ことばの歴史をたずねる旅

「人はなぜはたらくのか」

西洋の古典文学には、教訓詩とよばれるジャンルがあります。


「キケローについて」

古代ローマの政治家にして哲学者であったキケロー(前106−前43)は、ヨーロッパの歴史、とりわけルネッサンス以降のヨーロッパ的教養の形成に大きな影響を与えました。



羅和辞典

田中秀央(ひでなか)

やはり、ラテン語-日本語の辞書は1冊あると便利です。変化形もある程度載っていて、初心者にも使いやすいです。中世ラテン語の単語も入っています。また、巻末には各品詞の活用表も掲載されています。実際にラテン語を読む上では、別の羅英辞書との併用がお勧めです。---「初版まへがき」を読んで厳粛な感動に心を打たれました。(ラテン語受講生のコメントより)


Latin Dictionary Founded on Andrew's Edition of Freud's Latin Dictionary

Charlton T. Lewis

片手で持ち運びできるかどうか、ぎりぎりの大きさ、重さです。大きいサイズの広辞苑と同じくらいでしょうか。グレアが出るまではオックスフォードのフラッグシップでした。グレアのほうが紙質、印字の鮮明さでも軍配があがりますが、個人的には大変愛着のある辞書です。


Cassell's Latin Dictionary: Latin-English, English-Latin

D. P. Simpson

ラテン語-英語、英語-ラテン語の辞書。私は学生時代、この辞書(前の版です)をボロボロになるまで使いました。英語からラテン語単語がひけるというのは、実生活で意外に役に立ちます。何かある言葉をラテン語に直したいという時、和羅辞典を引く手もありますが、基本は「日本語-->英語-->ラテン語」の順に言葉を探していくことになります。


比較

「比較」を意味する英語は compare であるが、この言葉にはラテン語 par (パール)の名残が認められる。par とは、ゴルフの「パー」(規定打数に「等しい」の意)のことであり、「等しい」という意味を持つ。つまり、英語のcompare には「等しくする」というニュアンスが込められている。

では、「比較する」ことと「等しくする」ことは、どこで、どのようにつながるのか?

例えば、A さんと B さんの身長を「比較する」というとき、われわれは両者の性別、年齢、風邪を引いているかどうかなど、身長以外の条件はいっさい考慮に入れない。身長の「比較」を行う際、両者の身長以外の条件は「等しくする」、すなわち「すべて等しいものとみなす」必要がある。このことは、言い換えれば、比べたい条件以外のすべてを「無視する」ことでもある。

動物と異なり、人間が高度の文明社会を築くためには、何かと何かを計量的に「比較する」営みが不可避であるが、この手続きを人間の幸せの尺度として用いるなら、それは誤りである。

たとえば、われわれが誰かと誰かを「比較する」というとき、それは無意識のうちに個人のかけがえのない価値を無視することにつながりかねない。親は自分の子を他人の子と「比較」したがるが、そのことが子供の自尊心を傷つけることに気づかない。

成績の「相対評価」というのは、他との「比較」において成り立つ評価のことである 。これに対し、「絶対評価」における「絶対」――英語では absolute――とは、「他との比較を断ち切っている」というニュアンスをもつ。

たとえば、親の子への愛は「絶対的」なものであり、他の子と比べ、自分の子はこの点がこれだけ優れているから愛す、というものではけっしてない。言い換えれば、愛は数量化できないということである。

人間が単純に物事の「比較」に熱心になるとき、本当に大切なものを見失う可能性が増えていく。