幸せとは何か。健康とは何か。こういったテーマについて昔から多くの人が考えてきました。どうすれば、健康で、幸せな暮らしができるのか。確かに、これは人間であるかぎり、皆に共通した問題であると言えるかもしれません。ある人は、幸せとは多くを求めず、わずかな事に満足を知ることである、と考えました。
例えば、出世や成功を目指せば、必然的に失敗による不幸を味わう可能性が生じます。初めから、成功を求めず、現状に満足するように気持ちを変えれば、不幸を味わわずにすむというわけです。恋愛も喜びと同時に悲しみを与えます。悲しみを回避するためには、喜びをあきらめればよい、人を好きにならなければ、傷つかなくてよい、そう考えるわけです。
確かに、世の中の皆が、こういう考えを徹底すれば、争いや怒り、悲しみは大幅に減少するかも知れません。でもこれは短期的にはうまくいっても、長期的、いや一生の方針とするには少し無理がある気がします。この考えかたは、やはり「やせがまんの思想」と呼ぶべきかも知れません。
一方幸せは、自分の決めた目標や夢を努力によって達成して行く中に見出せる、とする立場があります。多少の失敗にはへこたれず、常に前向きにチャレンジする姿勢には、確かにわれわれの胸を打つ真実があると言えます。しかしこの立場はともすれば、人生の価値を、成功や失敗という結果だけで推し量る傾向を生みます。
成功者の努力を称える立場とは、裏を返せば敗北者の努力不足を非難する立場を意味するかも知れません。また、成功という言葉自体あいまいな言葉です。ある人にとっての成功は、別の人にとって失敗を意味するかも知れません。失敗、成功を決定する絶対的な基準は存在しないので、人生の価値をそれだけで決定しようとする態度は、やはり無理があると思われます。
例えば、成功を求めて人生を掛けても、一体いつになれば心からの満足を得ることができるでしょう。常に「上には上がいる」という現実の壁が私たちにこう語ります、「君はよく頑張っている、だがまだまだ努力が足りない」と。
上にあげた二つの考え方は、私たちのだれもが知らず知らずのうちに取り入れている(場合に応じてブレンドもする)ものですが、人生を最後まで生きていくための方針としては、どこかに不完全な点をかかえています。というのは、いかに時代が進歩しても、死すべき人間の定めはいかんともしがたいわけで、いわゆる世捨て人も、また「わが辞書には「不可能」という文字はない」と豪語する自信家も、死の恐怖を簡単に追い出すことはできないからです。
病気や死の恐怖は、人間の努力や美徳とは無関係に、すべての人間の幸せを脅かすと言ってよいでしょう。ただ、日常調子よく暮らしていたり、余りにも忙しすぎると、こういった点を一時的に忘却することになるわけです。ではこの問題を解く鍵はどこにあるのでしょうか。
例えば、空気がなくては生きていけないことは、小学生でも周知の事実ですが、この事実を腹から理解したければ、実際に息を止め1分以上我慢してみればよいでしょう。同様に、目の大切さを知りたければ、実際に5分間目をつぶってから、そっと目を開ければよいのです。
日頃当たり前に手にしたり、利用している物は他にいくらでもあります。太陽、水、大地、樹木などの自然を初め、歯、耳、鼻、胃、腕、足など体の各部分などがそうです。目の見えない人が視力を取り戻したときは、現実に色があることの素晴らしさを人一倍強く感じることでしょう。一方、目の見えることが当然だと思っている人に限って、自分の目の形がどうのこうのと文句を言うようです。
しかし、私たちの生活を支えるものは、こうした自然や肉体の働きだけに限りません。他者の存在とその労働が私たちの生存を支えていることは紛れもない事実です。近い所では、両親の働きを考えればよいでしょう。自分が生きてきた道、そして今後生きていく将来を考えるとき、両親の存在を無視することはだれにもできないはずです。
また、自分で生計を立て、料理をつくっているにせよ、お百姓さんの労働は無視できないし、また自分の労働自体、それを成立させる条件として、他者の存在と労働の仲介を考えないわけにはいきません(アルバイトをしているとよくわかるでしょう)。
要するに、ロビンソン・クルーソーのように、無人島で暮らす者は除き、人間は常に他者との協調と信頼関係の中で生きていることに気付きます。一方、世捨て人(ロビンソン・クルーソーも含めて)と言われる人は100パーセント自力で暮らしているようですが、実は違います。
自分が生きているという条件には、そもそも両親が生んでくれたという事実(自分の努力で誕生したのでは決してない!)、また他者の労働は仮に無視するとしても、先に挙げた自然の摂理や身体の諸機能(日本語を話せるという能力も人間の社会化の一例ですから,これも含めましょう)そのものは、本人の意思や決意、努力の前提として自然に成立しているものですから、彼がいかに意地を張っても,厳密に自力だけで獲得したとはいいがたいのです。
このように考えると、どうも簡単に不平や不満を言う事は悪いことのように思えてきます。あまり欲張りを言うと、ばちが当たるようにも思われます。しかし、私たちが今生きているこの社会を成立させる重要な条件の一つには、この「欲望」(ラテン語ではamor)を挙げることができると思います。
食欲がそうであるように、名声や富を求める気持ち、恋愛の願望など、人間の持つ様々な「欲望」は、生まれつき「授かった自然なもの」と見なせます。初めに挙げた「やせがまんの思想」では、これらの「欲望」一切を抑制することで、心の平静を保とうと考えました。しかしそれでは人間社会は維持も発展もしないでしょう。戦争も困るけれど、愛を抑制しても人類は滅亡します。
また、人間が常に「よりよい暮らし」を求めて工夫を重ねてきたからこそ、今日の文明の繁栄も見られるのです。そして自然破壊などの問題は抱えつつも、私たちが今日一日を不安なく過ごすことができるのも、この文明のお陰であることは言うまでもありません(地震の例を考えてみて下さい)。先に紹介した他者の労働の中身としては、この文明の維持、発展にたずさわる無数の人間の営みを考えることができるわけです。
では、このように自然の恵みや文明社会の中で生きるとき、人間の喜びはどこに見出せるのでしょうか。私たちは単に自然美を喜び、文明のもたらす様々な成果を享受するだけでよいのでしょうか。それができるなら、それでよいでしょう。健康と、金銭が保証する限り、それは可能なことでしょう。
だが、それは演劇で言えば、演じる側ではなく観客の側でしかありません。私たちは、各自が自分の人生においては主人公なのです。みながそれぞれ別の役割を持ち、社会を維持し守るのです。例えば自然の摂理に思いをはせるなら、同じ草や木が一本もないことがわかるでしょう。またバラの美しさ、桜の見事さ、というものはあっても、どれが一番美しいかと言われても答えに困るでしょう。
私たちも、同じ生き物として、この自然の摂理の中で生かされているのです。だれが一番偉いわけでも、だれが一番美しいわけでもないのです。また、同じ人間が二人存在することはなく、めいめいが異なる個性を備えているのです。
一方、人間の作るものは同じ物がたくさん存在します。だから、使い捨ても可能なわけです。捨ててもまた「別の物」(スペアー)があるから安心です。文明の発展に伴って、手作業が減少するにつれ、だれにでもできる仕事、というのが増えていきます。それは逆に言えば、一人が休んでも、代理がいれば大丈夫な体制に変わりつつあることを意味します。
それに伴い、本来同じではないはずの人間が、ちょうど機械の歯車のように、「交換可能な物」へと変貌していくような錯覚が生じてきます。働く本人も自分が無理をして頑張る必要はない、と思い込むようになっていきます。
先に述べたように、世の中は、お互いの労働によって成立する仕組みですが、今触れた労働観によれば、自分の労働が他人の幸福に結び付いているという意識が薄れていくのです。この不幸な見方を払拭するためにも、再び私たちの生そのものの見つめる必要があると思います。すなわち、自然の例からもうかがわれるごとく、私たちは皆「違う」という事実に注目したいのです。
ヘレン・ケラーの例を出すまでもなく、障害と戦い乗り越えた者は、健常者には味わえない喜びを感じるはずです。ハンディも幸福の糸口となるのです。他方、だれにだって,ハンディと共に他人にはない長所も授かるのでしょう。
バラがバラとして咲くように、スミレはスミレとして咲くのが美しいのです。他人の長所は羨ましくても、他人は自分を羨ましく思っているかもしれません。他とは異なる存在として誕生し、他人と異なる性質を備えて「生かされていく」私たちは、自分の長所をおごることも、短所を憤ることも許されてはいません。
例えば私たちは英語を外国語として学びますが、「アメリカ人だったらなあ」と思ったことはないでしょうか。好きで日本人になったのではなく、そう「定められて」こうなったのです。確かに、ここで憤るのも結構ですが、努力し上達する喜びの条件を与えられたと解することもできるでしょう。なぜならアメリカ人は、「英語が話せるようになった!」という喜びは生涯味わえず終まいですから。
日本人として生まれた条件を生かせばこそ、英語をマスターする喜びを得ることも可能となるわけです。こうして無意識のうちに「定められた」条件は無数にあり、この無数の条件が個人の「掛け換えのない個性」をつくっているのです。
ですから私たちは、この個性(個に与えられた可能性)を生かすように生きればよいのです。その可能性が何かを知ることが大切です。「自分を知る」とはそういうことです。それは、「自分の本当にしたいことを探し、花を咲かせる道を発見すること」と言い換えることが出来るかもしれません。
そのためには社会に出て、他者との交わりの中で、一喜一憂を重ねつつ、自分の良い点、悪い点を教わっていく、というやり方があるだけです。「世捨て人とは世を捨てた人ではなく、世が捨てた人だ」という言葉がありますが、確かに世間に出て初めて、自分の「値打ち」を教えてもらえるのです。
こうして自分の値打ちをよく知る者は、同時に他人の値打ちを知る人であるとも言えましょう。他人、そして社会の有り難みを知り、自然の摂理において生かされている事実を知るようになれば、小さい自分のための人生ではなく、自己の枠を越えたより大きい存在の下で人生を考える視点も自ずと与えられるのではないでしょうか。