『アエネイス』第一巻の冒頭に見られる言葉です。主人公は未知の土地(カルタゴ)に漂着したとき,心中不安と希望が交錯しますが、表題の言葉を含む激励を部下に与えます。

「おお、仲間の者たちよ(我々はかつて様々の苦難を知らぬわけではない)、おお、より大きな苦しみを味わった者たちよ、神はこれらの困難にもやがて終わりを与えてくれるだろう(dabit deus his quoque finem.)。

おまえたち、スキュッラの狂乱ばかりか、その声の深くこだまする岩窟に近づいた者たちよ、さらにキュクロプスの岩石を経験した者たちよ(注:オデュッセウスの受けた試練を想起させる)。

勇気を奮い起こし、悲しみと恐れを追い払うがよい。きっといつの日か、今の苦しみを思い出して喜べる日も訪れるだろう。(forsan et haec olim meminisse iuvabit.)

様々な不幸と苦難とを乗り越え、我々はラティウムの地を目指すのだ。運命は、そこに安らかな住居ありと示している。かの地でトロイアの王国がよみがえることこそ、神の御意に適うのだ。忍耐せよ、そして幸い多き日のために、自らを守るがよい。」

この言葉は基本的に『オデュッセイア』の次の表現をふまえています。「セイレンの危機」をやり過ごした直後(セイレンは美しい歌声で船乗りをおびき寄せる二人の魔女のことで、サイレンの語源です)、オデュッセウスと部下たちは新たな苦難に直面します。

『オデュッセイア』12.201以下:

・・・ところがこの島を後にして進んでいるとき、突如煙と大波が目に入り、轟々(ごうごう)たる響きを聞いた。恐れをなした部下たちの手から櫂が放れ、櫂は音を立てて悉く潮流に落ちた。彼らはもはや先の尖った櫂を漕がぬので、船はその場に停まってしまった。わたしはしかし、船中を廻り、部下の一人一人の傍らへ立って、穏やかな言葉で激励した。

「親愛なる者たちよ、われらはこれまでも危難を知らずに来たわけではない。今の場合も、キュクロプスが恐るべき暴力をふるって、われらをうつろな洞窟に封じこめた時にまさる危難とはいえぬ。しかもその時ですら、わたしの勇気と知略と才覚とによって、無事に難を免れたではないか。 現在の難儀もいつの日かよい思い出になるであろう。さればわれら一同心を合せ、これからわたしのいう通りにしてもらいたい。

『アエネイス』においては、上記の引用文にもあるように、ユピテルの意志に従って主人公が行動を続ける点がさりげなく繰り返し、示されています(原文では205 fata、206 fasに注意。ともに「ユピテルの言葉」を示唆する語。)。また、上記の励ましに答えるように、詩人は、アエネアスがユーノーを祠る神殿において自らの体験(=トロイア戦争)を主題とする絵を見出すという設定を与えています。この結果、アエネアスは救済の確信を得、次のような励ましを再び部下(アカテス)に与えることができるのです.

「ここには人の世の営みに対する涙がある.人間の行いは心の琴線に触れる.不安を取り去るがよい.ここに描かれる名声は何らかの救済を我々にもたらすだろう.」

この言葉は,続く場面におけるカルタゴの女王ディドの最初の言葉と対応することが明らかです.ディドは救済を直訴するイリオネウス(アエネアスに先だって、ディドと面会しているトロイアの武将。アエネアスは離れたところからこの対話を見守っている)に対して次のように答えています.

トロイア人よ,心から恐れを追い払い,不安は取り去るがよい。アエネアスの一族について知らない者がいるだろうか.トロイアとその国民,その武勇の誉れ,またあれほどの戦争の猛火について知らぬ者は一人としていない.

心温かく異邦人を迎え入れたディドと、トロイアの王子アエネアスは、女神ウェヌスの介入で、激しい恋に落ちます。アエネアスはトロイアの再興=ローマの建国という使命を忘れて、ディドは、亡き夫への貞節の誓いを忘れたかのように。こうしてまた新たな苦しみ、悲劇の幕が開かれます。

冒頭の主人公の言葉は、過去の苦しみは今となっては懐かしい思い出に変わる。とするキケロの言葉(De Finibus 2.105: suauis laborum est praeteritorum memoria.)を想起させます。しかし、同時に示される「神はこれらの苦労に も (原文では199 quoque「~もまた」に注意。)終わりを(finem)与えるだろう。」という言葉は、「過去」の苦労に終わりが与えられたが、「今」新たな苦労が生じた、そして「今」の苦労に終わりが来ると、また新たな苦労が「未来」に生じる、というパターンを暗示する科白とも解せます。つまり「励まし」ともとれますし、運命に対する「諦念」を示唆する表現ともみなせます。

この問題との関連で、次のシーンは重要です。詩人は同じ第一巻(1.222以下)で、ローマの未来の運命をユピテルに語らせています。わが子の身の安否を気遣うウェヌス(注:アエネアスはウェヌスの息子)が、「最大の王よ、いかなる労苦の終結を与えるのか?」(1.241 quem das finem, rex magne, laborum?)と問いますと、ユピテルは「恐れる必要はない、ウェヌスよ。汝の子孫(=アエネアスの子孫)の運命(fata)は不動のまま横たわっている。」(parce metu, Cytherea; manent immota tuorum fata tibi)と述べ、未来のローマの繁栄のシナリオを語って聞かせます(注:ローマの読者にとってはいずれもが「真実」と受け取れる形)。そして、「私はローマ人に対しは、国家の境界線も、支配する期限も定めてはいない。際限なき支配権を与えてあるからだ。」(278 his ego nec metas rerum nec tempora pono; imperium sine fine dedi.)と言明します。

言葉の対応に注意を払いますと、ユピテルのimperium sine fine(際限なき支配権)のfineとは、アエネアスが部下に向かって用いたfinem、ウェヌスがユピテルの意志を問う際に用いたfinemの語を思い出させるでしょう。アエネアス、ウェヌスは、通俗的な意味で、即ち、労苦に与えられるべき「終わり」の意味で、この語を用いましたが、ユピテルは国家の支配権の空間的、時間的「果て」がないという意味において、finisの語を用いているのです。これらの対応を考えるとき、そして199 quoqueに関連して私が上で示唆したように、詩人は暗に「imeprium sine fine」(際限なき支配権)イコール「labor sine fine」(際限なき労苦)という解釈を示唆しているように思われます。なお、この解釈は、先行する『農耕詩』に色濃く見られる考えです。

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