私は、京大文学部で助手として4年間、京都工芸繊維大学では講師、助教授として8年間、よき恩師とよき同僚に恵まれて、充実した研究生活を過ごすことができた(専門は西洋古典文学)。過去形で書いたのにはわけがあって、じつは4年前、家業を継ぐために大学の研究職から幼稚園の世界に飛び込んだのである。

この世界、なかなか面白い。こちらの接し方一つで、子どもたちはぐんぐん成長し変化する。たとえば「歩く」という切り口。当園は北白川山の上にあり、200段近い石段を歩いて登るしかアクセス方法はない。雨の日も雪の日も、園児らは毎朝5つの集合場所(半径一キロ四方)から、先生に引率されて元気に山道を登ってくる。歩くことから一日の活動が始まるのである。小さい積み重ねでも、3年間に見られる心身の成長はじつに大きい。歩く中で会話もはずむし、年下の子を優しく守ることも学ぶ。

子どもはまた、「本物」に敏感である。これも創立以来の伝統で、当園では園長が年長児に俳句を教えることになっている。全員が正座し、黙想することから俳句の時間は始まる。芭蕉や蕪村、一茶の俳句をただ繰り返し暗唱する。一句、一句、自分の耳を頼りに暗記しなければ、何も始まらない。新しい俳句を紹介するときの子どもの顔は真剣そのものである。俳句のリズムに慣れるにつれ、今度は自作の俳句を作ることに喜びを見出す。知識として学校教育の先取りをさせるのではない。子どもたちの知的好奇心を満たし、真摯に学ぶ姿勢を教える上で俳句は有効なのである。

さて、私は園長就任とともに、学校法人の一部門として、小学生以上を対象とした「山の学校」を立ち上げた。知を愛する心(ピロソピア)を分かち合い、人間的教養(フーマニタース)を重んじる学びの場を創設したい、この一心からであった。例えば、小、中、高生は、国語の教科書代わりにプラトーンやアリストテレースの作品を読み、講師と議論を交わす。大人向けには、キケローやウェルギリウスのラテン語を読み解くクラスもある。言うなれば、真の意味でのリベラル・アーツを復活させたいのである。ラテン語のクラスについて言えば、片道3時間かけて通う社会人もいるし、今までしっかり文法を学べなかったことが心残りだったと学習動機を打ち明ける大学教授もいる。政治家を目ざし、キケローのレトリックをじかに学びたいと真剣に訴える京大生も通ってくる。つまり、大人も子どもも無心になって学ぶ場がここにはある。

ところで、今ふれたリベラル・アーツに込められた本来の意味は何であったのか。この言葉は一般に「自由人に相応しい教養」と訳されるが、リベラルの語源に当たるラテン語の形容詞形はリーベリーである。日本語に直訳すれば「自由人」という意味になるが、この語は同時に「子ども」の意味をあわせ持つ。古代のローマ人は何にもとらわれない自由な心を子どもの姿に見出した。学問に志す者は、無垢な子どもの様にひたむきに勉学に勤しむべきなのである。

そもそも、大学はなぜユニバーシティと呼ばれるのか。ユニとはラテン語で「一」のことであり、「学問の山頂」、すなわち唯一絶対の「真理」を象徴している。この山はどの入り口から頂上を目指してもよい。事実、大学にはたくさんの登り口(学部学科)が用意されている。しかし、ここが一番重要であるが、「人間はこの真理を手に入れることはできない」というのが古代ギリシア以来の約束事である。だからこそ、人は真理の探究に生涯をかけて情熱を燃やすことができるのである。

「自由人」は利を求めてこの「学びの山」を登ることをしないだろう。「真理」の探求に情熱を注ぐ者こそ「自由人」と呼ばれるに相応しい。私見を述べれば、息をひそめて昆虫を真剣に見つめる子どもの眼は、まさに「自由人」のそれである。日本の未来を考えるとき幼児教育の果たす役割は大きいと言われるが、その重要性を認識するには現場に立つにしくはない。私の目には、子どもたちの好奇心の輝きが、とりわけ「学びの山道」を登るエクセンプルム(手本)として、ひときわ大きく尊く見えるのである。

山下太郎 (学校法人北白川学園理事長,昭和60年文学部卒)

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