「当事者であるメネラオスが、娘ヘルミオネを犠牲に殺せばよい。不義をした女(メネラオスの妻、ヘレネ)が、娘を連れてスパルタに戻ってきて、幸せに暮らすというのか。他方、あなたに操を立ててきた私は、娘を奪われなければならないのか。」
「私も人を憐れむことは知っているつもりだ。狂人でもない以上、自分の子が可愛い。こんなことをするのは気がとがめるが、しないでおくのもまた気がとがめるのだ。これは是が非でもしなければならぬ。船を連ねたあの兵士どもを見るがよい。青銅の武具をつけてヘラス中の国々から集った将軍たち。かれらはイリオン城をめざしているが、予言者カルカスの言うところでは、お前(イピゲネイア)を犠牲にしなければ、船出することもできず、名に聞こえたトロイアの砦(とりで)を攻め落としもできないのだ。
ある情熱がヘラスの兵士どもをとらえ、ヘラス中の女どもの掠奪を防ぐためにと、彼らは夷荻の地めざして、早く船出したがっている。もし女神のご託宣を無にするようなことをしては、アルゴスにいる娘たちをはじめ、おまえたちや私まで殺されてしまうだろう。
私はメネラオスの奴隷になったわけではない。またメネラオスのためにここへやってきたのでもない。ヘラスのためには、否が応でも、おまえを殺さなければならないのだ。これは私たちにとって、どうしようもないことなのだ。祖国を解放するためには、おまえも私もできる限りのことをしなければならない。蛮族どもにヘラス人が妻をとられてなろうものか。
「アルテミスが私の体をお望みなら、死なねばならぬ人間であるこの私が、神さまの邪魔をしていいものでしょうか。それはなりませぬ。私の体はヘラスのために捧げます。贄に捧げて、それでトロイアを討ち滅ぼして下さいまし。それは、私の、永遠までの思い出になることでしょう。子供たち、結婚、そして名誉が、私のものとなるのです。ヘラスが夷荻を支配することはあっても、夷荻がヘラスを支配することはなりませぬ。お母さま、あちらは奴隷、こちらは自由の民なのです。」