『ことば』中学年クラス
(水曜日4 :10~5 :10)
──遊んでいる子どもというものはみな、一つの独特な世界の事物を、
自分の気に入った、ある新しい秩序の中へと置き換えることによっ
て詩人と同じように振舞っているといっても差し支えないだろう。
実際、子どもというのは遊びの名人です。
自分たちでルールを決め、それに則って積極的に活動する。子どもの自主性の根幹はここにあるのだと思います。フロイトはこの「遊び」を想像力の源泉であると論じました。そこに詩人の世界を見出したのです。
この授業では、名作の物語を読み合わせたり、俳句を作ったりしています。俳句を作る際は、こちらから作り方を強制することはなく、子どもたちの自主性に任せるようにしています。
最初の授業の際に、こんな俳句が詠まれました。
・はっぱわね さいしょわきれいで いつかちる
有終の美を感じさせる、季節感に溢れた作品です。この美しい句を前にしては、「〈わ〉は〈は〉の間違いだよ」という批判はたいした意味をなさないでしょう。また、このような句も詠まれました。
・はっぱはね いろいろいろが あるんだよ
韻を踏んだ、おもしろみを感じさせる作品です。子どもは一般にリズムに愛着を覚えますが、この句はそれを踏まえた「遊び心」のようなものを感じさせてくれます。
勉強というのは本来、禁欲的なもので、遊びとは相容れないという通念が存在します。真面目な「お勉強」と不真面目な「お遊び」というのは本性上対立するものであると。
間違うことはいけないこととされ、「正しい」答えを押しつけられることで、子どもはやがて間違うことを恐れ、自分の意見を言えなくなってしまうでしょう。日本特有の文化神経症と言われる「対人恐怖」もこれと大きく結びついていると言えます。間違いを恐れ、恥じるあまり、何も言えなくなってしまうのです。
しかし、間違いを恐れること、それ自体がそもそもの間違いなのではないでしょうか。むしろ遊びの中で培ってきた「遊び心」を、そしてそれを基盤とした自主性を勉強の中にも根づかせる必要があるのだと思います。フロイトは先の文章に続いて、こう述べています。
──遊ぶ子どもはこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、
それは誤りである。どうしてどうして子どもは自分の遊びを非常に真
剣に考えている。…真剣さは遊びの反対物ではないのである。
確かに子どもは遊んでいるときは、きわめて真剣です。真剣に遊んでいるのです。このような真剣さを勉強の際にも生かせれば、というのがこの授業のモットーとなっています。実際にこの授業の中では、子どもたちは無心になって俳句を作って詠んだり、恥ずかしがることなく自分の意見を述べています。
例として、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』を読んだ際の出来事を挙げたいと思います。熊を殺すことに業を感じていた兵十郎という猟師は、最後には熊自身によって殺されてしまいます。この物語を読み終えた後、私は「兵十郎は死んだ後にどうなったんだろう?」と生徒に尋ねてみました。すると、次のような答えが。
「熊たちは小十郎を神様にしたの」
「だって、熊たちはもともと小十郎のこと好きだったんだもん」
これはとても美しい「解釈」です。私はこのような「解釈」が現れるとは、思いもよりませんでした。なるほど、フロイトの述べる通り、子どもは「詩人と同じように振舞っているといっても差し支えない」のです。
今後は子どもたちと一緒にお話を創作する予定です。子どもはその「遊び心」のためか、替え歌やお話の創作を好むようです。この傾向を伸ばしていけたらなと考えています。きっと一生物の財産となることでしょう。
(文章 宇梶卓)
Posted by at June 16, 2004 05:23 PM