと心得てしまうのは、体操選手の大車輪を1回見て、自分もできると空想するのと同じです。泥臭いですが、何度も基本をおさらいして、ある日、補助線が「一度やったことのある定理」に見えた人は数学において強いですし、結局、数学を好きになっていきます。本当に基本問題に夢中になっていれば、「私にはひらめきがない」という口癖もおのずと消えていることでしょう。(福西亮馬)

(1) 数学オリンピックの目的は、それに参加した人が、自身の数学への好奇心を再確認し、参加した後は、数学それ自体に向かって行ってもらうことです。参加することに意義がある、というのはそういった意味です。数学オリンピックは、数学それ自身に対する窓です。ゴールではないです。

(2) ひらめきは決して天才のものではありません。なぜなら、外から与えられるのではなくて、内にあるべきものだからです。また、天才ということにしても、本当の天才は、内にあるものです。(内にあるものを外から与えられたと謙遜するのは、別のこととして善いとは思います)。

Posted by at February 10, 2005 01:51 PM | TrackBack
Comments

「天の与えた才能」(天才)は、泥臭い反復練
習によって開花する、と思っている私にとって、
なるほど!とエクスクラメーションマークをたくさ
んつけたくなるエントリーでした。ありがとうご
ざいました。

Posted by: 山下太郎 at February 10, 2005 04:22 PM
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